「アナッタン(パーリ語)」「アナートマン(サンスクリット語)」とお釈迦様は表現しますが、これはアン・アートマンの合成語です。

 

これを巡って、

 

無我と訳すべきだ。いや、非我と捉えるべきだ。

 

という論議が古来、絶えません。

 

 

これは大問題で

  • 真我(アートマン)は有るけど、今の自分じゃない。・・・この場合「非我」
  • 真我など、そもそも無い・・・・「無我」

 

ねえ、修行の帰着ポイントが違うでしょ。

 

わたしはアメリカ(資本主義)に移住するか、中国(共産主義)に移住するか?

というくらい違います。

 

 

 

 

  日本やテーラワーダでは無我説を採用する

 

日本では、古来より仏教の結論はずっと「無我」が我々が目指す悟りだ。としてきました。

 

でね、考えて見てね。

良いですか、もし本当にお釈迦様の出した結論が無我ならマコトに変なんです。

というか整合性が無いんです。

 

 

 

 

  無我なら来世にカルマを相続・維持するものは何か?

 

本当に無我なら輪廻は生じません。

 

次の生に、カルマを相続した。と云うことはですよ。

同時に、それは死後にも何かカルマを相続する存在があったのでしょ?

 

ねえ、リレー競争でさ、バトンタッチ(カルマの相続)しますよね?

その際、次に交代してくれるランナー(来世のわたし)がいたと言う事です。

 

でないとバトンは渡そうとしたけど、ランナーがいないけりゃバトンは地面に落ちます。

 

 

一体、誰が前生で犯した悪業で苦しむ事になりますか?

 

 

でしょ?

 

死んで、無に還るのなら、なんでわざわざ辛い出家や、他人に言いたくもない自分だけの秘密を懺悔し、清貧により「一日一食」地べたで寝、禁欲を続け、瞑想しなきゃならんのです?

 

 

というか、更に言えばさ。

本当に無我なら、仏教は自殺を説くはずなんですよ。

それが一番、手っ取り早い苦悩の解決策だもん。

 

整合性が無いと言うのはここね。

本当に無我なら、出家の意味が無いでしょ?

なんで出家させますか?

 

 

 

  出家させる意味はどこに有るか?

 

じゃないからこそ、辛い出家修行や持戒が課されるの。

そして「瞑想を超えたサマディに入れ」、とお釈迦様は80歳まで、多くの苦悩する人々に教えを垂れたのね。

 

そして実際に、多くの弟子がお釈迦様の追体験をし「師の言葉に偽りは無かった。師のお言葉の通りであった」と意思表明しました。

 

そして、わたしもそう言います。

お釈迦様がいてくださり、法を残してくださったからこそ、わたしはここにいるのですと。

感謝しても仕切れません。

 

 

 

 

 

  中村元先生「非我説」を提出する

 

ところがインド哲学の中村元先生が、全ての初期仏典を熟読されて「ブッダが『アートマンは無い』と言った箇所は存在しなかった」と結論づけて、初めて「非我」という言葉が登場します。

 

中村元先生はこの辺からイン哲の学者から「仏教学者」としての認知が広く一般化します。

「非我を日本で唱えた学者」で、検索してみてね(^^)

 

 

 

このような辞典や初期仏典の翻訳本、シリーズが今のところ

17巻が刊行

800ページとかあって読むのも大変^^;

 

もはや初期仏教において、中村元先生は日本の第一人者と言って良いでしょう。

 

 

 

 

 

 

  「悟り」を間違って理解している

 

では、なんでそう言う誤謬が日本で生じたかと云うと、禅で悟ると「今までの自分は消えた。無我だ」と表現したことからそうなったと推察します。

 

これは正しいです、今までの自分は消えますもん(^^)

それを無我と表現した場合、全く正しいです。

 

 

しかしこの場合、アートマンのこと言ってません。

おぎゃーと生まれてその瞬間まで自分だと思ってたら

それが消えたと言ってるの。

 

 

ここで常住普遍の「父母未生以前の本来の真面目」が、立ち上がりますがこれが真我です。

まあ仏性とか色んな表現しますけども。

 

 

 

 

  悟り得た人々

 

 

今まで生きてきた自己が消えた方

 

 

今までの自己が突然、消滅した記録

熱心なクリスチャンの方

 

 

わたしはこんな人をなんぼでもここに出せます

 

 

 

注意!これは出家修行や信仰など関係無く起きます。

 

だから、宗教への信仰を持っていようが、無かろうが

関係なく「悟り」は生じます。

 

 

 

 

 

 

むしろ悟ろうとして、何十年も坐禅やって結果を手にできないのは、

そもそもアプローチの仕方そのものの誤謬があるんです。

 

この辺はSRKWブッダさんと同じ見解です(^^)

 

 

 

 

  素人は見た目に騙される

 

でね、一つの喩えね。

どんな道にせよ、テクニックの習得にせよね。

 

 

 

 

  力むな!

 

兄ちゃん、米俵担ぐのは腕の力や無い。腰や、腰を入れるんやでぇ

 

 

素人とプロの境があるでしょ?

「いや、そこは力を抜くんだよ。君はつい力んで、力が入るから失敗します」

視覚情報による認知の誤謬が発生している

 

逆のことするのが素人です。

「いや、君は腕の力でそれをやろうとしているけど、ピッチングは本来腰なの。腰の回る力でやるの。で、一番遠心力が利くのは、我々の腕の先端なのだよ。腕で投げるんじゃ無いんだ、ボールに遠心力を伝えるのが腕なんだ」

 

 

 

 

 

 

  ゴルフスイング

 

ゴルフのスイングで、「力でドライバー振っても飛距離は出ない」というの常識だそうです。

あたしはゴルフクラブなど触った事ありませんが^^;

 

腰が回る時の遠心力がミソ

 

しかしだよ、やはり素人は見た目から戦略を組み立てますわね?

飛距離出すため、腕の筋力を鍛えよう!と

 

でも、実践を1万と繰り返した来た人は違う。往々にして逆をする。

 

 

熟練者は印象や視覚情報、常識を排除出来ます。

そしてとうとう、真実に触れると。

 

 

 

 

  間違ったアプローチの仕方

 

でね、まあ沢山本を買って読んで、いずれ情報の山の中から真実を見つけ出そうとする素人な人多いのね^^;

「悟り」を知識の集積だと考える人は99%なんです。

それが「ゴルフのスイングで飛距離を出すのは腕の力」と誤解するのと同じ構造だとわたしはいうわけ。

 

だから幸福の科学では「5千冊の読書したら阿羅漢」と大川隆法さんは言います。

 

 

出家した釈迦の直弟子が、どこでそんな読書したのよ?

 

 

 

 

 

  何処かに秘伝が・・・桐山靖雄さんの思考法

 

 

(何処かにわたしの求める秘伝の知識が有るに違いない!)

 

しかし、経験に勝るもの無し。

百聞は一見に如かず。(百の情報より、一つの体験)

 

 

 

 

 

 

戻りますよ(^^)

 

以上を踏まえてね。

良いですか、今日のこのブログのミソよ。

 

 

 

  否定話法

 

アートマンを肯定するような説法しちゃ、素人は「自己をアートマンと錯覚する」の。

自己が(忘れたけれども、わたしはずっと永遠に輪廻してるんだー)と、想像しちゃうの。

ツインレイという概念も同じです。

 

 

これを避けるには優れた先生は

身体は無常なのでアートマンでは無い

思考は無常なのでアートマンでは無い

イメージは無常なのでアートマンでは無い

何々は無常に属するのでアートマンでは無い

 

これは否定話法でしょ?

 

 

 

喩えるとさ、円の中心(悟り)を探している人がいてね、この人は、円周の何処かに中心があると思い込んでいて、全然別の箇所に自己の中心が有るとは、想像もしない訳です。

 

 

知識型の人は、ABCDの何処かに探すものがあるはずだと考える

 

ABCDは身体、表象、感覚、識別

中心は真我。

 

 

そこで

Aは中心ではない。

Bは中心ではない。

Cは中心ではない。

Dは中心ではない。

これがお釈迦様の説法ね。

 

 

 

  真我が無いと言ってない。「真我の所産か?」と問うている。

 

「スシーマよ、これをどう思うか。色は常か無常か」
「無常です。尊師」
「では無常であるもの、それは苦か楽か」
「苦です。尊師」
「では無常・苦にして変化する法であるもの、それを『これは私のものである。これは私である。これは私の我である』と認めることは善いことだろうか
「いいえ、そうではありません。尊師」
「受は常か無常か」
「無常です。尊師」
「では無常であるもの、それは苦か楽か」

 

 

 

 

  優れた師は、素人が早合点することを想定出来る

 

同じように、肯定的にアートマンの概念を説明したら、その説法自体がアートマンの間違った印象を与えると。

 

 

悟った事ない人はみな素人と考えてください。

 

ちなみにだけど有名な趙州狗子の公案がまさに否定話法です。

思考そのものが無い。それがゴールだと気がつけば趙州の意図は知れます。

 

 

 

おまけ

 

無門関 第一則「趙州狗子」

 

弟子

「先生、全ての有情に仏性があるとすると、もちろん犬にだってありますよね?」

 

趙州

「無」(否定した。いきなり終点を言ったのだ。心の停止のこと)

 

 

 

禅を参究するには、君たちは祖師の設けた関所を通らなければならぬ。
妙悟を得るには、分別心を残らず捨てきらなければならない。
祖師の関を通らず、分別心を断ち切ることのできない者は、草木に宿る正体のない化物のようである。

まあ、諸君言ってみよ、祖師の関とは何か。

ただこの一個の「無」字...これが禅の究極の一関である。
故にこれを「禅の門なき関門」と名付ける。


この関門を透過する者は、親しく趙州に相見えるばかりでなく、過去の代々の祖師たちと手に手をとり面々相対し、彼等と眉毛を交えて同一の眼で見、同じ耳で聞くことができるであろう。

なんと痛快なことではないか。
この関を透過しようとする者はないか。


360の骨節と、84000の毛孔をあげて、自己の全身を1個の大疑団として、ただこの無字になりきれ。


昼も夜もひたすら参究せよ。

虚無の無や、有無二元の無だなどと誤解してはならない。

それは真赤に熱した鉄の丸を呑み込んだようなものである。
吐き出そうにも吐き出すことはできない。
これまで積み重ねてきた 二元的知識分別を払い尽くし 、さらに参究を続けよ。

やがてその修行の機が熟する時、(内だ外だというような)一切の対立はおのずから一枚となるであろう。

この時、彼はすばらしい夢を見た唖子のようなもので、ただ自分だけが身をもって知っているだけで、言いたくとも他人にそれを語れないようなものだ。

突如として関を打ち破れば、天を驚かし、地を振動させるであろう。

それはちょうど、関羽将軍の太刀を自分の手に奪い取ったようなものである。
仏に会えば仏を殺し、祖師に会えば祖師を殺すものとなろう。
生死の際に臨んで真に自由自在、どこにどう生まれようと、遊戯三昧の真の生を楽しむであろう。

さて、そこでどのように工夫したらよいのか。

自己の気力の全てを尽くして、ただ「無」になりきれ。

(それで白隠は「無~、無~」と言っていた)


なりきり続けてやむことなく、ためらうことがなければ、見よ、灯明に火がともれば、暗黒はたちまち光明となる。


頌(うた)って云う
狗子の仏性
釈迦の正見をまるごと見せた
有無の二見にこだわると
直ちに身命(いのち)を失うぞ

 

余計判らんと思いますけどね^^;

 

 

 

 

  素人は飛距離を出そうと思い切り腕をふる

 

白隠が当初、試みたように「無ーっ、無ーっ、無ーっ」って努力するのは、素人が腕の力でドライバー振るのと同じです^^;

 

 

じゃなくてー、ここで登場するのがマインドフルネスなんだね。

「今、ここ」に集中することで、停止が起きます。

 

公案で一気に行く人もいるよ。

 

 

ここが分かれば、瓦を磨いて鏡にするという、馬祖道一が師匠の南岳懐譲のパフォーマンスを見せられた意味も判ります。

 

 

 南獄磨甎(なんがくません)

 

馬祖道一が坐禅に励んでいると、師の南嶽懐譲がやって来て、そこらに転がっていた瓦をやにわに手に取り、岩にこすり付け出した!

 

馬祖

「先生、何してるんですか?」

南嶽

「いやなに、鏡にしようと思ってな」

馬祖

「? 瓦磨いて、鏡になりますか?」

南嶽

「お前は何をしている?」

 

「ええ、ホトケになろうと坐禅に励んでいます」

 

「坐禅して、ホトケになるのかい?」

 

「え?間違ってますか?ご指導ください」

 

「うん。お前な、荷馬車が動かない時にだ、馬車を打つか馬を打つか?どちらだ

 

もちろん馬の方です

 

「だろう?」

 

「!」

 

 

これで判ったと言うから馬祖道一も只者ではありません。

天才ですけどね馬祖道一。

公案を重視する臨済宗の大本(洪州宗を建てた)です。

 

 

 

 

  無心になろうとしても無駄

 

今も「無心」になろうとして坐禅する修行者大勢いると思うんです。

ちなみに道元の「只管打坐」は、いきなりサマディに入る方法を要求しており、無謀です。

このように瞑想する姿からは修行者がどんな綜制を行っているかは、傍目にはさっぱり判りません

でも、それじゃ馬車で言うと、荷車の方のアプローチだと言っている訳です。

 

 

つまりゴルフのスイングで言うところの「腕の力でぶん回せば遠くにボールは飛ぶに違いない」ことしていると。

 

 

 

 

  自己を動かすものはどこか?という探求

 

じゃなくて、自己を衝動に駆り立てるものはどこかと?

それにガツンと来るような方法でないと、坐る意味はないと言うのね。

 

 

自分の欲求の起源を見つけろと言っています。

まっすーさんやネドじゅん先生の表現を借りると「左脳の働きを追求しろ」と言い換える事が出来ます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヨーガの修行者に

 

あの・・・

ヨーガの修行者は解脱の道を歩んでいるので、「悟り」の追求したら遠回りします。

 

ナーディやプラーナやチャクラの浄化、強化やっているのね。

これにより上位の色界や無色界に入ろうとするのがヨーガです。

そうやって輪廻を止めようと。

 

 

悟りはそれは問題にしません。

有り体に言えば、「悟り」とはヨーガの最終の狙いである「サマディ」に入る重要な準備段階です。

そこがヨーガを修行するゴールじゃないのね。

 

 

無論、両方揃うのが最高の状態ですが、同じ道だと誤解すると相当回り道します。

ちゃんと違いを理解して、併修するには問題ないです。

 

 

しかしヨーガをノンデュアリティや禅と同じ「悟りの道」だと考えると・・・

 

「もうわたしは20年もアーサナやプラーナヤーマや瞑想やってるのに、なんでネドじゅんとか、まっすーさんとか僅かな短期で悟ったんだ?」

と、ヨーガやる気が無くなるでしょ?

 

得るものは別なんですよ。

 

これについて関連でオウム真理教のことを書こうとしたら、文字制限で記事が上げられませんでした。

別に知らなくても構わない知識なので、どうしようかと考えてます^^;

 

 

 

 

AD

コメント(2)