なにを「諦める」か、というはなし
こちらの公式ツイートについて
「落とし物注意」「諦めも肝心」という不穏なワードについて、ふと考えたことがあったのでメモ書きです。内容がかなりメタ的であり、また相変わらず幻覚が強いのでワンクッションです。
これを「死」のフラグと危惧する声を聞きつつも、個人的には「死」に結びつけるのは時期尚早だな、また違和感があるなと感じました。
その理由を、物語を作るという視点から整理しました。
①「諦め」は「死」のフラグとしては弱いのではないか。
往々にして『誰かが不在』という物語はジェットコースター的な展開が似合います。「もしかしたら見つかるかもしれない」「戻ってくるかもしれない」という希望を見せた後に、どん底まで絶望に叩き込む方が、演出としては面白いからです。ちなみにわたしはこれをディバインゲートというゲームで学びました。アクワイアソシャゲのストーリー本当に面白かったな
……(脱線)
話を戻すと「諦めも肝心」という言葉は(丁寧にお膳立てした)重要人物のロスト(死)を示唆するには、あまりにも言葉として軽いな、と感じました。
では、物語において「諦める」という過程が必要になるのは、どういったときでしょうか。
②物理的な喪失としての「諦め」
物語における「諦め」が必要なシーン。
それは「依り代」を手放してしまったときではないでしょうか。
日本古来の考え方として、過度な執着は「呪い」になると言われています。例えば、故人の私物を大切にしていると、故人が成仏できないという考えもあるそうです。
逆に言えば「諦める(=執着の断ち切り)」をすることで、はじめて次のステージに進めるという考え方もあるのではないかと思います。
では、この物語における「依り代」とはなんでしょうか。
(ハヤシさんオタクのクソデカ感情がでますね。)
「ペンダントじゃない????????」
ここで思い出してほしいことがあります。
以前、ガイドブックの表紙で示唆されていた『場所』と『モノ』は、『どこ』で『なに』だったでしょうか。
もし、この展開がきたなら「死」よりも重い演出ができます。
なんたって地下室で見上げても、あの大切なものがないのですから。
「死」は物語を終わらせてしまいますが「物理的な喪失」は、残された者たちを試します。
チャンネルアイコンまでにしたあの『大切なもの』を喪失したとき、彼はいったい何を考えるのでしょうか。
ところで、今年の夏に、我々が行く(行けるかもしれない)場所ってどこでしたっけ。
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