ふたしかなこと
新年あけましておめでとうございます。あけてからまだ三週間しか経っていないことが信じられないくらい、充実した日々を過ごしています。もうすぐ夏がやってくるような気すらする。そんな心だから、朝晩の冷え込みに毎日飽きずにおどろいて、夜空を見上げては「冬だねぇ」とまるで今気がついたかのように口にしたりしている。オリオン座ってなんかすき。冬は星がほんとうに綺麗。
昨日は三菱一号館美術館へ、ソフィ・カルとロートレックの『不在』を観に行ってきた。今月二十六日までの開催で、不在をテーマに展示をやった者としては見逃すわけにはいかないと思っていたから、なんとか間に合ってほっとした。そして当然ながら、ものすごくよい展示だった。ロートレックはもう亡くなった人だから、彼の作品というだけで「不在」が付与されるのはずるいとも思ったけれど、ロートレックの作品を生で見たのははじめてだったので、ポスターが思いのほかでかいということだけでも新鮮なおどろきがあった。
そしてソフィ・カルの展示がもう私にはブッ刺さってしまって、ちょっとしばらく抜けなさそう。チケット二千三百円高っと文句を言っていたが、観終わった頃にはすっかり許していた。と思いきや、グッズコーナーに並ぶソフィ・カルの作品集が高すぎて「クソッ」と口をついて出てしまった。欲しくてたまらなかったが、この思いはもうすこし募らせることにして、今回は九百円のトートバッグでがまんした。
なかでも特に「Parce que」と名のついた作品群は、地団駄を踏みたくなるくらい好きだった。木枠に収められた写真を隠すようにしてフェルトの布が被せられており、その布に「Parce que(なぜなら)…」と写真を撮った理由が刺繍されている。その理由だけを読んでいるときは、奥にいったいどんな風景があるのか、想像がつかない。そうしてフェルトをめくると、なるほどと息のもれる光景が広がっている。それからまたフェルトを戻して、元の隠された状態にしたら、もうめくらなくても理由を読むだけでその風景を見られるようになっている自分に気づく。まるではじめから知っていたみたいに、ソフィ・カルの記憶だったはずのものが、今や私の記憶として私自身の中に保存されている。
記憶っていうのは言葉なんだろうか。つい先日「懐かしさっていうのは、その場所にあるのではなくて、言葉の中にあるものなのだと思う」とある人に言われ、私はすこし否定的な気持ちになった。私の考えはむしろ逆で、記憶は風景や場所や空気のひとつぶひとつぶの中に宿っていて、個人の中にとどまらず浮遊しているもののような気がしていたから。だからこそ、見知らぬ場所に懐かしさを覚えたり、はじめて訪れた土地を前から知っていた気分になったりするのではないか、自分のものでない記憶の粒子にふれることができるのではないか、と思っていた。
けれどもしかしたら、たしかに風景や場所や空気のひとつぶひとつぶに記憶が宿っているとして、その記憶とは言葉なのではないか、と彼は言ったのかもしれなかった。そしてソフィ・カルの展示を観て、つまり言葉が写真の捉えた実体以上のものをそこに宿らせ、ついには言葉の方が実体に取って代わってしまうというプロセスを体験して、ほとんど暴力的に納得させられた。私たちの記憶が言葉であることを。そしてもはや、風景や場所や空気のひとつぶひとつぶすらも、言葉なのかもしれないと思った。言葉とは文字列それだけを指すのではなく、状況や風景や季節や時事や関係性や属性その他もろもろのありとあらゆる背景をふくんだ、銀河のような集合体なのだった。太陽系の中の地球の中の風景を眺めているのと同じように、言葉の中の記憶の中の風景を、私は眺めているのかもしれなかった。
去年から通い始めたカウンセリング室で、これまで飽きるくらい語ってきた自分の話をしながら、なぜかボロボロと泣いてしまう、という経験を私は繰り返した。そしてその度にそんな自分にぎょっとした。自分の中ではとっくに整理がついていて、はじまりから終わりまで起承転結で組み立てられている、すっかり笑い話にしてきたエピソードをそっくりそのまま語っているのに、湧き上がってくる感情だけがまるで違くて「これってこんなに悲しい話だっけ?」と嗚咽しながら戸惑った。それはでも、今までの笑顔が偽物で、この涙こそが本物だった、というわけではたぶんない。出来事はただ出来事としてそこにあり、それを経験として語るときに感情が、その時々のかたちで生まれてくるだけなのだと思う。そしてすべての感情はもれなく本物で、どんなときにどんなかたちで生まれてもよいものなのだということを、私は忘れていた。別にたいしたことでないことであっても、思いっきり泣きじゃくって悲しんでもいいのだということを、忘れていた。
もう失ったまばゆい思い出に、私はときに支えられ、ときに心挫かれ、ときに怒って泣いて笑うだろう。それでもその一瞬がうそだったとは、けっして思わない。出来事にはうそもほんとうもない。私はかつての出来事を、その時々のかたちのまま抱きしめる。かつての甘い記憶を苦い記憶として、かつての悲しい記憶を笑える記憶として、これまでどこにも存在しなかったあたらしい瞬間の中で思い出す。それでもそれが甘かったことを、悲しかったことを、なかったことにはしたくない。愛していたことを否定したくない。君のほんとうを疑わない。今はとりあえず、ふたしかな記憶を持ち続けてみようと思う。答え合わせは天国でする。
2025.1.22



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