*「化物横丁」の現代(いま)の姿
・付近地図
(赤紫色に塗った所が「化物横丁」です)
「勾当台公園」や「仙台三越」にもほど近い、仙台市街の中心部にあります。仙台でも有数の交通量である「東二番丁通」と、これも仙台では有数の商業地帯である一番町四丁目商店街の「一番町買物公園」を結ぶ横丁の一つです。
東二番丁通からですと、「第一生命タワービル」の角を入った所、一番町買物公園側からですと、昔の名前で紅陽写真館、今の名前では「後藤紅陽写真場」の角を入った横丁です。
現在ここは、「森徳横丁(もりとくよこちょう)」と呼ばれていまして、第一生命タワービルの敷地にその名を標した辻標も建てられています。
・第四十五番「森徳横丁/百騎丁」の辻標
実を言いますと、この「化物横丁」にはたくさんの異名がありまして、時代によって何度かその呼び名が替わっています。「化物横丁」は、その中でも最も古い呼び名です。
江戸時代、この辺り一帯は「百騎丁(ひゃっきちょう)」と呼ぶ武家地でした。「百騎丁」については以前にもお話したことがあったのですが、改めて簡単にお話ししますと、東一番丁~東三番丁のかつての通称です。江戸中期以降は、特に東二番丁を指して「百騎丁」と言うことが多いです。
この「百騎丁」には、百石~数百石の中級武士(番士)の敷地数百坪の侍屋敷が建ち並んでおり、鬱蒼とした屋敷杜に囲まれた閑静な武家屋敷地でした。その東二番丁から東一番丁へ通り抜ける横丁が「化物横丁」でした。
*延宝・天和絵図(1681~1683年)
冒頭の写真からは想像しにくいでしょうが、当時はこの「化物横丁」は化物が出てきそうなうら寂しい横丁だったのです。そこからこの名が付きました。
言葉だけでは想像するのが難しいでしょうし、想像のよすがに、もう少し絵に近い城下絵図を挙げておきます。仙台市博物館所蔵の斎藤報恩会寄贈資料、「文久二年 仙台城下絵図」の部分コピーです。
*文久二(1862)年 仙台城下絵図
・「化物横丁」付近を拡大
一般に、江戸時代の武家地・侍町というものは、人通りがほとんどない閑散としたところでした。そもそも武士・武士の家族は不要不急の外出をしないものだからです。門構えも立派な武家屋敷の奥方様が買い物袋下げて近所の八百屋さんや魚屋さんに出向く、等と言うのはあり得ないことです。出入りの肴屋が勝手口に御用聞きに来ますので、それで用が済んでしまいます。屋敷の主人も、登城日以外に外出をすることは稀です。ですので、朝夕の出勤時間帯(登・下城時/朝四つ、七つ下がり/午前10時前後と午後4時~5時)を別にすれば、日中と夜はほとんど人通りがありませんでした。
ここで先ほど挙げた「延宝・天和絵図」を使ってお遊びをしてみようと思います。架空の人物を設定し、この「化物横丁」を通らせてみようと思うのです。その架空の人物の目を通して、当時の様子を説明して見ようと思います。
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国分町十九軒(注:1)太物商の伊勢屋甚兵衛(注:2)は、この日、先代の七回忌の相談で元寺小路の万願寺を訪れていた。法事の話は小半時も掛からずにに済んだのだが、久しぶりなのだからと、勧められるままに般若湯を傍らに置いて碁盤に向かった。一刻ほどのつもりが、気付けばもはや辺りはすっかり暗くなっていた。
「あれ、和尚、今何時でがしょう」
「ほう、何時かのう…、」
「さっき小僧が灯を入れに来た時に暮六つの鐘を聞いたような気もしたが…」
「旦那様、六つの鐘はもうとっくに、もはや戌(いぬ)の刻ですよ」(注:3)
あくびを噛み殺しながら、愛想笑いだけでお相伴をしていた手代の松吉がそう言った。お供の松吉の前には酒どころかお膳も置かれていない。渋茶と饅頭だけでは腹の虫も不平が収まらない。早くお店に帰って茶漬けでも掻き込みたかった。
「旦那様、帰り道が心配です、そろそろお暇を…」
手代の松吉は帰りをせかした。
木戸が閉まるにはまだ間があるだろう、と引き留める和尚の声を後ろにしながら、甚兵衛と松吉は寺を出た。
万願寺を下る坂は極月半ばの満月に照らされて白く光っている。帰り際に万願寺の納所(なっしょ/寺の会計をつかさどる僧侶・納所坊主)が提灯を持たしてくれたが、それも必要が無いくらい足元は明るい。
元寺小路と東四番丁の辻に出た。辻番所(注:4)に明かりは見えるが、番太の姿は見えない。この寒さだ、股火鉢で番侍とヨタ話でもしているのだろう。
来るときは新伝馬町の問屋場(といやば)で、手形の裏書がどうのこうのという話があったので、東四番丁を上がってきたが、帰りを急ぐので松吉は赤井横丁(注:5)を通り抜けることにした。主人はそれすら気付かず、下手な謡曲などを唸りながら上機嫌だ。
東三番丁の辻番所の所を左に曲がり、鈴木七左衛門邸の角を右に入れば赤井横丁だ。この横丁の名は、この横丁の出口に在る屋敷の主、赤井三郎衛門の名から採ったものだ。
先ほどの東三番丁の通りは大通りで、門先の道でもあったので広けて明るかったのだが、この赤井横丁は板塀が続くだけの細道だ。おまけに屋敷杜の木々が細道の上に覆いかぶさり、月の光さえ疎らでしか届かない。頼りになるのはぶら下げた提灯の明かりのみ。それとて、足元を頼りなく照らすだけだ。横丁の出口の東二番丁の通りに辻番所があるので、その灯が行き先を教えてくれるのが助かる。
新伝馬町の問屋場での話が長引いたのは商売の話だし、譲れない所が在るのでやむを得ないが、寺での話があんなに長引くとは思わなかった。寺に着いたのが八つ過ぎの昼時分だったし、師走の忙しい時期にまさか碁盤を囲むとは思っていなかった。掛け取りの抜き書き(注:6)もまだまだ残っているしなあ…と、番頭さんの渋い顔が思い浮かぶ。
そんなことを考えながら歩いていたら、東二番丁の角を右に曲がってしまっていた。寺を出がけに頭に思い浮かべていたのは、この東二番丁の角を左に曲がって、立町通りから国分町に出る道筋だった。その方が若干遠回りだが、大通でもあるし、多少は明るい。先を急ぐ心が無意識に近い道を選んでしまったのか、この先は化物横丁を通り抜けなければならない。
「ええい、ままよ…」
「僅か一町(約109m)余りだし、直きのことだ、どうにかなるさ」
安田邸の門先を通り過ぎるころには松吉も覚悟を決めた。
安田邸の角を曲がり、化物横丁に入ると、右手はしばらく前からの空き地。左手はちょっとした高さの土塁になっていて、その向こうは竹藪になっている。その先には安田邸の広壮な武家屋敷があるはずなのだが、灯は竹藪にさえぎられて見えない。
この横丁には中条何某と小野何某の屋敷の門が開いているのだが、門先の常夜灯は微かで朧だ。屋敷杜の黒い木々が横丁全体を覆い、行き先は漆黒の闇に包まれている。
松吉は、ちょっと身震いをしたが足を速めた。旦那は依然として上機嫌で謡を唸っている。
十間(約18m)ほど横丁を入った頃だろうか、旦那が松吉の後ろから声をかけた。
「松吉、ちょっと待っておくれ」
「どうなさいました、旦那様」
松吉が不機嫌に答えた。こんな所でぐずぐずしたくなかったのだ。
「いやね、今だれか私の名を呼んだようだったのだよ」
甚兵衛は松吉のそんな気持ちを察する事も無く、そう言った。
「ご冗談でしょう、旦那様」
「今時分、こんな所で声をかけるのは追剥か辻斬りくらいなもんですよ」
松吉はその後に、あとは化物ぐらい、と言いかけて、その言葉は飲み込んだ。その言葉を口に出してしまうと、本当に化物が現れそうだったからだ。この横丁はそう思わせるに十分な雰囲気だった。
「そうかねぇ…」
「ほら、松吉も知っているだろう、茶屋町の駒吉、」(注:7)
「今のは確かにその駒吉の声だったと思うんだけど…」
甚兵衛は頭をかしげながらそう言った。
「だ、旦那様、よしてくださいよ」
「駒吉は先月心の臓の病でぽっくり逝ったんじゃなかったんでしたっけ…」
松吉は青ざめた。
「そうなんだよねぇ。そう、昨日・今日あたりが四十九日…」
「だ、旦那さまあ!」
松吉の声がつい大きくなった。でも、その声は震えている。
そう言った甚兵衛も、今は声は震えがち。ゆっくりと首を廻らして振り返る。
闇を透かして見ると、左手の空き地に何やら白いものがひらひらと、、、
二人の身が凝まる。
「じんべいさ~ん・・・」
今度は松吉にも聞こえた。
「うわ~!」
二人とも叫びながら横丁の出口に向かって走り出した。
二人が走り去った化物横丁には、放り出された提灯が燃え上がり、その一瞬明るくなった灯もやがて消え、元の暗闇と静寂に戻った。
翌日、国分町の丁切根(ちょうぎんね)の番屋(注:8)に、いつものように町奉行所の同心が顔を出した。(注:9)
「おう、変わりねぇけえ」
いつものように、いつもの言葉を掛ける。
番太が答える。
「へぇ、昨日の晩に化物が出た、ってえ訴えが一件ありした」
「お? そりゃ何処でぇ?」
同心が聞き返す。
「へぇ、国分町の伊勢屋の手代の松吉さんからでがす」
「ゆんべ、化物横丁で出会ったんだそうで」
番太が答える。
「ほう、またか…」
同心が相槌を打つ。
「なんでも、白い幽霊が手招きして、旦那の名を呼んだんだそうで…」
番太が付け加えた。
「ああん?」
同心は小首をかしげてしばし考えこんで、
「たしかよう、あの化物横丁の空き地でよう、昨日井戸仕舞いの御祈祷やんなかったけ?」(注:10)
と、付き従ってきた小者に尋ねた。
「へえ、やりましたよ。え~と、確か井戸浜だったかどっかの修験が来て祈祷してました」
と、小者が答えた。
「あの空き地では子供が遊んだりすっからよ、井戸に嵌ったらあぶねぇ、ってぇんで埋めたんだったな」
「へぇ、さいでがす」
同心の言葉に小者が答えた。
「そんで、その御祈祷の後はそのままだったよな・・・」
「その笹竹とか紙垂(しで)を幽霊と見間違えたんじゃないのかぁ?」
同心はそう言って笑いを浮かべた。
きっとそうだ、そうに違いない、と一同はその言葉に頷きあい、いつもの事だ、という事で、書留にもこの件は書き残されることはなかった。
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・伊勢屋甚兵衛と松吉がたどった経路
(薄い緑色の線が行きの道順で、赤線が帰りの道順です)
このお話は全く私の創作ですので、この様な伝説や言い伝えが残っている訳ではありません。しかし、この様な話が度々巷間に流布されるような横丁だった事は確かだったと思います。それほど当時の武家屋敷地は、人通りが少ないうら寂しい場所だったのです。時代劇で、よく辻斬りや闇討ちの舞台として描かれるのも、こうした武家地の横丁でした。
この「化物横丁」は、明治に入ってしばらくした頃に「森民横丁(もりたみよこちょう)」と呼ばれるようになります。これは、現在の「後藤紅陽写真場」の所に「森民座」という芝居小屋が建ったからです。これは明治25年に「森徳座」と改名しますので、その後は「森徳横丁」と名前を変えて呼ばれるようになります。
また、東二番丁通側に裁判所が在った明治~大正期には「裁判所横丁」、憲兵隊の役所が在った明治後期~昭和初期には「憲兵横丁」という別名でも呼ばれていました。
(仙台に長くお住まいの方は昔の中央署の場所をご記憶だと思います。あの場所が昔の憲兵隊の役所です。そしてその北側に地方裁判所が在りました)
現在の「化物横丁=森徳横丁」は、こんな小規模な横丁の割には車の通行量が多いところです。一番町の「東一市場」とか、「虎屋横丁」、「国分町」とかに用がある営業車が主なのですが、駐車場を求めて入り込む買い物客の車も多いです。
この様な賑わいですので、かつて「化物横丁」と呼ばれていたなんて、今ではとても想像が出来なくなっています。
最後に、創作文の文中に付しました(注:)の解説文を載せておきます。
・(注:1)「国分町十九軒」
国分町は本来1町で、〇丁目とか小字は無いのですが、国分町が出来た当初、その主力となった商家が集住した地域がありました。芭蕉の辻を始まりとしまして、東側に十軒、西側に九軒、都合十九軒のこの譜代の商家は「国分十九軒」と呼ばれました。この国分町のコアも、時代が下るにしたがって江戸や京阪の大商人が入り込むようになり、譜代の商人ばかりとは言えなくなるのですが、ここが国分町の中心なのだ、という意味で「国分町十九軒」という言葉は残りました。概ね現在の国分町通りの、芭蕉の辻から広瀬通の少し北辺りまでの区間になります。
・(注:2)「太物商の伊勢屋甚兵衛」
「太物(ふともの)商」とは、綿布や麻布等を扱う商売の事です。対する言葉は、絹織物を扱う「呉服商」です。両方を扱う「呉服・太物商」もありました。
「伊勢屋甚兵衛」は、勿論私の創作で、架空の人です。ただ、「伊勢屋」という屋号は当時多く存在した屋号です。
・(注:3)「暮六つ」、「戌の刻」
「暮れ六つ」は日没の時刻です。江戸時代は「不定時制」をとっていましたので、季節によってその時刻は異なります。このお話では12月の中旬でしたので、現在の17時頃になります。
「戌(いぬ)の刻」は、一日を12分割した11番目の時間帯です。冬季であれば、18時半頃から20時半頃の時間帯に当たります。このお話の中では「刻限」という意味合いで使っていましたので、「夜五つ時分」、つまり19時過ぎ位の時刻になります。
・(注:4)「辻番所」
町人地の町木戸に置かれた「木戸番屋」に対して、武家地の辻に置かれたものを「辻番所」と呼びました。古絵地図では黒く塗り潰された四角形の記号で示されます。
江戸時代の初期には、辻番所に隣接する屋敷から人が出されたのですが、後には「五人組」などの武家地の自治組織から交代で人が出されるようになります。武家屋敷の小者や中間、及び下級武士が組になり、交代で昼夜に渡って詰めていました。人数は不明なのですが、江戸の町の例などから類推すると、2~5名程度では、と思います。
・(注:5)「赤井横丁」
文中にも少し書きましたが、この横丁に在る武家屋敷の主の名前が由来です。この「赤井横丁」の名は昭和初期までは残っていたのですが、現在はその名を知る人も稀です。
・(注:6)「掛け取りの抜き書き」
以前にも私のブログで書いたことがあったのですが、江戸時代の商取引は掛け売りが基本でした。売り掛けの清算は「節季払い」と言って、半年分、一年分、ひと月分、と色々あったのですが、12月末に一年分を清算する「極月払い」が一般的でした。
こうした取引の記録は「売掛帳」とか「通帳(かよいちょう)」、「大福帳」等と呼ぶ帳面に、時系列で記録されていました。なので、年末時期や、清算月には、そこから得意先ごとに抜き書きし、合計を求めて請求書を作る作業が発生しました。これは棚卸や買掛、総勘定とも関連し、それらとの突き合わせもしなければならない面倒な作業でした。
(附:「通帳」は、得意先毎に冊を分ける帳面ですので節季ごとに合計を出すだけで済みます。また、「売掛帳」も、得意先ごとに冊を分ける場合があります)
・(注:7)「茶屋町」
仙台城下では、城下内には遊興が出来る料理茶屋や遊郭は作られませんでした。しかし、各街道が城下と接する所には料理屋や料理茶屋がまとまって何軒か建っていました。それらは正式な町名は付けられなかったのですが、「十軒茶屋」とか「二軒茶屋」とか、単に「茶屋町」とか呼ばれていました。
特に、「茶屋町」と呼んだ場合は、八幡町の西、「山上清水」の下の十数軒の料理茶屋を指すのが一般的でした。この「茶屋町」は、大正・昭和初期の市街図にも「元茶屋丁(町)」として出てきます。
・(注:8)「丁切根」、「丁切根の番屋」
「丁切根」とは、ひとつの「丁(町)」の境目(根)という意味です。本来は「ちょうぎりね」という読みになるのでしょうが、土地の訛りがそのまま固有名詞になりまして、「ちょうぎんね」と読みます。仙台領内固有の呼称です。一般的には江戸の町で言う「町木戸」の呼称が使われます。
江戸の町と同様に、この丁切根にも番屋が設けられていて、人の出入りの番をしていました。江戸の町木戸は夜四つには木戸が締められ、人の出入りが制限されるのですが、仙台城下の「丁切根」でもそれがあったのかどうかは判然としていません。そもそも「丁切根」には木戸が無かった、という説もあります。
この番屋には、その町の費用(町入用)で番人(番太)が雇われて常駐していました。夫婦者が務めることもありましたが、そもそもが薄給ですので、身寄りの無い年寄りが務める場合が多かったです。
この番太は雑貨屋や子供相手の駄菓子屋等を兼業することが許されていましたので、それで薄給を補って暮らしていました。
古絵地図では、「町」の範囲を示す朱線の上の、二つ並んだ黒丸の印が町木戸・「丁切根」です。
・(注:9)『町奉行所の同心が顔を出した』
仙台城下の町奉行所は開府当時から設けられていて、町奉行所同心も30~50名ほど居ました。ただ、当初、町奉行所は町奉行を任ぜられた侍の仙台屋敷が”役宅”として充てられていました。
恒常的な施設である「町奉行所」の設置は嘉永年間(1850年前後)以降とされています。細横丁・北一番丁角に「北町奉行所」、北目町通・東二番丁に「南町奉行所」の二ヶ所が設置されました。つい最近、この二ヶ所にその案内看板が設置されています。
現在の錦町公園の南の一角を「同心中丁」と呼ぶのですが、この地に町奉行同心が集住し始めたのは天和三(1687)年頃とされています。かつての「同心丁」は、ここを中心として東三番丁~東四番丁・外記丁に渡って在りました。
町奉行同心、と言いますと、直ぐに”捕り物”を思い浮かべてしまうのですが、それは役目のごく一部でして、主要な役目は町政の維持・運営です。訴訟や町政に関わる願い事の受付、各自治組織の調整、商業活動の統制等が主要な仕事になります。治安維持や警察活動の日常的な実務は目明しや徒歩目付・御小人目付配下の御小人達でした。
江戸町奉行所の「定廻同心」のような役割の町奉行所同心が仙台城下にもいたのかどうかは分からなかったのですが、少ない人数で広い範囲の江戸の町の治安維持を任された江戸町奉行所定廻同心は、ここに書いたように、受け持ち区域の各番屋を覗いて「変わりは無いか」と声をかけて廻るのが日課でした。
・(注:10)「井戸仕舞いの御祈祷」
この様な風習は私の子供時代ぐらいまでありました。昔の人は井戸やかまど、便所などには神様が宿る、と考えていたようです。なので、改築などで井戸などを埋めたり、破棄したりして別の所に移す時はお祓いをしていました。この辺りでは、こうした場合は神主さんではなく、修験者が祈祷を行うことが多かったです。
この記事へのコメント
みなと
化物横丁の創作エッセイ大変面白く読ませていただきました。
昔 我が家でも近くの商店の通帳を持っていて
それをもって買い物をしていました。
12月に一括支払いしていました。
今も、その店があり、本日切手を購入し
孫に手紙を出しました。(現金払いです (笑))
あきあかね
そうですね。私も記憶しています。私が小学生の低学年の時ぐらいまでは、そうしたお店がありました。お米屋さんと酒屋さん(お醤油やお味噌などの調味料も酒屋さんが扱っていました)ぐらいだったかなあ。使っていた帳面は「通帳」でした。支払いは毎月月末だったと思います。勝手口で母が支払いをしている姿を記憶しています。
スーパーマーケットが私の身近に現れるようになったのは、中学に入った頃でした。
リアルET
力作お疲れ様です。前回の記事にコメント書きました。
あきあかね
今回のこの記事は、比較的楽に書くことが出来ました。創作の物語(作り話)も、買い物の行き帰りに粗筋を考えたもので、楽しく書き進める事が出来ました。
前回の看板の英文ですが、まだまだ”生きた英語”に弱いなあ、と反省しきりです。
れきお
楽しく読まさせていただきました。
この横丁界隈、結構思い出がありまして、この辺りに、体力も免疫力も有り余ってた学生時代、飲み会の4次会(笑)あたりでよく通ってた焼肉屋がありました。今仮にこの店があっても、とても行って食べる勇気の出ないコアなお店でした。夏場なんか店を出る頃は外がうっすら明るくなってました。
他にもカフェプロコプに行ったり、ブラザー軒の五目焼きそばが美味しかったり、お店の名前は忘れましたが、入口がお香の匂いのする中華料理店とか、色々思い出します。
タワービルが出来た頃は、随分でかいなーと思いました。今や全然普通のビルになっちゃいましたが。
あきあかね
私も、学生時代にこの辺をうろついていた一人です。確かこの辺、一番町側だったと思うのですが、「まる」というジャズ喫茶があって、たまにそこに行っていました。
でも、当時の私の”縄張り”は名掛丁・新伝馬町か一番町1丁目・2丁目でして、一番町4丁目は疎いほうでした。