第8回「言語化」ブームの裏側にあるもの 批評家が語る「置き配的」な社会
連載「最適解ラビリンス 私たちの欲望」
「言語化」をテーマにした本が売れている。思考や感情に最適な言葉を与える能力がもてはやされる一方で、いつしか私たちは自分の「感想」が言えなくなっている。そう指摘するのは、コロナ禍以降の社会を「置き配的」と表現する批評家の福尾匠さんだ。言葉をめぐる欲望の裏側で、何が起きているのか。
――「言語化」ブームをどう見ていますか。
言語化能力を付けたいというのは、「誰かが思っているであろうことを私が真っ先に言葉にしたい」という欲望だと思います。でも実際は、言語化という言葉は「私がこれを言語化しました」というかたちではなく、誰かに対して「言語化してくれてありがとう」と感謝する文脈で使われることが多いと思うんですよ。その裏側にある前提は、「みんなが同じことを思っている」ということです。それが不思議だなと僕は思うんですよね。
「あなたの言語化能力はすばらしいですね」という褒め方は、「私も同じようなことを思っていたんだけど、私よりも先にあなたが言葉にしましたよね」ということだと思う。それは共感といえば聞こえはいいけど、嫉妬でもあるし、逆にいうと、そういうかたちでしか気持ちを確認できない、すごくさみしい状態だなと思うんです。
ほんとうは、自分と同じことを相手が思っているわけがない。言語化された言葉を見て、同じことを思っていたような気がするだけです。だから「言語化」ブームというのは結局、それぞれの内面的なものを平板化して、一つの型にはめようとする同調圧力の表れなのかなと思いますね。だからこそ、他人とちがう内面を持つと「思想が強い」と言われてしまう。そういう警戒感があるわけです。
――あることを言語化したいという欲求は、言葉にも最適解があるはずだという思いの裏返しでしょうか。
そうだと思いますね。似たよ…