石田三成
日本の武将
石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣秀吉に仕え、行政・外交・検地などに卓越した能力を発揮し、豊臣政権の中枢を担った五奉行の一人である[3]。
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杉山家伝来の肖像画(東京大学史料編纂所所蔵)[注釈 1] | |
| 時代 | 安土桃山時代 |
| 生誕 | 永禄3年(1560年) |
| 死没 | 慶長5年10月1日(1600年11月6日)(41歳没) |
| 改名 | 佐吉(幼名)→三成 |
| 別名 | 三也(初名とも)[1] |
| 戒名 | 江東院正岫因公大禅定門 |
| 墓所 | 大徳寺三玄院、高野山奥の院、滋賀県彦根市佐和山遊園内、京都市妙心寺内壽聖院 |
| 官位 | 従五位下・治部少輔 |
| 主君 | 豊臣秀吉→秀頼 |
| 氏族 | 桓武平氏良文流三浦氏支流蘆名氏庶流石田氏? |
| 父母 | 父:石田正継、母:瑞岳院(土田氏の娘)[2] |
| 兄弟 | 弥治郎、正澄、三成、女(福原長堯正室) |
| 妻 | 正室:皎月院(無量院)(宇多頼忠娘) |
| 子 | 重家、重成、佐吉(清幽)、長女(山田勝重室)、小石殿(岡重政室)、辰姫(津軽信枚室) |
公正無私な性格と信義を重んじる姿勢から、忠臣として知られる。秀吉の死後は徳川家康の台頭に対抗して諸大名とともに西軍を組織し、関ヶ原の戦いで敗れて京都六条河原で処刑されたが、すべてを投げ打って主家を守ろうとした裏表のない律儀な行動とその忠義は、人々の心に強い感動を残し、後世まで語り継がれている[4]。
なお、関ヶ原の戦いで西軍を率いた時、三成は41歳であった。後世に描かれた(存命中に描かれたものではない)杉山家伝来の肖像画[5][注釈 1]ではより年長の印象を受けるが、実際は若年であった。