安土桃山時代

織田信長と豊臣秀吉が覇権を握った日本の時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織田・豊臣時代(おだ とよとみ じだい)[2]、または織豊時代(しょくほうじだい)[3]ともいう。

安土城
豊臣秀吉
伏見城洛中洛外図屏風の中の伏見城の部分)
聚楽第を描いている聚樂第屏風圖(三井文庫蔵)
エンゲルベルト・ケンペル方広寺大仏(京の大仏)のスケッチ[1]

もともと、織田時代[4][5][6][7]安土時代)、豊臣時代[8][9][10]桃山時代)、という別々の時代名があったものを、紆余曲折を経て、便宜的に2つの時代をひとまとめにして、あたかもひとつの時代であるかのように呼ぶようになった時代名である。

織田時代あるいは安土時代という用語の由来

歴史学者の田中義成が学習院教授・東京帝国大学教授として歴史学界をリードしていた時代に、主著のひとつである『織田時代史』を執筆した際に織田信長が政権を握っていた時代を織田時代と呼んで明確に定義づけており、その後、田中は別の教科書(たとえば1911年(明治44年)刊行の『詳解 大日本史』[11])や他の歴史概説書などを執筆した際に、「織田時代」の同義語として安土時代という用語を使い始めた。たとえば次のように使った

信長の全盛時代即ち安土時代の政治、外交、文化の概況を見るに、(中略)概ね雄渾、豪邁、新奇の氣象を以て其特色と爲す(『詳解 大日本史』第四篇 戰國時代)

当時の中等教育の教科書である『詳解 大日本史』でこの用語で記述されたので、学生たちが学ぶことでこの用語は広まり定着していったと見てよい。 なお「安土時代」の用語は、織田信長の居城が安土城であり、安土(あづち)と呼ばれる土地にあったことに由来する(現・滋賀県近江八幡市安土町)。田中義成の死後、田中の門下生らによってこの時代区分論はさらに広められてゆき、たとえば田中の弟子で東京帝国大学教授の三上参次が『日本史要』を1919年(大正8年)に刊行した際も「安土時代」の用語を使い、この用語がさらに完全に定着した。

「桃山時代」という用語の由来

一方、「桃山時代」という用語を使い始めたのは、日本の美術史家である関保之助である。「桃山時代」の用語は、豊臣秀吉が晩年に築いた伏見城があった土地の通称「桃山」(桃山丘陵)に由来する(現・京都市伏見区桃山町)。関保之助は、信長の死後から江戸時代初期までの豊臣政権下における、豪華絢爛で力強い文化や工芸を総称するのにこの「桃山」の名を冠した時代区分が必要だと考え、「桃山時代」という用語を使い始めた[12]。つまり「桃山時代」の用語のほうは、政治史の時代区分(豊臣時代)としてではなく、まずは美術史・文化史の用語として提唱され定着した。やがて、(上でも挙げた)歴史学者で東京帝国大学教授の三上参次が美術史・文化史用語だった「桃山時代」を政治史用語、一般的歴史用語として採用し、豊臣家が全国支配した時代を桃山時代と書くようになり[13]、美術史以外でも広まっていった。(美術史・文化史では、この時代を中心に栄えた文化を桃山文化と呼ぶ。)

(なお、「桃山」の名称は江戸時代になって廃城された伏見城の跡地に桃の木が植えられ、安永9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになったことから名付けられたもので[14]、豊臣秀吉が伏見城を構えていた時代に、桃山や桃山城と呼ばれていたわけではない。)

「安土桃山時代」という用語の出現

もともと別の用語で別概念であった「安土時代」(織田政権期)と「桃山時代」(豊臣政権期)を合体させ統合する呼称として「安土桃山時代」の用語を提唱したのは、経済学者・法学者・歴史学者の桑田熊蔵だった。それまでの「織田時代(安土時代)」と「豊臣時代(桃山時代)」を分けて別々に立てる時代区分法は、両時代に文化的な連続性があることや、それぞれ時代としては比較的短いので不適切ではないかとする声が当時の歴史学界で出たことを受けて桑田熊蔵は信長と秀吉の支配期を一括して扱うべきだと考え、中等教育向け教科書『日本史教本』[15]から、両方の拠点の名称を組み合わせた「安土桃山時代」という新しい用語を使い始めた。こうして大正時代を通じて中等教育の歴史教科書や概説書に採用され広まったものの、学術的な世界では、"2つの時代を別々に呼ぶべき"とする立場と"ひとつにまとめるのが妥当"とする立場の議論は続き、最終的に「安土桃山時代」が日本の歴史学における標準的な時代区分として広く定着した。