「すうちゃん、なんで殺しちゃったの」
誰にも聞こえない場所でだけ、あの日から聞けないことをそっと口にする。最初は涙が出た。電車に乗っているときも、仕事中も、サブウェイでサンドウィッチを食べているときも、部屋で一人でいる時も、朝のニュースで事件を知った日も、最初の面会の帰りもそうだった。心の中で繰り返すほどに言葉から感情が剥がれていき、今では単なる疑問になっていたが、本人を目の前にすると言葉がのどに詰まり、ついぞ訪ねる機会はなかった。
「あたるちゃんは優しいよねぇ」
もう私には彼女のことが分からないし、自分が変わり者だから彼女に手紙を書いているのか、何の感情があるのかも分からない。他人も自分も、人間の事は分からない。甘神すうはあたるが想像できないほどのやべー女だった、というだけかもしれない。
正直、別に交流を続ける強い理由はない。あたるも既に別の職に就いているし、間にいる人間ももういない。常識的に考えれば“服役中の元職場の同僚”とやり取りをしているメリットはない。収監されている女子刑務所はあたるの家から4時間は掛かるし、便箋に3枚も入っている手紙を返すのはいつもしんどい。刑務所でもお正月にはおせちが出る事、最初は同じ雑居房の受刑者たちからいじめられたけど今ではボスになったこと、刑期が終わる日を楽しみにしている事。迸る言葉を抑えられないのか、意外と字は汚かった。刑期を終えるまでこの残り火のような感情を保っていられるか分からない。そんな自分が彼女との交流を続けても、釈放後の期待を持たせるだけなのではないか。フェード・アウトすべきなのだろうか。出てきた後どうすればいいのか。繰り返す思考の岐路であたるはいつも答えを保留にする。
「最近?あたるはコロッケとか作ってるよ」
私には数打あたるという女が分からない。以前の職場の同僚。本来であれば名前も姿もこだわりを持って作り上げるべき世界で、なんの執着もなく全てをおまかせで駆け抜けた風のような人。提供する会話、作品、世界観、全て自分が考える正しさ・美しさで作り上げるべき世界、私の考える王国とは違う世界を作った人。初めて会ったのはスタジオの前だった。明らかにオーバーサイズのロンTとパンツスタイルで現れた人。性別、国籍、時代、流行、彼女は何にも執着しない。私が知っている芸能の世界で輝きを放つアイドルやタレントのようなオーラを持たない、川に静かにスッと佇む鷺のような女だ、それが最初の印象だった。
「出てきたらさ、“深層ウェブから、がぶがぶちゅ~♡元深層組専属ナース、前科一犯なのは内緒だよ?893番、甘神すうでーす♡”で再デビューできるじゃん」
爆笑した。今までの人生でこんなに笑ったことがないくらい面会室で2人とも笑った。刑務官から怒られても抑えきれずに笑っちゃってその日は面会時間終わっちゃったね。全てを失ってただただ下を向いて耐えるだけの日々で、またこんなに笑えるなんて思わなくて部屋に戻ってくうくう泣いた。普通なら“服役中の元職場の同僚”と交流をするなんて正気の沙汰ではない。普通なら片道4時間もかけて面会に来ない。普通なら受刑者のつまらない日常のお手紙にそれ以上の文量で返信してこない。あたるちゃんは普通じゃないんだ。だから彼女は私に一度も「なぜ殺したのか」を問わず、責めず、憐憫の情を向けなかったんだ。
「あたるちゃんさぁ、差し入れにかっぱえびせんはもうやめない?」
次に来たら今度はこう言おう。こんなことを聞こう。考える時間だけは沢山ある。面会が終わる時、あたるちゃんは言葉を飲み込むように一拍あけて「またね」という。知っている。私は彼女が何を聞きたいのか知っている。だからけして答えない。そのためにここにいるのだ。不可解なものを抱えて彼女の意志で私のところに来させているのだ。
私はあたるちゃんが普通じゃない事を知っていた。
普通じゃないあたるちゃんはいつか違う世界に行ってしまう事は分かっていた。
“すう王国”から遠く離れた場所に。だから殺した。
今はこの、人差し指の爪の長さしかない、厚さたった8mmのアクリル板で区切られた8平方メートルの面会室だけが私の王国だけど。
もっと刑期が延びたら、あたるちゃんは10年でも20年でも来てくれるかな
私の事が怖くなるのかな、嫌いになるのかな。来てくれなくなっちゃうかな
でも、普通じゃないあたるちゃんなら来てくれるかもしれない。
刑務作業でミシンを走らせながらきょうも思考を巡らせる。
鷺の足に深く食い込んだ鉄の罠。歯が堅く食い込んだ肉と血の味を想像する。それが私だ。
もう、鷺が飛び立つことはない。