【弁護士・佃克彦_2025年5月7日論稿】映画「Black Box Diaries」に関する議論の整理のために
伊藤詩織氏が監督をした映画「Black Box Diaries」(BBD)に対しては、伊藤氏の元弁護団(角田由紀子・加城千波・西廣陽子の3氏)が人権上の問題を指摘している。私は元弁護団の代理人であるが、この問題に関しては十分に理解されていない点があると思われるので、議論の整理のために本稿で3点ほど指摘をしたい。
〔1〕元弁護団は“被撮影者の全員から承諾を取れ”とは言っていない
1 BBDについて元弁護団が指摘している問題点は以下の4点である。
①“裁判以外で使用しない”と誓約してホテルから提供してもらった防犯カメラ映像を映画で使用している。
②タクシー運転手の映像・音声を本人の承諾なく使用している。
③捜査官Aの映像・音声を無断で使用しており、これによって情報源の捜査官Aが特定されてしまう。
④西廣弁護士の会話部分を無断で録音し映画で使用している。
元弁護団のかかる指摘に対し、“全ての被撮影者から撮影の承諾を取れと言うのはおかしい”という趣旨の反論がSNS上で多く見られた。例えば、映画監督のミキ・デザキ氏が2025年3月3日付けでX(旧ツイッター)に「…『ノー・アザー・ランド』を賞賛しているすべての方々へ。この映画に登場するすべての人々について、監督は書面で同意を得ているのでしょうか?…伊藤詩織さんの映画に対するあなた方のダブルスタンダードに気づいていますか」と投稿したのがその典型である。
2 しかし元弁護団はそもそも、映画の被撮影者の全員について撮影の承諾が必要だとは言っていない。公共性の観点などから一定の場合(この点の衡量の仕方については〔3〕で述べる)に被撮影者に無断での撮影・公表が認められることは当然である。
例えば、1988年に、リクルート事件にからんでリクルートコスモス社の社長室長が楢崎弥之助議員に現金を渡そうとした現場を、日本テレビが撮影して放映したことがあった。これはもちろん社長室長の承諾を得ていない隠し撮り映像なのであるが、公共性の観点から撮影も公表も正当化される。
元弁護団は、BBDについては、この例にあるような正当化される事情がないのに無断で関係者の映像を使用しているから問題だと言っているのである(BBDについて正当化される事情がないことは〔3〕で略述する)。
〔2〕ドキュメンタリーかジャーナリズムかの区別は、被撮影者の人権の観点からは関係がない
1 月刊「創」2025年4月号で森達也氏は、BBDについて議論する人が皆、「ドキュメンタリー」と「ジャーナリズム」とを混同しているという(66頁、86頁)。森氏がニューズウィーク日本版のサイトに2025年3月3日付けで掲載した記事をも併せ読むと、森氏によれば、“ジャーナリズムには守るべき規範やルールがあるが、ドキュメンタリーは自由である”、“ジャーナリズムは作品ではないが、ドキュメンタリーは作品である”のだそうであり、同氏は、元弁護団の主張も含めて皆「浅い」と言う。
2 「ジャーナリズム」と「ドキュメンタリー」とが異なる概念であるのは森氏の言うとおりであろうし、またそうであるが故におそらく、「ジャーナリズム」と「ドキュメンタリー」とでは、作る側の心得や作法も異なるのであろう。
しかしそれらの違いは、一にかかって“作る側”の問題である。
“撮影・公表される側”の人権(肖像権やプライバシー権)の観点からいえば、その作品が「ジャーナリズム」であろうと「ドキュメンタリー」であろうと、守られるべき権利の中身に変わりはないし、また、撮影や公表を受忍しなければならないか否かについての判断の仕方が変わるわけでもない。
考えてみればこれは当然のことである。撮られる側にとってはただ“撮られる”という同一の事実であるのに、撮る側が「ジャーナリズム」を標榜するか「ドキュメンタリー」を標榜するかによって、撮られる側の保護の範囲や程度が変わるというのでは、撮られる側はたまったものではない。
このようなことは、60年以上前にモデル小説のプライバシー侵害性が論点となった「宴のあと」事件(東京地裁1964年9月28日判決)で既に問題となっており、また、私がかつて担当した「石に泳ぐ魚」事件(最高裁2003年9月12日判決ほか)でも問題となった。要するに、表現者側が自分の作品について、“純文学だ”“私小説だ”と標榜してもそのことに意味はなく、問題は作品の中身である。その中身において、実在する具体的な個人の権利を侵害すると読める記述があれば、表現者側は、それについての責任を免れないのである。
特に今回のBBDの場合、小説ではなく映画であり、よって問題となるのは、文字情報ではなく、本人の容貌・姿態を直接撮影した映像である。つまり、被撮影者の権利(肖像権・プライバシー権)に対する侵襲の態様は文字情報と違って直接的であり、侵襲の程度は文字情報よりも深い。そうである以上、「ジャーナリズム」と「ドキュメンタリー」のどちらを標榜するかによって被撮影者の保護の範囲や程度が異なることは、より一層あってはならないといえる。
かかる次第であるから、BBDの被撮影者に対する人権上の問題を検討するにあたり、同作品が「ジャーナリズム」か「ドキュメンタリー」かを議論する実益はない。換言すれば、そのどちらであろうと、権利侵害性の判断の枠組みに違いはないのである。
〔3〕 「公益」性を謳う伊藤氏側の言い分は当を得ていない
1 “裁判以外で使用しない”と誓約した防犯カメラ映像をBBDで使用していること(〔1〕1の①の問題)につき伊藤氏側は、「公益性」の観点から許容されると言う(なお、同氏側が言う『公益性』との文言は、『公共性』とした方が適切だとは思うが、ここでは伊藤氏側の言葉遣いに合わせる)。同氏側のかかる理屈のどこが問題か。
2 まず伊藤氏側の言う「公益」の中身が何なのかが問題であるが、この点、同氏の現在の弁護団が2024年12月17日付けで報道機関に配布した文書によれば、「性暴力の被害の救済」が「公益」の中身なのだそうである。
このことには私も異論はない。問題は、そのような中身を有する「公益」という枠組みの使い方である。
3 BBDに防犯カメラ映像を使用してよいか否かを検討するにあたって行なうべきことは、利益衡量である。つまり、人権が対立している場合に、どちらに軍配を上げるかを決めるため、諸利益や弊害を天秤にかけるのである。
そして本件の衡量は表現の自由に関わるものであり、全くフリーハンドで行なうと判断が恣意に流れてしまってよくないので、一定の価値基準を決めて衡量するのが適切である。伊藤氏側によればその価値基準が「公益」の観点であり、かつ、その「公益」の中身は「性暴力の被害の救済」だというのである。よって、「性暴力の被害の救済」という観点から利益や弊害を天秤にかけることになる。では衡量しよう。
伊藤氏側は、「性暴力の被害の救済」のために防犯カメラ映像が必要だと言うが、伊藤氏は、防犯カメラ映像を裁判で入手し、それを証拠提出して民事訴訟で勝訴している。それ故、伊藤氏の「性暴力の被害の救済」という「公益」は実現済みということになる。よって伊藤氏には、防犯カメラ映像をBBDで使用して対社会的に公表する利益は、ないに等しい。
仮に伊藤氏が訴訟で負けていたら、防犯カメラ映像をBBDで使用して判決の不当性を社会に訴えることに一定の利益が認められるかもしれないが、本件の場合、伊藤氏は勝訴しているのである。
他方、“裁判以外で使用しない”という誓約を破って防犯カメラ映像を映画で使用すると、今後、本件のホテルに限らず他のホテルも、誓約が破られて映像を公開されてしまうリスクを恐れ、防犯カメラ映像を提供してくれなくなる虞がある。つまり、今後発生する性加害の被害者にとり、防犯カメラ映像という極めて有益な証拠の入手の途が断たれてしまう。即ち、防犯カメラ映像をBBDで使用することは、将来の「性暴力の被害の救済」の観点からは弊害でしかない。しかも性被害は、ただでさえ客観証拠の入手が困難な被害類型であるので、その弊害の程度は大きい。
以上の通り、防犯カメラ映像の使用について、“伊藤氏側”の天秤皿は、それによって得られる利益はなく、他方、“将来の性被害者側”の天秤皿は、それによって生じる弊害が大きい。よって天秤は“将来の性被害者側”に大きく傾き、結果、防犯カメラ映像の使用は正当化されない。
「性暴力の被害の救済」という「公益」に照らした利益衡量は、このようにするべきものであろう。
4 伊藤氏側の言い分は、単に、自分が防犯カメラ映像をBBDに使いたいという願望を「公益性がある」という言葉にくるみ、それをもって論証したことにしているだけであって、単なるレトリックである。これでは利益を衡量していることにはならない。
なお、伊藤氏側を擁護する見解として、“民事訴訟で勝ったからといって伊藤氏の被害が全て回復されたわけではない。元弁護団側は伊藤氏の被害を軽視している。”という批判がSNSに上がった。確かに伊藤氏は、刑事上の救済はなされておらず、また、仮に法的な救済がなされたとしても一旦傷ついた心身は容易に回復はしないだろう。しかしそれは将来の性被害者も同じである。つまり、伊藤氏側の天秤皿にそれらを全て載せるなら、将来の性被害者側の天秤皿にもそれら全てを載せることになるのであり、よって結果は変わらない。
5 最後に、参考までに、〔1〕2で挙げた日テレのケースの利益衡量を示しておく。
当該映像の公表により、社長室長は失職等の不利益を受けるだろう。これと、政治家に対する大企業の瀆職行為が社会に知れわたって摘発される利益とが天秤にかけられることになり、瀆職の防止という公共性(伊藤氏側のいう「公益」性)の観点からすれば、公表することが正当化されるのである。
初出:2025年「創」6月号
佃法律事務所 弁護士 佃克彦
“正義の味方”にあこがれて弁護士になり、気がつけばもう30年。さまざまな事件に出合い、数多くの経験をしてきました。事案に応じて他の事務所の弁護士と連携し、フットワークは軽く、しかし強い信念を持って皆さんの人生やお仕事における前進のお手伝いを致します。お気軽にご相談下さい。
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