Vol.031|世界を読み解く数式
遅ればせながら、新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。引き続き本マガジン『MONOLOGUE』を週刊で更新してまいりますので、お付き合い頂ければ幸いです。更新ペースはそのままに、内容としてはよりギアを上げながら、並行していろんな企画をやっていければと考えております。それでは新年一発目、さっそくまいりましょう。
仏作って魂入れず
先日、大阪は梅田にあるグラングリーン大阪に行ってきた。普段からフォーナインズの眼鏡を愛用していて、新たに一本作りたかったので、当該施設内にある直営店に訪れることが目的だった。
直営店が入っていること以外に、なんの下調べもせずに訪れたので、まったく知らなかったのだけど、当該施設の地下一階にはタイムアウトマーケット大阪と呼ばれるフードマーケットがある。コンセプトや外観はホームページを見てもらうのがいちばん手っ取り早いが、小洒落た高級路線フードコートのようなものを思い浮かべてもらえると、わかりやすいかと思う。
自分は日頃から好奇心を大切にしていて、何事もまずは挑戦してみることにしている。つい億劫になってしまう心の弱さをねじ伏せて、半ば無理矢理にでもまずはやってみる、なんにせよ話はそれからなのだと。歳を重ねれば重ねるほどに、こうしたチャレンジ精神は瘦せ細っていくものなので、余計にそう心がけている。未知の事象を自ら体験もせずに批判するようになったら、老害まっしぐらである。
せっかくなのでここで昼食をとってみるかと思い立ち、いくつかのお店を回ってみた。より具体的には時系列で『あやむ屋』『渡邊咖喱』『肉といえば松田』の三店舗。結果、少なくともここタイムアウトマーケットに訪れることは二度とないだろうなと感じた次第で。
最初に『あやむ屋』に訪れた時点で、嫌な予感はしていた。名前だけは前々から知っていて、実際に訪れたことはなかったものの、唐揚げにしろ手羽先にしろ、一口食べて「え、これが知る人ぞ知るあの『あやむ屋』の料理なんか。期待外れもいいとこなんやが」と、正直そう思った。これは料理のジャンルや期待値は違えど『渡邊咖喱』についても、まったく同じ印象をもった。
なんだろう、この違和感は。その違和感の正体を解き明かすべく、われわれはジャングルの奥地へと……ではなく、最後に『肉といえば松田』に訪れてみた。ここならば奈良本店に何度か訪れたことがあるので、比較することで違和感の正体がはっきりするはず。
そうして比較してみてわかった違和感の正体こそが「仏作って魂入れず」であった。いかにもガワだけ整えた中身のない料理。大雑把な方向性だけは一致しているので、食材は同じルートから仕入れているのだろう。が、いかんせん調理がお粗末すぎて、もはや別物と化していた。あのようなお粗末な出来栄えで同店名を掲げるのは、ある種の自傷行為でありブランド毀損ではないのか。あの出来栄えならばせいぜい監修と謳うに留めるべきであろう。
たとえばわかりやすいところでいえば、温度一つとってもそう。どの料理にもそうした傾向は大なり小なり見られたが、特に『肉といえば松田』で頼んだカレーは、散々待たされたあげく、提供された時点でだいぶ冷めてしまっていた。世の中広しといえども、冷めたカレーほどわれわれをがっかりさせるものはない。フードコートの延長線上とはいえ、決して安くはないのだから、もうちょっとなんとかならんもんかと。
いや、おまえなんぼほどカレー食うんやと思われるかもしれないが、自分は『肉といえば松田』奈良本店に訪れた際には、必ず〆にカレーを頼み、なおかつお土産としてカレーを注文するぐらいには、ここのカレーが好きなのである。比較対象としてこれ以上わかりやすいものはないだろうの意図もあった。実際に比較してみるとその違いは明らかであり、控えめにいっても『肉といえば松田』監修がっかりカレーだった。
それもそのはずで、店内で調理を担当しているのは、どう見てもバイトに毛が生えた程度のチャラそうな若い兄ちゃん。もちろんセンターパートである。若くとも優秀な料理人はいくらでもいるが、やはり料理というものもまた一つの道である以上、その道を究めようと思うのならば、相応の年数を必要とする。し、何であれ一つの道を究めんとする生き様は、品位ある風貌をもたらすもの。
自分が好んで通うお店で、細部までこだわらない料理人など一人もいない。みな神は細部に宿ることを体感として理解している。ましてや料理の温度なんてのは、最低限クリアしておくべきハードルの一つしかない。こだわる料理人であれば、当たり前のように料理だけでなく食器の温度にも気を配るし、突き詰めればドアノブの温度にすら気を配る料理人もいる。
だいたいあんな冷めきったカレーを平気で提供している時点で、料理人として失格である。当人も料理人のアイデンティティで生きてなどいないだろう。与えられたマニュアルに沿って目の前の作業をこなしつつ、一刻も早くこの耐えがたい労働時間が過ぎ去らないだろうかと思っているに違いない。世の大半を占めるであろう魂のこもっていないやらされ仕事である。
勝手な決めつけであることは重々承知しているし、彼らに料理人としてのあるべき姿を望むのは、無理筋というものかもしれないが、少なくとも自分にとってはそういう印象を受ける料理の数々であった。反面教師としての学びはたしかにあったものの、ここからこれ以上学べることはないように思われる。二度と訪れることはないだろう。
魂のこもったよき仕事をしたい。魂のこもったよき仕事だけに触れていたい。日に日にそんな思いがますます強まっていく。
世界を読み解く数式
では、魂がこもったよき文筆とはどのようなものか。(インディーズシーンで細々と活動する)文筆家の端くれとしては、やはりこの問いには真摯に向き合わねばならないであろう。
その問いに答える前に、まずは以下の数式を見てほしい。これは成善主義におけるこの世界を読み解く鍵となる数式である。よき文筆とは何かについても、この数式を当てはめれば自ずと答えはでる。今後も何かと登場する機会が多いかと思うので、数式だけでも覚えて帰ってもらえればと思う。
ピケティによるr>gばりにシンプルな数式である。注意点として、より厳密には数式ではなく、もっと概念的で象徴的なものとして捉えてほしい。ある種のモデル図のようなもの。モデルというにはあまりにシンプルであり、どうしても大げさ感は拭いきれないが、自分としてはこのモデルに至ったのは画期的なことだと思っている。
まず用語から説明しよう。分母にあるeはethos(エートス)、分子にあるpはpathos(パトス)で、lはlogos(ロゴス)を指す。いずれもギリシャ語で、古代ギリシャの哲学者アリストテレスが『弁論術』において、人を説得するための三要素として挙げていることで広く知られる。
ethosは英語のethics(エシックス:倫理)、pathosはpassion(パッション:情熱)、logosはlogic(ロジック:論理)の語源となっていることから、それぞれの単語における意味領域のイメージは、おおよそ掴んでもらえるかと思う。
ただし、ここではよりギリシャ語に忠実なニュアンスで、もっと広い意味領域で用いていることに留意してほしい。たとえばlogosでいえば、論理だけでなく言語・理性・計算などもすべてここに含まれる。あるいはpathosでいえば、情熱だけでなく感性・感情・判断なども含むといったように。
現代人にとって馴染み深い英語を用いずに、わざわざあまり馴染みのないであろうこれらのギリシャ語を用いたのは、勝手なイメージが付着することによる意味領域の固定化を防ぐ意図がある。
さて、このモデルの核となるポイントは二つ。一つは「pはlよりも大きい」こと、そしてもう一つは「そのpとlはeを土台としている」こと。厳密な数式としての分母分子の関係ではなく、分母であるeがpとlの土台にあって、pとlにはpを主としてlを従とした主従関係が成り立つ、そんなイメージで捉えてほしい。
さらにはそのpとlの土台にeがあるので、それぞれが必要不可欠ではあるものの、もっとも主となるのはeである。つまり大きさでいえばe>p>lであり、優先順位でいえばe→p→lなわけだが、eとpおよびlとでは性質が異なっている。それゆえ文字通り一線引く形でeを分母に置いてある。
あくまで自分用にとっているものなので、公開するには憚れるきったねえメモだが、このメモにあるようにpはeの表現媒体であり、lはpの表現媒体でもある。とはいえ、そのすべてを表現できるわけではない。pはeのすべてを表現できるわけではないし、lはpのすべてを表現できるわけではない。より上位の要素を表現するにあたっては、必ずその下位となる表現媒体の制約を受ける。
これは後述する文筆にも関連することで、たとえば抑えがたい感情を言葉にしようとする時のことを思い浮かべてみてほしい。言葉にした瞬間に多くのものが零れ落ちてしまって、もはや陳腐な別の何かと化してしまったかのような、そんな感覚を覚えるはず。なぜそうなるのかといえば、感情(p)を言葉(l)で表現しようとするからである。p>lであることに加えて、さらに表現媒体としてのlにpは制約を受けるからに他ならない。
ちょっとした余談だが、自分はこうしたメモを日頃からたくさんとっている。モデル化するためにメモをとる場合もあるし、思索の種となりそうな感触が少しでもあれば、欠かさずにすぐさまメモをとるようにしている。その瞬間を逃してしまうと、すぐに忘れ去ってしまうことを経験的に知っているから。週一ペースでせいぜい五千字程度とはいえ、まったく書くことに困らないのは、このメモによる力が大きい。書きたいテーマは無数にある。
思うにみんな頭の中だけでなんとかしようとしすぎなのだ。もっと書くことを習慣づけたほうがいい。頭の中だけで考えていて、少しでもまとまらないなと感じたら、とにかく書いて書いて書きまくる。今回は例外だが、別に人様に見せるようなものでもないのだから、きったねえ見栄えでもいいからとにかく思いつくまま書き殴るべきである。それを伝えたいがために、こうして恥を忍んできったねえ手書きメモを公開した次第で。
モデル化にしろ悩みの整理にしろ、なんであれ自分の中に秩序をもたらしたい時に「書くこと」は、強力なツールとなる。
魂のこもった文筆
前提となるモデルが共有できたので、これより本題に入ろう。文筆は大きくわけて二つの要素で成り立っているように思われる。すなわち「文意」と「文体」である。何を伝えようとしているのか、そしてそれをどう表現するのか。
先ほどのモデルでいえば、文意はpにあたる。何を伝えようとするかは、論理で積み上げるものではなく、あくまで感性が導くものだから。
哲学者のハンナ・アーレントは、何かを始めるその瞬間にこそ自由が宿ると喝破している。なぜならその瞬間は、いかなる論理的必然性からも解き放たれているからなのだと。これも似たようなことを言っていて、要するにスタートを切るのは論理ではなく感性なのである。どれだけ緻密に論理を積み上げようとも、最終的な決断とのあいだには埋めることのできない断絶があり、それゆえそこには必ず飛躍をともなう。
あれこれ考えてばかりで行動できない人というのは、行動力などという曖昧模糊とした力が足りていないのではなく、感性(p)が磨かれていないのに、論理(l)だけでなんとかしようとするからそうなる。lはlで磨くべきものではあれど、何度も言うようにあるべき主従関係はp>lである。
したがって、文筆においてもまず何よりも文意(p)ありきとなる。よき文筆は必ずp>lになっている。
極論、叫ばずにはいられないほどのpがあるならば、たとえ語彙が豊富でなかったとしても、多少論理構成が破綻していたとしても、それは人の心を揺り動かすよき文筆となる。まったく知らない人で、どう見ても文体が洗練されているとは思えないのに、なぜか惹きつけられて最後まで夢中で読んでしまうのは、書き手が意識しているかどうかはさておき、p>lの原理原則を忠実に守っているからである。
逆にp>lの原理原則を守っていない文筆は、とてもじゃないが読めたものではない。たとえば論理ばかりを突き詰めた文筆がそれだ。これまで散々こすりたおしてきているが、哲学を学んでひきこもっているような書き手、それも特に若人にこういう文筆は多い。彼らは外界を拒絶しているがゆえに、絶対的に感性を育む経験が足りていない。寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」は、まさしく彼らのためにあるような言葉である。
そうした文章は、ぱっと見はしっかりしている。当たり前といえば当たり前である。lとは言語であり論理であり形式なのだから。そのlを磨いているならば、見た目はいかにも整った文章になる。けれども、ちっとも心に刺さらない。さぞご立派な語彙と言い回しが心の表面をうっすらとなぞっていくだけで、まるで心に刺さってこない。あまりに無力な文筆である。たとえ自分のために書いているのだと、それらしい言い訳を並べ立てようとも、無力であることには変わりない。なぜなら自己を変革しうる文筆の条件もまたp>lだからである。
p>lの原理原則を守っていない文筆は、他にも掃いて捨てるほどある。たとえばpvを稼ぐことを目的とした文章がカスなのは、lつまり数字だけを追いかけて、pがおざなりになっているからだ。
どこの界隈にもこういう人間は一定数見られる。現にここnoteにもそういう人たちがあふれかえっているだろう。フォロバ100%を謳うアカウントや、営業スキ&フォローを機械的に繰り返すような人たちが。自分はそれをされても別に不快にはならないし、どうでもいいというのが本音だが、客観的に見て「こいつら虚無ってんな~カナブンぐらいの知性しか持ち合わせてなさそう」とは思う。そんな彼らの文章をわざわざ読むまでもなく、彼らが書き手としてカス一確だと判断できるのは、数字ばかりを追っていてpがおざなりになっていることが、その所作から一発で読み取れるからである。
昨今でいえばAIもそう。創作におけるどの分野においても、AIによるゲームチェンジを強いられているが、文筆とてそれは例外ではない。むしろど真ん中といえる。実際にAIによる文筆はここ数年で爆発的に増加した。
が、しかしその大半はAIに全振りしただけのカスである。そもそもAIに全振りしようというその発想が、それを恥ずかしげもなく公開するその態度が、まずもって貧相な感性pの証左である。加えて文体lはというと、AIに整えてもらった可読性だけは高いものの、何の面白味もない平均的な文体。いったいどこに読むに足る理由があるというのか。自分がAI全振りの記事を一つでもアップしている書き手をさっさと見切るのは、こうした背景があるからだ。
何度も言うように、いくらp>lであるとはいえ、文体をおろそかにしていいわけではない。むしろ、pが磨かれれば磨かれるほどに、自然とlにもこだわるようになっていくものだ。
手前味噌で恐縮だが、自分は文体にもめちゃくちゃこだわる。一人称をどうするか、読点の位置によるリズム、一文の長さ、接続詞の使いどころとその頻度、口語の使いどころと距離感、語尾の処理、太字や下線といった文字の装飾、「」や『』の使い方、改行の位置など、すべてこだわってやっている。決して自分の文章が上手いとは思わないが、今の自分を最大限表現しようと文体にこだわっていること、それだけは胸をはって言える。
そして、それだけこだわっているので、同じく文体にこだわっている人の文章は、一目見ればわかる。AIに書かせたであろう文章についても、同じく一目見ればわかる。チキチキAIきき文筆にはかなり自信がある。
最後にもっとも重要な文筆におけるeについて書こうと思ったのだけど、ここまでだいぶ長くなってしまったので、次回あらためて書くとしよう。


