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きこえていますか - しをにの小説 - pixiv
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8,526文字
きこえていますか
12/15 COMICCITY東京151で出した『一夜』という短編集よりWeb再録した一編です。原作完結後の司×ノービス時代夜鷹の夢の話。
司に寝つかされる最後に「あなたのところにつれてってください」と夜鷹が言いますが、「よだかの星」の引用です。
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2025年4月23日 17:47

 あなたはどこにおいでなのでしょうか。
 僕は十一歳になりました。これからひととせごとに家移りをしていけば、僕のような根無し草はこの世のだれの記憶にも残らぬまま、朽ち果てていけることでしょう。僕は僕をうしないました。人とのつながりは絶たれ、もはや家も名も持たない、透明な存在になりました。いよいよ世界のすべては遠ざかり、雪のような無彩色に閉ざされて、一生涯触れることのできそうにないものになりました。温度はうしなわれ、色彩は褪せて澱み、輪郭は頑なに張りつめて、そのすべてが迫り来て感官を圧するので、拒絶感から軀のなかが裏返りそうになります。四肢を折り曲げて嘔吐し、悲鳴を上げようとします。しかしそれさえもかなわずにはじめて、声も、喉という器官さえもないことに気がついた、空洞のようなこの軀です。
 運命の女神よ、これこそがあなたへの供物です。
 このように祈ることさえも、言葉になっているかどうか、自分でももうわからないのです。けれども僕はなにも怨みはいたしません。蒼穹のむこうへと隔てられたあなたのもとへ行くことができるのなら、あなたの御手に触れることをお赦しくださるのなら、僕はこの汚辱を受けた醜いからだを棄て、あるがままの姿となって参りましょう。僕をお使い果たしてください。僕からすべての力をお奪いください。この天と地の沈黙を穢す呼吸と鼓動をお絶やしください。そうして死のほのぼのとした白い明るさのもとに僕の骸を曝し、さやかな静謐を取り戻させてください。そうすれば世界はどれほど美しくなることでしょうか。
 しかしお前は、それでいいのか、とはじめて僕にフィギュアスケートを教えてくれた先生は、まるで餓鬼道に堕ちた亡者を見るようなあわれみを浮かばせたまなこで、僕をしんと眺めていました。
お前は、これから先、お前のことを深く知る他者を、だれひとりとして持つことができないだろう。家族も、友人も、盟友も、師も、お前と長い時間を共にし、相知ることはありえない。お前が大人になって、おのれを復元するために思い出を集めようと思っても、みな断片的にお前のことを知っているだけで、だれの心のなかにもお前という人間が生きていることはないだろうよ。
 僕はむしろよいことだと思います。
 なぜ?
 先生は心の底から理解ができないというような顔をしました。
 先生には僕よりも幼い娘がいて、その子のことを目に入れても痛くないくらいに可愛がっておりました。先生のような、他人とのあいだに生命をひとつ儲けるほどに人の存在の根源に触れ、自身の生きた証を残そうとする人間に、僕のような人間の考えを想像することはできないのでしょう。生きていることに後ろめたさなどありもせずに、毅然としてそこに在ることのできる先生を見て、訣別しなければならない、とひとりでに決心が固まったのでした。僕の不幸が先生と先生の娘に移らないうちに、別れの言葉を口にしなければなりません。
 僕はこの世に自分のもので、フィギュアスケート以外のものを残すつもりがないのです。さようなら、先生。どうかしあわせでありますように。

 航空券の発行も搭乗手続きもひとりで済ませてしまうと、時間になるまでのあいだ、僕は搭乗口の座席に座って、付き添い人となる大人を待っていました。それはひどく不快な時間でした。僕は次第に、手持ち無沙汰でいる状態に堪えがたさを感じてきました。スケートに関するなにかをしていないと、落ち着くことができないのです。あなたに僕のすべての時間、すべての注意力を傾けていなければ、あなたと一緒にいることができなければ、僕は存在することができません。
 指遊びをはじめると、その爪先が苛立ちとともに皮膚を掻き、摘み、血が滲むまでに至ろうとしたとき、不意に隣から芯の太い声が届きました。
 痛いからだめだよ。
 僕の手を包みこむようにして、大きな手が重なりました。払いのけようとはしたのですが、あまりにも驚いた僕は、皮膚に突き立てていた爪先をそっと剥がされるに任せてしまいました。それから電撃が走ったように、無理やりその手を払いのけました。心臓が異様に大きな鼓動を刻み、頭が名状しがたい感情でぐちゃぐちゃになっていました。いくつもの恐ろしい記憶が僕のなかを過ぎり、いやな嗤いを残して去っていきました。遠くで耳鳴りがしました。
 触らないで、と睨みつけた目線の先には、ひとりの体格のいい男が僕の隣に座っていました。きらめくような色彩を湛えた、まるで室内に太陽を持ち込んでいるような男です。彼は、目をしぱしぱとまたたかせると、勝手にからだに触ってごめんね、と謝ってきました。許したわけではありませんが、僕がその言葉にすこし落ち着きを取り戻して、ふと周りを見渡してみるとだれもいなくなっていました。どこからも物音ひとつしませんでした。そんなはずはありません。先ほどまで人の渋滞の中を、僕はスーツケースを引いてここまで来たはずなのです。しかし、売店にも道にも、だれひとりとして人影はなく、僕らふたりだけがここにいました。呆気にとられていると、あたり一面の照明がぱっと落ちて、暗幕が引かれたかのように暗闇が覆いました。男はなんだか間の抜けた仕草で、ぽりぽりと頭を掻きました。
 ごめんね。ポイント懸賞で当たった家電がまさかこんな道具だったなんて思いもしなかった。ここは時空の結び目なんだ。ここではすべての時空が歪み、合流し、俺と貴方の深層心理を反映した風景が作り出される。だから貴方と俺が出会うことだってできた。
 なにを言っているのかはよくわかりませんでした。ただ、男はひどく眩しそうな目で僕を見ていて、それが初対面の人間に対するまなざしにはとても思えなかったので、僕のことを知っているの、と警戒しつつもそう問いかけました。
知っているよ、と彼は答えました。そして言葉をしばらく舌先で転がして逡巡していましたが、結局は口元を緩めて破顔し、こう続けました。ずっと貴方のことを探していた。会いたかった。一生会えないと思っていた。ほんとうに会えて嬉しい。
 大輪の向日葵のような笑顔に、胸騒ぎがしました。それは、この男とこれ以上話してはいけない、近づいてはいけない、触れられてはいけない、という本能的な危機感でした。そうでなければ、僕の在り方の根幹を乱され崩されてしまう。なのに、男のまなざしがあまりにもやわらかく、あまりにも僕をまっすぐに見つめてくるので、なんだかその場に縫い止められたように動くことができず、その挙句に僕は、僕が他人に問いかけることを許されるだろうゆいいつの問いを絞り出しました。
 君は、フィギュアスケーターなの。日ごろ必要なとき以外発されることがない僕の声は、吐息の音のうちに消えてしまいそうに掠れていましたが、男は問題なく聴き取り、平然と受け答えしました。
違うよ。一時期はそうだったけどね。
 どこで僕の名前を知ったの。
 テレビで貴方の名前を見た。貴方の演技を見た。
 僕はそれを聞いて、内心胸を撫で下ろしました。はじめての全日本ノービスBの試合で、自分が無事に金メダリストとなり、存在を証明できたことに対する安堵でした。そう、と返した声音に、そのような情感が滲み出ているのを鋭く嗅ぎとったのか、男は僕に視線を合わせて続けました。
 ただ、感想はなにも言いたくないから、言わない。
 どうして。
 貴方は傷ついているから。その渦中から生まれたものがどれほど美しく、競技の高みにあったとしても、貴方の傷を無視して称賛するわけにはいかない。もう二度と。

 傷ついてなんていない、と返そうとしたそのとき、僕の片腕が宙に溶けました。
 たまゆら、息ができなくなったようでした。気がついたときにはバランスを崩していた僕は、男の方へと倒れ込みました。腕を構成していた粒子が、星雲のように天へと向かって消散していくのを、ただ仰ぎ見ていました。奪われた、と感じて、劈くような喜びに苛まれました。膝にもたれかかって男の顔を自然と見上げるかたちとなった僕に、彼がどこか悲しそうな表情で、そっと語りかけてくるのをただ聞いているしかありませんでした。
 ごめんね。今さっき俺が言った言葉が鍵となって、この空間が貴方に作用したんだと思う。現実に戻ったら治るから安心して。大丈夫?
 男の手が僕の頭に触れようとしたので、反射的に残った腕で拒絶すると、その手がゆるやかに離れていきました。
 どうして、と呟きました。からだを起こそうとしても、幻肢痛のような鈍く重い痛みが走り、倒れ込んでいることしかできません。脂汗が浮かんでくるのがわかります。苦しい。その奇妙な現象は、身体的な痛みに留まりませんでした。押し込めていた記憶の数々が、急に蓋を開けたかのように僕を襲いました。悪夢にうなされている人のように、目を瞑ってじっと耐えていると、男が心配そうに、俺に何かできることはないかな、と尋ねました。
 タオル、取って、と僕は携帯していた鞄の中身を指差しました。ほんとうは男が自分の持ち物に――特にそのタオルに触れるのには嫌悪感を覚えましたが、なりふりかまっていられませんでした。男に渡されたタオルの、毛の豊かに生えた柔らかい生地に顔を埋めて、深く息を吸い込みます。麻酔を打ったみたいに、ふっと痛みが和らいで、からだが軽くなりました。しばらくのあいだ、無自覚のうちにいつもしているようにタオルの感触を指先で味わっていると、男と目が合いました。
 そうしていると安心するんだね、よかった、と男が笑いかけて、急激に羞恥心に襲われました。見られている。一番他人に見られたくない儀式を、よりにもよってまるで信頼などできない大人に。そう思うといたたまれなくなって離れようとした僕が、またバランスを崩して床に頭から落ちそうになったのを、男が慌てて抱きとめました。気持ちはわかるけど、急に動いたら危ないよ。
 君にはわからないよ、と僕は鋭く言い放ちました。わかるなんて言葉、よくも軽々しく他人に使えるね。君は僕のことなんて何も、とさらに言い立てようとすると、男は人差し指を口元に持っていきました。ごめんね。すこし、静かにしていて。そうして、僕の腕があったところに、手で触れました。また反射的にからだを退けようとしたのに、その感触があまりにも心地よいものだったので、僕は身じろぎすることができませんでした。そう、まるであなたに触れられているかのように、そこにはきっと泣きたくなるほどの――きっと、というのは、僕は記憶のかぎり泣いたことのない人間だからなのですが――安堵がきざしました。
 やっとこうしてあげられた、と男が奇妙なことを口走りました。子どもだったころの貴方に、ずっとこうしてあげたかった。彼は眉根を寄せ、泣くのを堪えているかのような顔をしていました。痛くない?
 男が僕の手首を握り、そこから無骨な指先を伝わせて腕全体の輪郭をなぞりながら、僕に問いました。触れられた場所から、痛みが嘘のように消え失せていきました。
 うん、と微睡さえおぼえるような甘やかな心地よさに包まれて、僕は男の膝に再び頭を預け、夢見心地でそう答えました。これまでどんな大人にもそんなことをしたことはありませんでした。だからそれはありえないことだったのです。ただ、僕はもうどうしようもなく、疲れていたのです。それはどうにも認めざるをえませんでした。
 男は暗闇のなか、それも透明になって見えないはずの僕の片腕に、腕のかたちから厚み、肘の尖りから肘窩の窪みに至るまで、星座を辿るような丹念さで触れていきました。その、神経の暗号を解きほぐすような繊細な手つきから、自然と推し量れるものがありました。この男は、おそらく、どこかもいつかもわからないけれど、僕に触れたことがある。僕のかたちを知っている。それがなぜなのかは分かりませんでしたが、ただ、不思議でしかたがありませんでした。そう思いながらも、僕は抵抗しなかったし、男は僕を愛撫する手を止めることがありませんでした。ただ、辺りが深夜の病院のように冷え込んでいたので、僕がすこし縮こまると、男がダウンジャケットを脱ぎ始めました。これほど筋肉質な男にとっては暑いのだろうかと訝しんでいたら、ダウンジャケットが僕のからだにかけられ、ぬくみが移りました。
 寒くない? 腕の痛みはすこしマシになってきたかな?
 男はそう心配そうにほほえみ、また僕の見えないはずの片腕を注視する作業へと戻っていきます。いったいどうしてこの男は僕にここまでするのだろう、とふと疑問が降って湧きました。つまらなく個性のない、スケートにしか価値がない僕のような人間なんかを、どうしてこんなに丁寧に扱おうとするのだろう。
 君はどうしてここにいるの、と問うと、男はなんでもないことのように答えました。
 貴方と話がしたいからだよ。貴方の言葉を聞きたいんだ。
 僕と話して君にとって良いことなんてなにもないのに? 僕は首元のタオルを握り締め、男の表情の些細な変化さえも見逃さないように、僕にここまで施しをする企みを突き止めようと注意深く観察していましたが、しかし男は淡々と答えました。
 それは俺が決めることであって、貴方が決めることではない。感情の揺らぎのない平静な声に対して、なにも言い募ることができませんでした。男の手が、僕の二の腕をそっと撫でていきます。貴方は、どうしてここに?
 次の目的地に行かなければならないから。
 そう。さみしくないの?
 みんなそれを聞くね、と僕はすこしうとうとしながら返しました。僕が子どもだからみんなそういうことを言うのかもしれないが、そういうことを聞く大人の方が子どもに思えるよ。僕はさみしさを感じたことがない。その言葉を語彙として知っていても、感情として理解するための感覚が備わっていないのだと思う。
 さっき君が感じた痛みのなかに、さみしさはなかったの?
 そんなものはない、と僕は言い切りました。
 これは俺の尊敬するアイスダンスのパートナーの言葉だけど、と男は言いました。大人になるためには子どもとして大事にされた思い出がたくさん必要なんだよ。大人になろうと決めた後でも思い出が足りなければ子どもに戻っていい。忘れ物を取りに帰るみたいに子どもと大人を行ったり来たりして少しずつ大人になるんだ。でも、貴方は、自分が子どもであることを、脆く柔らかい部分があることを、それ自体認めていないように思える。
 減らしていかなければならないんだよ、削ぎ落とさなければならないんだよ、と僕は遠くにおられるあなたのことを想いながらそう言いました。まるでその言葉は呪詛のように響き、虚空を穿ちました。自分の持ちもののすべてを犠牲にして、スケートに捧げなければならない。それ以外に僕が僕を証明する手段はない。だから場所を変えて、なにもかも捨てていかなければならない。
 いいかげんにしなさい。男はぴしゃりと言い放ちました。声色から怒気を感じて、僕は思わず萎縮しました。貴方は、と男は口をつぐんでから、貴方はもう、失いすぎて失うことに鈍感になっているだけだ、と噛み締めるように続けました。どうして先ほど貴方の片腕が失われたのか、ほんとうはもう理由がわかっているはずだ。貴方の心は傷み、摩耗している。この空間では、俺の力で干渉することで、貴方は痛みと欠落を感じることができるようになっている。

 片足に激痛が走り、僕は声にならない悲鳴を上げました。やめて。うるさい。言わないで。言葉はどれも喉につかえて出てこないままで、代わりにまた足元から光がちらちらと天に昇っていくのが見え、頬を伝うものを感じました。しゃくりあげる声を堪えることさえもはやできませんでした。
 僕を神さまのところに連れていって、と僕はなりふり構うことなく叫びました。もうこのからだがいらなくなるように、もうこれ以上痛みを感じないように。男がまた僕の透明な片足にそっと触れて、行っちゃダメだ、と窘めました。もうだれも僕に触れないように、もうだれも僕を傷つけないように、だれの手も届かないところまで、どうか。
 あなたに祈りを捧げると、からだの末端から光が立ち上っていきました。ああ、と恍惚とした息が漏れました。ここで終わりを迎えるのもいいだろうと、僕はそのとき素直にそう思ったのです。生きていればいつかは、フィギュアスケーターとしていつか引退しなければならないときが来る。僕はその終わりを迎えるくらいならば、選手のままで死にたいとずっと思っていましたから、これからの演技を残すことができなかったことのほかはこの世になんの未練もありませんでした。
 消えていく僕のからだを陶酔のうちに眺めていると、突然、男が僕を抱きしめました。抱きしめるというよりも、羽交い締めにしているようでした。僕は恐怖に凍りついて、身をよじり、やめて、とそこから芋虫のように這い出そうとすると、ダメだ、とくぐもった声が耳をくすぐりました。男の瞳から涙の雫が落ちて、僕の唇に落ち、どうしてなのでしょうか、僕は反射的にそれを舐めとりました。血のような、海のような味がからだ中に染み渡って、存在がふたたびこの世界に根づいたような気がしました。光の粒の放散がゆるやかに止まりました。
 俺は、と男は口内で言葉を何度も噛み砕くように、僕に語りかけました。今の貴方を止めることで、俺は、貴方に将来出会えないかもしれない。スケートをはじめないかもしれない。それでもいい、それでもいいから、どうか行かないでほしい。
 そうしたら、君は僕のことを忘れてしまうのに? 僕は問いかけました。君はそれでいいの? フィギュアスケートだけが僕の存在の証明なのに? 犠牲を払いつづけて不幸のうちに氷の上に立つことで、僕は神の実在に触れ、ようやく名前を取り戻せるのに?
 男は永遠を約束するかのように、僕の手を取って握りしめました。貴方が、と呼びかけたその声は鼻声になっていて、よく泣く男だ、と思いました。どうしてこの男が泣いているのだろう。
 幸せでいようが、不幸でいようが、俺が貴方の手を握りつづけるし、俺は貴方を忘れることはない。そうして時空の裂け目から、ひとつの貝殻を取り出しました。だから、貴方にこれをあげる。この時間が終わったら、俺も貴方もすべてを忘れてしまうから。それは、この世の生と死を象徴する白を溶かして固めたような、白い巻貝でした。氷の湖から取ってきたんだ、と男は言いました。氷の湖がどこにあるのか、僕には想像することもできませんでしたが、ただ、すべての終着点はそこにあるのだろうと予感がありました。
 ほんとうに、ほんとうにまた、この世界で自分がひとりだと思ったときは、それを耳に当ててよく耳を澄ますんだ。そうすれば聴こえてくる。時間も空間も超えて、俺の人生が、貴方に届く。すべてを忘れてしまっても、この音はけっして消えないから。ねえ、と男は顔をくしゃくしゃにして、泣き笑いの顔を向けると、僕に言いました。名前を、教えてくれるかな。
 呼んでほしい、と懇願した僕の声は、自分でも恥ずかしくなるくらいに幼い子どものそれでした。僕から言わなくても、君はきっと、僕のことを知っているのだろう?
 じゃあ、俺が言うよ。貴方は夜鷹純だ。違う?
 うん、と僕は頷いた。そうだよ。僕は夜鷹純だ。
 そう言った途端に、一段と強烈な眠気に襲われました。ここ数年感じたことのないような、自然で、穏やかな眠気です。目を開けていられなくなった僕の頭を、男がそっと撫でると、大丈夫、貴方が眠るまでここにいるから、と言いました。貴方は疲れているんだ。ここですこし、休んでいくといい。けれど、目を閉じれば男が行ってしまうと、本能的に分かっていた僕は、いかないで、と呟きました。いかないで、お願い。男の袖を掴みました。どうか僕を、あなたのところへつれてってください。
 どうしてただ一度、この場所で会っただけなのに、こんなにもさみしくなるのか、自分でもわかりませんでした。ただ、この人にここにいてほしいと思いました。僕は最後まで男の袖を掴んで、離したら命綱を離されたような気持ちになるだろうと思いました。いつか必ず巡り会えるよ、という言葉を最後に聞いた気がしました。しかしそれもだんだんとわからなくなって、僕の意識は途切れました。

 僕がフィギュアスケートを失って、あなたに裏切られたと知り、あのとき受け取った貝殻の存在を思い出したとき、僕はその窪みを耳に当てました。音が聴こえました。波のようにさざめいていたそれは、次第に聴き覚えのあるピアノの旋律へと変化していきました。
「ああ」
 遠い未来の先で、僕によく似た少女がひとり、ぽつりと呟きました。
「ピアノを弾いていたのは、明浦路先生もだったんだ」

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