【昭和101年目に昭和天皇の足跡を振り返る】マッカーサーに「戦争遂行に伴う全責任を負う」と語った“大元帥”の覚悟と悔恨
昭和10年頃、愛馬「白雪号」に跨る昭和天皇(写真/共同通信社)
昭和100年が終わり、昭和101年が始まった。1世紀を経てなお、この国のあらゆるものに昭和の面影が漂う。それほどあの時代、その象徴たる昭和天皇の存在は大きかった。小田部雄次・静岡福祉大学名誉教授が、戦前戦中の昭和天皇について解説する。
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「現人神」「大元帥」と称された昭和天皇ではあるが、皇太子時代(1921年)には6か月に及ぶヨーロッパ歴訪を行ない、第一次世界大戦(~1918年)の傷跡を直接見聞きし、戦争の悲惨さを強く認識していた。当時の英国王ジョージ5世からイギリスの立憲政治のあり方について直接学び、それを機に「立憲君主としてどうあるべきか終生にわたり考えた」と後に語っている。
「現人神」「大元帥」と称された昭和天皇ではあるが、皇太子時代(1921年)には6か月に及ぶヨーロッパ歴訪を行ない、第一次世界大戦(~1918年)の傷跡を直接見聞きし、戦争の悲惨さを強く認識していた。当時の英国王ジョージ5世からイギリスの立憲政治のあり方について直接学び、それを機に「立憲君主としてどうあるべきか終生にわたり考えた」と後に語っている。
当時の日本は英米仏伊と並ぶ5大国の一員として第一次大戦後のパリ講和会議(1919年)に参加し、翌年発足した国際連盟では常任理事国となった。
軍縮が進む国際協調の時代、昭和天皇は即位後、欧米と足並みを揃えようとしていた。ジョージ5世から民主制や王室のあり方について学んだ影響で、ベッドで寝たり、朝からオートミールを食べたりと、ライフスタイルまで西洋化したほどだ。
そんな昭和天皇に立ちはだかったのが、国際協調による軍縮に反対する軍部らの存在だった。
米英と地政学的に距離があるため、日本は「アジアでは自由にできる」との意識を持ちやすかったうえ、第一次大戦への参戦で得た経済的利益を軍縮により失うことへの反発も大きかった。
昭和初期には軍部によるクーデターが続き、重臣たる政治家らが多く犠牲になるなど、国際協調を重んじる昭和天皇は追い詰められていく。
マッカーサーとの対峙
その嚆矢となったのが1931年の満州事変だ。世界恐慌(1929年)に始まる経済不況も追い打ちをかけたが、「自前の植民地経済圏を持たなければ日本は生き残れない」との焦燥感から軍部が台頭し、戦争の時代に突入した。
昭和天皇自身は積極的な戦線拡大を望まなかったが、軍を止める術もなかった。軍事専門家である軍部を説得する根拠は持てず、反対することで「二・二六事件」で噂された皇位簒奪への危機感も頭の隅にあったかもしれない。
1937年に始まる日中戦争が泥沼化し1941年に太平洋戦争に突入すると、昭和天皇は戦争に積極的な姿勢を見せている。それは昭和天皇の好戦的な一面なのではなく、戦争に負ければ万世一系の天皇家と日本の社会や国家が失われるとの危機感の表われではなかったか。
終戦後、日本を占領したGHQのマッカーサー元帥と会い「戦争遂行に伴う全責任を負う」と語ったとの逸話があるが、自分の身と引き換えに天皇家と日本を守る覚悟を示したと思う。
1945年8月の終戦時に詠んだという御製がある。
「身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて」
「国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」
深い悔恨とともに、天皇を中心とした国柄を守るために自己犠牲を厭わない昭和天皇の気持ちが表われている。
※週刊ポスト2026年1月16・23日号
01/05 11:15
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