【ブランドの終焉】ドラゴンクエストI&II HD-2D リメイク 感想・レビュー
2025年10月30日、ドラゴンクエストI&IIのHD-2Dリメイクが発売された。
個人的には、あまり期待していなかった作品だ。DQ3のHD-2Dリメイクと似た内容になることは分かっているし、そのDQ3のリメイクがお世辞にも良い出来とは言えなかったからだ。
とは言え、DQ3リメイクに追加された世界観の繋がりを強調する要素や、本作の新規追加シナリオがどんな内容になるのか、興味はあった。
結局、この物語をどう決着させるつもりなのか?
前作で批判された要素は改善されたのか?
色々と引っかかる点を確かめるために本作を購入し、プレイした。
その結果、俺はドラゴンクエストというシリーズと縁を切ることを決めた。
個人的に受け付けない要素が多々あったのも確かだが、それ以上に今のドラクエには まともな品質管理能力が全く無いと確信した。
かなり強い言葉を使って糾弾していることは理解している。
その上で、本作がどれだけ酷い有様なのか、ご理解頂けるだけの内容を書いたつもりだ。
なお、本記事は裏要素まで含めてネタバレは遠慮なく行っているため、その点はご了承願いたい。
システム・ゲームバランス
本作における最大の問題点であり、俺がドラクエを辞めようと思った最大の理由だ。
総じてプレイヤー視点が極度に欠如していることに加え、「この要素は何が面白いのか」を考えていない、理解していない人が作っている。それを強く感じた。
その典型例が、前作から引き続き搭載されているキラキラとひみつの場所だ。このシステムはプレイヤーに探索のメリットを与えるために用意されたシステムだと思うが、あまりメリットとして機能していない。
と言うのも、薬草だとか布の服だとか、あるいは二束三文のゴールドとか、カスみたいな報酬しか手に入らないことが少なからずあるのだ。
特に、低レベルの装備は売っても大した金にならないのに、放置しておくとアイテム欄がゴチャゴチャして邪魔になるので、拾う=無駄に売却の手間を増やされるゴミでしかなく、タダでもいらないのだ。
ひみつの場所はさらに面倒で、ただでさえ本作は光の影響で背景オブジェクトが見辛いのに、砂地に樽だとか岩場に壺だとか巧妙な保護色で背景に擬態した報酬を探し、いざ調べてみたらゴミ、なんてことがある。
だだっ広いマップの地面にグラフィック無しで落ちている場合もある。レミラーマの呪文がない場合、少しずつ歩いて「調べる」のコマンドが出る場所を探すダウジング作業をするしかない。
ひみつの場所というシステムは、普通に考えたら「隠された秘密の場所を見つける」が目的のゲーム要素のはずだ。なのに、その目的を果たしたプレイヤーに対し、無駄に広くて見辛いマップを歩き回らせる作業を追加で要求し、挙句に「探索して損した」と思われるような報酬を入れておくのは意味不明だ。
こんな事があるので、ひみつの場所を発見しても面倒だから無視したくなるのだが、万一すごく有用なアイテムを取り逃したら嫌なので面倒だと思いつつ探すしかない。この要素は明らかにワクワクよりもストレスの方が強くなっている。
個人的に最悪なのが巻物だ。より正確に書くと、DQ1で巻物による習得呪文にゲームクリアにほぼ必須のベホイムが入っていることだ。
本作で、DQ1の主人公はレベルアップではベホイミまでしか習得しない。
そのくせ複数出現する敵がワンパンで100近いダメージを平然と出してくるほど敵の攻撃が苛烈なので、ベホイミでは明らかに回復が追いつかないのだ。つまり、ベホイムの巻物を取り逃がすと詰む。
実際に俺はベホイムの巻物を取り逃したせいで終盤戦をまともに戦えなくなり、「もっとレベルを上げればいいのか?まさか巻物に回復技が?」と何をしていいのか分からないまま悩む羽目になった。
ついでに書くが、今回のDQ1ではルビスを復活させるために必要な紋章の素材を集める要素が追加されており、この素材アイテムはダンジョンの脇道に置かれているパターンがある。つまり、これも取り逃がすとゲームが進行不能になる。
本作のスタッフはDQ7の石板システムがどれだけ不評だったか知らないのか?
しかも、DQ7は基本的に「次のエリアの石板を入手して進む」構成なので、もしも石板が足りない場合でも、大体どこにあるのか察することはできる場合が多かった。救済措置としての占いババも用意されていた。
それでも多くのプレイヤーは救済措置が足りない、と言うか探索が面倒だと思ったからDQ7は批判されたし、それを問題視したからリメイク版では石板レーダーを追加したはずだ。
本作は、それよりも明らかに悪化している。
紋章の素材はまだしも、ベホイムに関してはそもそもレベルが足りないのか、何かイベントを起こす必要があるのか、それとも巻物が必要なのか、まずそれが分からない。
巻物を探すとしても、町なのか、ダンジョンなのか、それともキラキラやひみつの場所なのか、何もヒントが無い。
制作者はどこに何のアイテムを置いたか知っているだろうが、プレイヤーはそうじゃない。令和の時代にクリア必須アイテムをノーヒントで置くなよ。
これは本当にプレイヤーの視点の不足として致命的な点だ。
過去作の失敗を反省していない点は本当に目立つ。
DQ2の追加キャラクターであるサマルトリアの王女(以下サマル妹)は、たまにプレイヤーの命令を無視して専用行動を取る。
要はDQ3の遊び人やDQ4のトルネコと似たような性能だが、大きく違う点はサマル妹はパーティから外せないことだ。遊び人のようにプレイヤーが覚悟して上で任意で入れるなら自由だが、外せないキャラクターでやるな。
しかも、サマル妹の専用行動にはマイナス効果のスキルも存在する。俺は新ボスのデルコンダル王との戦闘時、開幕のターンに命令を無視してサマル妹が悪口で相手を怒らせる(対象の敵にバイキルト効果)を使用したせいで、とんでもなく苦戦する羽目になった。
俺が何か判断ミスをしたわけでもないのに、強制加入のキャラクターのランダム行動で損をするのは かなり嫌だった。と言うか誰だって嫌だろ。
だからトルネコは誰も使ってなかったし、公式もトルネコが使われてなかったことを理解してるから散々牢屋ネタを擦り続けてるんだろうが。
他の例として、DQ10オフラインでは遊び人的な特性を持ったキャラクターとしてダストンが仲間になる。
その開発秘話か何かだったと思うが、テストプレイ時にダストンがデメリット効果の遊びをするのが嫌で「ダストンを仲間にしたくない」との意見が出たのでメリット効果の遊びを増やした、との話を見かけた覚えがある。
それと同じ配慮をサマル妹でもやってほしかったですね。
プレイヤー視点の欠如という点で言うと、新要素の超絶技にも大きな問題がある。この超絶技はキャラクターのHPが50%以下のとき、ベースとなる技にカーソルを合わせてボタンを長押しすると発動する。
問題はベースとなる技が何で、対応する超絶技が何で、発動すると何が起こるのかを戦闘中に確認する手段がないことだ。条件を満たすとベースとなる技が強調されるとか、そういった補助すら無い。
まともに超絶技を使いこなしたければ、ベースの技・対応する超絶技・その消費MPと効果を全て暗記する必要がある。これが令和のゲームか?
ドラゴン斬り→龍王斬り のような純粋な強化版だけならまだマシだが、中にはマジックバリア→ミラクルゾーン のように全く異なる効果の技に変化するパターンもあるため、当てずっぽうで使うのは得策ではない。
超絶技はDQ1主人公に15種、DQ2は全キャラ合計で50を超えるほどの超絶技が存在するのだが、本作はそれを全て暗記することをプレイヤーに要求してくる。流石にこれは不親切にしても度が過ぎている。
これを不親切だと気付くことすら無かったのか、あるいは気付いたが技術力が無くて技の説明を出せなかったのか不明だが、あまりにもお粗末だ。
「特定スキルの効果中はHP条件無しで超絶技を使用できる」システムも登場するが、これも戦闘中に何のスキルが条件だったか確認する方法は無い。
ご丁寧なことに攻撃技と攻撃以外の技で条件が異なっており、4キャラ×2種の技を追加で記憶しなければならない。これは暗記が題材のゲームか?
ちなみに、ローレシアの王子(以下ローレ)の前提状態として書かれている「せいしんとういつ」はレベルアップでは習得せず、巻物で習得する。
俺は巻物を取り逃していたので、ローレはこの条件を満たす手段がなかった。
プレイヤーが全ての宝を回収している前提でシステム設計するのやめてもらっていいか?
それから本作は、前作に引き続きいつでも難易度変更が可能となっている。
前作では「楽ちんプレイ」「バッチリ冒険」「いばらの道だぜ」3つの難易度を選択できるだけだったが、今回はレベルアップ回復の有無、死なない設定の個別設定が可能になった。
自分で最適な難易度を選べると言えば聞こえはいいが、個人的には嬉しくない。と言うか、この手の難易度自由変更システムは制作陣によるバランス調整の放棄だとすら思っている。
俺はレベルアップ回復に対して否定的な考えを持っていて、DQ3の記事でも批判的に書いた。だが、レベルアップ回復のオンオフ切り替えを望んでいたわけではない。
レベルアップ回復を「あえて切る」のは徒労だ。
俺は使えるものを全てキッチリ使った上でゲームを攻略したいのであって、わざわざ徒労を増やすことで難易度を上げても楽しいとは思えない。だから最初から搭載しないでほしいのだ。
難易度「いばらの道だぜ」では獲得経験値とゴールドが減少するが、これは前作でも批判されていたのを記憶している。このデメリットは稼ぎ作業の時間を二倍取られるようになるだけで、高難易度だからこその新しいゲーム体験が何も得られないからだ。
俺もそう思う。だから難易度を上げるのは嫌なんだが、かと言って楽ちんプレイで死なない設定にして、決定ボタンを連打するだけで絶対に勝てる完全な作業をやりたいわけでもない。
そもそも本作は、難易度を下げたって敵の状態異常はしっかり食らうし、こちらが最強技を無制限に使えるわけでもない。
勝てない敵に強引に勝つことはできるが、無双する快感は与えてくれない。これで問題が解決したと言えるのか?
そうした点から、本作の難易度設定は「この難易度変更でゲームが楽しくなるか?」を考慮せず、ただ漫然と「プレイヤー自身が選べるんだからいいでしょ」程度の考えで搭載している感が否めないのだ。
そもそもドラクエは、アクションゲームのような反射神経や操作精度も要求されないし、カードゲームやタクティクスゲームのような複雑な戦術も要求されない。じっくりと時間をかけて経験値を稼げば複雑なことをしなくても勝てるゲームだった。
その時点で救済措置としては十分だったのではないか?と思う。
まあ、レベル上げ作業が面倒でプレイを投げ出す人も居るだろうし、無敵モードを用意すること自体は全否定するものではないかもしれない。
ただ、本作の場合は制作陣が「困ったら難易度下げればいいじゃん」とでも思っているのか、妙に意地悪なボスが多いのが気になる点だ。
上の画像のエクソダスが最悪の例だ。
こいつは黒い霧で呪文を封じた上で、受け流しで物理も反射してくる。
じゃあ一体どうすれば良いのかと言うと、こいつの行動はローテーションなので、こいつの行動パターンを全部記憶した上で毎ターン適切な行動を取れば勝てる。
ドラクエにおいて、ローテーション行動のボス自体は珍しくなかった。
ただ、それは強力な攻撃ばかり連発しないようにするための措置だったり、「ローテーションを把握すると楽に勝てますよ」というだけで、前提としてローテーションを把握しないとまともに戦うことすらできないボスなんて意地悪な存在は見たことがない。
せめて裏ダンジョンのお楽しみボスでやるなら まだ理解できるのだが、上記のエクソダスはストーリー攻略で撃破必須のボスだ。ついでに言うと別に節目の大ボスでも何でもなく、そもそも台詞の一つもない。
あるいは仲間が「あいつは決まった型を繰り返しているから、次に何の行動をするのか見極めろ」とヒントでもくれるなら、そうした特殊な戦闘だと理解できるが、本作はそんな要素もない。
――“『ドラゴンクエスト』は誰でも遊べるゲームであるべき”だと、堀井さんはずっとおっしゃっていますから。
本記事ではこのような言及があるが、ノーヒントでローテーションを把握する前提のボスが「誰でも遊べるゲーム」に出すべき存在か?
「絶対に死なない」なんてゲーム性を否定する難易度設定を用意するよりも前に、そもそもゲームに詳しくない子供や老人でも楽しめるような設計をするべきじゃないのか?
本作はこうした、根本的な部分で「このゲームは面白いのか」を考えているとは到底思えない部分が多すぎるのだ。
何よりも、本作の高難易度は全体的にワンパターンかつ面倒だ。
このダークドリーマーは三体で出現し、数を減らすと仲間呼びで補充してくる。だから同時に倒す必要がある……という相手なのだが、要はDQ3リメイクのよみのばんにん&ファントムと同じだ。
黒い霧で呪文を封じてくるボスは複数回にわたって登場するし、新ボスの竜王のひ孫は白い霧で特技を封じてくる。
DQ11の魔道士ウルノーガのように、ごく一部に強烈なルールを課してくるボスが登場する程度は新鮮な刺激として許容できるが、本作は似たような遅延戦法を使う敵が何度も出てくるので、どんどん「またかよ、めんどくせえ」と感じるようになってくる。
かつて柴田亜美のドラクエ4コマで、地獄のハサミがスクルトで防御力を上げまくり「どうだ、倒してみろ」と勇者に迫るが、勇者は「お前なんかとは戦わん」と立ち去るネタがあった。
ちょうど、そんな気分だ。制作者は意地悪なボスを作っていて楽しいかもしれないが、それに付き合わされるプレイヤーは楽しくないんだよ。
総じて、これまでRPGを作ってきたノウハウが有る会社がリリースしたとは信じられないほど、稚拙で素人臭い問題点が本作には多々ある。
探索のメリットとして機能していないキラキラとひみつの場所、探索を怠ると詰む設計、大量の暗記を前提とした超絶技、意地悪でワンパターンなボス。そして、その解決策として機能しているとは言い難い難易度設定。
これが40周年を目前にしたドラクエの制作スタッフが自信を持ってリリースした内容なのか?
DQ3のHD-2Dリメイクの時も、強い不信感はあった。
戦士の物理攻撃がまともに通らないほどの異常な守備力設定なんて、少しでもテストプレイをしていれば確実に気付いたはずだ。商品としての欠陥と呼んでいいほどに、あれは異常だったと思う。
そして、本作もごらんの有様だ。これが今のドラクエの制作スタッフの正しい実力なのだろう。
「ビッグタイトルとしては質が低いが、単体のゲームとしては十分面白い」程度ではない。単体のゲームとして普通に出来が悪いのだ。
ストーリー
ドラクエ10の血族だ。
つまり勧善懲悪の英雄譚とか壮大な冒険の旅、強大な悪との命懸けの熱い戦いなどには一切の興味がなく、恋愛と家族愛を異様に賛美し、泣いて同情さえ引けば何だって許される小学生女子の脳内みたいな世界が、やたらと耽美的で冗長なテキストによって描かれる。
主人公は相変わらず徹底して空気で、作者のお気に入りキャラクターの押しつけは執拗。制作者にとっての「魅力的な人物」とは腹黒くて性格が悪い人物で、そういったキャラクターは徹底して優遇される。そんな内容だ。
まあ、そういった要素を個人の好みの範疇としても普通にストーリーとしての品質は論外レベルで劣悪だ。
これから色々と書いていくが、まずDQ2の中盤、サマルトリアの王子(以下サマル)がベラヌールで呪われるイベントが挙げられる。
サマルが呪われる展開は原作にも存在したが、本作では彼がベラヌールで倒した敵に背を向けて余裕ぶっこいてたら最後っ屁の攻撃を食らって呪われるというマヌケ極まりないものになっている。
市民を庇ったとか、そういった形で呪われたなら熱い展開になり得たのだが、こんなしょうもない理由で呪われたバカの尻拭いをさせられる展開でプレイヤーが楽しいと思ったのか?
この時点で脱力しそうになるが、まだ序の口だ。
ここから本作では、彼が呪われたことをサマルトリア王家に報告に行き、それを聞いたサマル妹がベラヌールに駆けつける展開となる。
この際、彼女は王の許可を得ずに勝手に飛び出してきたらしいのだが、彼女の交通手段は一切不明だ。
サマルトリアとベラヌールは陸続きではないので、普通に考えれば船を使ったはずだ。サマルトリア王も「後で使いを送る」と言っていたので、その船に紛れ込んだと考えるのが自然だ。だが妹が現れても、サマルトリアの使者の姿なんてどこにも無い。
さらに、その後は世界樹の葉を求めて世界樹の森へと向かうことになる。
この森へも海路でなければ到達できないのだが、なぜかサマル妹は主人公たちよりも先に到着している。どうやって移動したのかは一切言及されない。
あまりにも不自然なので、実は彼女は魔物が化けたニセ王女か何かではないかとすら思ったが、この王女は普通に本物だった。
単に作者が移動手段の整合性を考える気がなかっただけらしい。
そもそもの話、サマルトリアに船があり、海路を使えない理由があるわけでもないのなら最初から主人公たちに船を使わせてくれても良いはずだ。ルプガナで主人公たちが船を貰う必要がない。
容量の都合などもあってストーリーを詳細に描写していなかった時代なら まだしも、詳細にストーリーを描写しておきながら明らかに不自然な点が放置されているのは稚拙と言う他ないだろう。
そして、個人的に最も馬鹿げていると思ったのが、妹が駆けつけた際の台詞だ。彼女が「家族の命を救えないのに世界を救えるはずがない」と面と向かって話している相手は自分の国を滅ぼされて家族を失ったムーンブルクの王女(以下ムーン)だ。
これ一生口利いてもらえなくなるレベルの失言じゃないのか?
もちろん、これはサマル妹が自分自身に向けて言っていることは分かるが、とんでもなくデリカシーのない発言になっているのは間違いないだろう。しかし、作中で本件については何も言及されないため、どうやら作者はこの台詞がムーンの存在そのものを否定しかねないレベルの発言になっていることに気付いておらず、単にサマル妹の決心を表明する台詞としか思っていないらしい。
本作ではムーンが国を滅ぼされたトラウマ、魔物たちに対する憎悪などを描写するシーンがいくつも追加されているのだが、描いている作者がその重みを最も理解していないことがよく分かる。
生命や使命の軽視は本作において、特に致命的な要素だ。
本当に酷いシーンが複数あるので追々書いていくが、まず根本的に主人公たちの会話シーンに危機感や使命感が無く、全体的に修学旅行中の学生みたいなテンションの会話が多い。
普通の人であれば、仕事仲間に対する信頼と友人としての仲の良さは異なるものであると理解できるものと思う。だが、本作で描かれる主人公パーティは徹底して友人としての仲の良さの表現に終始しており、民を守るために戦わなければならないとする使命感、責任感とか、あるいは悪逆非道を働くハーゴンたちを許せないと怒る正義感などがまるで感じられないのだ。
口を開けば言うことは「楽しい旅だから終わってほしくない」ばかりで、これはエンディング後のイベントまで続く。
一方で、それだけ仲の良さをアピールする割に、肝心な部分で仲間を理解していない描写が目立つ。
ロンダルキアの洞窟ではムーンの偽物が登場するのだが、ここで本物を見抜く方法は「王女の愛を使う」だ。仲良しなら所作とか言動で見抜けよ。
DQM3でもピサロがロザリーの偽者を見抜けない展開に大いに疑問があったが、また同じ事をやっている。
現在のドラクエの制作陣は、悪と戦う姿とか人々を守ろうとする高潔さとか、そういった要素で魅力を表現することが出来ず、旅の合間にどうでもいい雑談をしてキャッキャと盛り上がる姿を見せる事こそが魅力の表現だと思っている。それはDQ10で嫌と言うほど見てきた。
それでも、肝心なシーンで絆の描写が伴っていればまだマシなのだが、肝心なシーンがダメであることが一貫しているのは悪い意味で衝撃的だ。
使命を軽視していることの証左として、本作は恋愛トークなどストーリーの本筋から見て重要ではない部分にボイスを付けて長々としたイベントを見せてくる一方で、魔物に町が襲われて大変だとか、シリアスな場面の会話はボイス無しで済ませていることが目立つ。明らかに力を入れる部分が逆だ。
この人魚たちは作者のお気に入りらしく、本当に長々と恋愛トークするだけのイベントを複数回にわたって見せつけてくる。そして、恋愛トークが終わってストーリー進行のシーンになるとボイスが消える。
あと、本作ではサマルがお調子者で臆病者といった感じのキャラクター付けになっていて、ストーリー中のイベントでも怖い怖いと鬼滅の刃の善逸みたいな大騒ぎをすることが目立つ。(ただし、その割に鬱蒼とした森は平気だったりと、臆病なのか肝が太いのか一貫していない)
それから戦闘中のボイスも「もらいまーす!」「感謝大爆発です!」など、とにかく緊迫感に欠いたものが多い。この辺りも、シリアスを軽視しているのが透けて見えている。
そもそもの話、サマルトリアの王子は「のんきもの」とは言われていたが、お調子者だとか臆病者との設定ではなかった。
まあ、小説や漫画などの媒体でも彼の性格設定は無視されてばかりではあったが、外伝作品ではなく本編のリメイクにおいて堂々と全く違う性格に改変するのはどうかと思う。
DQ10の頃からドラクエの制作スタッフは声優に面白台詞を言わせたり、普段と違う演技をさせるシーンを入れて遊びたがる傾向があったので、このサマルの改変も「声優に面白台詞を言わせたいから騒がしい面白キャラにしました」くらいの気持ちでやっていそうな気がするのが、なおさら気分の悪い点だ。
命の扱いもそうだが、本作において最も悪いのは一貫性の無い正義だ。それが表層化しているのがペルポイのイベントで、ここで上記の台詞が飛び出す。
俺は再三書いているが、ドラクエというのは前提として「人間は善、魔物は悪」というシンプルな構図があるからこそ、敵の事情などを考慮せずに悪をやっつける楽しさがあったものだと思う。
なのに、魔物も人間と同じ生き物だと本編で堂々と扱ってしまったら、その時点で物語は「正義の勇者と邪悪な魔王の戦い」ではなく、単なる異種族の生存競争に成り下がってしまう。
ドラクエには昔から捕食目的で人間を襲う設定の魔物が存在するが、これが人間を襲うのは「悪」なのか?
魔物が住処にしている洞窟に主人公たちが踏み入った結果、縄張りを荒らされた魔物が襲いかかってくるのは「悪」なのか?
そういった要素と向き合う必要が出てきてしまうし、一概に人間が、勇者が善ではなくなってしまう。
そんなことは気にせずに魔物は魔物の時点で悪いやつだよ、という設定だからこそ、ドラクエの世界観は成り立っていたはずなのだ。本作は、それをぶち壊すような設定を堂々と持ち込み、そして全く真剣に向き合っていない。
ペルポイのイベントでは、侵略に来た魔物の片割れである黒いモーモンが「魔物たちがやっている事がこんなにひどいとは思わなかった」と改心し、人間側に付くイベントが発生する。
ドラクエにおいて、仲間モンスターは古くから存在した。
これも身も蓋もない言い方をすれば魔物がやっていることは単なる裏切りだ。ストーリーでは扱いにくいためか、本編ナンバリングで魔物が主要人物としてストーリーに深く関わってくることは ほとんど無かった。
しかし、一応これは「愛を持って戦うことで仲間にする」設定と、そもそも拳で語り合うことで認め合う、古い少年漫画のテンプレが存在することで比較的受け入れやすい土台が存在したものだと思う。
自分が仕えるべき主人として、魔王よりも主人公を相応しいと認めたから仲間になる。そうして、種族の立場を超えた絆を築く。仲間として共に戦う。そうした納得が可能だった。
対して、このモーモンにはそれが無い。「魔物が人を傷つけていて、ひどいと思ったから」との理由だけで人間側に付く。そして、以後は明確に人間の味方として魔物側の情報を主人公たちに流したり、敵の魔物と戦って刺し違えたりする。
これほど簡単に寝返ってスパイとして暗躍したり、仲間だったはずの魔物に牙を剥くお前の行動は「ひどい」事じゃないのか?
別の例の話をしよう。
本作ではアトラス・バズズ・ベリアルの悪霊の神々について新たな設定が語られており、彼らは別に自分の意志で人間を襲っているわけではなく、召喚主であるハーゴンに強制的に従わされていることが語られる。
そして、ベリアルはそれを説明した上で「ハーゴンを倒し、自分たちを解放してほしい。協力してくれるならハーゴンの所まで案内する」と持ちかける。
彼の話が本当であれば、悪霊の神々はハーゴンに利用されただけの純然たる被害者でしかなく、どう考えても救ってやるべき存在だ。
だから俺は「彼の話は本当なのか?自陣に誘い込んで袋叩きにする気ではないのか?」と疑う方向で話が進むのかと思ったのだが、本作はそうではなかった。
「ぼくたちは誰も理不尽にうばわれることなく幸せに暮らせる世界を取り戻したいんだ。その世界にムーンブルクをほろぼしたお前の居場所はない!」
サマルがそう伝えて交渉は決裂となる。
ムーンブルクを滅ぼしたのもハーゴンに強要されての事だし、彼らの自由が理不尽にハーゴンに奪われているはずなんだが、仲間たちは誰一人として悪霊の神々に対して同情的な反応をしない。なんで?
モーモンは泣きながら可哀想な雰囲気を出していたから助けた。
ベリアルは可哀想に見えないから殺す。
本作は、その程度の価値観で動いているのだ。
それ分かるエピソードは他にもある。
水の紋章を入手する際、ある青年が「妹の命を救うため盗みに手を出していた」と語る場面が出てくる。
そこで、ムーンが「実はサマルを助けたときの世界樹の葉が少し残っているので、それを使えば彼の妹を助けられるかもしれない。しかし、この世に二つとない世界樹の葉を使ってもいいと思うか?」と質問をしてくる。
俺は「いいえ」を選んだ。ここでストーリーの分岐があるのか、結局ここでは使わないことになるのか知らないが、使ってはダメだと思ったからだ。
それほど貴重なものなら、悪いが一般人の命のためには使えない。世界を救うために、絶対に必要な場面のために残すべきだ。そう思った。
わざわざ「重みのあるものだ」と強調して伝えられるので、同じ選択をした人は多いのではないかと思う。
それでは、一般人に使うことを拒否した世界樹の葉はどこで使うのか。
先述した黒いモーモンが敵と刺し違えるイベントだ。
この場面で、「世界樹の葉は重みのあるものだ」と言っていたはずのムーンが、特に迷うこともなく彼に世界樹の葉を使う選択をする。
一応言っておくが、この黒いモーモンが死んだら世界を救うにあたって致命的な問題が生じるわけではない。つまりムーンは完全な私情100%で世界樹の葉を使う選択をした。
「重みがある」というのは、つまり使命のために責任を持って使わなければならない、私情で軽々しく使ってはならない、という意味ではないのか?
どうも作者の中ではそうではなく、単に自分と仲良しの人を救いたいときのために残しておくか?くらいの認識だったらしい。
これが本作の考え方なのだ。制作者は行動の正当性・一貫性といったものを理解していない。
だから自分が好きな黒モーモンは世界に一つだけのアイテムを使ってでも助けようとするし、明らかに救うべき被害者のベリアルは迷いなく殺す。
そんな、幼児のワガママ程度の価値観でもって物語を構成している。
そして、そんな幼児の描いた物語における、最悪の存在が人魚の女王だ。
こいつに関しては本当に、このストーリーが世に出てしまったことが現在のドラクエ制作班に品質管理能力が一切ないことの証左だと思っている。
俺はドラクエ10のクオードというキャラクターを……正確に言うとクオードに対してプレイヤーが同情する前提で書かれているシナリオを本当にボロクソにこき下ろしたが、この人魚の女王と比べたらクオードの方がマシだったと、強く思う。
こいつはストーリーの中盤~終盤にかけて、マーメイドハープ関連のイベントで関わることになる。
精霊ルビスは深海で眠っており、そこに行くには現在のマーメイドハープでは力が足りないので、二つの真珠を取り付けて完全な姿にする必要がある。ルビスの封印を厳重にするために、あえてこのような形にしたらしい。
それで、その二つの真珠は元々人魚が管理していたのだが、現在は二つとも紛失しており、それを主人公たちが回収することになる。
その際に語られるのが紛失の理由と、この人魚の女王の過去だ。
これが本当に酷いもので、要約すると
片方の真珠は、かつて恋した男が「愛の証として人魚の世界で最も貴重なものが欲しい」とねだってきたので貢いだ
しかし、その男が人魚を見世物にして金稼ぎを目論んでいたと知ったので、その男には会わなくなった
残ったもう一方の真珠を見ていると元彼を思い出して辛いので、捨てるつもりで親しくもない漁師の男に押し付けた
その後、元彼が乗った船が沈んだという話を聞き、そこに真珠があるかもしれないと思っているが、元彼を思い出して辛いから行けない
こんなホスト狂いの地雷女みたいなカスの行動によって真珠は紛失していたと明かされる。
何が恐ろしいかって、主人公パーティの全員が人魚の女王に対して同情的で、彼女の愚かさ、無責任さに対してほんの一言すら悪く言わないことだ。
そして、この話には さらなる地獄が待っている。
元彼は当初こそ金儲け目的で女王に近付いたが、やっぱり本気で好きになったので見世物にしようとしていた商人仲間たちを引き連れて乗った船を意図的に沈没させ、全滅させることで人魚の平穏を守ろうとしたと判明する。
そもそも人魚を見世物にすると言っても、海底に居る人魚をマーメイドハープもない一般の商人がどうやって捕えるつもりだったのか分からないし、元彼が人魚を呼び出す手筈だったのなら元彼が一人で逃亡すれば済んだ話だ。
だが、何故かわざわざ元彼は商人仲間を皆殺しにする道を選んだ。
そして、この事実が判明したことで仲間たちは感動の大号泣!!
女王様は裏切られていなかった、と良い話のような雰囲気で完結する。
俺は人間の善性を信じていた。
インターネットで「借金するほどホストに貢いでしまった女の子が可哀想…国が救済するべき!」とか「子供を殺してしまうほど追い詰められていたお母さん可哀想…母親を無罪にして別れた男を罰しろ!」などと発言しているアカウントを見かけても、まさか本心からこんな事を言うほど愚かな人間が存在するはずがない、これは炎上上等で極端な主張をして、インプレッションを稼いでマネタイズするための書き込みだと、黙ってブロックしていた。
そうしたら、ドラクエという世界的タイトルが本気で出してきたストーリーがこれだ。
ルビスの復活に必要な、これを失えば世界の危機に陥りかねない至宝を個人の恋愛感情で譲渡・破棄し、その後も自力で事態を解決する気もなく女王の座にふんぞり返っている魔王を超える邪悪は誰一人として非難しない。
一方で、元彼の道連れに殺された多数のモブ漁師男たちの命については 毛ほども気にかけない。
それが「普通の反応」と想定されている。
これは、俺が個人的に気に食わないとかの問題ではないだろう。明らかに道徳的・常識的に判断して異常な内容であり、「いくら何でもこれはおかしい」と社内で指摘があって当然の内容だと思う。
だが、実際にこれは世に出ている。誰も疑問を持たないか、持ったとしても指摘できないわけだ。
次は勇者が男性にギガデインで生理痛体験させるゲームでも出すか?
これもドラクエ10で散々書いたことだが、今のドラクエは根本的に世界観・価値観が少女漫画やレディコミなのだ。
まず、DQ2を始めて数分で遭遇するオープニングに追加された会話がこれだ。国民に突然罵倒され、主人公の近くに居た女性が男を黙らせる。
女性向けの作品において、チンピラとかナンパ男とか、あるいは「女は黙っとれ!」と言うような威圧的なおっさんとか、とりあえず悪役として悪い男を出して、それを女性が懲らしめる展開は度々見かける。
女性しか見ない作品であれば、まあ良いだろう。やっていることは明らかな差別、男性蔑視だが、女性向けの作品で女性を悪く描かれて喜ぶ人は少ないはずだ。
だが、そうした一部の性格の悪い女性専用の常識を、女性向け以外の作品に持ち込まないでもらえるか?
ポリコレが普及して以来、弱い女性・情けない女性を描いたり、男性が女性に暴力を振るう描写は厳しく弾圧されている一方で、女性の引き立て役として臆病で情けない男を出したり、女性が男性に暴力を振るうシーンを軽いギャグとして描く作品は後を絶たない。
本作も、その系譜だ。
嫌味を言ってくる人も男、威圧的な言動をするくせに実際には何もしない人も男、ヒスって他人に責任を押し付ける人も男、魔物と戦うのが怖いと泣き言を口にする人も男。人魚の女王の元彼によって「悪い人なんだから殺してもいいでしょ」程度の考えで大量に殺害されたのも全員男。
男女問わず差別は良くないと思いますよ。
ちなみに、この罵倒マンはエンディングになると主人公に謝罪するイベントがある。だから多分、作者としては彼と和解するイベントを感動展開のつもりで入れたのだと思うが、それが既にズレていると思う。
王様だとか偉大な精霊だとか、強くて立派な人物に認めてもらえるなら嬉しいかもしれないが、突然自分を罵倒してきた一般人に認めてもらったとして、そこに何か達成感があるか?
それよりも、まず自国の王子に暴言を吐く人物が野放しにされている世界観が不可解になるし、民を守るために戦うはずのストーリーなのに、守りたくなくなるような民を出されてもプレイ意欲を削ぐだけだ。
制作者が「腹黒で性格の悪い人物ほど面白くて魅力的」と認識しているのは本当に最悪な点だ。正義の勇者が邪悪な魔王と戦う物語のはずなのに、邪悪な人間が優遇される意味不明な構図が出来上がっている。
特に酷いと思ったのは、リムルダールの鍵屋だ。原作では使い捨ての魔法の鍵を売っていた人物だが、本作では壊れない完全な魔法の鍵を作ることに成功する。
しかし、その際に「今後は金儲けのため、わざと一回使うと壊れる鍵を売り出したいから、壊れない鍵が存在することは言うな」と口止めをされる。
彼は原作では別に悪人ではなかったはずだが、わざわざこんな悪徳商人要素を追加してきたわけだ。今回のDQ1では魔物たちの侵攻によって日々の生活が脅かされ、苦しい生活を強いられていると強調する会話が多々追加されているのだが、そんな状況で自分の利益のために意図的に悪徳商法を行おうとしているような人物を面白半分で出しているのだ。
こいつが特別酷いわけではなく、本作のモブは何かとセコい奴、邪悪な奴ばかりだ。DQ1の盗賊の鍵関連のイベントでは文字通り「悪徳商人」という名前の人物が出てくるし、メルキドでは「みんな仲良く商売をやっているように見えるが、裏では互いの悪い噂を流し合っている」と語られたりする。DQ2世界でアレフガルドの町々に行くと、どいつもこいつも「うちは勇者様と深い縁があった」と言い張ってくる。
こんな世界、守る必要あるか?
作者は本当に性格の悪い奴を書くのが好きで好きで仕方がないらしく、出てくる敵モンスターも邪悪……と言うか、ゲスで性格の悪い、ただの嫌な人みたいな人物像の奴ばかりだ。真っ当に勇者を脅威と見て倒しに来るような、王道タイプの敵が極端に少ない。
あろうことか雑魚に限らず大ボス級の敵でもそうで、竜王とかベリアルくらいの敵でも小物臭い言い回しが目立つ。そして最悪なのがバズズだ。
こいつはバナナ大好きな面白キャラとして再構築されており、悪霊の神々としての威厳なんて欠片もない。
「小物っぽいのに強い」というギャップのある敵キャラ自体は否定しないが、そういうのは王道の敵の中に混ざっているから変わり種として魅力になるものだろう。
命や正義といった要素に対して一貫して不誠実な本作において、しかも小物臭い敵だらけの中に明確なギャグキャラを増やされたところで「しょうもない」と呆れはしても面白くはない。
本作の制作陣は、正義とか使命と言った世界・社会単位のスケールでの思想を全く理解できていない。
その結果が黒モーモンは世界樹の葉を使ってでも助けるのに、純然たる被害者のベリアルには手を差し伸べようとも思わない正義感。
そして個人の恋愛感情で世界を滅ぼしかねない愚行をした人魚の女王と大量殺人鬼のカップルへの共感を前提とした倫理観のストーリー構成だ。
そんな内容なのだから、もちろんラスボスすらも大物であるはずがない。ただのメンヘラヒステリーおじさんになっている。
HD-2D版では、前作のエンディングからハーゴンの存在は強調されていた。
聖なる竜の血族だった竜王を闇堕ちさせたのも彼の仕業であるように描かれており、実質的にHD-2Dリメイクとなったロトシリーズ三部作全体の黒幕・ラスボスがハーゴンになったと言っていい。
そのハーゴンだが、邪教を作った理由や、世界を壊そうとするに至った彼なりの考え、信念などは何一つ描かれず、代わりに追加されたのは竜の女王に対するメンヘラ依存感情だけだった。
最悪なのが、彼がシドーを召喚する動機すらも彼の信念や信仰によるものではなく、竜の女王のいない世界が嫌になったので破れかぶれで世界破壊装置として咄嗟に呼んだだけのような展開になっている。
悪霊の神々がハーゴンに逆らえない設定を見るに、おそらくシドーも強制的に呼びつけられ、従わされただけだろう。ヤケクソになったメンヘラおじさんに勝手に呼び出され、何もしてないのに主人公たちに討伐された被害者でしかない。よくもまあこんな熱さの欠片もないストーリーを作れたもんだ。
なお、裏要素を攻略した後に迎える真エンドでは「竜の女王を失って傷心のハーゴンの心に闇が入り込んだ」ように語られているが、ムービーシーンでは明らかに闇が入り込む前からハーゴンは勇者が悪いとメンヘラ発狂しており、どう見ても闇のせいではない(二つ上のスクリーンショットの場面では、まだ闇は入り込んでいない)。
ドラゴンクエストにおいて、人気のラスボスと言えば誰か。
いくつか候補は居るだろうが、ゾーマが上位に入るのは間違いないだろう。
そのゾーマがなぜ人気なのかと言えば、やはり「滅びこそ我が喜び、死にゆくものこそ美しい」と口にする、人とは決して分かり合えない純粋にして強大な邪悪さと、勇者に敗れても「よくぞわしを倒した」と潔く勝者を認めて堂々と散ってゆく姿勢。それこそがカリスマと呼ばれ、王道な悪のカッコ良さを形作っていたものだと思う。
それが、今ではこのザマだ。
悪なりに王者・支配者としての威厳を見せてくれるような者は誰も登場せず、恋愛感情レベルの個人的な執着で行動し、物事が思い通りにならなければすぐにヒスり、負ければ被害者面をして可哀想オーラを出しながら消える。
ドラクエって、こんなジメジメした作品だったか?
いつかは改善するだろうと思っていたが、DQ10は全く変わらなかった。
そして、このHD-2Dリメイクも同様だ。きっと、この先ドラクエというタイトルが続くなら、今後はこれが「ドラクエの作風」になるのだろう。
俺はもう限界が来た。疲れた。
それから細かい点について書いておくが、本作は各国の王が周囲から「陛下」と呼ばれている。過去のドラクエでは、兵士なども基本的に王のことを「王さま」と呼んでいた。
一応、臣下が自分の君主のことを指して呼ぶのであれば陛下と読んだ方が正しいのかもしれないが、これは単に時代考証がいい加減だったわけではなく、分かりやすさを優先した措置だったのではないかと思う。
「はがねのつるぎ」などが代表的だが、昔のドラクエにおいて「剣」は「つるぎ」と表記されていた。これは漢字の使えなかった時代に「けん」と表記すると同音異義語が多くて紛らわしいので、間違えないように「つるぎ」を使うようにしたものだ、と言われている。
兵士が「王さま」と呼んでいたのも、ゲーム全体で呼び方を統一することで「王さまは王さまだ」と子供でも簡単に理解できるようにするためのものだったのではないだろうか?
まあ、もしかすると単に何も考えず王さまと呼ばせていただけかもしれないが、それが分かりやすさに繋がっていたのは確かだろう。
だが、本作はふりがなを付ける機能が搭載されたためか、そうした気遣いが少ない、と言うかわざわざ常用外の言い回しを好んで使っている節がある。
例えば、このテキストでは闇の淵源という言い回しがされているが、子供にも分かりやすく伝えるなら根源とか、もっとシンプルに言うなら大元とかで良いだろうと思う。
ふりがなが付いていたところで、元の単語を知らなければ読めても理解はできないのだ。誰でも遊べるゲームを目指すのであれば、それは考慮して然るべきだと思う。
そうした点を考慮すると、王を陛下と呼ぶようにしたのはライターの余計な自己満足でしかないと思う。
いっそ全体を通して、中世ヨーロッパ的なイメージの時代考証を徹底するなら、それはそれで理解できる。
しかし本作は、王を陛下と呼ぶように変更している一方で、サマル妹が「パパ、ママ、お兄ちゃん」などと砕けた呼び方を公然と行っていたり、主人公たちが王族であると身分を明かした後でも平然とタメ口で話しかけてくる兵士が登場したりと、明らかに徹底した時代考証は行っていない。
こうした、無駄なこだわりを入れる一方でユーザーフレンドリーの意識が抜け落ちているのも、細かいが明確に本作の悪い点だと思う。
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今更ながら根本的な話をするが、俺はサマル妹が追加メンバーとなる要素自体に疑問があった。
公式が後から設定を変更してきた場合、今後はそれが正史となる。
ピサロを仲間にするのが嫌だからって自分が6章をプレイせずに終わっても、その後の公式は6章を前提にして展開するのだ。
つまり本作においてサマル妹が追加されたことは、今後「ドラクエ2の物語」と言えばサマル妹を含めた4人パーティのものが正式に採用され、今までファンが40年近く付き合ってきた3人パーティでの物語は「今では廃止された設定」として否定されてしまう。
DQ5のデボラのように本筋にあまり影響しない部分であれば許容しやすいが、本作の登場によって今までファンの想像に委ねられていた部分はもちろん、過去の作品で明確に描かれていた要素すらも、ロト三部作の設定はごっそりと書き換わることになった。
リメイク後の設定を気に入るかどうか自体は別としても、今までファンが長年親しんできた設定を、丸ごと無かったことにするやり方は酷く乱暴だ。
そして、さらに俺を萎えさせたのはムーンが犬イメージの技を習得するようになった改変だ。確かに二次創作等でムーンを犬キャラにするのは定番のネタではあったが、それを公式の本編でやるなよ。
ムーンが犬になっていたのは「ハーゴンの呪い」「王女を逃がすために身内が変化させた」など設定が多少揺れていたが、いずれにせよムーンブルクがハーゴンの軍勢に襲撃され、滅ぼされた事件と深く結びついた、非常にシリアスな設定だったはずだ。
それを、公式が本編中で堂々と弄ってくるのは冒涜と言う他ない。どう考えてもDQ2の物語や、多くの人々が命を落とした設定を心底軽視している。
いっそ本件をストーリーでハッキリと描写し、「勝つために犬の能力を利用できるなら何だって使う!」と宣言するくらいのド根性キャラとしてムーンを描写するなら多少は納得できるのだが、本作はそういった事もなく単に犬技をぶち込んで終わりだ。
ついでに本作のムーンはお色気系の技も習得するのだが、当然それに関しても何の説明もない。こうした点が、なおさら軽い気持ちでネタとして突っ込んだことを実感させてくれる。
それから、シンプルに気持ち悪いのが 本作ではローレが「呪文を使えない落ちこぼれ」のような扱いをされていることだ。
冒頭の罵倒マンだけかと思えば、終盤のイベントシーンでもこれを口にされるので、どうも本作において彼がそう扱われているのは正式な設定らしい。
意味が分からない。
ドラクエにおいて戦士系のキャラクターが呪文を使えないのは別に特殊なことではないし、それは劣っているとかではなく「魔法が使えない代わりに肉弾戦が強い」という単純な役割の差だったはずだ。
実際、ローレが旧来のファンから「呪文を使えない無能」と扱われていたことなんて、ほとんど見たことがない。むしろ呪文よりも強いフィジカルがあることを肯定的に見られていたり、呪文を使える代わりにフィジカルが足りないサマルの方が貧弱だと軽んじられていた覚えがある。
なのに、なぜ後付けでこんな設定を持ち込んだ?
DQ2は4人パーティとは言え、プレイヤーの分身として扱われているのはローレだ。主人公、自分の分身であるキャラクターを劣等生キャラにされて、プレイヤーが良い気分になるはずもないだろう。
ただでさえ会話シーンでは蚊帳の外にされて扱いが極端に悪いのに、イベントシーンで言及があったと思えば無能劣等生扱いだ。
ローレは貴族社会に放り込まれた平民の娘じゃないんですよ。
作者はめちゃコミとかでそういうストーリーばっかり読んでいるから主人公が虐められるシーンを入れるのが当然だと勘違いしているのかもしれませんが、ドラクエはそういう作品ではないんですよ。
思えば、本作のローレは妙に華のない脳筋キャラにされている節がある。
覚える特技を見てもギガデイン・ギガスラッシュ・ベホマズンといった勇者の象徴的な大技は軒並みサマルに持っていかれ、ローレが習得するのは悪魔斬り・ゾンビ斬りのように地味な系統特効技ばかり、大技らしいものを見ても爆裂拳や渾身斬りくらいだ。
火炎切りや稲妻切りのような魔法剣、はやぶさ斬りや剣の舞と言った技巧系の剣術がサマルに回されているのは良いとしても、勇者の呪文が軒並みサマルに回されているならギガスラッシュくらいローレに渡すか、代わりにアルテマソードでも習得させてやれよ。
一応、それでもローレはボス戦のメイン火力を張る立場なので弱いわけではないのだが、今になって思うと意図的にローレを地味な脳筋ゴリラにすることで「呪文を使えない劣等生」イメージを強調してきたようにも見える。
そうだとしたら、あまりにもやり方が陰湿だ。
それ以外にも習得特技には疑問のある点が多い。ローレを徹底してバトルマスター系の脳筋ゴリラにするのかと思えば、まわしげりを習得するのはサマル兄妹で、ローレは習得できない。
パワー型であるはずのローレが回し蹴りを習得できず、技巧派であるはずのサマルが習得するのは違和感が非常に大きい。これは多分、サマル妹が盗賊や武闘家のようなイメージを持ったキャラクターになっているので彼女に回し蹴りを習得させることを先に考え、その後に兄妹でお揃いにするためにサマルにも回し蹴りを与えたのではないかと思う。
だが、実質新規のオリキャラとお揃いにするために既存キャラクターのイメージを歪めるなよ。
キャラクターの扱いに限らず、どうも本作のファンサービス要素はズレていると感じるものが多い。
例えば原作DQ2の最強武器だった稲妻の剣は本作でも手に入るが、入手時期を考慮しても新規追加された武器が多々ある中で突出して強くはない性能になっている。と言うか福引きで入手できる吹雪の剣の方が攻撃力が高いため、そちらを取っていた場合は入手した時点で既に型落ち、という酷い扱いになる。
なお、稲妻の剣は一般的な宝箱ではなく専用のオブジェクトが用意されているのだが、そのせいで地図に宝を表示する設定を有効にしていても稲妻の剣は地図上に表示されない。しかも、あからさまに明るく光っているとか「!」のアイコンが出ているわけでもないため、背景のオブジェクトに溶け込んでしまっている。俺は初見でこれをスルーし、もう一度取りに来る羽目になった。
稲妻の剣は仮にも原作の最強武器で、ロトの剣すらも遥かに上回る攻撃力を持った剣だった。DQ5主人公と言えばドラゴンの杖、DQ7主人公と言えば水竜の剣のように、ローレの武器と言えば稲妻の剣!とイメージを持っていた人は多いのではないかと思う。(実際、バトルロードのローレは稲妻の剣を使っていた)
その稲妻の剣が時期的にギリギリ使える強さの武器程度の扱いに成り下がったのは嬉しくない点だ。
本作ではロトの剣がDQ2で弱かったのは経年劣化して錆びていたから説を採用し、ロトの剣に真の力を取り戻させるイベントが追加されているのだが、その「ロトの剣が弱いのはガッカリ」に配慮する気持ちがあるなら稲妻の剣にも配慮してほしかったですね。
それから、本作では竜王のひ孫の出番が増加している。
前作ラスボスの子孫なのに物語に全く関わってこないのは寂しい点だったし、実際に外伝作品では重要キャラクターになっていた物もあったので、これ自体は妥当だ。
しかし、彼が何をやるのかと言うとロトの剣を譲ってくれたり訓練として主人公たちと戦うくらいで、この世界を守るために協力して悪と戦うような展開にはならない。
竜王は本来聖なる竜だった設定は本作で強調されているし、DQ1で闇に染まった竜王を倒し、その次回作で聖なる竜に戻った子孫と共に闇に立ち向かう展開なんて絶対に王道で熱いと思うんだが、そんなものはない。
何が酷いかって、丁度良いシチュエーションは存在していたのだ。
本作の裏ボス戦では闇の力でパワーアップしたマガシドーとの戦闘になり、この際にラーミアが駆けつけてDQ8のラプソーン戦と同じ構図でのバトルになる。
ここはラーミアじゃなくて竜王のひ孫で良かっただろ。
ラーミアもDQ3では重要な存在だったかもしれないが、DQ1とDQ2では今回のリメイクですらDQ3時代の回想シーン以外ではここまで全く関わっておらず、本当に突然出てきただけの存在だ。
こんな事をするくらいなら聖竜となった竜王のひ孫の背に乗って戦いたかった。同じ事を思ったファンも多いんじゃないかと思う。
ついでに言うと、マガシドーという新形態を出してきたのも何だかよく分からない。シドーの強化形態ならジェノシドーがいるだろ。
DQ1で、変身後の竜王を倒した際に彼がまだ何か力を残していそうな様子があった際、俺は「まさか、しん・りゅうおう形態が出るのか?」と一瞬期待したが、そんなこともなかった。
まあDQM2で登場した強化魔王については元から賛否あったし、設定面でも本当に魔王当人と同一の存在なのかはボカした表現がされていたが、わざわざシドーの別形態をわざわざ増やす必要があったのか?には大いに疑問がある。
本作の真エンドでは、再びラーミアが登場する。つまり裏ボス戦で突然ラーミアが出てきたのも この展開をやるためだったと思われるが、これがまた純粋に理解に苦しむ内容となっている。
この真エンド語のイベントではDQ2の主人公たちがラーミアの力で上の世界へと移動し、アリアハンを訪れる。
そして、ロトの兜(オルテガの兜)のメッセージから主人公たちは勇者だと歓迎された末にDQ3主人公の家を訪れ、ローレが勇者の母らしき女性に抱かれる場面で物語は完結する。
重要な要素として、本作ではDQ3勇者がゾーマを倒した後のことが語られている。
過去のDQ3では「宴が終わったとき、勇者の姿はどこにもなかった」と語られており、具体的にどうなったのかは不明だった。これに関しては堀井雄二自身が「勇者は仲間を連れて帰ったと考えてくれても良かった」と語っていた、という話がある。
なのだが、本作では勇者は元の世界には帰れなかったとルビスの口から明言された挙句、わざわざ「勇者は孤独だった」と、アレフガルドで幸せに生涯を終えた可能性すら否定してきた。
DQ2のガライの墓で確認できる情報によると、どうも本作の設定ではDQ3勇者は仲間を連れずに一人で戦ったことになっているのだ。なんで?
ご存知の通り、DQ3は最大4人のパーティを編成できるゲームだ。初見のプレイヤーは大抵4人パーティで冒険しただろう。
勇者一人での冒険も可能ではあるが、それが一般的ではなかったし、小説などの外伝作品でも何人もの仲間たちが登場していた。
だから、たとえ勇者が元の世界に帰れなかったとしても、共に旅した仲間たちと幸せな余生を過ごしたと考えることもできた。
本作は、ご丁寧にそれを潰してまで、勇者は不幸だったと設定を書き換えたのだ。
そもそもラーミアが上下の世界を行き来できるならDQ3勇者だって元の世界に帰れたはずだが、なぜDQ3勇者は下の世界に放置されたのか何の説明もない。
勇者の子孫が残っているということは、少なくともDQ3勇者は下の世界で誰かと子供を作っているはずだが、なぜか勇者は孤独に生涯を終えたと断定されている。
そして、上記の通り本作のストーリーはローレがDQ3勇者の母らしき女性に抱かれて終わる。
つまり、制作者の考えとしては「DQ3勇者は不幸に生涯を終えたけど、時を越えて子孫が元の世界に帰ってきたからハッピーエンド」と言いたいようだ。
子孫は同一人物じゃねえだろ。
せめて、生まれ変わりとして前世の記憶を明確に持っているとかなら理解できなくもないが、そんな描写はどこにも無い。
DQ3の時代から数百年は経過しているはずなので、この女性は勇者の母本人であるはずないのだが、これは母の亡霊か?
それとも、子供が帰ってこなくて寂しくなった母がオルテガと二人目をこさえて、その子孫が彼女なのか?
それ以前に、元々バッドエンドじゃなかったDQ3の結末をHD-2Dリメイクでわざわざバッドに変更して、その裏エンドでハッピーにするのはただのマッチポンプだろ。
DQ3勇者はソロプレイした末に下の世界で孤独に死んだなんて不可解な設定を付け加えてまでこんな演出を足されても、理不尽と思いこそすれ感動できるはずもない。
ゲームとは、プレイヤー自身が手を動かさないと進まない。
だからこそ物語の主人公になりきって楽しむことができる。それこそが、表現媒体としてのゲームの特徴であり、優れた点だと思う。
プレイヤー自身が苦労して物語を動かす。
その苦労があるから、成果を得たときに他人事ではない達成感があるのだ。
逆に言うなら、ゲームの物語とは基本的にプレイヤーの努力が報われるものでなければならないと思う。
わざわざ手間を掛けて物語を進行させたのに、その努力が無駄だったとされる物語では、プレイヤーは楽しくないはずだ。
その点において、本作は全くもって最悪と言う他ない。
ドラクエは、主人公がプレイヤーの分身となるゲームだ。自分の分身に勝手に喋られたくない、自分自身が冒険している思いに浸りたい人のために、主人公が喋らない形式を採用しているゲームだったはずだ。
なのに、現在のスタッフは完全に「どうせ喋れないんだから主人公は蚊帳の外にしてNPCに会話を進行させればいい」とする考えで物語を制作し、主人公は近くに一応立っているだけの人として扱われるようになった。
プレイヤーの選択も尊重されない。上の画面では偽のローラ姫に対して、騙される選択をしなければ無限ループになる。DQM3でも似たようなことがあったが、主人公が選択を誤った展開を書くためにプレイヤーに強制的に間違いの選択肢を選ばせるなよ。
その結果、主人公が騙されて仲間に助けてもらえる展開になっても、プレイヤーは「いや、俺は間違えてねえよ」と思うだけで、「仲間に助けてもらえて嬉しい!」なんて思えるはずがない。
何でもかんでもプレイヤーのご機嫌取りに終始しろとは言わないが、制作者の思い通りに進めるためにプレイヤーの意思を無視したり、プレイヤーが努力した結果を「でも勇者は孤独に死にました」と踏みにじるなよ。
さようならドラクエ
メンヘラヒスだらけの登場人物が織り成す、小学生女児のワガママ程度の価値観で構築されたストーリー。
だだっ広いマップを延々歩かされる探索作業と、意地悪なボス戦。劣悪なユーザビリティ。
ファンサービス要素すら過去作ファンの思い出を踏みにじる。
それが本作だ。
俺は今まで、散々ドラクエに文句を言ってきた。VTuberを名乗って最初に配信したのがDQM3だったし、プレイ後はボロクソに書いた。
DQ10は1436時間プレイして、我慢の限界が来て辞めた。
DQ3のHD-2Dリメイクもプレイした上で、かなり批判的なことを書いた。
特にDQ10については万単位の文量の記事を複数回書いており、一番長い記事は約5万字ある。
ドラクエに関して書いたことだけで本を一冊出版できるくらいには、ああだこうだと文句を言い続けてきた。
それでも俺がドラクエを辞めなかったのは、長く付き合ってきたドラクエに対する信頼だったと思う。ストーリーに散々文句を言っても、「次は面白いかもしれない」と希望を捨てきれない程度には素晴らしい話もあった。
そして何より、安定したゲーム内容があった。たとえストーリーが合わなくても、最低限ゲームとしては絶対に楽しめる。その信頼があった。
それが崩れてしまったら、俺は一体何に縋ればいいのか。
俺はもう、それを見出せなくなった。ドラクエに対して明確に信頼したり、擁護できるポイントがゼロになった。
今となっては、もはや激しい怒りではなく「何故こうなったのか」との疑問と、あとは乾いた哀しみだけが残っている。
DQ7の新しいリメイクも、もうダメだろう。
予告から4年も経つのに何の情報も出てこないDQ12に期待するのも、流石にバカバカしいと感じてきた。
「不満はあるけど、でも今まで付き合ってきたドラクエだから。もちろん買います」
そう言い続けるのも、もう疲れた。
もういい。金を払って不愉快な思いをするのは、もう沢山だ。
俺の知っている「ドラクエ」というブランドは完全に死んだ。
それが本作をプレイした感想だ。
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クソゲーってことですね。
とても素晴らしい文章で一気に読みました。ゲーム中のもやもやといいますか、おって思うポイントの言語化が素晴らしく上手い。ポイントは適切で、私もそうそうと思いながら読ませていただきました。 ドラクエへの信頼、これを元にしてリメイク戦略でやっているのに、スクエニはこのことを毛ほどにも…
リメイク改悪は思い出をぶち壊す災害ですね。DQ11はポリコレに配慮しつつもバランスいい作風だったと思うのに、なぜ最新作でこうなってしまうのかが本当に不思議です。天下のスクエニがシナリオライターをちゃんと選んだりしないのでしょうか? ゲームのシナリオライターってそんな過疎な業界じゃあな…
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