2026-01-02

カニを一緒に食べたら夫がもとに戻った

あの日から、わが家のリビングには「見えない壁」がそびえ立っていた。

夫の健一が突然、心を閉ざしたのは三ヶ月前のことだ。理由些細な口論だった。私が彼の仕事ミスを軽く指摘したとき、彼は反論もせず、ただ静かに席を立ち、それ以来、必要最低限の言葉以外を発しなくなった。「おはよう」「いってきます」「夕飯、置いておくね」。それだけの、記号のような会話。

同じ屋根の下にいるのに、健一はまるで遠い異国の地に一人で住んでいるかのようだった。

そんな冷え切った空気を変えたのは、実家の母から届いた大きな発泡スチロールの箱だった。中には、見事なまでに立派なズワイガニが二杯。

「これ、どうする?」 私がそう問いかけると、健一は一瞬だけ箱の中を見て、「……食べれば」と短く答えた。

その夜、私はダイニングテーブルの真ん中に、大皿に盛ったカニを置いた。サイドメニューは、カニの旨味を邪魔しない程度の酢の物と、炊き立ての白いご飯だけ。

いざ、食事を始めたとき私たちは気づいた。 「カニを食べる」という行為は、沈黙武器にすることを許さないのだ。

無言の共同作業

カニを食べるには、両手を使わなければならない。スマホをいじる余裕もなければ、腕組みをして不機嫌そうな顔をする余裕もない。

健一が、ぎこちない手つきでハサミを手に取った。パキッ、という乾いた音が静かな部屋に響く。彼は慎重に殻を割り、中から透き通った身を取り出そうと苦戦していた。

「……あ」 彼が小さく声を漏らした。身が途中で千切れて、殻の中に残ってしまったらしい。 「こっちの細いスプーン使うと、綺麗に取れるよ」 私が自然にそう言って差し出すと、彼は一瞬戸惑ったような顔をしたが、「……サンキュ」と受け取った。

沈黙は続いていた。けれど、それは三ヶ月間続いていた「拒絶の沈黙」ではなく、**「集中による沈黙」**へと変化していた。

殻を割る音、心の音

カニを食べるのは重労働だ。関節を折り、ハサミを入れ、身を掻き出す。その一連の動作に没頭しているうちに、私たちの間に流れていた刺々しい緊張感が、少しずつ解けていくのがわかった。

健一が、ようやく綺麗に取り出せた大きな脚の身を、私の方へ差し出した。 「これ、一番いいとこ。食えよ」

驚いた。三ヶ月ぶりの、業務連絡ではない言葉。 「いいの? せっかく綺麗に取れたのに」 「俺は次をやるから

私はその身を口に運んだ。圧倒的な甘みと磯の香りが広がる。 「……美味しい」 「……ああ、美味いな」

その瞬間、ふっと空気が軽くなった。カニを食べる時、人は無防備になる。口元を汚し、指をベタベタにしながら、一心不乱に食らいつく。そんな格好の悪い姿を見せ合っていると、意地を張っているのが馬鹿らしくなってくるのだ。

「もとに戻った」瞬間

食事が終盤に差し掛かる頃には、私たち自然に会話をしていた。 「そういえば、昔も旅行先でカニ食べたよね」 「ああ、あの時はお前が殻を飛ばして、隣のテーブルのおじさんに当たりそうになったんだよな」 「ちょっと、そんなことまで覚えてなくていいわよ」

健一が笑った。久しぶりに見る、目尻にシワを寄せた彼の笑顔

「……ごめん」 不意に、彼が言った。 「俺、ずっとガキみたいに意地張ってた。謝るタイミング、完全に見失ってて。……でも、このカニ剥いてたら、なんかどうでもよくなったんだよ」

カニの殻は硬い。けれど、一度割ってしまえば、中にはあんなにも柔らかくて甘い身が詰まっている。 人間も同じなのかもしれない。頑固なプライドという硬い殻を、一緒に汗をかきながら壊していく作業必要だったのだ。

エピローグ

最後の一片まで綺麗に食べ終えた後、テーブルの上には山のようなカニの殻が残っていた。それは、私たちがこの数ヶ月間で積み上げてしまった「不機嫌の残骸」のようにも見えた。

「片付け、手伝うよ」 健一が立ち上がり、私と一緒に皿を運び始めた。

キッチンシンクで洗剤を泡立てる。カニ匂いが消えない手を何度も洗いながら、私たち明日朝ごはんの話をしていた。

夫は「もとに」戻った。 いや、以前よりも少しだけ、お互いの「殻の割り方」を覚えた分、私たちは新しくなったのかもしれない。

ゴミ箱に捨てられたカニの殻は、明日にはゴミとして出される。 けれど、あの日冷え切った食卓に灯った小さなぬくもりは、きっとこれから私たちを支えてくれるだろう。

「次は、何を食べようか」 「そうだな。カニは疲れるから、次はもっと簡単なやつがいいな」

そう言って笑い合う声は、もう壁に遮られることなく、夜のリビングに穏やかに溶けていった。

anond:20260102113333

記事への反応 -
  • 夫は元は穏やかな人だと思う。多分優しい。 何かしてくれるとき、してやった、みたいな気持ちの一切ない、恩を売らない素直な人という印象。 結婚して5年 付き合っていた頃から、仕...

    • あの日から、わが家のリビングには「見えない壁」がそびえ立っていた。 夫の健一が突然、心を閉ざしたのは三ヶ月前のことだ。理由は些細な口論だった。私が彼の仕事のミスを軽く指...

    • 転職させろ

      • 1年もの育休期間も彼の内面は変わらなかったけど、それでも転職で変わるかな?

        • 育休で休まるわけがないじゃない 仕事より育児の方が大変なんだから さておき物事は非可逆だ、お前の思う「優しかった彼」は今のこの世のどこにもいない じゃあ?どうする?彼を変...

          • おっしゃることはその通りで、嫌なら仕事を変えてくれるよう、環境が変わるようお願いするとか、私が変化する(変化を望む)しかないと思います。 変わるものが余りに多いので踏み...

            • 変わるものが多いと言うが、放置してても勝手に変わっていくことない?それ それも、割と不都合な方向に いや、知らんけどさw

              • 本当ですね。言われてみればそうですが、その考え方をしたことはなかったです。 関係ないですが、私は日本円が好きで、株式や外貨交換が博打のように感じられとても嫌いで、数年前...

      • ソビエトロシアでは夫が仕事を変える!

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      • うーん。おっしゃる通りですね。 そう言った一面は元より持っていて、加害性が出ないように暮らしを合わせていたんでしょうけど、仕事内容は自分でコントロールできないのでポテン...

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          • ドラスティックに環境を変化させないと難しいですよね。 やれる事がない訳ではないけれど、大きな変化だし、収入も生活もどう変わってしまうかわからないので踏み切れず(お願いで...

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    • そういう優しくて器のちっちゃい人こそ「めちゃくちゃ嫌な上役」になるのは世の常。職場でも煙たがられて悪循環なんだろうな

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    • それ、イライラなのかなぁ? 子供にたいしてはどんな態度? 単に仕事のレイヤーが上がっていくにつれて、貴方のことを見下してモラ味が出てるだけって可能性ない? 職場に『仕事し...

      • 子供に対してはとても優しいです。 例えば離乳食が拒否されて中々進まない時、余りの拒否具合に私もイラっと?がっかり?疲れてしまう?ような気持ちになるのですが 彼も笑顔はな...

    • きっせーつーがっ、 キっミっだっけを🐸っ、 バっカっだっねーぇ、 マーヌっケーなー、🤡〜♬

    • 余命宣告でも受けたか、あるいは軽い脳梗塞を気付かずにヤッちゃってるか

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