漫画でも舞台でも何でもだけど、作品とは「表現者が思想という糸を使って織り上げたもの」ではなく「だれもが無数の糸が織りなす模様の中に表現者の思想の形を見いだし、語ることができるもの」と私は思うし、だからフェミニストを自称しないアーティストの作品の中にも私はフェミニズムを見いだすよ。
漫画でも舞台でも何でもだけど、作品とは「表現者が思想という糸を使って織り上げたもの」ではなく「だれもが無数の糸が織りなす模様の中に表現者の思想の形を見いだし、語ることができるもの」と私は思うし、だからフェミニストを自称しないアーティストの作品の中にも私はフェミニズムを見いだすよ。
たとえば私は『臨死‼︎江古田ちゃん』執筆時はフェミニズムについてほとんど何も知らなかったけど、今の私は『江古田ちゃん』という作品を 「人間」が「女」に丸められていく過程においてその痛み/歪み/怒りがどのような形で成人女性にあらわれるのかを描いたフェミニズム作品 として捉えています。
>「人間」が「女」に丸められていく過程においてその痛み/歪み/怒りがどのような形で成人女性にあらわれるのか 「社会生活の中で規範からの逸脱を見せる成人女性」を据えた作品は全てこの枠組みで語ることができるし、ちゃんみなさん等そうしたキャラクター性を持つアーティストの表現もまた然り。
「女」に丸められていくことへの予期不安と抵抗は、未成年女子の「思春期の葛藤」という形で描かれる。一種のサンクチュアリでぎりぎり丸められずに「人間」として自分を生きる成人女性(ex.白鳥麗子、菱沼聖子)の生存戦略は、コメディとして伝達される。
人間が「(家父長制・資本制下で生きる資格を備えた)女」に丸められる過程そのものが勿論ポルノ的に消費されうる一方で、そうした社会の宿痾さえ表現を遠くの場所・時間へ運ぶ「乗り物」になりえる。フェミニズムを内包しながらエンタメの回路を選択した表現は、そうした緊張の中で流通し続ける。