なぜ科学的知識も哲学的素養もある若者たちがオウム真理教に走ったのか
なぜオウム真理教に入信する若者が多かったのか?しかも高学歴の人間が多かったのはなぜ?という疑問は、当時から話題になっていた。その当時、私は学生で、麻原彰晃も大学に来ていたし、うっかりオウムが主催するヨガ教室に通って入信を勧められたという同級生もいた。私の感覚を書いておこうと思う。
私が国家一種試験を受けたときの小論文のテーマは、新興宗教に取り込まれないために、いかに科学的精神を養えばよいか?というものだった。私は「科学の素養を増してもムダ」と、テーマ設定を真っ向から否定する文を書いた。実際、科学的知識の豊富な信者がサリンを作ったのだから、科学は無力。
最近、ツイッターで「哲学を極めていれば」という意見があったけれど、私はそれも無理だったと思う。オウムにのめり込む人達は、私の感覚では「自分はこんなに高邁で深遠な哲学思想を持っているのに誰も認めてくれない」という不満を抱えている人も多かったように思う。哲学をやっていても無力と思う。
では、オウム真理教に入る人と入らない人との間にどんな違いがあったのか?私の考えでは、優越感と承認を強く求める人が入る傾向強かったのかな、と思う。自分は凡百と違う何か優れたところがあるはずだ、それを認めてくれる人がどこかにいるはすだ、という欲求が、当時の若者には強かったように思う。
私自身、そういう思いに苦しんだ。それでもオウムに行かずに済んだのは、ひたすらメモを取り続けたり、高知に一人旅に出たりしていたことがあるかもしれない。しかし決定的だったのは、阪神大震災だった。
私は1/22日に初めて被災地に入った。17日発災からすでに時間が経って、今さら行っても役に立たないだろう、と思っていたら「行くべきだ」と父から言われ、電車が走っていた西宮北口から歩いていった。
歩いている間、私の心は千々に乱れていた。傾いた家を見て「かわいそうだな」と思う自分を善人だと思いたい自分、そんな偽善者な薄汚い自分を嫌う自分、そうした思いが代わる代わる去来して、自己嫌悪に陥いりながら被災地を歩き続けた。
国道沿いを歩いていくと、右に巨大な白い壁が。不思議に思い、近づいて壁をぺちぺち叩きながら左を見ると、根元で折れて横倒しになったビルだと気がついた。右を見ると、道向かいの家屋が断ち切られるように潰されている。私はパニックになった。潰された家の人は?ビルの中に人はいなかったのか?
そこからは無我夢中で走り回った。本山地区は倒壊率がほぼ100%で、無事な家が一つもなかった。その惨状を目の当たりにして、何も考えられなくなり、ふと、三宮まで来たときに帰れなくなると気がつき、西宮北口まで戻った。電車に乗った途端に気絶し、終点で降りようしたら足が全く動かなかった。
それからは無我夢中。同級生に呼びかけて支援を求め、生協に掛け合って救援物資をお願いし、電柱という電柱に張り紙をして被災地に行ってくれ!と訴えた。
2月も中ごろになった頃、同様にボランティアをしていた知人がこんなことを言った。「もし死ぬなら、今死にたい」。
その知人も被災地に向かう途中、ボランティアに行く自分を偽善者だと感じ、自己嫌悪に陥っていたという。しかし被災地の惨状を見て中途半端な思いは全部吹き飛び、必死になって何かできることはないかと走り回って2週間ほど経った今、ふと、人のために駆けずり回っている自分に気がついた。
「被災地での活動が終わり、やがて都会に戻れば、きっと自分の利益ばかり考える薄汚い自分に戻ってしまうだろう。それくらいなら、自分を肯定できる今、死にたい」と。私も同感だった。まさか自分の中に、人のために何かできることはないかと必死になれる自分があるとは思わなかった。
阪神大震災をきっかけに、私は自分を肯定できるようになった。どうやら自分の中には、人のために駆けずり回りたくなるものがあるらしい。ならば、他人から自分はどう見えるだろう、とか、利害とか全部忘れて、好きなように生きてみよう、もっと自分の中にあるものを信じてみよう、と。
私は阪神大震災を経ることで、自分を肯定し、人間を肯定できるようになった。惨状を見てじっとしていられない生き物。この状況をどうにかしたい、という情熱に駆られる生き物。人間とはそういうものだし、自分もそうした生き物であると信じることができるようになった。そんなとき。
3月20日、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。彼らは、私と違って、阪神大震災を経験せず、人間や自分を本当の意味では信じることができず、肯定することもできずに、あの凶行をするに至ったのだろう、と私は感じた。
当時、村上春樹氏の作品が非常に人気だったが、私は毛嫌いして読んでいなかった。のちに読んでみて、理由が分かった。バブル経済以前から阪神大震災が起きるまで続いていた、日本を覆っていた、真綿で首を締めるような窒息感。村上氏の作品には、その空気が見事に描かれていた。
社会は豊かで、飢えることもない。様々な娯楽もある。けれど、どれだけ頑張っても社会の歯車として配置されるに過ぎない、という、自分を肯定しにくい空気。阪神大震災が起きるまでの空気。私もそれに囚われ、オウムの信者もそれに囚われていたのだろう。
私は京都大学に入学してしばらくして、絶望に陥った。京大を卒業すれば、当時はそれなりの学歴社会だから、それなりの社会的地位の約束された就職ができるのだろう。もはやレールが敷かれている。でも、敷かれたレールをたどるだけの人生であることの絶望感。私は3年ほど鬱の状態になった。
私はたまたま、違うルートをたどることでオウム真理教に行かずに済んだ。しかし、「ただ敷かれたレールを歩くだけの人生」に絶望した高学歴の人間たちは当時、多かったのではないだろうか。自分を特別と思いたい、自分を肯定したいと強く願う若者は多かったのではないか、と思う。
私は阪神大震災で、「私が」というより、人間はなんてすばらしい生き物だろう、と思えるようになった。そして、人のために必死になれるものが自分の中にも確かに存在する、ということに気がついたとき、自分を肯定し、人間を肯定することができた。人間って素晴らしい!人間に生まれてよかった!と。
人間という生き物がすでに素晴らしいのだから、自分もその素晴らしい生き物の一つなのだから、それ以上何を望むことがあるだろう、と思えるようになった。優越感も承認も必要ない。だってこんなに素晴らしいのだから!と私は思えた。しかし、オウム真理教に走った若者たちはそうではなかったのだろう。
西宮北口から歩きながら自問自答していた私と同様に、自分を肯定したいのに自分の薄汚さに反吐が出る思いを抱き、それでも自分が生まれたからには何らかの意味があるはずだ、と信じたい思いが、彼らをして優越感や承認を求める亡者にしてしまったのではないか、と思える。
オウム真理教の与えたかりそめの使命感、「世界を救うのは君だ!君の深淵な思想を周囲が理解できないのは、君が素晴らし過ぎて、周りが凡人過ぎるからだ!」と、優越感と承認を与える言葉を聞いて、彼らはすっかり魅了されてしまったのではないか、と思う。
Facebookでは生まれ変わりの漫画がよく紹介される。今実際に生きている現実を否定し、「自分の人生はこんなもんじゃなかったはずだ」と信じたい人が大勢いるのではないか、という気がする。阪神大震災前は、豊かさゆえの閉塞感だったが、現在は貧しさゆえの閉塞感が覆っている。
自分を肯定できず、人間を肯定できない時、オウム真理教のようなかりそめの優越感、承認欲求を満たしてくれる言説に出会うと、なびいてしまいやすいのではないか。そうした心理に置かれていては、いくら哲学や科学を学んだところで、私は大して力にならないように思う。
一人一人が自分を肯定し、人間を肯定できる状態であること。そこに至れなければ、再びオウム真理教のような存在が登場しても不思議ではないだろう。トランプ大統領は宗教の教祖ではないが、私には「代替物」のように思える。ならば、日本でもそれは登場しかねない状況のように思う。
自分を肯定し、人間を肯定できる社会。そのためには、自然や生命をこれ以上破壊せず、エネルギーを浪費せず、地球環境をこれ以上悪化させず、しかしそうした社会システムを築く中で、泣きを見る人も生まない。そうした隘路を見出そうと必死になって初めて達成できるのではないか。
私は最近、フードロスゼロを目指す運動にケチをつけた。なぜなら、フードロスを発生させる人たちは、新製品の登場を楽しんでは「おいしくない」と捨ててしまうような、ゆとりある生活を送っている人たちなのに、フードロス問題の後始末を押し付けられるのは、貧しい人たちになっているからだ。
貧しい人たちは、食べ物を選ぶゆとりなどない。日々、何とか食つなぐだけで精一杯で、フードロスなど出すはずもない。なのに、ゆとりある消費者の食べ残しを貧困層に「恵んで」、フードロス削減になるし、貧しい人は食べ物が来るし、一挙両得!と喜ぶ偽善者に私はものすごく腹を立てている。
フードロスは、ゆとりある消費者にこそ責任がある。しかし、その食べ残し、売れ残りの後始末を貧しい人たちに押し付けてフードロス問題を解決しようという動きは許せない。フードロスは減らすべきだが、貧富の格差が大きい現状でただそれを叫ぶだけでは、貧困層にしわ寄せが行くばかり。
貧富の格差を少しでも緩和し、誰も飢えずに済む状態を確保したうえで、フードロスを減らすのなら、私は大賛成。しかし、貧富の格差を放置してフードロスをゼロにすれば、貧困層は食べるものがなく、飢えて餓死してしまうかもしれない。これはゆとりある人間たちの怠慢であり、傲慢だと思う。
その怠慢と傲慢を「フードロスゼロを目指すことはいいことだよね、それを目指す人間は善人だよね」という偽善的行為で粉飾することに手を貸す気はない。まずは貧富の格差を改善してからでなければ、私は安易にフードロスを「ゼロ」にしようとする言説に賛成をすることはできない。それは、阪神大震災前の空気と似ているから、よけい。
偽善は、人間をおかしくする。もっと人間の内側にあるものを信じよう。外側の虚飾に囚われることをやめよう。改善すべき問題を改善しよう。問題を直視することを恐れないようにしよう。それが、自分を肯定し、人間を肯定するうえで、非常に重要なことのように思える。
どれだけ知識があろうと、どれだけ科学を学ぼうと、どれだけ哲学をおさめていようと、自分を肯定し、人間を肯定できない限り、オウム真理教のようなかりそめの優越感や承認欲求を満たしてくれる存在が出てきた時、私たちはそれにまんまと乗ってしまうだろう。
自分を肯定するには、人間を肯定するには、「これっていいことだよね」と粉飾された偽善をはぎ取り、容赦なく観察すること。事実を見極めようとすること。その先に、きっと肯定できるものが見つかる。恐れず、それをやっていこう。私からは、そう呼びかけたいと思う。



コメント
2同世代で、がくがく頷きながら拝読しました。
当時、私が通っていた大学でもオウム真理教や統一教会の信者らが勧誘に来ていて、同じクラスの学生が夏休み明けの必修科目の授業の直後に突然、教壇に駆け上がって「真理を見つけた!」と叫んだ光景が忘れられないでいます。その学生はどこか孤独に見えたのですが、しのはら様の自分も他人も肯定できないというご指摘に一段、深い洞察を得ました。
しのはら様のnoteを拝読して、科学との関係では、信徒となった彼らは演繹法に偏り過ぎ帰納法の難しさから逃げていたのではないかとも思いました。事実をあるがまま受け止めるのは時に苦しく難しい。それを乗り越えてこそ知る自他の肯定に辿り着けず、真理とされる法則にすべてを預けてしまったのかな、と。
変な解釈になっていたら恐れ入ります。
深く考えるきっかけを頂き、ありがとうございます。
科学の素養がありすぎて入信した幹部信者と、科学の素養がなさすぎて入信してしまった一般信者とは分けて考える必要があるのかもしれないな。