藤井家は国替えを経て、常陸国(茨城県)から久保田(秋田市)へ移住した武士の一族だといわれ、何代目かが医者となり、江戸中期には大曲(大仙市)に住んだ藤井某がいたとされ、江戸末期になると久保田と大曲に薬店を開いた。 明治維新を経て、個人経営としては久保田を本店とし、1871年に東京神田、1873年に大曲に支店を開業。

Joined September 2021
のちの佐竹義堯と藤井正亭治は1825年生まれ。この資料の当時は今の9か10歳。 共に本来の跡継ぎではないため、色々と話がおかしくなりますね!
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舞台の設定を真に受け、嘘の情報を流している方々がいます。 龍角散の関係者を騙った特殊詐欺の手口があるようです。身に覚えのない方からのメール等に記載されているURLにアクセスしたり、添付ファイルを開かないようお願いします。 お気をつけを! #仙北市 #わらび座 #わらび劇場 #あきた芸術村
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3年以上前の出来事になりますが、大仙市の大仙アーカイブズ主催の「ぶらまがり (ぶらっと散策 おおまがり)」というイベントがあり、当家の本家のことも地元の新聞に少しだけ載ったらしいですよ。 地元の方からの情報でした。 city.daisen.lg.jp/docs/20190…
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とある資料には、「江戸中期、藤井玄淵が幼馴染みであるお殿様のために、処方した」とあります。 それが正しいかはさておき、 実際の藩の修行とは、2代得三郎(米次郎)によると、扶持(ふち)といい、一族や家来らと修行先に向かったという説があります。
Replying to @fujiiyakuho
どこかの世代、または担当者の解釈により、ニュアンスが変わってしまった可能性があります。 実際に、龍角散の原型となる「とあるくすり」があったのは江戸中期。 これが何であったのか? ここに話を解く鍵があるようです。
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このクーデター未遂を起こしたのは、佐竹一族の相馬藩の血を引く、佐竹義矩(よしのり、義矩は義堯のいとこ)でした。 佐竹義諶が湯沢岩崎(新田)藩を継承。 ※佐竹義堯に繋がる人物を抜き出した系図。実際には兄や伯父(叔父)等の養子になっているようです
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10月に入り、#わらび座 様の舞台を真に受け、#龍角散 の歴史をかく乱する日記をSNSに投稿した人がいました。 おそらく、六郷町の伝承等を元にしたと思われますが、画像のような事実はありません。 龍角散の前社長(康男)によると、当家は武士で、「何代目かが医者になった」という説があるとか。
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このpdf内を「藤井定吉」で検索すると出ますが、この人は当家の関係者です。 藤井家は #大曲の花火 に寄付をしたり、第2回大会の時に花火師として参加した者がいるなど、昔は町に貢献していました。 akihaku.jp/publication/repor…
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龍角散という江戸中期に原型となるくすりが存在しました。 そのため、年齢が合わない、佐竹公も違う人であったりと、年代が合わない説をしている人がいたとすれば、それは本人の責任です。 藤井玄信、藤井玄淵を1人の人間だと考えるのが大きな間違いなわけですよ。
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仮に江戸中期の場合は、一般的に言われている初代・玄淵ではないでしょう。2代・玄信はまだ産まれていません。 藤井玄淵(玄渕)と玄信を名乗った人が何人いたかは分かっておりません。 また、大曲に住んでいたとされる当家の利庵(としあん?)についての詳細は不明です。
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#大曲の花火 秋の章が開催される大曲(#大仙市)には、#龍角散 の本家の屋敷がありました。 なお、1911年(明治44年)の第2回大会(旧名:奥羽六県煙火共進会)に参加者として名前がある藤井某とは当家の関係者です。 実は、この人の名義で寄付をしています。 #秋田観光
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龍角散関係の資料から。 元あった店は今の秋田市と大仙市。明治維新を経て、神田が1871年(明治4年)、資料から大仙市は1873年(明治6年)となっています。 六郷大町と琴平西と、上野にあった薬店は藤井家の一族。 浅草は、得三郎商店で修行した人がのれん分け(フジヤは藤井家の屋号)した店です。
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明治初期に秋田市の本店(のち支店に降格)を担当していたのは、正亭治の息子の内の1人だと言われています。 得三郎は3男のため、本来の跡継ぎではなかったわけですね。 明治中期、若しくは後期に秋田市保戸野、または大町(茶町菊乃丁)の店を担当していたのは正亭治の兄貴系統となります。
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