お待たせしました。それでは行きましょうか!
秋山高志さん著
茨城県史の研究(1980年)より
藤井玄信(名・忠貞)
岩根村(現在の茨城県水戸市)
原南陽(はらなんよう)の門人
もう1つ。
広報誌「かていやく」のバックナンバーより抜粋。
1968年(昭和43年12月3日発行)の第12号の中で、2代藤井得三郎(初代の養子。現在の小林製薬の次男にあたる小林米次郎)が、
龍角散は藩医の処方ではない
幕府の医者の処方である
よその土地の薬を飲むなんて不見識でいかん
その処方を明かしてもらって本家でこしらえろ
幕府の医者が中々処方を明かさなかったが、ようやく当時の藤井玄信(忠貞)が原南陽から習った。
それが本来の秋田藩としての龍角散の原型です。この製薬が1797年、資料によっては1799年とされます。
龍角散のホームページにある2代玄信(~1844年没・48歳)とは明らかに別人となります。
よって龍角散の発祥地及び、製薬・創業の地は美郷町ではありません。
そもそも藤井家は秋田市や大曲(大仙市)にも住んでいた一族です。
このように2つ、3つの資料を足すと答えが出ました。
そのため専門家たちが秋田県のことを調査しても、龍角散について調べることが出来なかったのはここに理由があります。
興味がある人はコメント欄にリンク貼りましたので、読んでみてください。消された場合は他の方法で対応しますので、遠慮なくDMください。
ということで、様々な人から問い合わせされている今なら話が通りやすいです。
一部の美郷町と仙北市の面々について、何かご存知の方は最寄りの警察へ情報提供お願い致します!
1年に1回は定期したかったところですが、予定よりもかなり遅れてしまいました。
8月の大仙市では、今年も大曲史談会さんによるまち歩き看板が立っていたそうです。
龍角散の藤井玄淵(玄渕)の屋敷があった場所は、かつては大曲村の勝町(かちまち)といい、今年の春まで信用金庫だった建物の後ろ付近から、浜町の空き地にかけてと思われます。
この近くには駅場(駅)、駒場(馬の停留所)、安養寺などがあり、そして1886年(明治19年)までは村の郡役場があったとされます。
菅江真澄(すがえますみ)の月の出羽路(いでわじ)によると、大曲の村では、今から約200年以上前に花火をあげていた様子。
そんな、大曲の花火。
1910年(明治43年)に「第1回奥羽六県煙火共進会」が開催大曲にある神社祭典の余興花火として開催されたのが始まりとされ、翌11年(明治44年)の第2回大会に、参加者として名前がある藤井某とは当家の関係者です。
実は、当家はこの人の名義で寄付をしています。
#奥羽六県煙火共進会
#大曲の花火
#月の出羽路
#菅江真澄
#龍角散
#秋田県
#大仙市
#大曲市
インスタでは久しぶりの投稿となります。
良くある劇団わらび座様の「ミュージカルの感想」及び、「ミュージカルの中での設定」を投稿しているのであれば何の問題もないはずですが、念の為。
お芝居を本当とし、当家を六郷の人だと言っている方がいますが、それは違います。
・佐竹の国替えの際に「藤井」がつく部隊は出羽(秋田)入りしておらず、そのため、国替え時に六郷東根、又は大曲の村に移住したという説は間違い
・当家の出羽初代は、国替えのあとに久保田(秋田市)入りし、江戸中期〜後期に大曲(大仙市)へ移住した
・当家が六郷の出身であるかどうかには諸説(所説)あり
・今も六郷東根で米作りしている龍角散の関係者は、春霞(はるかすみ)の栗林家
・坂本という親戚はいない
・旧六郷役場に「藤井」という親戚はいない
・志ら梅(しらうめ)の湯川家と龍角散は親戚ではない
・旧千畑町のラベンダー園付近は、秋田側の関係者が嫁いだ場所
現在の東京龍角散側は、小林製薬など東海・関西の方の血筋となっています。
そのため、「龍角散の社長と似ている!?」なんて人がいたとしても、それは他人の空似です。
周りで噂されている情報をご確認ください!
井戸端会議レベルの噂話にご注意ください!
↑繰り返しとなりますが、これは茨城県水戸市、秋田市、大曲、東京下町の歴史ともぶつかるので、この理屈は通りません。
そして
10年以上前からフェイスブックをやっていた方は既に気づいていたとは思いますが、主に現在の美郷町や仙北市の出身、またはルーツを持つ人々が
俺たち、あたしたちが「龍角散は美郷町の出身者である」と発見したんだ!
「今まで知られていなかったんだ?!」
「そうなんだっけ?」
という投稿やコメントが多かったのですが、これは本当の話ではありません。
真実ではないからこそ、ほとんどの人が知らずにいたのです。
この原因となったのは、美郷町が「生薬の里」構想を打ち出したことに端を発したトラブルです。
龍角散のネームバリューを使って、美郷町を有名にしましょう!的な美郷議会の議事録やSNSの投稿を見たことある人もいるでしょう。
これに様々な人が巻き込まれた結果、「龍角散」、「藤井さん」と聞くと
ギクッΣ(゚∀゚)
となる人がいる訳ですが、こうなる前に何か手を打てなかったのでしょうか。
普通はあり得ないことですが、各市町村の許可を取らずに一部の美郷町と仙北市軍団※が突っ走った結果ですね(※例によって関係のない方は本当にすみません。)。
龍角散の原型となる元の薬が水戸藩の物であることは複数の資料からも明らかなのです。
そこでX(Twitter)では何回もやっていたネタを1つ。
#秋田県 の #美郷町 を #生薬の里 にしたいんだよ
そのためには #龍角散 の藤井玄淵、玄信は六郷出身の親子でなくてはいけないんだよ
#ドラえもん 〜〜〜
的な街なんですね。
親にお小遣いを強請る延長でしかないんですね。
まず、ちゃんとした大人になってくださいよ。
#テレビ朝日
少しづつではありますが、なるべく簡単な言葉で説明しますので、色々と龍角散の話題を用意しています。よろしくお願いします!
龍角散の藤井玄信、玄淵を美郷町(六郷)出身の親子とする明確な根拠はないのでお気をつけください。
まず、例によって関係のない方はすみません。
これは主にこの10年ちょっとの間に美郷町や仙北市の関係者が広めてしまった説ですね。
この市町村の関係者と言っても、市町村合併により、その町の古い歴史を知らないため起こる問題点だと考えられます。
根本的に龍角散の原型となるくすりがあったのは江戸中期。この時代だと生まれてない人いますからね!
藤井貞民(~1809年) ?歳
藤井玄淵(~1827年) 65歳
藤井玄信(~1844年) 48歳
””江戸中期の””
藤井玄信(?~?) ?歳
実際の藤井家はいくつかの系統があり、現在の秋田市、六郷、大曲、東京下町、そして水戸に残った一族がいたとされます。
なお、茨城県近郊は佐竹の歴史でもあり、出羽(秋田県)入りしなかった家臣団が残っている土地でもあります。
そこを考えましょう。
SNSをやっている皆さんなら良くお分かりだとは思いますが、何かしらの記事になったからと言って、その内容が全て正しいかと言われればそうでないものも含まれています。
そもそも企画・担当者が20〜30代とまだ若く良く確認せずに文章にしてしまうというのも1つの問題点であり、無闇に情報を拡散するご年配の方々にも原因ありな訳ですね。
よって、本来は諸説(所説)ありとした方が円満ですぜ。よろしくお願い致します。
お気をつけください!
現在、 秋田県大仙市の大曲地区では、大曲史談会さんによる「ふるさと大曲の記憶展」のパネル看板が設置されているようです。
大曲史談会さんのパネル看板は、最所は2015年8月に14枚から始まり、今や30ヵ所以上あるということです。
上大町の信用金庫の手前の看板には、昔の勝町(浜町~上大町付近)の地図が使われており、そこに藤井玄渕(玄淵)の名前が載っているそうです。
ここは藩政期の頃は駅場(駅)にあたり、駒場(馬を停める場所)がありました。
えがお上大町さんの辺りから、浜町の空き地になっている付近が当家でした。
他に龍角散を扱う店があったのは、大町角。旧時計店があった場所。現在の丸徳商店さんの向かい側。
もう1つ。大正から昭和にかけての短い期間ですが、現在のグランマート中通店がタカヤナギデパートだった頃のドムドムバーガーがあった辺りに店がありました。
ここはかつて土屋館(どやだて)と言い、今は駐車場横の信号や歩道になっている場所だと推測されます。
龍角散の真実。
そもそも龍角散という薬はなんであったのか?
それは””幕府の医者の処方””が由来 。
つまり、
””龍角散の原型となる薬””を水戸藩に習いに行ったのは藤井玄信※と名乗った久保田藩医ですが、
実は、これは原南陽(はらなんよう、1753-1820)の門人。
これを創薬(佐竹藩として)したのが1797年※※または1799年だと言われています。
現在の茨城県水戸市のとある市町村で、江戸中期~後期の””藤井玄信””は原南陽から学んだ訳です。
扶持(ふち)と言い、家来などを伴い、1人ではなく、何人かで行ったという説があります。
根本的に茨城県近郊とは、国替で秋田県に来なかった家臣団(主に下級武士など)が残っていた場所ですね。
ここが秋田県の専門家でも真実に辿り着けなかった理由ですね。
秋田県のことを調査しても、龍角散の本当のルーツが出てこなかったのはここにあります。
※現在、初代藤井玄淵、2代玄信と数えていますが、これは医者としての屋号ですので、本来はこの人が何代の「藤井玄信」であったかは不明です。
※※東京がつけた””2代””はまだ産まれていないか、赤ちゃん。
古い資料から。『藤井家は代々秋田藩佐竹公の御用医として江戸に在住し、佐竹の江戸下屋敷に出入りし、秋田藩御入用の薬種を納入しておった。
藤井家は江戸時代より美倉橋(みくらはし、千代田区。東神田)にあり、佐竹屋敷は、橋を渡って先方の今日の二長町のあたりにあった。』※とある。
これは、のちに佐竹原(さたけっぱら)と呼ばれた現在の台東区の佐竹商店街の付近と、下谷二長町(したやにちょうまち)のこと。
おそらくその代によって、下谷付近であったり、美倉橋即ち、現在の東京の龍角散ビルの近くに住んでいたと推測されます。
時は流れ、台東区の上野(アメ横の近く)には、藤井得三郎商店(のちの株式会社龍角散)出身者の店(フヂヤ)がありました。
このフヂヤ(フジヤ)とは当時の藤井家の屋号でした。
一方、浅草には現代でも得三郎商店出身者の店が残っております。
資料によると、かつて秋葉原の近くには小林製薬の東京支店があったようです。
※確かな資料からは、久保田(秋田市)に住んでいた武士。参勤交代、または藩の命令で各地に行く生活だったとされます。
そして現在の隆太社長の父にあたる康男氏が著書、またはコラムの中で「何代目かが医者となり~」と書いています。
よって現在の県南(六郷や大曲の村)に来た経緯は不明です。
つまり六郷や大曲に来た藤井某は、今現在の子孫の先祖ではない可能性が。
少しづつ投稿再開しますね。
六郷東根地区の藤井姓と龍角散とは何か関係あるのですか?という声もあるようですので、簡単に1つだけ。
すでにご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、龍角散の関係者で、現在の美郷町六郷東根地区で米を栽培しているのは春霞酒造店の栗林様のようです。
正確には親戚ではなく、遠縁にあたるのだと推測されます。
過去の投稿にもありますが、藤井家は現在の茨城県から来た武士の一族です。お間違えのないよう。
ネット上の不確かな情報にはくれぐれもお気をつけください!
龍角散と関係あるんだよ!という家の方は何か証明出来るものをご提示くださいね。
#茨城県
#秋田県
#美郷町
#六郷東根
#龍角散のルーツ
※他の投稿と被りますが、大事なことなので読んでください。よろしくお願い致します。
色々と遅かったようですね。
当家が #国替え の時に #出羽国(#秋田県)の #六郷東根(#美郷町)、または #大曲 の村(#大仙市)へ移住した。
「#佐竹義重 の町づくりが~」と言う人がいますが、
残念ながら国替えの時に藤井姓は来ておりません。
国替えのあと、#久保田(#秋田市)に来たが正解。
この11年くらいで美郷町、及び #仙北市 の方々が主張している六郷東根の集落の出身者ではありません。
#代々医者の家 だとか、#医者の家 と呼ばれたお宅と、当家が関係あるという事実はありませんので、おやめくださいね。
藤井家の出羽初代は武士です。
まずは今出来ることを。
秋田市では、#龍角散 は〜と言われている
#横手市 では〜
大曲では〜
#茨城県 では〜
#東京 #千代田区 では〜
#台東区 では〜
一部の美郷町や仙北市の方々はそこでストップだ!
複数の方から、龍角散の名前を使った #特殊詐欺 の可能性が指摘されています。何かご存知の方は通報にご協力お願いします!
↑↑↑
これを #エックス(#Twitter)で繰り返し指摘していたところ、色んな人から嫌がらせされましたが、めげずに頑張っています。
#龍角散 とはなんであったのか?本当の発祥の地とは何処であったのか?
教えてあげましょう。
本来は約300年以上前の物と言われている「龍角散の原型となった薬」とは、どこの薬であったのか?
得三郎商店(現在の株式会社龍角散)関係の資料から。
『龍角散は #幕府 の処方。#佐竹 のお殿様が気に入った薬があった。しかし幕府の医者が処方を明かさなかったので、藤井一族が習いに行った』と書いてあります。
この幕府とは何処にあたるのか?
ドラマの設定でいう『恐れ多くも先の副将軍、#水戸光圀 公にあらせられるぞ。』とは現在のどこの県の人?
#この紋所が目に入らぬか
といえば?
そこは #出羽国 の #六郷 ですか?
この水戸光圀と #水戸儒学、#琴楽、#医薬 は密接な関係あったこと。
さて、#竜角 と #和琴 とは何に関する用語でしょうか?これは音楽やる人なら分かるのでしょう。
そして皆さんに大変残念なお知らせがあります。
繰り返し指摘したとおり、#劇団わらび座 様のミュージカルの設定を、まるで本当の龍角散の歴史であるかのように広めている人がいることが確認されています。
#美郷町、#仙北市 の皆さん、おかしいと思ったら、いい加減に周りの人間を止めましょう!ご協力お願い致します!
そして龍角散のエピソードを奪われている #秋田市、大曲(#大仙市)、#茨城県、東京 #千代田区、#台東区 のみんな頑張りましょう!
特に茨城県出身者、又は茨城県の学校に通ったことがある方、茨城県で仕事・アルバイトしていた経験のある皆さん、頑張りましょう!
当アカウントは悪役でもいいので、今年も頑張ります。よろしくお願い致します。
※すいません。初歩的なミスがあり、1つ削除しました。いいねしてくれた皆様すみませんでした。
さあ、それではいよいよインスタ版でも拡散し、圧力かけて行きます!
今から40年以上前、皆さんはおいくつでしたか?
当時の調査では、龍角散と六郷の関係については良く分からなかったと言われております。
その時の調査チームは不確かなことはやらなかったんですな。
この話を知っているか、知らないかで大きく差が出ます。
なぜかと言いますと、現代では個人情報保護法の大きな壁がありますが、昔は調査と称して、他人の家のことを詳しく調査することが出来たんですな。
それもそのはず、当家は佐竹氏の国替えの時に出羽国(秋田県)にはついてきておりません。
藤井家が佐竹義重の町づくりの時に六郷いたという説を唱える方がいるようですが、そういう事実はありません。
六郷という町は他の地域からの移住者が多く、土着の人が少ないと言われています。
過去の調査では、関ヶ原以前と以後では、以後に移住してきた家が多いという調査結果となっています。
明治〜大正生まれでは聞いていた話も、日本という国は敗戦国ということもあり、今のご年配の方ですら古い歴史を語るのは厳しいのかもしれませんね。
六郷地区に詳しい記録が残っていないのは、1893(明治29年)年の陸羽地震により、家屋が燃えたことにより、それ以前の歴史を遡れないようです。
歴史には根拠がなくてはいけません。
※皆さんもお分かりになるでしょう。本当に関係の深い地域であれば、最近まで知らなかったなんていうことはないのですすから。
当方とは別口の調査グループからの情報です。
秋田県南部の、、、、を装った、又は本人ではないかと思われる暴言だらけのSNSのアカウントが発見された模様です。
某県出身
県南にやって来た
職業は、、、
まさか、あの人が!と思わせるものだったそうです。
一部の心ない方の所為で、他の関係のない方にまで迷惑がかかりますし、つぶやき(ポスト)から連想される集落の評判を落とす原因となります。
本人は、俺は限界集落の存在しないキャラなんだと主張し、裏アカウント的な使い方をしているつもりなのでしょうが、
秋田県の場合、知り合いの知り合いは、ほぼ知り合いになるという法則が分からないのだと。
この辺が他の都道府県出身者の感覚なのかなと。
また自分のことしか頭にないというのも原因の1つであり、端末の画面だけを見て、夢中になって、周りの迷惑を顧みず、後先のことを考えていないからこうなるのでしょうね。
この度、下記のSNSにおいて龍角散、劇団わらび座、又は藤井家の関係者を装った「なりすましアカウント」の存在が確認されました。
・X(Twitter)
・Instagram(インスタグラム)
・Facebook(フェイスブック)
手口は、
・わらび座様のミュージカル用の設定の家系図を貼り付け、六郷の村と龍角散との関係者をアピールし、美郷町の自慢をする
・龍角散の藤井家は、東京へ出ていったのだと噂を流し、秋田県に「子孫はいない」と思わせ、自らが「子孫を名乗る」手口
・秋田市、大曲(大仙市)、東京下町(千代田区や台東区)に伝わる龍角散のエピソードを無視し、あくまでも龍角散は角館町(仙北市)、六郷東根(美郷町)の歴史だと言い張る
・六郷の郷土史、または六郷東根地区に伝わる伝承を鵜呑みにし、藤井家は六郷の山間部出身者であると吹聴する手口
・龍角散の一族を名乗り、お寺や市役所・役場と無断で交渉
なりすましアカウントに対して、リプライ、いいね、個人情報の提供などをしないようご注意ください。
また、不審なアカウントからメッセージ等が来た場合は、被害防止のため、URLをクリックせず、ブロックするなど、ご注意ください。
電話の場合は録音していることを相手に伝えることで、被害防止に繋がります。
なりすましアカウントによる被害・損失につきましては、一切の責任を負えませんので、何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。
最寄りの警察署、役所・役場、消費者センターへご相談ください。
藤井玄淵(玄渕)、玄信の子孫の家だと良く言われますが、根本的に藤井家は藩の武士ですので、他にも幼名(ようめい、またはようみょう)、元服した時の名前、屋号が存在したようです。
根本的に、龍角散の原型となる薬が存在したのは江戸中期ですので、皆さんが思ってる玄淵と玄信の時代ではないことが、この表からわかりますね。
東京側が2代とつけた玄信は産まれておりません。
これについて、現在の隆太社長の父である康男氏は、東京側では便宜的に7代目を名乗らせて頂いていると発言しています。
なお、江戸後期に六郷の高野村(こうやむら、現在の美郷町)でカンゾウ(甘草)を育てていたとされる湯川清四郎さんも何代前となりますね。
佐竹藩が湯川から甘草の苗を2本買い、それを久保田(秋田市)で増やしたのは文政時代(1825年)です。
時の家老は疋田(ひきた、匹田とも)。
薬草栽培については半田和彦先生の著書に詳細が載っています。
#龍角散
#半田和彦
#志ら梅酒造 (しらうめ)
#湯川清四郎
大阪の京町堀にあります『柳々堂(りゅうりゅうどう)さんと、龍角散が親戚ではないか?』とのネット上の噂話があるようですが、真相は不明です。
少なくとも、柳々堂様は藤井家側の親戚ではありません。
ネット上の井戸端会議を真に受けないようお気をつけください!
因みにGoogleブックスの
「時を超えて伝えたいこと」(桐生敏明 2007年)によると、
『創業当時は、龍角散の創業者とも縁があって、「ゴホンといえば龍角散」をもじって「御本と言えば柳々堂」のキャッチフレーズで一般書を扱う書店だった。』とあり、
龍角散の創業者とも縁があって、とのみ書かれており、親戚であるという言葉はない。
まず、藤井薬種店の創業者は藤井正亭治(しょうていじ)、藤井得三郎商店の創業者で、会社を株式会社化したのは息子の得三郎。
さらに、この「ゴホンといえば龍角散」のフレーズは黒須田伸二郎先生によるものなので、年代が合いません。
最後に。話題は変わりまして、この関西。
数年前まで藤井家の関係者が店を開いていました。地元の人なら良くご存知でしょうから、詳細は割愛致します。
#柳々堂
#龍角散
#大阪府
#大阪市
#京町堀
#兵庫県
#宝塚市
#藤井薬種店
#藤井得三郎商店
あなたの知らない秋田県の歴史 / 山本 博文【監修】
皆さんに残念なお知らせがあります。この本の龍角散部分は、秋田側に無許可で書かれたものです。
「明治維新後に子孫が東京府へ出て〜」というのは、東京側の理屈となりますね。
他の投稿でも説明していますが、大きく分けて、龍角散の関係者は今でも秋田県の各地に住んでおります。
監修した山本博文氏は既に他界。
本来の藤井家とは、いくつもあったこと、他にも龍角散については複数の説があること。
実は、出羽(秋田県)入りした藤井家の出羽初代は武士であること。
現在の龍角散の隆太社長の父である康男前社長(会長)は、当家について、「何代目かが医者になった」と書いています。
根本的に徳川幕府の参勤交代により、江戸時代から江戸に住んでいます。
そのため、当家ゆかりの地は江戸であるという説が昔から語られておりました。
#龍角散
#常陸国 (水戸市)
江戸時代から昭和50年代までの大曲のネタをこちらが提供しましょう。
菅江真澄(すがえますみ)の月の出羽路(いでわじ)によると、大曲の村では、今から約200年以上前に花火をあげていたようだ。
昔の大曲の町並みは、現在の大町〜上大町〜浜町にかけて、駅場(今の駅)、駒場(馬の停留所)があり、1886年(明治19年)までは村の役場があったとされる。
その役場の近くが当家でした。
村役場は、現在のペットショップ桃太郎様の手前の月極駐車場(つきぎめ)の場所へ移り、その後に花園町へと移転したようです。
なお、この月極駐車場になる前(40年以上前?)は消防署があったみたいですね。
話題は変わり、大曲の花火(旧名:奥羽六県煙火共進会)関係ですと、1911年(明治44年)の第2回大会に、参加者として名前がある藤井某とは龍角散の関係者です。
実は、この人の名義で寄付をしています。
#大曲
#龍角散
#菅江真澄
#月の出羽路
#大曲の花火
#大曲消防署
#薄れゆく昭和の記憶
#奥羽六県煙火共進会
藤井得三郎商店(現在の株式会社龍角散)は大正時代に社屋を新築しました。
その時には、藤井正亭治(しょうていじ)の代からの付き合いがあったと言われる秋田県の某家からお金を借りました。
当時は珍しかった鉄筋コンクリートの建物が完成したのもつかの間、その数ヶ月後には関東大震災が起こったという、まるで漫画のようなエピソードがあります。
鉄筋コンクリートの建物は安心だという先入観から、近所の人が荷物を持ってきてしまい、龍角散のビルも火災にあいました。
そこで大震災の発生時には、まだ火の手があがっていなかった上野方面に逃げた得三郎商店の一行。
しかし翌日には上野も燃え、避難生活を続ける内、財布を失くしたり、朝鮮人が井戸水に毒を入れたとの流言が広まり、パニックとなりました。
ある日、水を汲みにいった社員が、朝鮮人と間違われ、殴られそうになったようです。
その後、大阪府にいる親族の店の一室を借り、海上で輸送し、いち早く製造を再開したというエピソードがあります。
この時の教訓が第二次世界大戦後に生かされたそうです。
#東神田
#神田区 [当時]
#千代田区
#藤井正亭治
#関東大震災
#鉄筋コンクリート
現在の秋田市大町などは、久保田の家督町にあたります。
当店があったのは大町の秋田ニューシティ、元はダイエーがあった近辺。向かい側は現在のイーホテル。
この付近には、かつて本金百貨店(のちデパート)がありました。
資料上、龍角散(当時は藤井得三郎商店)の店や営業所は、菊乃丁(大町2丁目)、梅乃丁(大町4丁目)、保戸野(ほどの)、亀乃丁、楢山(ならやま)などにあったようです。
当家と秋田市(久保田町、秋田町)との関わりは、藤井家の初代となる部隊が茨城県(常陸国)から出羽国へやって来たのが、約400年以上とされます。
美郷町の六郷では、当家が佐竹義重に従い、六郷の村に住んだという人もいるようですが、そのような事実ありません。
他の投稿にもありますように、六郷や大曲の村に移住した経緯は不明です。
当家と関わりがあったとされる古いお寺は今も秋田市にあります。
藤井家のルーツは茨城県にあります。
#国替え
#龍角散
#茨城県
#秋田市
#自称歴史家
4年前の今頃は?
2019年の8月17日~21日の秋田市では、秋田県の文化を収集する会(油谷これくしょん)さん主催で、
秋田県発祥の漢方薬「龍角散」に関連する資料を集めた「『龍角散』のふるさと秋田 健康を支えた家庭薬展」が、秋田市山王のさきがけホールで行われました。
#龍角散
#秋田市
#家庭薬
#さきがけホール
#油谷これくしょん
#秋田県の文化を収集する会
簡単説明シリーズ。
龍角散と現在の秋田県横手市。ここには、かつて当家の取り引き先がありました。
当家とこの地との関係は深く、詳しい説明は割愛しますが、今現在も関係者が沢山住んでおります。
さらにこの地には、今なお、藤井家のエピソードを語り継いでくれるグループがいます。
それが某所のOBやOGですので、横手市の皆さんとは、知り合いの知り合いという間接的ながらも、関わりの深い町となります。
皆さん、ご存知でしたか?
#秋田県
#横手市
#龍角散
龍角散と現在の仙北市にあたる地域との本当の関係とは?
角舘町(角館町)、生保内(おぼない)、田澤村(田沢湖町の一部)には、かつて秋田側の藤井家の取り引き先がありました。
『西木村、又は西明寺にも縁者がいた』という未確認情報があるようです。
あとは詳しく書くのはやめておきますが、当家の関係者が今でも住んでいるようですね!
この手の話は地域の皆さんの方がお詳しいのかもしれません!
※Twitter版でやっていたことを少しづつ、Instagramでもやっていきます。よろしくお願い致します!
#角館町
#生保内
#田沢湖
大仙市大曲の方から、まちあるき看板の画像提供がありました。まっすぐでなくてすみません。そして、緑のマーカーは当方が加工したものではありません。
藤井家とこの大曲の地というのは、江戸中期とも1805年移住したとも言われ、200年以上の歴史があります。これは資料にもとづくものです。
昨今では秋田県は秋田県でも、美郷町の六郷の人だと報道されることもあれど、それだと話の整合性が取れなくなりますね。
これは報道関係者は元より、各地の企画・担当者がお婿さん、嫁さんの方であったり、家を出た弟妹であるなど、地元出身ではないことが1つの原因としてあげられます。
大曲や横手市のグループが語り継いでくれている龍角散のエピソードと異なる訳ですね。これはいけません。
#大仙市
#美郷町
#横手市
#大曲史談会
#羽後信用金庫
#ふるさと大曲の歴史展