「雑念が多すぎる勉学せよ」 +α
ペンギンです。
今年もよろしくお願いします。
新年早々、一年前の話をさせてください。
こちらは、ちょうど一年前に引いたおみくじです。初詣で引きました。
あまりにも『ロード』すぎるちょうど一年前にですが、これほどちょうど一年前になこともなかなかないので、今日ばかりはちょうど一年前にと言わせてください。
「学問」欄の「雑念が多すぎる勉学せよ」がインパクト絶大すぎて、他の諸々が全く目に入りません。
僕の去年は、この「雑念が多すぎる勉学せよ」に囚われ続け、追いかけられ続けた年だったともいえるくらい、あまりにも強烈な一文でした。
「雑念が多すぎる勉学せよ」、これ、一体どういう意味なのでしょうか?
皆さんは、パッと見た印象で、何だと思いましたか?
いくつかの可能性があると去年の僕は思いましたので、慎重に文章の意味を考えました。
何しろ、この文章の読み解き方次第で、この一年をどう生きるかが決まってしまうわけですから。
当時の記憶に立ち返って、もう一度考えてみましょう。
===
① 雑念が多すぎる(ので)勉学せよ
一瞬しっくり来る文章に思えますが、微妙に因果関係が謎です。
「雑念が多すぎる」というのはこの場合、この一年が僕にとって雑念が多すぎる年になる、という意味でしょう。
「多すぎる」って。「多い」でも既に程度が大きいことを表しているのに、その更に上位の「多すぎる」って言われると、すごいビビります。
雑念が多い、じゃなくて、雑念が多すぎる一年って、どんな一年なんだ。
雑念が多すぎるとして、「だから」勉学しなさい、というのは、どういう意味なのでしょうか。
仕事のこと、人間関係のこと、家庭のこと、生活のこと、虚栄心、恐れ、恥、失敗を嫌がる気持ち、その他諸々の「雑念」が多すぎるとして、「だから」勉学しなさいって言われても…雑念が多すぎるのに勉学なんて無理じゃないか!?
雑念を振り払う「手段」として勉学が有効、だったらわかるんです。
たとえば酒を飲んだら雑念はだいたい(一時的にとはいえ)吹き飛びますので、「雑念が多すぎるので酒を飲め」だったら、まだわかる。ああ、なるほどね、多すぎる雑念をこうやって振り払いなさいって教えてくれてるんだな、って思えますから。
でも、勉学ってそういうのじゃないですよね。
「あーなんか勉強しているうちに雑念なくなったなあ」なんてことは正直なくて。いやあるのかもしれないけど、でも雑念があるうちは勉強に手が付くわけないじゃないですか?普通は。まず勉強を始められないんですよ、雑念があるうちは。
雑念があるまま勉強することもできるとつい勘違いしてしまいますが、それは勉強ではなくてただ問題を解いているだけです。
なんか、正論を突き付けられてるだけな感じがして、すごい気持ちが悪い。
おみくじって大体が正論パンチで構成されているものなのかもしれないけど、せっかく解釈の余白がある「隙アリみくじ」を引き当てたのに、おみくじ側にとって都合の良い解釈を受け容れる義理もありません。
違う可能性を考えてみましょう。
② 雑念が多すぎる(けど)勉学せよ
こっちの方がまだしっくりきますね。
「辛いけど前を向け」みたいな。JPOP構文。
そうなんですよ。
雑念というのは本来、勉学とは真逆の位置にあるんです。勉学ができる心身状態というのは、得てして雑念が振り払われている心身状態なので。
雑念を「振り払うために」勉強するなんてことは因果がおかしくて、雑念を「振り払えたから」勉強するんです。人は。
ただ、雑念が本当の意味で振り払えることなんてないですよね。生きているうちは生涯、生老病死はじめありとあらゆる苦しみに苛まれるのが人間です。雑念から解脱するのはダライラマ級にならないと不可能。
そのため、このおみくじは「お前は雑念が多すぎる、けどな、それでも勉強せなあかんで」と、僕を奮起させる応援メッセージになっている、という解釈ができます。
薄っぺらい応援ですが、それでもまあ、理は通っているかなと思えます。
おみくじ視点では「雑念が多すぎる」という未来までは見えていて、でもその対処法が特にあるわけではないので、そんな状況だからこそ勉学しろよな、という応援をするしかない、っていう状況。
おみくじも苦しいんだ。「雑念が多すぎる」一年になることが確定している人に掛けるべき声なんて、僕もわからないよ。これが精いっぱいのメッセージということでしょう。
本当に何なんだ、「雑念が多すぎる」って。常人より遥かに多くの雑念を抱えるということが、一体どれほどの苦難なのか、想像もつかない。
③ 雑念が多すぎる(し)勉学せよ
最悪の並列。
あなたはこの一年、雑念が多すぎる年になりますよ~。あと、勉学しろ。
何これ。救いがなさすぎる。却下。
④ 雑念が多すぎる(にもかかわらず)勉学せよ
②の亜種ですが、少し違うニュアンスが込められている解釈です。
②は、「雑念が多すぎる」という、勉学するには不利な状態であることを示されたうえで、「それでも頑張って勉学しろよな」という応援ニュアンスの解釈でした。
「雑念が多すぎるにもかかわらず勉学せよ」というのは、不利な状態だからこそ敢えて勉学させるという、厳しい環境を指令側が楽しんでいるようなニュアンスです。
(実際そういうニュアンスかはわからないけど、僕はそう感じる)
伝わるかな。
「雑念が多すぎるけど勉学せよ」は、不利な状態を「乗り越えて頑張れ」という、アツくてクサい応援の詩です。
「雑念が多すぎるにもかかわらず勉学せよ」は、不利な状態なのはわかってるけど勉学しなさいという、ムチャでキビシイ指令です。暗闇で何も見えないけどジャグリングしなさい、出来るようになるまで家に帰れません、みたいな。
前者はハートフルドキュメンタリーで、後者は性格の悪いバラエティです。
つまり④の解釈だと、おみくじは「お前、今年めっちゃ雑念多いけど、だから敢えて勉学してください(十中八九できないと思うけど)」という、成功確率が極めて低いことがハナからわかってる上で、すごいしんどい指令を僕に課しているということです。
しんどすぎる。
⑤ 「雑念が多すぎる勉学」をせよ
思い切って、文章を区切る位置を変えてみます。
「雑念が多すぎる」が実は僕の一年を占ったものではなく、「勉学」を修飾する言葉だったというケースです。
つまりどういうことか。簡単です。
あなたはこの一年、「雑念が多すぎる勉学」をしてください、と言っているんです。
ただそれだけのこと。
雑念が多すぎる勉学って、なんだよ。
先ほども言った通り、「雑念」とは基本的に「勉学」とは真逆の位置にある言葉です。「うんちが多すぎるおしっこをせよ」みたいなことです。そんなのできるわけないだろ。
でも、僕は思ってしまいました。
「雑念が多すぎる勉学」をせよ、という解釈が、一番、濃い。
他の解釈では、向こう一年の指針に大して影響されることはないでしょう。何しろ、適当に応援されるか、極悪バラエティみたいに不利な環境を面白がられるだけなんだから。
しかし、「雑念が多すぎる勉学」という、本来あり得ない語義矛盾級のことを「せよ」と言われていると解釈した方が、無理すぎて面白い。
「雑念が多すぎる勉学」とは、一体何なのか。
意味を辞書的に解釈していくことはできるのかもしれません。
しかし、これを語義として言葉に書き下すといろんなものが零れ落ちてしまいそうだと思いました。
なので、ただただ「今年は『雑念が多すぎる勉学』をしてみよう」という程度で留めて今年の目標にすることにしました。
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ここまでが、去年のお正月のこと。
その実践としてやったことの一つが、『スクリーンセーバーみたいに宇宙にも2週目があるのか?』でした。
無粋極まりないですが少しだけ説明すると、僕にとって「雑念が多すぎる勉学」とは、
・勉学(=人類が営々と築いてきた知の蓄積を吸収すること)
・雑念(=人類と関係ない個人的なもの)
の組み合わせかなと思っていて、それを一つに合体させてみるとこうなるかな、というイメージでした。ただし「雑念が多すぎる」なので雑念成分多め、比でいうと勉学:雑念=3:7くらいの気持ちでやりました。
元々は「雑念」側だけで記事を書こうと思っていたのですが、おみくじにしたがって「勉学」要素も入れた結果こうなった、という感じです。
3月に書いて出してしまったので、一旦それで「雑念が多すぎる勉学せよ」に囚われ続ける毎日から離脱することができました。
ですが、これが本当に「雑念が多すぎる勉学」なのか。まだ100%腹落ちはしていません。腹落ちしないまま、2025年が終わってしまいました。
(他にも仕事やプライベートなどで色々試したりやってみたりしたことはありますが、ズバリこれが「雑念が多すぎる勉学」だと思える結果は得られませんでした)
もしかするとこのまま一生、「雑念が多すぎる勉学」について考え続ける人生になってしまうかもしれません。おみくじをまともに受け止めようとするとこうなってしまう。
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新年がちょうど良い区切りかなと思ったので、今まで書いてなかった自己紹介noteを書きました。
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