三沢抄(佐前佐後抄)第七章 亡国の悪法・真言を破折

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          三沢抄(佐前佐後抄)

       第七章 亡国の悪法・真言を破折

本文(一四九〇㌻一三行~一四九一㌻終)
 ただし禅宗と念仏宗と律宗等の事は少少前(さき)にも申して候、真言宗がこと(殊)に此の国とたうど(唐)とをば・ほろぼして候ぞ、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・弘法大師・慈覚大師・智証大師・此の六人が大日の三部経と法華経との優劣に迷惑せしのみならず、三三蔵・事をば天竺によせて両界をつくりいだし狂惑(おうわく)しけるを・三大師うちぬかれて日本へなら(習)ひわた(渡)し国主並に万民につたへ、漢土の玄宗皇帝も代をほろぼし・日本国もやうやくをとろ(衰)へて八幡大菩薩の百王のちかい(誓)もやぶれて・八十二代隠岐の法王・代を東(あずま)にとられ給いしは・ひとへに三大師の大僧等がいの(祈)りしゆへに還著於本人(げんじゃくおほんにん)して候、関東は此の悪法悪人を対治せしゆへに十八代をつぎて百王にて候べく候いつるを、又かの悪法の者どもを御帰依有るゆへに一国には主なければ・梵釈・日月・四天の御計(はから)いとして他国にをほせつけて・をどして御らむあり、又法華経の行者をつかわして御いさめあるを・あやめずして・彼の法師等に心をあわせて世間出世の政道をやぶり、法にすぎて法華経の御かたきにならせ給う、すでに時すぎぬれば此の国やぶれなんとす。
 やくびやう(疫病)はすでにいくさ(軍)にせんふ(先符)せわまたしるしなり、あさまし・あさまし。
  二月二十三日             日 蓮  花 押
   み さ わ ど の

通解
 ただし、禅宗と念仏宗と律宗等の事は、少々前にも申し上げてあるが、特に真言宗がこの国と中国とを滅ぼしているのである。善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵、弘法大師、慈覚大師、智証大師、この六人が大日の三部経と法華経との優劣に迷っただけでなく、三人の三蔵がインドから伝持したとして金剛界・胎蔵界の両界の説を作り出して惑わしたのを、三人の大師は騙(だま)されて日本へ習い渡し、国主そして万民に伝えたのである。
 中国の玄宗皇帝も代を滅ぼし、日本国も次第に衰えて、八幡大菩薩が百代の王を護るといった誓いも破れて、第八十二代の隠岐の法王が代を鎌倉幕府にとられたのは、ひとえに三大師の流れを汲む大僧等が祈ったがゆえに「還って本人に著(つ)きなん」となったのである。鎌倉幕府はこの悪法と悪人を対治したがゆえに十八代にわたって跡を継いで第百代の王まで護られるはずであったのを、また彼の悪法の者達に帰依したがゆえに、国には主がいなくなったので梵天帝釈天・日天月天・四天王が計って、他国に仰せつけて脅かしておられるのである。また、法華経の行者を遣わして諌めたのに、その諌めどおりに対冶せずして彼の法師等に心を合わせて、世間の政道と出世間の仏道を破り、ひどく法華経の敵になられている。すでに時がたったので、この国は滅びようとしている。
 疫病は、まさに戦に先駆けて起こっている兆しである。嘆かわしいことである、嘆かわしいことである。
  二月二十三日             日 蓮  花 押
   み さ わ ど の

語訳
玄宗(げんそう)皇帝
(六八五年~七六二年)。中国・唐朝第六代皇帝(※)。在位は先天元年(七一二年)から天宝十五年(七五六年)。第五代睿宗(えいそう)の第三子。姓名は李隆基。諡(おくりな)が玄宗皇帝。第四代中宗の皇后である韋后(いごう)の禍を平定し、睿宗を立て、みずからは皇太子となった。即位後は外政を抑え、民政に努力したので「開元の治」と呼ばれる安定した世を現出させた。しかし晩年は楊貴妃(ようきひ)を寵愛し、政治を怠り、奸臣を用いたために政情が混乱し、ついには安史の乱の勃発を招いた。その後は譲位した粛宗(しゅくそう)との関係も思わしくなく、不遇のうちに世を去った。開元四年(七一六年)善無畏三蔵が来唐して以来、真言宗に帰依したといわれる。
〈追記〉
※玄宗の唐朝での即位順は第九代である。ただし二人の皇帝(中宗、睿宗)の重祚と、在位期間一か月に満たず廃位された皇帝(殤帝(しょうてい))を含めており、事実上六人目の皇帝である。

百王
 百代にわたる王のこと。第五十一代平城(へいぜい)天皇の世に八幡大菩薩の託宣があって、百王を守護するとの誓いがあったという。諌暁八幡抄には「平城天皇の御宇に八幡の御託宣に云く『我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり百王を守護せん誓願あり』等云云、今云く人王八十一・二代隠岐の法皇・三・四・五の諸王已に破られ畢(おわ)んぬ残の二十余代・今捨て畢んぬ、已に此の願破るるがごとし」(五八七㌻)とある。

還著於本人(げんじゃくおほんにん)
 法華経観世音菩薩普門品第二十五の文。「還(かえ)って本人に著(つ)きなん」と読む。正法を持(たも)った者を呪詛する者は、かえって本人が調伏の祈りを蒙ることになるということ。四明知礼の観音義疏記巻四には「還著本人とは、凡(およ)そ呪毒薬乃(すなわ)ち鬼法を用いて人を害せんと欲するに、前人邪念ならば方(まさ)に其の害を受く。若(も)し能く正念ならば還って本人に著(つ)きなん」とある。

講義
 当時、蒙古の再度の襲来が取り沙汰されるなか、幕府は盛んに真言僧に敵国調伏の祈禱を行わせていた。三沢殿は幕府の中枢に関係をもっていたことから、大聖人は真言が亡国の邪法たる所以(ゆえん)を、中国、日本の歴史のうえから実例をあげて指摘されている。
「真言宗がこと(殊)に此の国とたうど(唐)とをば・ほろぼして候ぞ」と仰せのように、真言宗が亡国の悪法であることは中国、日本の先例に明らかである。
 善無畏・金剛智・不空は三三蔵と呼ばれ、中国に真言密教を弘めた中心人物である。そして、中国から日本に真言密教を伝来したのが弘法・慈覚・智証の、いわゆる〝三大師〟である。弘法は日本における真言宗の開祖であり、慈覚・智証は比叡山延暦寺の第三代・第五代の座主で、天台宗に真言密教を取り入れ、理同事勝の邪義を構えた。
 まず善無畏は、インドからもってきた真言密教を中国へ弘めるにあたって、胎蔵界・金剛界の曼荼羅を、あたかもインドからもともとあったようにみせかけて作り、人々を誑惑(おうわく)してきたのだといわれている。弘法等の三大師は、それにすっかりだまされ、日本に習い伝えて、一国に弘めたわけである。
 玄宗皇帝が唐の世の衰亡を招いたのは、この真言の悪法に帰依したためであり、また我が国が平安朝中期以降、次第に衰えて八幡大菩薩の百王守護の誓いも破れ、第八十二代隠岐の法王(後鳥羽上皇)が承久の乱で北条義時に敗れ隠岐へ流罪されたのも、真言の悪法で鎌倉幕府調伏の祈禱をしたためであると指摘されている。
 すなわち「還著於本人(げんじゃくおほんにん)して候」と仰せのように、真言の悪法によって人を害そうとした結果、祈りが逆になって、自らの破滅を招いてしまったのである。
 それに対し、関東すなわち鎌倉幕府は、真言の悪法悪人を対冶したのであるから、八十二代の後を継いで、百代までの残り十八代の間は八幡の誓願どおり守護されるはずであった。にもかかわらず、今度は鎌倉幕府自身「かの悪法の者どもを御帰依」するという愚を繰り返しているのである。
 それは、蒙古軍の襲来に対して、真言の僧らに命じて敵国調伏の祈禱を行わせている事実をいわれている。
 鎌倉幕府は初めのころは素朴で、京の公家等が重んじていた仏教の祈禱などに頼らず、合理的な実力主義を規範としていたが、体制が安定化するにともない、文化面でも京に劣らぬものを鎌倉に充実しようと志向するようになった。そこで建築家や彫刻師とともに仏教の高僧を招いて各宗の寺院を建立し、万事につけて種々の祈禱を行わせるようになった。いつしか、かつて京の朝廷を敗北に陥れた真言の悪法を、それと知らずに鎌倉方も取り入れ、その害毒に染まるにいたったのである。
 それゆえに、主を失った我が国に対し、梵釈などの諸天が計り、他国(蒙古)に仰せつけて責めさせているのだといわれている。
 また、一往の辺では、法華経如来寿量品第十六に「遣使還告(けんしげんごう)」とあるように、釈尊の使いとして遣わされたのが日蓮大聖人であられる。その大聖人の三たびに及ぶ諌めにもかかわらず、幕府は法の正邪・勝劣を明らかにしないどころか、邪僧を崇重して、かえって大聖人に対し理不尽な迫害を重ねてきた。それは鎌倉幕府の治世の根本とした法典・貞永式目にも背き、また仏道をも破ることであるので「世間出世の政道をやぶり」と仰せになっている。
 大聖人は、このままでは日本は亡国の悲運に陥ることは確実であり、いま流行している疫病は、その亡国の大合戦(蒙古襲来)の起こる前兆であると見抜かれ、幕府の愚かさを厳しく指摘されて本抄を結ばれている。

出典:日蓮大聖人御書講義 第三十四巻(編著者 御書講義録刊行会 発行所 聖教新聞社)

                  三沢抄(佐前佐後抄)―了―
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