死に物狂いで射ちながらも
「これで全滅かなァー」と
チラと脳裏をかすめた

お国を守る兵隊さんたちの行動に
誰も文句を言う人はいませんでした

若者は全員
「お母さん」と叫んで沈んで行った

グラマンの空襲が
定期便の如く
11時頃になるとやってきた

毎晩、空襲、雨あられのごとく焼い弾

人は生れる時代を選ぶ事はできません

焼野原を見ながら、
だまっておにぎりを食べていました

今日も生きている自分にほっとする

遺骨を岐阜まで迎えに行きましたが
中に入っていたのは木のかけら1つ

お乳が出ないので
死んでしまうと泣き叫び
気が狂いそうなお母さんもいました

戦後90年へ ー記憶と継承ー

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戦争とは何だったのか
あの時代に何があったのか

戦争が終わって2年近くたった1947(昭和22)年5月3日、本紙は日本国憲法の施行を「日本の夜明け」との見出しで伝えています。この80年間、新聞は平和と民主主義、そして人権を尊びながら歩んできました。
報道の支えとなっているのは、「戦争を二度と繰り返すまい」という思いがこもった読者の数々の声です。ご家族を亡くしたり、戦禍をくぐり抜けたりした人たちの体験記を、戦後80年がすぎた今もちょうだいしています。この5年あまりの間にいただいたものを、「戦後90年へ」のタイトルで中日新聞Webを中心にまとめ、次の時代につなげていきます。
世界ではいまだ争いの絶えない中、先の大戦の証言を記録として残し、これからを生きる子どもたちにも不戦の意味を届けるのが、私たちがなすべきことです。決して、「闇」に戻らないために。

 2026(令和8)年1月

こちらで戦争体験を募集しています

読者が見た戦争

  • 幼い子3人と 命がけの帰国

    愛知県 春日井市

    松浦さかえ

  • 壕に逃げ 死の順を待つ日々

    愛知県 名古屋市

    松岡伶子

    92

  • 海軍特攻隊員の 終戦の記憶

    岐阜県 可児市

    岩月治久

  • 遺骨箱の中 木の欠片ひとつ

    愛知県 名古屋市

    牧野武子

    86

  • 海に沈みゆく中 「お母さん」

    愛知県 名古屋市

    青野真里子

    80

  • 「これが平和か」 父の目に涙

    愛知県 名古屋市

    矢野美代子

    85

掲載している手記は原則、投稿者から届いた原文のまま表記しています。
言葉の誤りや史実との相違、不適切な表現が含まれる場合もあり得ることをご了承ください。
投稿者の年齢は、投稿時または取材時のものです。

幼い子3人と 命がけの帰国

愛知県 春日井市

松浦さかえ

 私は中国の山西省太原市と云う處に主人の会社があり四年程住んでおりましたが昭和十九年のお正月も明けた頃突然主人に召集令状が参りまして出征致しました。一年位の間に次々と会社の人にも赤紙が来て会社は開散となりそれぞれみんな別れて引揚げる事になってしまいました。 私は幼ない子供三人連れて以前住んでいた満州の興安南省洮南と云う處に知人を頼って行きました。そこなら日本より安全と思って行った筈でした。

 しかし、二ヶ月程経った八月九日の朝の事でした。洮南に駐屯している部隊から、今夜ソ連の戦車隊が洮南へ攻めて来るから覚悟するようにと連絡が入りいよいよ集団自決する日が来たかと大人はみんな覚悟はしても、まだ長女が七才、長男四才、次女二才と幼ない子供達が可哀想でどうしたものかと途方にくれていると又軍の方から今夜9日十一時に通化(地名)へ避難列車がチチハルから出るからそれに乗るように、荷物は一ケ取りに来るから用意しておけとの命令です。やれやれ自決はしなくて済んだとほっとする隙もなく、荷物を造るのに大あわてで、当座必要な物と大事な物を、一番大きくて頑丈な行李にぎゅうぎゅう詰にして鍵をかけ持って行ってもらいました。こんな時は、女でもすごい力が出るものだとつくづく思いました。

 満州の八月は昼間は焼けつくような暑さでも、日が暮れれば肌寒い位になり、それも夕方から雨がしょぼしょぼ降り出し、大急ぎでおにぎりを作ったりして、背中には着がえなど一杯つめたリュックを背負い出発です。二才の子供も雨の中を駅まで歩かねばなりません。子供心にこの切羽詰った今の状況が分るのか、三人共おとなしく、とぼとぼと一キロ程ある道を歩きました。それもふだんならシャンシャンと馬車に乗って通る道がソ連の戦車が落ち込むように道の真中は所々壕が掘ってあり、真中は歩けず縁の方を行列になって歩きました。十時半頃やっと駅に着き、大ぜいの日本人でごった返しておりました。 十一時過ぎ避難列車が到着しても、チチハル方面から乗って来た人で満員、とても乗れるような状態ではなく、でもこの貨車に乗らなければ死を覚悟しなくてはなりません。子供の事を思うと何としてでも乗りたいと思い、あっちこっちと走り回り手に持っていたおにぎりなど全部捨ててリュック一つだけにしてしまい、もう駄目かと思いましたが、親切な兵隊さんが貨車の上から手を延ばして子供を抱き取って下さり私達はよじ登ってやっと貨車の中に入ることが出来ました。足を入れたら身動きも出来ない程ぎゅうぎゅうです。でも乗せて頂けて本当に助かったのです。この貨車は私達を通化へ避難させるべく出発したのです。

 一時的に避難するようなつもりで、家の荷物は親しくしていた満州人の超さんに帰って来るまで留守番を頼むと言って出て来たのです。私達を乗せた貨車はがたん、ごとんと動いたり、止まったりで普通なら二日位で来られるのに四日もかかり、雨が降れば屋根のない貨車ですから、ずぶぬれ、天気がよければかんかん照り、こんな列車に乗っていたら子供を死なせてしまうと思い四平街とゆう駅に着いた時降りてしまいました。すると駅の日本人の人が、この列車に乗らないと何處へも行かれないから乗らなきゃ駄目だと言われて又乗りました。それまでぎゅうぎゅうだった貨車の中が大分降りた人がいるらしく、ゆったり座れる程になりました。赤ちゃんを連れた人などお乳が出ないので死んでしまうと泣き叫び気が狂いそうなお母さんもいました。でも誰もどうする事も出来ないのです。列車に乗って以来、子供達も駅でもらった真黒のカンパンを少し食べた位で水ばかり飲んで元気がなくしょんぼりしている処へ、チチハルから乗って来た人達は、お米やお鍋まで持って来られたので、列車が長いこと止まっている間に御飯を焚いて来て、おにぎりを作りみんなで食べていました。それを子供達は恨めしそうな顔で横目でじっと見ているので、私はたまらなくなって子供達に一個づつ恵んで頂けませんかとお願いしてしまいました。何も入らない御飯を握っただけの物でも、六日振りに食べるお米の美味しさは格別だったと思います。列車に乗って九日目、十七日に日本が降伏したとの報せにみな信じられない、何かの間違いだろうと思いましたが、やはり本当だと分かってみんな泣きました。通化へ避難する筈の列車は、そのまま朝鮮に入り釜山へ到着しました。まさかこのまま日本へ帰るなど思いもよらない事です。洮南を出る時預けた、たった一つの大切な荷物も釜山の駅に着いてはいませんでした。お金もなく本当に裸になってしまったんだと痛感せずにはおられません、公会堂で一泊ごろ寝して、翌日貨物船で博多へ着き休む隙もなく、東京行の汽車に乗りましたが、超満員で本当に大変でした。岐阜の駅に降りた時殆ど焼野原となってしまった街を只呆然と眺め、昔住み馴れた家もなく、仕方なく羽島の親戚の家に乞食のような姿で転げ込みびっくりさせてしまいました。二ヶ月後主人も無事復員して参りましたので、その時の嬉しかった事は忘れる事は出来ません。何より三人の子供を無事に連れて帰れた事は本当に幸せだったと感謝しています。

 あれからもう六十一年、今では世の中がすっかり変わってしまいとてもあの頃の事など考えもつかないような生活になりました。私もお蔭様で健康に恵まれ 自分の好きな事をやらせて頂き今は本当に幸せな人生を送らせて頂き有難い事だと毎日感謝しております。残り少ない人生ですから一日一日を大切に朝は六時半のテレビ体操から始まって夜は九時には床に付くように心がけております。それが私の健康法と思っております。長い時間下手な朗読で分りにくかった事と思います、本当に有り難うございました。

松浦さかえさんは2019年8月22日に104歳で亡くなりました

壕に逃げ 死の順を待つ日々

愛知県 名古屋市

松岡伶子

92

 七才の春、多くの子供達と共に、尋常小学校に入学しました。

 校門を入ると、二宮金次郎の像が飾られ、軽く会釈して校舎に入ります。やがて国の方針で国民学校と改名され、体育の授業は竹槍と薙刀の訓練他、手旗信号、モールス信号、その他教育勅語の暗記等々の勉強でした。

 やがて戦爭が始まり、学校も自宅も道路疎開になり、全員、近くの二つの学校に分かれ自宅の無くなった私は、祖母の家の近くに引越し転校しました。或る日、校長先生の挨拶の中で「集団疎開せず町に残っている子供達は大人の足手まといになる非国民」と云わた言葉にショックを受け、母に「もう学校に行かない」と告げました。当時、自宅の有る人は爆弾が落ちた時類焼を防ぐため母と共に家に残ったのです。更に父が出征し弟三人の世話もあり集団疎開は出来ませんでした。私の態度に困った母は、遠い親類に頼み、一年生と三才の二人の弟を連れて疎開しました。

 又その転校で友人も無く、見渡す限り田畑の田舎道は、風も冷たく、悲しく淋しい思いでしたが、弟達が待っていると、つい足が速くなります。この頃、防空ごうは、男子が一番奥で 六年生の女子が入口と決められていて毎日の空襲で、爆弾の落ちて来る音に、遠近がわかる程でした。

 やがて中学受験が近づきました。転校転校で落付いて勉強も出来ず心配しましたか、それでもそんな中で一生県命に勉強しました。しかし受験日の前日、ラジオ放送で「子供が多く集まるのは危険、明日の入試は中止」と云われ、ただただ望然としました。

 そんな中で何とか高等女学校に入学しました。物資不足の折から制服は無く、学校を選ばず有る物で登校です。学校の窓は爆弾で無く壁は落ち、とても勉強出来る状態でなく 教科書も無いまま、校長先生のお話だけです。空襲がおさまり、電車も止り、焼け野原の街をただ歩いての岐路、電線にぶら下った手、土の中からほんの少しのぞいている人の姿を掘っている人の手伝い等々、それでも二時間近くかかって田舎の家に帰りました。

 空襲は一日毎に激しくなり、通学も思う様に出来無くなり、田舎の学校に転校する事になりました。しかし田舎道は見渡す限り何も無く、或る日いつものように帰路を急いでいた時の事です、突然襲って来た飛行機からの機銃掃射に会い、急いで田のうねの間に飛び込みました。恐る恐る上を見ていると、打っている米兵の姿が見えたように思いました。やがて飛び去った機の姿にほっとした自分の廻りには30cm程の間隔に玉のあとが残っていました。

 ラジオ放送で「しおの岬南方洋上を北上中」と云う言葉におびえ、毎日壕に飛び込み一晩暗い中でふるえ、夜の明けるのを待ちます。一日毎に近くの人々の死を知り、夜毎、自分の死の順を待つ日々です しかしやがて朝日がさし込み廻りが明るくなると、今日も生きている自分にほっとすると同時に、明るく白み始めた朝が何と美しく感じられました。

 暑い夏の日、校庭に集められた私達に、天皇陛下の放送がありました。放送の内容は良くわからなかったものの、先生方から戦争が終った。敗けた。先生方の涙を見たものの私は、今日から布団の中で寝間着に着替えて寝られる思いで嬉しさが一杯でした。

 やがて教育方針が一変し、昨日迄の軍国主義から、デモクラシーとは、となり、学校も新生中学、新生高校と変りました。

 久し振りに帰った名古屋の街は、ただ焼け野原で、栄の真中にポツンと残った中日ビルと名大病院のあと等々、茶色に変身した姿に言葉を失いました。

 そんな中、お腹が大きくふくらみ、目はうつろ「お母さん」「お母さん」と、あても無く歩いていた幼い子供の姿が今も私の胸から離れません。こんな悲劇を生むのが戦争です。私の体験は誰もしないでほしいと思います。

海軍特攻隊員の 終戦の記憶

岐阜県 可児市

岩月治久

1945年8月15日の回想録

 海軍特攻隊員の私は7月上旬より愛媛県瀬戸町三机の小学校に居住し最後の訓練に励んで居た。三机と言う所は1939年(S14年)より特殊潜航艇の訓練基地として真珠湾攻撃隊の岩佐中佐以下、シドニー攻撃の中馬中佐外多くの特攻隊員が日夜訓練に励んだ由緒有る所です。我々後に続く者として日夜訓練の連続でした。その内容は潜行、浮上、水中航走襲撃、露頂訓練など様々であったその訓練が終了すれば一人前の搭乗員と成り、特殊潜航艇を受領すべく造船所へ艤装に行く楽しみが待っていた。この年は猛暑の連続であり8月13日迄は敵桟グラマンの爆撃が定期便の如く11時頃になるとやって来たが14日は敵桟が来ても空襲は行わず、ビラを散布して飛び去った。「ポツタム宣言」のビラである。ビラの裏面には漫画の「フクチヤン」が描かれていた。内容は御飯を食べて居る絵であり戦争を止めれば茶碗に山盛りの御飯があり、戦争を継続すれば、御飯が少ししか入っていない絵であった。

 15日も朝から暑い日であった。正午より玉音放送(天皇陛下)が有るから校庭に集合とのことであった。何を放送されるかな、それとも激励の放送かと思った。

 放送が始まる「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ」その頃より雑音が多くて(防害電波)良く聞き取り難く、終りの「朕ガ意ヲ體セヨ」としか聞き取れなかった。 それと今日も空襲が無く不思議に思っていた。

 15時頃に成ると誰かが町では戦争に負けたと言う声が聞こえてきた。夕刻近くに陸軍の兵隊が帰って来たと言う話が伝わって来た。

 夕飯後住民達の不安等を取り除くため、艇長と2人1組で町へ巡羅に出た。

 その内に色々な情報が入り乱れ航空隊では特攻桟が沖縄へ向け飛んだとか、我が隊では協議中とか諸々の情報が入って来た。

 8月18日頃まで三机に止まり命(めい)に依り本隊に帰る事となった。

 本隊に帰って見れば早い者は復員してもう居なかった。

 我々も残務整理後 22日の夜大浦崎本隊で一夜を過し23日の朝、艇長、戦友らに別れを告げ舟で安芸阿賀に上陸し復員の途に着いた。

 属に言う復員列車である。

 上り列車は呉からの軍人、軍禺、工員の復員者で待てど万員で乗る事が出来ず、下り列車にて広島駅経由で山陽本線にて復員した。途中、広島から10粁以上離れた山の木々が枯れて眞赤になり、屋根の瓦は飛び酷いものでした。広島駅にて2列車見送り無蓋貨車に乘る事が出来た。途中雨に降られ三原にて下車一泊する。翌24日有蓋貨車にて岡山止り故、乗換え、夜る遅く大阪に着く大阪にて環状線にて鶴橋より近鉄(当時関西急行)に乘り換。終電車名張行に乗車駅にて車中泊翌朝25日名張出発、途中木曽川鉄橋が爆撃に依り桑名駅にて国鉄に乗換し名古屋に到着復員した。途中弱者を助け、駅員、その他の人々との親切、協力を得で復員しました。


 当時、18才 海軍一等飛行兵曹

岩月治久さんは2019年に92歳で亡くなりました

遺骨箱の中 木の欠片ひとつ

愛知県 名古屋市

牧野武子

86

 父は、昭和18年1月に出征しました。

 私はまだ幼かったので、何もわからないまま、大人たちと写真をとってもらいました。(この時の写真があります)

 3月に名古屋笹島の公園で面会したことは覚えています

 それが父を見た最後です。

 フィリピンへ行った父から、私あてにハガキが届き、カタカナの文章を母が読んでくれました。

 昭和19年、今度は1年生になる私のためにフィリピンの子ども用ランドセルを買い、日本へ送ってくれました。

 終戦になり、父の帰りを待つ私たちのところへ戦友が来て、父の最期を教えてくれました。

 1班が前を進み、父の2班は後ろ。

 なぜか、1班が道をまちがえて戻る間に2班が正しい道をそのまま進み、父たちはみな、亡くなったそうです。

 「お父さんたちも同じようにまちがえればよかったのに」と、思いました。

 その後、遺骨を岐阜まで迎えに行きましたが、中に入っていたのは、木のかけら1つ。

 4年生の私には理解できず、戦争とはこういうことなのかと、悲しかったです。

 食べ物がないのはもちろん、5才の弟の面倒をみたり、畑の手伝いをするために、学校も休みました。

 今も、遠いところで戦争していると思うと、あの頃のつらい思いがよみがえってきます。

海に沈みゆく中 「お母さん」

愛知県 名古屋市

青野真里子

80

 戦後80年 戦争に行った人に聞いた話を次世代に伝えておきたい話。

 父は21年前96才で名古屋の私の家で亡くなりました。デイーサービスの人達、私達家族にも戦争の悲惨さをよく話して陸軍で階級があり父は中の方の階級でもそう言えば軍服を着た写真の衿に紋章がありました。

 でもその紋章のおかげで支那事変の時に艦船が攻撃されて海に沈んで行く時も衿の紋章を見て助ける順があったそうです。でも若者達は助けてもらえず海に亡くなりました。でもその時若者は全員「お母さん」と叫んで沈んで行ったそうです。でも沈むまで「おかあさーん」「おかあさん」と叫ぶも誰ひとりも「おとうさん」とは言わなかったと父は淋しくうなだれていました。

 命からがら帰って来た父ですが銃の当たり具合が悪かったら戦死だったのが脚の太股に銃弾を受けてお尻まで突き抜けた時に勿論麻酔も無く、ぐりぐりと消毒されて脚とお尻にえぐられた痛痛しい跡が残っていました。でも生きて帰ってこれたのは父だけで兄弟は戦死しました。

 父の家は代代続く酒屋を大阪の一等地で営んでいましたが帰って見に行ったら店は無く家の住所は近くの橋の下の住所になっていたそうです。(橋の名前は忘れました)

 それから何度も役所に行って抗議してもその場所は返してもらえず無汰だったとの事です。

 父は戦地で銃弾に倒れた戦友を振り切って逃げたり怖さや無残さを大好きな酒を飲みながらくだを巻いていたので私達は適当に聞いていましたが今になりもっと真剣に聞いておけば良かったと後悔しています。

 でも私は今でも支那、支那事変、抗撃されて若者が海に投げ出されて亡くなって行く時に全員が「おかあさん」と叫んで沈んでゆくという事の三つは鮮明に覚えています。

「これが平和か」 父の目に涙

愛知県 名古屋市

矢野美代子

85

私の戦争体験

 あれから、もう八十年になろうとしています。一九四五年、私満六才国民小学校一年の時でした。爆弾で多くの人が死にました。

 大阪から親戚を頼ってその年の春、岐阜市へ疎開をし、そして七月九日、まだ全部の荷も解かぬ内に空襲を受けました。

 生憎その日は、選りにも選って父は軍需工場での宿直日。母と私、弟妹の四人。夕方、偶然にも母の妹が遊びに来て泊ることに。

 そしてその日の夜遅く忘れもしない、いやな気分の空襲警報。

 私と妹は叔母に連れられ、一足先に長良川へと逃げました。祖父母一家も長良川堤防の中腹に空家の家を貸りており、何かあればそこへ集合と言う手筈になっていたのです。

 十分~十五分程歩き、私達三人はその家に仙り着きました。

 ホットする間も無く、敵機アメリカのB29が一斉に爆弾を落し初めました。怖くて家の中には居れず、外へ飛び出でました。私は叔母の手を握っていましたが、容赦なく落ちる爆弾に手が離れ、目の前の、とうもろこし畑に入り、教えられていた「伏せ伏せ」(耳と目を伏いでしゃがむ)をしていました。

 すると見知らぬ男性が、私の手を引っぱりその人が覆い被さり、お腹の下に入れてくれました。その男性はぶるぶる震えていました。かなりの心臓の音も。今、想うにはその人は怖いのでは無く、怒りとか昂奮がそうさせていたのだと思っています。

 一時、B29が去って畑を出た時、叔母と再会、その男性にお礼を言ってくれました。その人は兵隊さんの様でした。国防色の軍服を着ていました。なぜそんな処に兵隊さんが居られたのかは今も不思議なままです。去って行かれる時、バシッと敬礼された姿が目に残っています。

 B29が去って戻って来る少しの間に私と叔母は河原へと移動しました。堤防の家を出てからすでに曽父母家族と私の妹とは違う方向に逃げ、バラバラになっていました。

 再び戻って来たB29が瀑弾を落し初めました。瀑弾の多くは主に焼夷弾と云って、落す時には一本づつでは無く、何本もの束に結わえられ、それが空中で炸裂、雨、あられの様に地上に落ちて来るのです。そんな最中私は尿意、「叔母ちゃんオシッコ」と。すると叔母は「そのまましなさい」ときつい口調で言いました。仕方なくパンツのままで用を済ませました。気持悪いはずですが恐怖が先で、それ処ではありませんでした。

 一気に何百もの爆弾が落とされ、それはそれはすごい瀑音、河原なので草は少々生えているものの身を隠す術もなく、只々「伏せ」をするのみ。加えて照明弾と云うのも時々落され、夜空が昼間の様にパーッと明かるくなり、一~二分も続くのです。子供心に速く暗くなって、なってと祈りました。

 戦争映画そのものの実戦でした。つんざく音と長時間の爆撃、生きた心地はしませんでした。それでも夜がやっと明け初めた頃、B29は遠のいて行きました。

 何人かの人々が命を落したり負傷したりしていました。叔母が私に「美代ちゃん、見てはいけない、見てはいけない」と言いました。見たい気持はありましたが、叔母の云い付けを守りました。今から思うと若い叔母(当時二十才~二十一才)の私に対しての配慮だったのでしょう。

 朝になり、父が堤防伝いに長良川の一軒家に戻って来ました。めずらしくか運良くか、一軒家は焼けずに済みました。

 堤防から見る岐阜市は全滅、一面の焼野原でした。

 母と弟が来ていないと云う事で、父が捜しに行くのですが、燃え盛る家々、道路もぐちゃぐちゃ、熱くて行くことが出来ず、一日に何回も、日にちを跨いで四日目位にやっと、母と弟を見付けることが出来ました。

 こうして幸運にも一家五人揃うことが出来ました。母が云うには、私達の後を追うものの途中で爆撃が酷くなり、止むなく広場に逃れていたそうです。爆撃に加え火事の火柱、火の竜巻が何本も近ずき、あれに巻き込まれれば終りと思ったそうです。

 父の必至の捜索の末(最後の方は道路に、転がっている死体を見て捜したそうです)見つけたのは自宅の焼け跡に放心状態で立っていたとのこと。

 一家が揃い、それがせめてもの幸運でした。母と弟が見つかる前日、私と父は堤防に座って、くすぶる市内の焼野原を見ながら、だまっておにぎりを食べていました。父が、いきなり「これが平和か」と絞り出す様な声で言いました。私は父の方を向きました。

 父の目から一筋の涙が流れていました。その時、私は幼いながら、戦争は絶対にだめ、してはいけない。他国との話し会いで。傷つくのは一般の弱い人々。国の違い人達に大きな声でそう叫びたい気持で一杯でした。

 現在八十五才の私、今もそう思っています。人々を悲しませない平和が、この先もずっと続きますように。深く大きな戦争の記憶です。

B29 爆弾投下 焼野原 「これが平和か」 父の涙は

名古屋空襲 赤く染まった空

愛知県 名古屋市

工藤美甫子

92

戦後80年 昭和100年 戦争体験者の声 「小学生時代と戦争」
■ 私の小学生時代と戦争

 人は生れる時代を選ぶ事は出来ません。 昭和8年に生れた私の世代は、だんだん、軍国主義に進む日本に洗脳されていきました。小学校生活の前般は、平穏な日常生活で、父母と三人の幸せな家庭生活が出来ました。

 昭和十五年四月、満開の桜の下、尋常小学校に入学しました。二年生になった昭和十六年四月、名称も国民学校と変り、私達は少国民と呼ばれ、お国の為に役立つ人に育つように、軍国教育が少し宛、進んでいきます。

例えば小学生の為に次の様な歌も出来ました。

勝ち抜く僕ら少国民
天皇陛下の御為に
死ねと教えた父母(ちちはは)の
赤い血潮を受けついで・・・・・・・

 昭和十六年十二月八日に太平洋戦争が開戦、とても寒い朝、全校生徒が校庭に整列して、校長先生より、「米・英と戦闘状態に入った」と、訓話があり戦争が身近になったと思いました。通知表の評価も甲・乙・丙から、優・良・可と変りました。

 三年生までは今迄通りの学校行事、運動会学芸会、展覧会、遠足、修学旅行等を楽しく行っていました。

 四年生になり、担任だった男の先生に、一学期の終り頃、召集令状がきて、海軍に入隊される由、お別れに“海ゆかば”“太平洋行進曲”を皆の前で歌われ、涙の中でお別れをしました。(先生は戦死されたそうです)教育勅語を暗記書写もしました。図工でも“撃ちてし止まむ”等のポスターや飛行機の絵、戦意高揚が進みます。

 五年生になった昭和十九年、都市の小学生の学童集団疎開という命令が国から出ます。大都市の国民学校は受け入れ先の市町村を、探す事が大変だったと聞いています。対象は三年生から六年生、家族が都市より疎開出来ない学童が基準です。

 一学期の間に準備され、二学期から実施と決ります。私の通う名古屋市立高見国民学校は県下丹羽郡扶桑村に決定。村内の六つのお寺に分宿する事になります。男子は三、四、五、六年生が夫々四つの寺、女子は三、六年生で一つ、四、五年生が一つのお寺に決りました。十九年の八月、夏休みの終り頃、校庭に並んで出発式 家族に見送られて、学童集団疎開の始まりです。私は五年生でしたので一クラス、四年生が一クラス、担任の先生が夫々一人宛と、寮母さんが二人、名古屋から行き、一緒の生活が始まります。毎日の生活はお寺(龍泉寺)の本堂を拠点に近くあった扶桑南国民学校の教室を借りて、ランドセルを背負って登校して、担任の先生から授業を受け、勉強しました。

 学校から帰ると本堂で過し、夜は、本堂一杯に布団を敷いて寝ます。食事も本堂に机を並べていただきました。不自由に思ったのはトイレが少ない事、お風呂もお寺の風呂に何日かに一度、順番に入った事、洗濯も自分でしたと思いますが余り記憶にありません。

 宿舎のお寺は木曽川の近くにあったので、和尚さんや先生に引率されて、木曽川の堤防上の道を歩いて犬山城まで遠足に行きました

 天主閣からの眺めは素晴らしく、久し振りの遠足を楽しみました。村の子供からは“疎開の子”といじめられ、先生の使い等で村の道を通る時は全速力で走りました。

 昭和十九年十二月、名古屋の三菱の工場が爆撃を受けます。二十年に入ると、益々、戦局は悪化、東京大空襲に続いて、名古屋も絶えず爆撃をされる様になります。三月の中旬の夜、扶桑村からも真赤に染った名古屋の空が見え、皆で手を繋いで家族の無事を願って震えていました。私の家族も名古屋の空襲で焼け出され、伊勢の郊外にある父の故郷へ疎開します。家族が疎開すると集団疎開から退出、という定めで、私も五年生の年度末に、集団疎開から離れます。

 疎開先は農業を営む父の生家でした。父は国民学校の教師で集団疎開の学童を引率して赴任中でした。従って母と私達三姉妹が叔父の家に世話になったのです。六年生になった四月、地元の学校へ転校しました。その頃は大都市に限らず、中小都市や軍需工場は確実に攻撃目標になりました。七月の或る日、疎開先の集落と川を隔てた向う側にあった軍需工場をB29が爆撃、その流れ弾が隣家に落ちて、家屋焼失、死亡者も出ました。母は恐怖の状態を、当時、名古屋から疎開して挙母町に住んでいた父母に、手紙で知らせると、直ぐに母が伊勢まで迎えに来ました。(母の母)、私の祖母は、最愛の一人息子が戦死して、子供は母だけになりましたので、どうしても生きて欲しいという親心だったのでしょう) 二十年八月一日、とても暑いでした。女五人妹は三才、と生後九ケ月、当座の持ち物を手一杯持ち、何時、空襲警報が出るか解らない中を、一日かけての異動でした。途中、近鉄の木曽三川にかかる鉄橋は爆破され、折返し運転で列車を動かしていて、不通区間(益生駅~長島駅)は、下流の橋を渡って歩くのです。

 三才の妹は泣いて歩きません。知らない方が、おんぶして駅まで助けて下さいました。

 戦時中のきびしい時代でも日本人の親切に感謝一杯でした。やっと空襲の無い挙母町の田舎の家に着き、ゆっくり寝りました。半月後、八月十五日の終戦を向えます。二学期から挙母第三国民学校へ転入、三河弁にも慣れた頃、焼け残った借家が見つかったと、父が迎えに来て、名古屋に戻りました。屋根に爆撃の穴があいた家でしたが、焼け跡にバラック住いも多い中、雨露が凌げるだけ、幸せでした。十一月から高見国民学校へ、校舎は半分位、残っていて、男女各一クラス宛で授業が始りました。十二月、名古屋に大雪が降った事を覚えています。三学期は女学校受験準備の為一生県命、勉強をして、受験しました。

 三月、無事卒業式が行われ、私の小学生時代が終りました。

「助けて」 あちこちから悲鳴

愛知県 名古屋市

水野八重子

94

 瑞穂区堀田に住んでました。兄三人は軍に取られ男手が無くて、母は横の畑に防空豪を掘って、中は疊三枚を横にした位の穴で屋根は丸太を渡し、トタンを乗せて、土を掛けただけ。

 毎晩、空襲、雨あられのごとく焼い弾、焼い爆弾の時は耳がチーンとして、今日は死ぬと思い耳をふさいでました。トイレに行きたくて、外に出たら、照明弾が宙に浮いて一面眞昼間。民家が標的になって、次から次へと、火災、焼い弾は六角形の筒状になって落ると油が出て火災、隣近所、あちこちから助けてーと悲鳴でした。日頃の訓連で隣組のバケツリレーでした。私は子供でしたから防空豪から頭を出したり引こんだりあちこち火災の最中大きな家の塀に寄り沿って、兄嫁が6ヶ月位の姪を背から下して離乳食(おじや)を当てがう時も、火災が起きてる所からトタンが紙切れの様に舞い上ってた。戦爭は、国民が犠性食量の配給も無いに等しい、食べ盛りの私達は、ひもじい思いばかり。

「疎開者の子」 呼ばれ悲しく

愛知県 名古屋市

女性

77

 私は戦争体験者ではありません 戦後生まれです

 私は父がビルマに行き 元気で帰えった事は知っていましたが帰ってからの苦労は知らずに、母の田舎で育ちました。子供が大きく成り、妹は長い闘病の末亡くなりました。その時、父は妹を火葬にしました

 回りの人の言葉も聞かず、そして家族で田舎を引こしました。私にはいろいろな大変さが理解出きずに大人に成りました結婚して、田舎の人に逢った時その人が私の事を「なんだおまえ疎開者の子だで」と言われた事がショックでした

 知らなかった私と父の苦労はどんなに大変だったのかその言葉を聞いて、父の苦労と大変さが良くわかりました好きで戦争に行った訳でもなし国の為に行ったのに父は生きて帰りましたが義父はニューギニアで亡くなりました

 父は私達を育ててくれた小さな町に感謝もしましたがたくさん意地悪されたみたいです。引こす頃年頃の私を田舎に残してほしいと言う話や亡くなった妹の骨、何も残さず 年老いた犬も本当に今田舎に帰っても思い出に残る物もなしです。今世界中で戦争をしてるニュースを見たり聞いたりしていますが お願い致します。やめて下さい私の様に疎開者と言われる生まれて育った所で暮らせる様に戦争をやめて下さい。そんな事を思いながら毎日暮らしています。昭和二十三年生まれ。老婆です

 疎開者にしないで下さい

花火で思い出す 焼夷弾の音

愛知県 名古屋市

纐纈さかゑ

88

戦後八〇年花火の音で思い出す事

 私は今88才です生れてずうっと熱田区に住んでいました

 今でも思い出すのです。朝学校に神宮公園の森の中を通り通学していました。

 授業が始り一時間もしないうちに空襲警報のサイレンが鳴り急いで帰宅する毎日でした。

 帰る途中B29が青空を爆音をひびかせながら飛んでいるのが見え怖くて途中の防空壕にも入れてもらえず泣きながら帰ったものです。

 戦争中は夜も家で寝た事はほとんどなく父が作った防空壕での生活でした。

 今でも頭の中にはっきりと記憶している事がB29がシヨイダンを落す時の音です

 私は毎年夏になるとあちらこちらで花火大会がありますが六月五日熱田祭りであがる花火を家のすぐ近くで見ているのですがその花火が地上から夜空にあがる瞬間の音がヒユーと聞こえるのです。

 その音はまさしく焼夷弾が落ちて来る時の音なのです。花火を見る時に毎年思い出します。

 そしてその後は家々は焼け防空頭布をかぶって逃げまどった幼い自分がよみがえってきます。

 又その中でも昭和二〇年六月九日愛知時計が爆激された時の事をよく覚えています。

 すぐ近くにに住んでいましたので父がそのあとすぐ愛知時計に知人がいたので見に行きました。

 その時の光景を父が帰って話してくれました。

 学徒用員で多くの女学生が働いていました。

 白鳥橋の上では手や足が電線にぶら下りある女学生が父におじさん「水を水を」と云って苦しんでその後すぐ亡くなったとの事です。

 堀川の水が赤くなるほど人がたくさん流れていったそうです。父は涙を流しながら私に話してくれました。

 今日本は平和です。あの戦争の悲しい思いはもう誰も体験してほしくはありません。

 私は夏になるとあがる花火を見る度にあのヒユーの音を複雑な思いで聞いています。

台湾から帰国 貧しい暮らし

福井県 敦賀市

立石百代子

87

戦争体験 (十才の記憶)

 昭和二十年五月

 台湾、台北 スオウという小さな町に両親と、五人の小さな子どもたちは暮していた。前日に五番目の妹が生れたばかりだった。

私は十才で食事の世話から、弟妹の面倒をすべて私がやらなければ誰もいない。

 ある朝、サイレンが鳴り出した。三回、三回で終ればまだB29(敵機は遠くにいる。)この間に防空壕に逃げなければならない。

 ぐずぐずしていると、敵機がすぐ真上にやって来る。するとサイレンは大きく一回だけ鳴る。すぐ下の妹と、弟は三回の時にすばやく防空壕に走って行った。すぐ近くの小山にトンネルのように横穴を掘って、町内協同の防空壕があった。

 B29の爆音はすぐ近くにやって来たらしい早く早く避難しろ!と町内の役員がメガホンでどなる。カンカンカンと半鐘はなりひびくその中で三才の弟はもくもくと食事をしている。逃げ出す様子はない。「さあ、行くよっ私は弟を引っぱった。それでも弟は「これ食べてからっ」と、なぜかどなる。爆音は頭上にきた。隣りの部屋から、赤んぼうを抱いた母が、「早く壕に行きなさい!」と顔を出した

 私は赤んぼうと母も気になるし、この三才の弟をつれて行かなければと、この気持はどうしたら良いかと迷いながら、弟を引っぱった。

 引きずるように戸を開けると、ドッカーンと同時に近くのセメント工場に爆弾が落ちた。弟と私は爆風にとばされて、近くの塀にたたきつけられて、それでも立ち上ると、弟の顔から血が流れていた。やっと横穴の防空壕にたどり着いた。こんなことが何度かあったが、台湾の日本人の町は、本土のように焼きつくされることは幸いなかったが、本土(日本に)帰ってからの生活が貧しく、これほどの貧困の中で良く生きのびたと思う。

 外地から引き揚げた家族は、あの頃の国の政策として、山奥の開拓に入れられていたようです。経験のない豊業で大変な苦労でした。

 戦後の極貧の生活 こんな詩を何編も書きました。

ほととぎす

暗い開拓村の夜だった
祖母に聞いた悲しい物語を
消えそうな意識の中で思い出していた
その時「眠ったらだめ!さあ起きて!」
遠くで母の声がする

それでもうつら、うつらしていると
いきなりパチパチと顔をたたく
「さあこれ食べなさい」と
暖かい物を口に入れる
小さな指のような芋だった

きっと空腹のまゝ眠ってしまうと
危険な状態だったのだ
並んで眠る妹たちも起こされていた
「眠ったらだめ!眼を開けて!」
母の必死にさけぶ声
うつら うつらと口だけ動かしていた
まだ芋になり切れない小さな
根がふくらんだばかりの芋だった

子等の命にかえられないと
父がどこかで掘って来たにちがいない
昭和の戦争が残した一番貧しい日だった
細いふくらんだばかりの小さな芋
幼い五人の命は救われた

ほととぎすが靜かに鳴いていた

学校も教会も 一面火の海に

愛知県 名古屋市

岡崎秀子

85

 私が小学校三年の時です 私は八人兄弟の一番末っ子でした。当時夜になると家に「ニワトト」を一羽飼っていました。空襲が鳴る時「かならすその前に鳴くといった鳥でした。今日又空しゅうが鳴るのかなあといっている時又いやなうなり警報がなります」。毎日の様にそんな日が続いてました。すでに一軒一軒家の前道路沿いに防空壕が皆の手で作っていたので移動自分防空ずきんと自分の好きな物を持ち込みそこで夜を送ったことが何度もありました。そんな頃は警戒警報次に大きくひびき渡るくうしゅう警報と、とてもいやなひびきがやまなかったです。寒い日が続き毎日ぼうくうごうの生活でした。その内皆の大きな声が聞こえ早く出て避難する様に外え出たら本当に目の上にすごく大きな飛行機B29そのお腹のほう迄見ましたあちこちにしょうい弾がおちる所迄見ました。早や目の前は火の海でした。家はもちろん焼けの原でした。

 私は母におぶってもらいあちこち学校の方に進みました。勿論学校も教会もすべて焼け火の海になっていたことは今でも忘れることは出来ません。

 食べる物もなくお米などとうてい無くこめぬかを水で混ぜてダンゴにしたりさつまいもの葉そんな当時は配急で少しダイコントウモロコシカンパンが少し配急されたことを覚えています 兄弟が多いので姉二人が色々着物など田舎に持っていって少しお米を変えていただいたり今思うと八人の兄姉がいて本当に私にとって助かっていたことに感謝です。それから私と母か疎開をしました。

 田舎に親せきがないので苦労して知多とか恵那とか瀬戸に、はなればなれにもういやでしたから皆と一緒に生れた名古屋に しばらくすると終戦を迎え天皇様のかなしいお声で日本はぼっぱつしたとラジオで聞きました。これから私達はどうなるのかしら五年生の時に聞かされました 色々頭の中をよぎりました 食べものもままならず着るもの日用品も数少なく皆苦しんで生活をして来ました。今思うと色々なけいけんも甘いも苦しみも身についたものが減っています。

 人生にこんなことが二度とあってはいけない絶体私達だけの時代だったと思っています。

 今は本当に良い時代で皆幸せに暮すことが出来永生きして来て良かったと思います。でも今コロナで大変ですが、皆気を付けてがんばりマスクのない時代にしましょう。ありがとうございましたつたない字で読みづらいと思いごめんなさい

病身のおじさま 無念の戦死

愛知県 名古屋市

中村久美子

85

 戦争で思い出すことは、まず、アメリカが大嫌いになったこと。脳出血で倒れるまで、ヨーロッパへ29回行っていますが、アメリカへは行っていません。

 一番腹が立ったのは、私の大好きな大きいおじさまの戦死です。結核を患い、小学校にもほとんど行けず、療養をくりかえしていたのに、兵隊の検査に行かされ合格してしまいました。

 私は名古屋の大須に住んでいましたが、母の実家がある岐阜県海津郡の西江村に疎開していました。幼稚園のころだったと思います。田舎で米や野菜はあったので、魚釣りをしてナマズやウナギを捕っていました。ライギョを釣っていくと、おばあちゃんに「こんなのは食べられない」と言われました。

 大きいおじさまは、母の弟で、訓練を受けていましたが、休みになると馬で村に帰ってきました。私を乗せて馬で村を一周したものでした。私が手綱を握るのを見て、「競馬の騎手になればいい」と言っていたのを覚えています。

 大きいおじさまは出征して中国に送られたそうです。そのあと、どのような戦場に行ったのか、よく知りません。体力がないので入院生活をして、最後はフィリピン沖で赤十字の船に乗っていたところをアメリカ軍に攻撃され、海に沈んだそうです。まだ20代だったはずです。同僚の大垣出身の人が、フィリピン人に助けられ、1年後に帰国し、おばあちゃんの家を探して報告に来てくれたのです。

 そのことを聞き「おばあちゃんがバカだから。結核の息子を兵隊に出すなんて」と言って大泣きしました。そして、赤十字の船に爆弾を落としたアメリカを、私は死ぬまで恨んでやると思ったのです。

 母に話したら、「うちの家は燃えて、私の吹き込んだレコードもなくなったよ」と泣いているのです。母は名古屋では楽器店に勤めていて、ディック・ミネの「人生の並木路」をレコードに吹き込んでいました。私は「泣くな妹よ―」と歌ってやりました。おばあちゃんの気持ちを考えたら、かわいそうにも思えて、時代が悪かったんだと結論が出ました。

 20代のころ、北海道を旅行して、乗馬する機会がありました。その時、大きいおじさまのことを思い出して泣きました。

 母が80歳になった時には妹とも一緒に沖縄へ行きました。ひめゆりの塔にも行きました。平和の礎があるところで、大きいおじさまが沈んでいるフィリピンの方へ向かって手を合わせました。米軍機が飛んでいるのがうるさくて、母は何度も「うるさい 静かにしてよ!」と怒鳴っていました。そして、「子どもたちが外で遊べなくてかわいそう」と泣いていました。

 今でも大きいおじさまを亡くした痛みは変わりません。脳出血になってから利き手の右手と右足がまひしました。うまく書けませんが左手で思い出したことを書いています。書くことがまとまらないことも多いです。それでも書くのは、残したい、忘れたくないと思うからです。

掲載されている本文は、手紙と取材をもとに記者が構成したものです

防空壕の中 泣いていた祖父

愛知県 名古屋市

石原喜代子

89

 「戦争体験お寄せ下さい。」の記事が目にとまりました。私が七才の時の名古屋大空しゅうです。防空ごうにいた時、父が名古屋が燃えていると教えてくれ、外に出て見ると、B29がへん隊を組んで、爆だんを投下して行きます .其の時は、キレイと思ったのですが おとされた地は皆人が住んでいると思い可哀相で可哀想で子供心に泣きました

 やがて終戦になり 祖父がいないことに気ずき皆で探しましたが見つかりません。フト私がモシヤ?防空ごうと思い見に行きましたところやはり布団を敷いて座っていました 泣いてしまいました。「おぢいちゃんもう戦争は終ったから入らなくていいよ」「そうか?」と云って出て来ました

 母が早くなくなり、祖父が母親変りに私達兄弟四人を育ててくれました

現在 兄 93才
姉 91才 
私 89才
共に元気それなりにです

 新聞社様
 もう文字も見にくくなり文も読んでいただくのに大変です。
 よろしくお願いします

戦中の歌 懐かしくて悲しい

愛知県 名古屋市

成瀬恒子

85

勝抜く僕等少国民
天皇陛下のおん為に
死ねと教えた父母の
赤い血汐をうけついで
心に決死白だすき
かけて勇んで突撃だ

今日増産の帰り道
皆でつんだ花束を
英霊宅に供えたら
次は君等だ解ったか
しっかりやれよたのんだぞ
胸にひびいた神の声 

 私は85才になる老女です。小学2年生の頃毎日のようにうたった歌です。あの戦争の最中に覚えたうた、校庭で芋掘りに動員された桑畑の道で80年たってもうたえる、こう言ううたは歴史として残っているのでしょうか。ただ懐かしくまた悲しいです

機銃射撃で 多くの友亡くす

愛知県 名古屋市

山村三男

 昭和十八年九月 私は東京陸軍少年飛行兵学校十七期生として入校した(当時の東京府北多摩郡東村山村)

 十七期生は、高等小学校二年と旧制中学二年中退者で編成されて約一千人位だったと思う

 一年間の教育を終えた後、操縦、整備、通信の三科程に分かれ私は、埼玉県熊谷陸軍飛行学校へ操縦士として入校しました。

 熊谷には他に大学卒の志願者が特別操縦見習士官として訓練を受けていました。

 その後、半年間の訓練を受けた後、立川航空隊へ配属されプロペラのバッチを付けた飛行上等兵となった。

 熊谷では中隊長だった藤井一(はじめ)中尉が特攻隊を志願され奥様が夫が心置きなく出撃出来るようにと自害された、悲しい事がありました 藤井中尉は二十年五月少年兵出身の部下数人と沖縄へ出撃されました。

 立川へ配属されると、地上勤務となり、飛行場の周囲に対空機関砲を据えて、敵襲に対戦しました

 アメリカは艦載機、グラマンなどで毎日のように飛んで来たが日本は応戦する戦斗機が無く、我がもの顔で、超低空で、操縦士の顔が見えるくらいまでの高度で、機銃掃射を浴びせて来ました

 この為に、かなりの戦友が戦死したと思います

 八月十五日終戦となりましたが、この戦争で優秀な若者が多数亡くなられたと思うと、残念で悲しくてなりません

 最近は殆んどペンを持っていないので、誤字や乱筆であった事をお許し下さい。

 年齢的にも体験者は少ないだろうと思い、書きました。

山村三男さんは2024年2月6日に94歳で亡くなりました

空襲 側溝にもぐって命拾い

三重県 四日市

村上操夫

 私は昭和三年(一九二八年)生れであります。主人は旧三重県三重郡竹永村竹成です。

 私の人生をふり返ってみますと、小学生時代は髙学年になりますと満州事変があり、私の村にも戦死された方があり、出征する人もあり、遺骨のお迎え出征される

 人の兵隊送りがあり、戦争意識が高まり『武運長久』の『ヤマト魂』が高まり、神社へのお参りが高まりました。当時の遊びは戦争ごっこで、隣村の方と朝明川で竹の棒を持ち、石を投げたりして戦いました。当村には竹が豊富で、竹を切り、竹鉄砲を作り、弾は木の実又は新聞紙を水でしたして手で適当の大きさにかため玉として撃ちました。又「竹ひご」を作り、飛行機を作りました。皆手作り時代でした

 これより中学時代になるのですが 私の父は医者で開業していました。四男二女の生活でした。長男も医者となり、他の病院勤務でした。

 私ととっては大変悲しい出来事がおきました。昭和十六年三月十五日、小学校卆業し旧制中学の試験の日に急性肺炎で父が亡くなったのです。大ショクを受け

 ました。でも中学校は合格しました。入学の年十二月八日は日米戦争がおきて長兄が軍医として招集を受け出征しました。中学校の生活は、二、三年前に貴社の『発言』に投稿した通り、入学した時より軍隊式の服装となりました。毎日忍耐でした。二年生頃になった時、その中学校の校舎が不審火により全焼したのです。

 勉学する場を失い、私達は配分されて食糧増産をめざし、各地の農家のお手伝いに出かけました。学校の運動場もさつまいも畠になりました。中学三年頃に

 『学徒動員令』が発令され、私達は学業をすてて通学ルートに配分され、私は石原産業へ行きました。その仕事は銅材を運ぶトロッコ押しで、毎日露天で働きました。丁度その時、米兵の捕虜が約百名程いました。一緒に働きました。『絶対接してはいけない』大罰の命を受けておりましたが、真夏の時は彼等はパンツ一枚で帽子とパンツに番号をつけておりました。休憩時間は海に入り、入浴しておりました。初めて見る西洋人で、敵人と感じませんでした。監視兵の方も負傷兵で

 一人もなぐったりきつくありませんでした。捕虜の人の食事は『おにぎり』をもらい、毎日高温溶鉱炉が出た火の上で野草をとり、供出された銅器で「おかゆ」にして食べていました。私達はお陰さんに重労働で米の特配があり、農家出身の学級が切符をくれましたので大変助かりました。今考えるとあの高温下で小さい水筒だけでよく熱中症にならなかったなと思います。学友がひそかに捕虜の方にさし入れしていた記事が貴社の記事になったのをみて、なる程と思いました。私も一人『ユーフーリさん』と仲がよかったのを思い出しています。

 「石原は空襲されない」と世間で言われていました。空襲警報のサイレンが鳴ると、捕虜全員を会社の外側に並べて防いていたのです。

 でもこの会社で意外な事がおきました。2019.11.21中日発言に、昭和十九年十二月七日東南海地震が起き、東洋一の高さで名高かった煙突が、上部が地震で折れました。

 この地震について私は貴社に『発言』で詳細記事を送り記事にしてもらいました。

 この煙突の下で私達は働いていたんですよ。でもよかった。助かった。この日は学校令が変更になり、四年生でしたが四年で卒業出来る年となり、進学相談が

 あり、学校へ行っておりました。学校でよかったでも学校でも事変がおきました。

 前述した学舎焼失したので仮校舎のバラック教室(競馬場の馬舎)に居て、屋根がトタン板ですので倒れなかったのです。

 でも新校舎建築中の校舎が土台が出来、柱も出来、屋根瓦をのせる時に大事が起きたんです。その屋根瓦ふきの職人さんがそのまま横倒しになったんです。

 職人一人も傷しないで助かりました次に次兄が五年卆業で予科練に合格し入隊しました。我が家はその次点で弟も中学へ入学し一時三人中学生でした。

 母が一人で大変だったと思います。そこで亡くなった父を紹介します。

 父は軍医生活が長く日清事変の時に部隊長が長靴がぬかるみの中に入り、靴がとれなくなり、弾が飛んでくる中とんで行き助けたそうです。そのお陰で敵を倒す

 事が出来たとよく自慢話を聞きました。

 父は正五位勲五等功五級の勲章を頂戴し、その恩給が戦争終りまで母に入り助かったのです。私達の学費、生活費を賄えたのです。

 話はもどりますが、昭和十九年頃、私達の村に飛行場が出来たのです。その位置は、現在の菰野町竹成支所と小学校前より南へ広い田畑が現在のプレハブ工場

 ダイワ工場当りまでつぶされ、出来上ったら終戦になり、飛行機は一機飛んだだけでした。

 でもこれでよかった。もう少し戦争が長くなったら、恐らく爆撃を受け村全体消めつしたかも知れません。

 その飛行場建設に我家は陸軍軍隊の将校宿舎になっていたんです。人手不足で兵隊さんは東北地方の方ばかりでズーズー弁でした。将校は二十代の方ばかりで、

 隊長は大尉の人で兵隊さんは四十才台の人ばかりでした。

 当番兵として我が子のお世話する様にして上下関係厳しく軍隊の恐ろしさを感じました。

 我が人生で忘れない事は 石原産業で学徒報告隊で空襲されない筈の石原へ四日市空襲の翌日、グラマン機が攻撃に来たのです。『学徒は工場外へ出て下さい』のアナウンスがあり、外へ出れば一機が私達を目かけて来たのです。運よく側溝があり、一列にもぐり弾が一直線に私達の横にあたり、一人もあたりませんでした。飛行士の顔がよく見えました。今も忘れません。

 我か家の食糧難は、父が緋鯉を趣味でかっていた池が三十坪ありました。それを弟と二人で学徒動員になる前に埋めました。そこへさつまいも作りしました。

 又百坪の畠もあり、小麦を作り、水車のある雑穀屋さんで小麦粉をかっててもらって手打うどんをよくしました。 殆んど母が作付けしてくれました。

 又、前述通り配給米の増加で大変助かりました。又、小麦粉を団子にして水とんをよく食べました。

 終戦の日

 四卆で大学へ入るのは無理でしたので、石原産業の滉式課へ報国隊の一員として残りました。終戦情報があり、帰宅除中、国鉄富田駅前広場で玉音報送

 聞きました。その時やれやれと思いました。

 その後の私

 終戦後、就職する場所さがしたが、ありませんでしたので、先づ勉強していないので学力がありません。日野珠算学校へ入りソロバンを習いました。

 学友が小学校の先生が足りないので頼まれ、保々小学校の四年生の担任となりました

 一年間やってみて先生するのなら専問学校へと思い三重大学へ入学しました。

 これが大変でした。英語、数学(微分積分)は全然わかりませんでした。難儀しましたが、どうにか卆業し、教育界へ入りました。教員生活五年で終止符を

 打ち、家内との縁で実業界に入り終えました

 以上 乱筆乱文お許し程を!!

 追記

 戦後の学友は職がなく、工場もないので、海岸に住む人は魚売り 富田町では魚類用の網作りをし、特に『タンタン売り』として全国へ売りに行ったそうです。 タンタンとは衣類や布製のタンモノで苦労しました。

 就職した教員は、夏休みに、中学卆では助教の資格しかないので、認定講習が休み中にあり、満足の食もなく腹をへらして教諭の資格取りに一生懸命でした。

 日常生活の不足を補う為に、富田町の駅前に『シキナマケット』が開かれ、家の不用の物、食品を持って行き、売り買いをしてくれました。大変盛況でしたと記憶しています。

写真取り出し 「ボクノママ」

愛知県 蟹江町

福本泉

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耐え難い悲しみ

 第二次世界大戦の真っ只中、母の兄池側政雄はガダルカナル島で18歳の若さで戦死した。

 その時の母は耐え難い悲しみと敵国への深い憎しみでいっぱいだったと言う。

 戦後数年経ってもまだ進駐軍が日本に残っていた。

 その頃私の兄は小学校一年生で丸坊主にしていた。

 進駐軍の兵隊が可愛かったのか笑って近づいてきた。丸坊主の頭を撫でながらチョコやキャンディをくれた。

 母は心配になって息子の前に立ちはだかると、その兵隊はポケットから写真を取り出し、「コレ、ボクノママ、コレ、シンダオニイサン」とカタコトの日本語で話しかけてきたと言う。

 母はそこでハッと気がついた。この兵隊にも母がいて、家族がいて、愛する兄を亡くしていることを。この母親も自分たちのように、決して忘れることのない悲しみをいだいているのだ。

 いつの時代も悲しい目に遭うのは罪のない、ごく普通の人間なのだ。

戦争の爪痕 異国の地で痛感

愛知県 一宮市

片野義憲

55年前の学生時代の体験です。

 大学2年史の時に日韓国交正常化になったので一人旅で韓国旅行に出かけました。

 ソウルの街の喫茶店に入り休んでいたら店主が近づいて来て「お前は日本人か?」と聞くので「そうです」と答えると長々ときれいな日本語で戦争の話をされました。

 彼が京都大学生だった時の話で「日本人にしてやるから天皇陛下ために戦争で働いてこい」と言われ戦争に行かされた。韓国人の彼から言わせれば

 天皇陛下のために働く謂れはないが召集令状からは逃げれない。やむなく出征した。

 ところが戦争で片足に銃弾を受け今でもビッコである。戦争が終わり韓国に戻るしかなかったので戻ったが、日本人なら傷痍軍人の手当てがもらえるが韓国人は貰えていない。身障者になってしまったので就職先もない。仕方が無いので喫茶店を開いているとのことをこと細かく説明してくれました。

 何も反論できるはずもなく、ただ聞いているだけでした。自分たちが知らない事実を聞き日本人が反省すべきことがいくつかあることを感じました。

 1年後フィリッピンに一人旅をした時にもゾゾっとする体験をしました。

 マニラ郊外をリュクを下げて歩いていたら小学生上級生と思われる子供が話しかけてきました。

 「あなたは日本人か?」と聞くので「そうだよ」と答えると「ちょっと待っていて」と言って駆け出して行った。数分後戻ってきた彼の手には[大日本帝国陸軍 軍票100PESO]と書かれた紙幣がある。「こんなのはいっぱい家にあるからあげる」と言って指で数センチの厚さを示し2枚渡してくれました。

 その地域の民家は窓が無く生活が豊かでない様子。従って泥棒に入られても盗まれるものが無いのでこれでいいとのこと。

 金目のものはすべて日本軍に巻き上げられ流通価値のない軍票を貰ったが紙屑にしかならなかった。彼らの生活がどのように変化したかを容易に想像出来ました。これ以外にも戦争で日本人が行ってきたことはアジアを旅行すると見られる現象です。

 教科書に載っていない他民族に対する残虐な殺戮以外にも人生を狂わせてきたことを実感してきました。

 余談ですが、私は日本人の過去のアジアでの悪行を知るにつれ、何か退職後はアジアの役に立つことをしなくてはと思い JICA 海外シニアボランティアに応募し、ブータンとトルコから求人があったので応募して働いてきました。

アメリカ兵の顔 忘れられず

愛知県 一宮市

女性

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 紙が無かったのでこの裏で申し訳ありません すみません
 どうしても伝えなければ!!と思いました。(みんなこんな内地までやられると思わなかった山の方へ逃げていれば助かったのに)と思う

A)母方の祖母(故人・S7生)より(当時江南市布袋在住)
①夜突然空襲警報が鳴り、B29の攻撃が始まった!ヒューン ドーン!ドーン!ともう迫っていたので、母親と妹とズキンをかぶって逃げまどい、途中で母親とはぐれた。ふと目の前に防空ごうが見えたので妹と2人で逃げ込もうとした時中から男性の大声がした「もう満員だ!出ていけ!!」。
外は火の海!でも声が怖くて出て行こうとした時、他の男性の声がした「子供だぞ!入れてやれ!!」その人の声で助けられ、入り口で攻撃が終わるまでふるえていた。あの人は命の恩人だ。米軍は一宮とまちがえて江南を攻撃した、と聞いた。今でも花火が上がるヒューンという音がB29のバクダンの音と同じで怖い!

②小学校の校庭で体育をしていたら、突然米軍の飛行機が低空で来て、バババッ!!とキドウ照射をしてきた!みんなでイッセイに伏せた!少し見ると、米軍のパイロットの顔がはっきり見えた。大きなメガネをかけていた!あの顔は忘れられない、おそろしかった!!

B)父方の祖母(故人・S3生)より(当時岐阜市在中岐阜市神田町)
①岐阜市の中心部に家があったので庭に防空ごうがあった。夜突然空襲警報鳴り、父親は「家と共に居る!女、子供は防空ごうへ入れ!」と祖母の母と兄嫁と兄の子(男の子)は防空ごうへ。ところが防空ごうに爆弾が落ちて、祖母の母 兄嫁、子供が亡くなってしまった。その時たまたま一宮に来ていた祖母は助かった。一宮からみんなかけつけ、焼けたご遺体を戸板に乗せて運んだ。辛いを通り越していた。→これは辛過ぎて祖母は一言も話しませんでした。祖父から聞きました。この7月9日は忘れられない岐阜の泣く日です!と

②父方の祖父(故人・S2生)より(一宮市本町当時在中)
夜突然警報が鳴り、B29がたくさん来て始まった。ふとんをザブンと水に付け、ぬれたフトンを頭にかぶり、南方へ逃げた。火が追いかけてきた。広い駅前通りを北から南へ 火の玉がヒュー、ヒューと渡ってきた!!中野の寺に来た時、ぬれたフトンは焼けて無くなっていた。寺が焼けていたのでみんなで消した。

父の帰国 すき焼き囲み祝う

愛知県 あま市

横井多惠子

85

「戦争の記憶」

 今年の9月で86歳になります。
戦時中の記憶はあまりありませんが、戦後の記憶を中心に書き出してみました。

1.戦時中
●空襲警報が鳴り響くと母や祖母に手を引かれて防空壕に逃げ込んだ。
●電灯は黒い布に覆われていた。
●窓ガラスには紙で大きく「ばってん」が貼られていた。
●カーテンは今の様なカーテン生地ではなく、布団の裏地の様な物だった。2センチ位の輪を布地に付け針金に通してあったので布が重みで垂れ下がっていた。

2.戦後
①衣
 履物は下駄で、靴下はなく足袋だった。学校の帰り、鼻緒が切れると片方だけ裸足で帰った。家で直せるものは直したが、下駄屋さんにもよく行った。
 上着も下着も手縫いで、下はモンペをはいていた。
 母たちは上等のものはしんしばり(伸子張り)、普段着はふのり(布海苔)を付け2メートル位の長い板に張り、仕立て直しをした。

②食
 ご飯は麦飯は当たり前で、大根やサツマイモの入ったものもあった。大根入りものは、水っぽくまずかった。すいとん(水団)やきしめんの煮込みもよく食卓にあがった。学校から帰ると、おやつの炒り豆が新聞紙に一人分ずつ包んであった。干し芋はござ(茣蓙)に干している間に、兄弟で1枚また1枚とつまみ食いをするので、干し上がるころには半分ほどの量になってしまっていた。  お弁当は、ご飯の上にかつおをのせ、醤油をかけただけだった。今のようにビニールもなく、よく教科書を汚した。
 サツマイモの粉で作ったお団子は、何故か真っ黒だったが甘くて美味しかった。砂糖はなくサッカリンとズルチンを使用していた。各家にはコンクリート製の防火用水があったが、冬には大根を何十本と漬けていた。

③住
お風呂は、隣とお互いにもらい風呂したり、銭湯にいったりした。夏はたらいに日向水の行水ですませたこともあった。水道はきておらず井戸水だった。
洗濯は、たらいに洗濯板をのせその上で洗った。石鹸は固形だった。洗濯挟みは木か竹で出来ていた。
蠅が多く魚屋さんなどは天井からリボン状の紙がぶら下がっていて、我が家も2,3か所、黄色の紙がぶら下がっていた。お手洗いは、今の様にトイレ、お手洗いという言葉を知らず、お便所、御不浄と呼んでいた。もちろん汲み取り式で、紙は新聞紙が切って箱に入れられていた。

④学校
 授業は二部制で、午後から出校したこともあった。バラックの教室は、しばしば小さい虫が天井から落ちてきて気持ちが悪かった。校庭の草取りが時々あり、終了の合図と共に一本しかない水道に長蛇の列ができた。
 二つ上の姉は、名古屋市から岐阜県中津川市へ疎開した。男子はお寺に、女子は旅館に宿泊した。
お習字などのお道具類は、兄弟姉妹の共有で、プリントやテストは、わら半紙にガリ版刷りだった。
 1年に何度だったかは忘れたが、頭シラミ駆除のため校庭に一列に並びDDTを先生から頭にかけられた。
 上履きは藁草履だった。ランドセルは一度も背負ったことなく肩掛けの鞄だった。

⑤遊び
 学校では毬つき、なわとび、帰宅後は鬼ごっこ、缶蹴り、かくれんぼ、着せ替え人形、ままごと、おはじき、お手玉、トランプ、将棋倒しなどをした。夏には校庭で映画も催された。
 夏休み、宿題をしていると、アイスキャンディー屋さんが、鈴を鳴らしながら自転車でやってきた。紙芝居のおじさんも時々自転車でやってきた。

⑥忘れられない思い出

(1)昭和天皇の行幸
 通っていた名古屋市東区矢田小学校に、2年生か3年生の時に、昭和天皇の行幸があった。私は前列に並んでいてドキドキしていた。天皇陛下の足がすぐ左隣の淳子さんの前で止まり「学用品のご不自由はありませんか?」と尋ねられた。淳子さんは「はい」と答えた。子供に対しても随分丁寧な言葉で話されるのだととてもびっくりした。

(2)軍事郵便
 戦地の父から、几帳面なカタカナで「タエコサン、オゲンキデスカ。ガッコウハタノシイデスカ。」と書かれた葉書が届いた。今はその葉書も無くしてしまい残念で仕方がない。

(3)姉の死
 昭和4年生まれの姉は21年3月名古屋の市三高女(現旭丘高校)を卒業したが、同年7月31日に亡くなった。当時7歳だった私にはなぜ姉が亡くなったのか分からなかった。

(4)父の帰還
 昭和22年、父が戦地のボルネオから帰国し、その日のご飯が「すきやき」の大ご馳走だったことをはっきり覚えている。この時、父は44歳、母38歳、祖母68歳だったと思う。母は勿論だが、祖母はどんなに嬉しかったことかと思う。

(5)番傘
 番傘からこうもり傘になった時は嬉しかった。番傘は重いうえに雨が柄をつたい、冬は手が冷たく大変だった。
(6)アメリカ兵
 戦後すぐアメリカ兵を見かけるようになったが、道ですれ違うと体の大きいアメリカ兵が怖かった。

(7)傷痍軍人
 戦後かなり長い間、名古屋の駅前で、傷痍軍人が募金箱を前にアコーディオンやギターを弾いていた。

3.最後に
 父が戦争から無事に戻って来てくれたお陰で、高校まで行くことができて嬉しかった。
 高校を卒業した昭和32年頃からテレビ、冷蔵庫、掃除機、洗濯機などの電化製品も徐々に増えていき、生活も少しずつ楽になってきました。
 今は、孫、ひ孫に囲まれ幸せな老後に感謝の毎日を送っています。

集団疎開 母との別れ悲しく

愛知県 名古屋市

田島公子

 私の疎開体験記

 マリアナ沖海戦で日本軍が敗れ、西太平洋制空権を失った昭和十九年六月十九日の時点から、B29の本土への空襲が切迫し出した。そこで戦火から子供たちを守ろうと、同月三十日「学童疎開促進要綱」が閣議で決まり、名古屋市でも八月から一斉に疎開が始められた。学童疎開の原則は、輸送や食料面で支障のないことから、親類の家に寄宿し同地の学校に通う縁故疎開だった。国民学校三年以上六年までとし、名古屋の児童たちは、六十八校が愛知県内、二十七校が岐阜県、二十三校が三重県と疎開が始ったのである。宿舎は大勢を一度に収容できる寺院を利用した。私達は、国民学校四年生で集団疎開に出発したのだった。行先は幡豆郡吉田町の正覚寺の寺で落ち着いた。本堂の横にあるこじんまりとした部屋で班ごとに寝起きを共にすることになり序々に集団生活にも慣れて、寺の廻りを見渡すと周囲にはお墓がずらりと並んでいた。

 夜になると、青い火の玉が出るといっては怖いものみたさでガラス戸をそっと開けたものだった。でも日増に親元から離れ寂しさがつのってきて、面会に来てくれる母親が待ち遠しくなり、家から班で分け合うようにとあまりたくさんでもないお土産を、持ってきてくれたりするととてもうれしかった。又帰りの別れが辛く正覚寺門前は駅が真正面に見える場所だからなお悲しくなり、このまま一緒に家へ帰れたらいいのになあ、と何度も思ったものだった。

 入浴も近所の銭湯へたまに入れさせてもらいに行く程度で、しかも石けん不足の上に着替えも少なく、シラミやノミがよく発生し、ほとんどの学友は(もちろん私も含めて)、シラミが涌き、蚊帳と蚊帳の間で頭髪を刈られている者もいた。そして又、皮膚病に悩まされている者もいた。

 だんだん食糧事情も悪くなり、田んぼの中に入って蛭に吸いつかれながら、イナゴ取りをした記憶もある。又、さつまいものつるで作ったおかず、人参の葉だけの味噌合えがとてもおいしかったことは今でもまざまざと思い出すことが出来る。でもそんな暗い思い出ばかりが、私の心の中に残っているわけではない。たとえば寺の縁側で、全員が魚の干しものの様に行儀よく並んで昼寝をしたり、始めてお経を教わったり、又海が近かったため塩田に行き、塩の作り方を見学したりした事は、今ではとても楽しい思い出になっている。

 けれども一番強烈に印象に残っている出来事は、やはり後に「東南海地震」と名付けられた十九年十二月七日の午後の地震である。学校の教室で、確か習字の時間だったと思ったが、突然激しい揺れが来て、ギシギシッ……と、教室全体が大きな音をたて始め、机の下に入るように云われたが、そのうちに生徒は、幅の広い廊下で先を争って校庭へとび出して行った。私は、最後の方でよたよたと廊下の端にぶつかりながら、外に出たと思う。校庭では、先生と生徒が一かたまりになり、恐怖も加わって私はガクガクと震えがとまらなかった。津波がきた時は、生徒をどのように引率するか、その時の先生の心中が、今やっと分るような気がする。そしてその夜私はお寺の本堂に次々と、家の崩壊で下敷になった人々の遺体が運ばれてきたのを目のあたりにした。幼い私はそれを見て、ただただ茫然としていた。そうこうするうちに、両親が縁故疎開の話を持って、お寺にやって来た。そしてその日のうちに、やっと慣れた寺と友達に別れを告げ、私は縁故先の三重県播磨という小さな村に向かった。

 その後親からの話で、明けて一月十三日未明の「三河地震」で、私がいたお寺の近くに疎開していた同級生八人が、亡くなったと聞かされた。私は、今ではもう過去も薄れかけた実年の年代に入り、この様な悲しく暗い時代を二度と繰り返してはならないと、しみじみと平和の尊さに感謝するようになった。

田島公子さんは2023年2月4日に88歳で亡くなりました

焼夷弾が家に 母逃げられず

愛知県 尾張旭市

遠藤紀子

93

 昭和20年 私は神戸市須磨区に住んで居り14才女学校2年3学期でした。

 父は私10才の時亡くなり母は病弱兄2人は長男22才陸軍召集次男は18才志願して予科生でした。妹は10才

 20年3月17日午前2時頃神戸大空襲防空警報の音で飛び起き母私妹親類の小母さんが泊っていたので急いで身辺の衣類を風呂敷包みにして逃げ様とした折焼夷弾が玄関に落ち晝間の様に明るくなり歩行困難な母がよちよち歩きしか出来ない状態だったのでここに居ると言って動かず私達に早く逃げる様にとせきたて三人で焼え初めた家を出て近所の人達と火の海道路に出て大勢の人達と逃げました

 その后20K程はなれた父の実家迠歩きお世話になりました

 数日后神戸のお寺から連絡があり母の遺体に会いに行きましたが母に会えず后日遺骨になって知らせがあり頂きに行きました

 きっと関係者の方が子供の私にはショックと思って下さったのでしょうその后縁あり横浜へ20年5月20日行きましたが20年5月29日横浜大空襲で皆さんと逃げそのお家でお世話になり8月15日の陛下の玉音も聞かせてもらい横浜のバラック生活アメリカの物資、かんづめ砂糖 又庭で作ったさつまいもだけを三日間食べたりの事が鮮明に想い出されます

 今93才になりなんとか元気で娘・孫と暮らして居り有難いと思ってます

 乱筆乱文お許し下さいませ

追伸

 母の足も防空演習で地下足袋をはき足の十指に豆が出来てその后だんだんと悪くなり病院も行かずろくな手当もしなかったので18年9月頃より歩行困難になりました

 長兄は20年3月20日比島ルソン島スバシバ洲バレテ峠に於て戦死

 次兄は20年10月長崎から復員して帰って来てくれました

特攻隊の義父 黒島での日々

愛知県 日進市

前田佳代子

 二〇一二年二月、義父、前田長明が八十三歳で亡くなった。

 通夜を終え、深夜のひっそりとした式場に見知らぬ男性が現れた。三十代くらいだろうか。

「黒島から、ばあちゃんの代わりに来ました」

 突然の来訪に慌てたが、浅黒く南国育ちを感じさせる青年から義父の戦争中の話を初めて聞くことになる。

 義父は旧制中学を卒業前に予科練に入り、その後十七歳で、鹿児島県串良(くしら)基地から出撃した神風特別攻撃隊員の生き残りであった。

 一九四五年五月、義父は、三人乗りの特攻出撃機で、早稲田大学から学徒出陣の機長と操縦員も一緒に飛び立った。戦争も末期の頃で、まともな飛行機は既に少なくなっていた。ほどなくエンジンから黒煙が吹き出し、本土に戻るのも困難で、海上に不時着するしかなかった。着水の衝撃で自身も血だらけだが、操縦員は全身大火傷を負っている。機長と義父で操縦員を支えながら、命からがら泳いでたどり着いたのが、黒島だった。

 黒島は、鹿児島県沖にある、有吉佐和子の『私は忘れない』に描かれた厳しい自然にさらされた断崖絶壁の島だ。そんな島に必死でやって来た特攻隊員を、住民は軍神と崇め、何とか助けようと看護した。病院どころか薬も無く、キュウリの汁を傷口に塗るなど昔からの知恵で懸命に手当てした。義父を世話したのが、島の看護隊の女性である十九歳のサダさん。通夜に駆けつけてくれた青年の祖母だ。

 やがて元気を取り戻した義父らは、増えていく敵機の動きを偵察し島を警護した。島の人たちからは、貧しいながらも心尽くしのもてなしを受け、つかの間、命の恩人である人々との平和な時を過ごしたようだ。

 特攻隊員が出撃するとき、小さな人形をお守りとして身に付けるという。義父は再度飛ぶ覚悟で人形をサダさんに作ってほしいと頼み、いつも腰に下げていた。八十日ほどの滞在を余儀なくされた後に島を離れる日には、「あしたよなぁ、あしたよなぁ」(また会いましょう)

 哀愁を帯びた島唄で皆に見送られ、その日も、大切そうに人形を身に付けていた。

 沖縄方面へ物資を運んだ帰りの潜水艦になんとか乗ることができ鹿児島本土に渡ると、義父が乗った戦闘機が最後の特攻出撃機であり、三人とも戦死扱いとされていたのだった。

 戦争の話は黙して語らずの義父だった。一人息子の夫も知らない話を、サダさんの孫は、まるで昨日の出来事のように臨場感をもって熱く語る。サダさんをはじめ島の人たちから当時の話を何度も聞いて育ったという。

 義父が亡くなり、無人の家を整理していたら、原爆被爆者手帳を見つけた。

 義父らが内地に行くと、海軍の串良基地も、陸軍の知覧基地も壊滅状態で、特攻隊は既に解散していた。原隊である茨城県の百里基地に戻れと命令され向かう途中、詳しい戦況もわからないなか列車が不通になり徒歩を余儀なくされた地が、原爆が投下された翌日の広島だったのだ。

 遺品には二人の特攻仲間とやり取りした手紙の束もあった。戦後、彼らは黒島を何度も訪ねた。その度に、「黒島に行こう、懐かしい島の人たちに一緒に会いに行こう」と誘われたのだ。

 しかし義父は島を離れてから、一度も訪れることはなかった。

 「機長殿、黒島には感謝してもしきれません。ですが申し訳ありません。今、私はこうして生きながらえていますが、あの時、死んでこいと言われたのです……」

 苦しい胸の内をつづった手紙の下書きが残されていた。

 日頃、穏やかな義父だが、時折、内に秘めた厳しさを感じた。生死を分ける苦難のときをくぐり抜けてきたからこそだと、ほんの少しわかったような気がした。

 黒島に助けられた特攻隊員は他にもいた。別の人は、お国のために何としても特攻を果たさなければと、島民が無理だと猛反対するのを振り切り、粗末な木舟を漕ぎ命がけで本土の基地に戻って再度沖縄方面に飛び去った。そういう時代だったのだ。義父も使命感や生き残ったことへの葛藤など、さまざまな思いを抱えていたのだろう。

 義父をきっかけに、名前も知らなかった、はるか遠い南の島が急に身近に感じられた。

 黒島は、平地がほとんど無いため作物も育たず、人が住むには厳しい所だという。まして当時は電気も通信手段も無い。連絡船が撃沈され外部からの情報も途絶え、島民が終戦を知ったのは、十月に入ってからだった。

 黒島へ行くには、まず鹿児島に一泊し、週に四便しかない船で五時間以上かかる。天候によっては海が恐ろしいほど荒れ狂う。船が欠航すれば思うように予定も立てにくい。義父の葬儀を終えてしばらくした後、次男が、「時間に余裕がある学生のうちに家族代表でルーツをたどりに行ってくるよ」。そう言って向かうと、「ようやく前田少年が帰ってきてくれた!」「あぁ、前田さんにそっくりや」と、全島民から大歓迎された。

 義父が不時着した場所は、砂浜など無く険しい崖が切り立った岩場の沖であった。

 「よく助かったね。おじいちゃんが生き延びてくれたからこそ、僕が今この場所にいるのだから」と、胸を熱くした。島の人口は百九十名ほど。その皆が今も義父を大切に思って語り継ぎ、サダさんの孫同様、今見たばかりのように話してくれる。あたかも戦争中から時が止まったかのような印象を受けた。その後、東京で当時八十六歳の機長とも何度か会い、孫のように接してもらった。

 義父は黒島には行かなかったが、戦争という厳しい状況を共にした特攻仲間とは強い絆で結ばれていたのだと実感した。

名古屋空襲 震えながら野宿

愛知県 瀬戸市

山田太郎

91

悲痛な戦争体験

 毎年8月が来ると思い出すのは、昭和19年8月の学童集団疎開、昭和20年3月19日の名古屋大空襲です。「陛下からお預かりした小国民を守るため」と聞き、まず縁故疎開、つてのないものは親元を離れ指定された先へと出発しました。私は当時12歳、小学6年生(名古屋市東区高岳国民学校)でした。お国のためとだけ聞かされ、近くのCBC向かい側のバス停から木材を燃やした小さなバスで、父母に送られ着替えと学用品をもって先生とともに出発、その時はなんだかよくわからず、着いたのが今の豊田市足助町、4,5軒のお寺に分散して入りました(私は今もある宝寿院へ)年下の4,5年生の子も含め約50人がともに暮らしましたが、徐々に様子がわかり下級生が毎晩泣きわめき、同行の先生が必死に「お国のため」となだめ、私たち6年生は泣くわけにはゆかず、下級生のなだめ役でした。食事は連日雑炊やイモでいつも腹ペコ、確かお正月には近所の農家の方々が一切れずつの餅を各家から集めて届けられお雑煮をいただきました。私は時々近所のお宅に出かけ、おやつのイモやカボチャをいただいたことなどを今でも思い出し感謝しています。今でもお名前は覚えていますが、もう亡くなった方ばかりです(三橋さん、板倉さん他ご近所の皆さんありがとう)。

 昭和20年3月卒業のため6年生は帰宅しましたが、数日後の3月19日に名古屋大空襲で、家も小学校も目の前で焼夷弾直撃で焼失、顔に火傷(その後完治)卒業式もなく高岳国民学校は解散,空襲下を逃げまわり、無一物のまま焼け残った白壁町当たりの軒先で震えながら野宿、2日目に焼け残った近くの(東区下竪杉町)父の友人宅に間借りできました(ここでの苦しい生活は省略)。当然ですが当時は何の援助も、避難所、仮設住宅もなく、焼け跡に前夜用意され釜から焦げたご飯を見つけて食べたことを思いだします。銀行員だった父も店舗が消失、即失業して日雇いのような仕事をして一家を支え、母は焼け跡で野菜を育て、かろうじて私は明倫中学校に通っていました。

 8月が来ると戦争だった時の記事が増えるのはやむをえませんが、この日のことを毎年思い出し憂鬱です。手元に戦前のものは何もなく、戦後入手したと思われる「戦災証明書」「米穀配給通帳」がなぜか残っています。戦災者向けの市営住宅のくじに当たったのは7年後でやっと名古屋市東区の前浪住宅(二間、風呂なし二軒長屋が50戸ぐらい建てられた)に住むことができたことも鮮明に覚えています。

 後日知ったことですが名古屋大空襲は4年間で63回もあり8千人が亡くなったとそうですから、私のように生き延びた人間は何万人もいたはずですが、高齢になりこんなことも伝わらなくなると思い筆を執りました。

葬送ラッパ もの悲しい響き

愛知県 瀬戸市

堀秀夫

88

戦時下のくらし

 私が小学校(国民学校)へあがった1943年は、前年のミッドウェイ海戦の大敗をうけて、戦死者・餓死者2万数千人を数えたガダルカナル島の撤退など、南方戦線での日本軍の壊滅的な敗退がつづいていた。動物園の猛獣や大型獣がいっせいに薬殺されたのもこの年である。

 食品や衣料品は切符による配給制となり、粗悪で必要にはほど遠い量しか手に入らなくなっていた。主食も麦飯から芋飯、大根飯、コウリャン飯となり、ついには代用食として芋やスイトン、水分や野菜の多い雑炊に代わり、庶民はいつも腹を空かせていた。

 「みんなで勉強うれしいな 国民学校1年生」と歌ってあこがれた学校も、もう勉強どころではなくなっていた。毎日のように運動場に整列して「前へならえ!右向け右!回れ右!前へ進め!歩調をとれ!」と、軍隊式の号令のもと、愛国行進曲「見よ東海の空明けて」のリズムに合わせて、分列行進の訓練をしたリ、防空壕へ逃げこむ練習をした。毎月8日は開戦の日12月8日にちなんで、「大詔奉戴日」と定められ、朝礼で全校の生徒が校長の「宮城遥拝!」の号令にあわせ、東方に向かって最敬礼していた。

 そのほか学区内から戦死者がでて「英霊(遺骨)」が帰ってくる日は、全校の生徒が授業を中断して街頭へ出迎えにでた。先導する葬送ラッパのもの悲しい響きは、いまも耳にのこっている。そんなころ巷では「無言の凱旋」という言葉をよく聞くようになっていた。普通は顔を合わせても口を利かないような場合に使うのだが、無言の戦死者と晴れがましい.凱旋という言葉の対比に、厭戦の思いが込められていたような気がする。音楽の「ド・レ・ミ・ファ」も敵性言語とされて「ハ・ニ・ホ・ヘ・ト・イ・ロ・ハ」と読み替えられていた。

 1944年に入ると、戦況の悪化とともに、都市部での戦禍を避けるため、政府の勧めもあって田舎へ疎開する人が出始め、クラスメイトも少しずつ減っていった。8月には疎開先がなくて残っていた3年から6年までの全生徒が親元を離れ、学童集団疎開で郊外各地の寺や旅館などへと移住させられた。将来の兵員温存が目的だったので、からだに障害のある子どもは除外されていた。

 私は1944年と45年のふた冬を入学した学校で過ごしたが、「贅沢は敵だ。戦地の兵隊さんの苦労を思え」ということで、栄養不良の身に、足袋や靴下、手袋の着用が許されず、手も足も霜焼けで赤く腫れあがり、痛痒くてたまらなかった。

 年がかわって1945年1月以降、名古屋市への空襲は断続的に続いてはいたが、それほど大規模ではなかった。そして3月12日、第一次名古屋大空襲の日がやってきた。

 その夜、ウーッ、ウーッという不気味なサイレンの音と「横須賀鎮守府西管区、横須賀鎮守府西管区、空襲警報発令!」の放送を聞いて、喜びいさんで私は縁側の下に掘ってあったカビくさい防空壕へ飛びこんだ。両親たちほかの家族はまだ家の中にいて、持てるだけの荷物をもって逃げる準備をしていた。とはいうものの妹は2歳と3歳、弟は5歳だったので、荷物はおんぶにだっこの子どもが主体だった。兄が13歳、私は8歳だった。

 B29のエンジン音、照明弾の閃光や爆発音にいたたまれなくなった私が、壕をでると北方の空は真っ赤で、ぱちぱちと火の爆ぜる音とざわざわする大勢の人声が聞こえてきた。そこへ大通りまでようすを見に行った兄が帰ってきて「大通りは人でいっぱいだよ。早く逃げないと危ない!」と叫んだ。その時、人波から抜け出してきた親類の男の人が、父にひと振りの日本刀を渡して「この家が焼け残ったら貰いに来ます。それまで預かってください!」と言い残して駆けだして行った。

 私たち一家もその後について逃げだしたが、大通りは避難する人々でごったがえし、悲鳴と叫喚が渦巻いていた。北からの火の手はすぐ近くまで迫っており、火の粉を浴びながらの逃避行だった。その時は逃げるのに必死で熱いとも痛いとも感じなかったが、あとで見ると防空頭巾や服の腕の辺りにいくつもの焦げ跡が残っていた。このとき私が手にしていたのは1本の柄杓だけだった。鍋とか塩などもう少しましなものを持ち出せばいいのに、両親も私もまったく気が付かなかったのである。しかし、疎開先や戦後の井戸水をカメに溜めて使う暮らしでは、これが大いに役にたった。

 それでも我が家族はひとりの落後者もなく、数百メートル南にあった神社の防空壕になんとか落ちつくことができた。中はほぼ満杯状態だった。しばらくしてドドーンというすごい爆発音と震動がきて壁や天井の土がこぼれ落ちるとともに、壕の中へ大量の煙が入ってきた。父は様子を見に飛びだして行き、濡らした手拭を持って帰ってきて、「すぐ隣の社務所が燃えている。間に銀杏の大木があるからここは大丈夫だ。これを鼻と口に当てていなさい」と言いながら数枚に裂いた濡れ手拭を子どもたちに手渡した.

 不安の一夜が明けて煙も薄くなったので私たちは壕をでた。そこに見たものは、まさに地獄絵の世界だった。昨夜通ってきた大通りを含め、あたり一面の家々が焼け落ちて下の方にはまだ炎がくすぶり、風に吹かれて猛烈な灰神楽を舞いあげている。障害物がなくなって遠くまで見渡せるはずなのだが、煙と塵灰の濃霧に遮られてあまり遠くまでは見とおせない。熱いし目が痛い。本来は快晴なのだろう、東方にかなり昇った太陽が真っ赤だ。

 もしかしたら焼け残っているかも、という一縷の望みを抱いて、私たちは父の妹の家を目指して歩きはじめた。そのとき前方に現れたのは、東本願寺名古屋別院本堂の燃えさかる荘厳な姿だった。民家は焼け落ちても、巨木で建造された堂宇のがっしりした骨格は、まだ紅蓮の焔に包まれて神々しく輝いていたのである。この世のものとは思われぬ美しさに、私たちは熱いのも煙いのも忘れて暫したたずんでいた。

 幸運にも叔母の家は焼けていなかったので、その2階に同居させてもらうことになった。ほっとしたのもつかの間、3月19日深夜、第二次名古屋大空襲をむかえた。この日は空襲警報を待たず、私たちは警戒警報が出るとすぐに、延焼防止のため建物が強制的にとり壊された広い空き地に向かい、そこにある防空壕の一つに入った。

 米軍の記録には、この日名古屋市周辺に投下された爆弾は20トン、焼夷弾は1,842トンとあり、猛爆撃が2時間近くつづいた。編隊爆撃機の轟音とヒューッと闇をつんざく焼夷弾の落下音、それにつづく爆発音と地響き、天井や壁からザラザラとこぼれ落ちる土くれ、生きた心地のしない恐怖の時間だった。「直撃を喰らうときは、爆弾と音が同時に落ちて来るから、ヒューッという音が聞こえるうちは大丈夫だ」という人がいて、壕内はいくらか落ちつきをとり戻した。直撃を受けた壕の人たちが全員亡くなったという話を翌日聞いた。叔母の家は今回も無事だった。

 私のうろ覚えの記憶では、空襲が始まる1年ほど前から、町内の「警防団」や「国防婦人会」などが、政府の指示に従って空襲への備えを国民に強制していた。

 (1)天井板の撤去 屋根に落ちた焼夷弾が屋根裏に止まると、消火作業ができない。
 (2)白壁などには黒や灰色で迷彩を施す 建物を目立たなくする。
 (3)灯火管制 電灯を黒いカバーで包んで灯火が外へ漏れないようにする、
 (4)消火訓練 バスケットボールの障壁のような物の、中央に直径40センチほどの穴をあけ、その裏側に取付けた布製のホースの下端をタライに浸した器具の、穴を目がけてバケツで運んできた水を投げ上げ、5人ひと組でタライに溜まった水の量を競わせる。
 (5)火叩きの作成 3メートルくらいの竹の先に、40センチほどに切りそろえた荒縄十数本を縛り付け、出火したらこれを水で濡らして叩く道具。
 (6)火が出ても逃げずに消火 延焼の防止。
 いずれも実際の空襲にはほとんど効果のない荒唐無稽な対策だった。米軍は詳細な航空写真をもっていて、夜は照明弾を使って昼間のように明るくし、物量に飽かせて無差別爆撃をしてくるので、何をやっても無駄な抵抗だったのである。

軍服姿の父 20代で遺影撮影

愛知県 名古屋市

女性

73

戦争のない時代、頑張りなさいよ!

 朝喫茶店でモーニングを食べながら新聞を見ていました。

 12・7の朝刊にふと目がとまりました

 お父様が戦争中捕虜になられ記事。

 私の父の人生と重なりました。

 今実家の終活中、父の遺品を整理しました。

 父の人生です

 大正最後の年に生まれ、2007年81歳でなくなりました

 厳しい両親のもと8,9人の大家族の中で育っています。

 お金のいらない佐賀中学、海軍兵学校に進み、卒業後一時引き上げ船に乗っていたようです

 戦犯扱いの時期のあと就職自衛隊入隊、ずっと30年ほど働き定年後、地元佐賀で神官として働きました。

 父は実戦には参加せずなんとか終戦を迎えましたが、先輩がたくさん亡くなったと肩を落として話していました。

 20歳前後軍服を着て写真を大量に撮っており、遺影を撮っておかねばという思いがあったようです。

 戦後引き上げ船の頃の表情は明るく希望に満ちており、軍服姿の写真とは全く違っています。

 父の最期は末期の肺がんで先生からそのことを告げられたとき泣いたそうです。

 その後あっとゆう間に死を受け入れて穏やかに人の手を煩わせずなくなりました。

 父が取り乱すことなく死ぬことができたのは若い時いつも死と隣り合わせだったからだと思います。

 父はいつもいっていました

 戦争のない時代にうまれて幸せ、頑張りなさいと

玉音放送 正座して聞いた

愛知県 名古屋市

男性

86

 私は、昭和13年生まれ86歳です。

 昭和20年5月14日の名古屋大空襲で、名古屋城と、ともに、私の中区の家も全焼しました、当時通っていた、波寄尋常小学校も焼かれました。暫くは学校の焼け跡で、空き缶を持たされて、釘拾いをし、帰りに給食代わりに、生米をお茶わん一杯分給食袋に入れてもらい帰りました、帰りにも空襲警報が鳴りまして。両親と、名古屋別院に近い、栄国寺にしばらくお世話になっていましたが、これでは子供は名古屋にいては危険!だと。姉がさきに学童集団疎開していた、岡崎市岩津天神近くのお寺に疎開しました。当時私は小学校二年生で、一番ちび皆んなについていくのが大変でした。上級生が、第八車を引き、近くのお百姓さんを、回り野菜などを分けてもらい車に積んで帰りました。それを迎える下級生達の前列の、一番チビが私です、その後8月15日天皇陛下の録音放送を廊下に正座して聞きました。未だに陛下の、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ。の一切が忘れられません。

 その姉も亡くなり五年になさすりました。当時一緒に疎開していた方で、ご顕在の方居られましたら、お会いしたいですね。

死にもの狂いで 撃ち続けた

愛知県 名古屋市

佐藤芳弘

戦場のひとコマ

 初夏の大陸の夜はすっかり明けて、カンカン照りの一日が、また今日も始まった。見渡す限りの太平原の遠く近く、ところどころに、コーリャン畑が繁って葉先がキラキラする。

 茎の根本はあたりは、夜の名残りが霞んで見える。

「軽機 前ェー」

 力のこもった大きな声は小隊長らしく、位置は寝射ち姿勢の俺の足の近くらしい。銃口を先方に向けたわれわれ小銃手は、散開して照準を合わせていた時である。凹地の地形を利用して「射て」の命令を待つわれわれの頭上を遠慮なく、敵の小銃弾はピューピューと越えて後方へと飛んでいく。敵影らしい前方の、幾つかの黒い塊りからは、銃声に混じってピカッピカッと赤い火が見える。

 よく見ると、右へ走っては伏せ、左へ走っては伏せる。伏せればピカッと火を噴き、また走り、だんだん近づいてくる。数は横一列で十程度あろうかー。

「マァーそのうち味方の軽機が火を噴けば.ーー」と弾の音に不安だった気持ちが、いくぶん落ち着いてきた。

 だが前方の敵影がだんだん増加して行く様な気がしてきた。そう言えば先程よりの銃声も、一段と激しくなり、わが方の少数を見抜いてか地形をよく知っているのか、大胆に高姿勢で手を振り仲間に指示して前進してくる様子がよくわかる。

 何やら叫ぶ声も銃声でかき消されるが、末尾が「マ―・ラカ・ピー(馬鹿野郎)」である。

 血の気がひく思い

「射てー」

 待ちに待った大声が伝わった。一斉に引き金を引く。最初の銃声が耳にグワンと轟き、あとの音はわからぬ。槓桿を引き戻し、次の弾を装填(弾込め)をする。

 射つ、また装填の繰り返しは忙しい。必死の早さである。

「軽機故障ー」

 やや前方台地の陰に陣取った射手からの報告が殺気だったわれわれの耳に飛んできた。

「なにィ。故障だって!」

「頼みの一丁だけの軽機が故障だって?」

 一瞬、不安に頭の血がスーと引くのを感じた。

 時を同じくして、突然右前方よりダダダーダダダーと、一段と大きい軽機の点射の銃声だ。右四十五度方向らしい。もう何が何だかわからない。緊張し過ぎて、身の毛がよだつ、夢中の射撃である。

 ダダダーダダダーヤー、今度は左方向よりの別口の敵の軽機の銃声が起こった。包囲体制をとってくるのか、正面の人影が左へ右へと飛ぶように広がっていく。

 どうなる事か、死にもの狂いで射ちながらも「これで全滅かなァー」とチラッと脳裏をかすめた。

  全員後退!

「負傷者は後退せよ」

 大きな声で命令が伝えられている。

「後退者は幾人いるか」

「怪我の程度は」

 気掛りだが、とても後をふり返るだけの間はない。見えるのは耳だけである。大胆に近づく姿勢に向けて、こんどこそは当たったーーーと思うが、またパッと起き上り走り近づく。この時分はもう弾はムチャクチャに、前から右から左からもピュピュピュと飛び、目の前にもパッパッと砂ぼこりを上げて落ちてきた。

「後退準備せよ」

「兵器以外は捨てろ」

「一斉に走るゾ」

と、矢次早に命令が伝わってきた。

 もう敵弾が激しくて、これで起き上がったらどうなるかーーー。もう恐ろしさはとうに通り越してしまった。

「全員後退」

「よし」

と後ろを向いた時は、もう五歩も六歩も走っていた。

 小隊長の軍刀が、朝日にキラッと光るのが目に入った。

 必死で走る目の前へ前へと落弾が、パッパッパッと砂こぼりを上げる。体が細くなりたい。もっとだもっとだ。全力で走る前方に、コーリャン畑がある。「よーし、あそこまで」もう息がきれそうだ。

 横一列の味方は、まるで運動会のゴールの様に、背の高いこのコーリャン畑に一斉に飛びこんだ。でも少しの余裕もない。敵が追いかけてくるのがわかる。離さなくてはーーー。

 すこしでも離れなくてはと走りながら、口を大きく開けて、肩で呼吸しコーリャンを踏み倒して走る。

 すぐ畑の反対側に出た。銃声が遠くなり、弾が高く飛んで行く。「助かった」助かったことに気がついた。でも続けて走った。そしてその時、急に嬉しさがこみ上げてきた。

 [後日]

 後日、指揮者立った小隊長は大隊長に「数人の行方不明者を出し、収容もせず後退した事をひどく怒られたらしいーーー。」と噂を耳にした。

 でも、あの時「後退せよ」ではなくて「前進せよ」の命令だったら、私も命日がこの日になっていたであろう。この時、遺体を放置した罪を詫びると共に、亡き霊の冥福を祈る。

 時 昭和二十年七月上旬

 場所 新郷(黄河左岸)北東三十粁附近

佐藤芳弘さんは2020年12月に95歳で亡くなりました

銃構え前進 田畑で軍事演習

愛知県 名古屋市

戸ヶ里光次

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 陸軍の演習をわが村で実施上陸作戦か進軍作戦か、兵士は背嚢を背負い、腰に短剣をさげ、銃を構えた重装備で腹這いになったり、中腰に構えながらの前進また前進をしたりでした。

 田畑を戦場に見立てての演習で兵隊の進んだあとの畑は、大根は折れ、トウモロコシは倒れ、サツマイモは土からむき出しとなり、荒れに荒れてしまいました。

 それでも大人たちは、お国を守る兵隊さんたちの行動に、誰も文句を言う人はいませんでした。

 兵隊を運んだ軍用トラックは、農村の路肩の軟弱な農道にタイヤがはまり、行動にも大変苦労をしていました。

 演習後の兵士は、村の家に分宿し、もてなしを受けていました。飲酒は禁止されていたようでしたが内緒でもてなしていました。

 この演習も開戦当初のことで、戦況の悪化以降は、実施されませんでした。

 村で戦死者があると「ちょうそう」と言って学校の生徒全員参列しましたが、はじめ何の事だか分かりませんでした。が後に豊川町の葬儀とわかり納得しました。

 戦況の悪化とともに、銃後の守りと言って敵爆撃機B29が落としていった焼夷弾のうち、不発弾を使っての消火訓練も行われました。軍隊の方が来て焼夷弾の信管をハンマーで一撃すると、6角形の焼夷弾はものすごい火花を吹きあげました。その火花は昨今の豊橋の手筒花火のようです。これに向かって毛布をかぶせ人々はバケツリレーで砂をかけての消火訓練でした。

追記
 戦後75年の記事を見て発言欄へ投稿し(2020.3/7・6/6・8/15・12/24・2021.4/9・12/7)採用されました。私の兄はフィリピンのレイテ湾で輸送船が爆破され、戦死しました。昭和19年12月20日享年27新婚3ヶ月でした。戦争は、むごい、25日の横井さんの記事を見て、兄のためにも平和をねがい投稿しました。

機銃掃射 屋根瓦突き抜けた

愛知県 名古屋市

小西晃雄

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 私には直接の戦争体験はありません。しかし、父、母、叔母が過酷な戦争体験をしており、ご参考になればとみなさまにご紹介させて戴きます。父は、祖父が二度目の出征で中国において戦死した為、旧制中学をやめて岐阜県各務原市の陸軍少年飛行学校で訓練を受け、門司港から輸送船でインドネシアへ向かい、バンドン上空で偵察の任務に従事していたものと聞かされました。

 地上では飛行服が猛烈に暑く、上空では寒さに対してあまり効果がなかったとも。

※戦争のために人生を変えられたくない・・・私が父の立場であったら、いくら母、兄弟姉妹、家族のために口減らし・食い口減らしのためとはいえあまりにも哀しい第一はたちの成人を前にして輸送船に乗せられて戦地に向かうなど考えられません。敵潜水艦の魚雷を食らったら一環の終わりですし。

 旧陸軍少年飛行学校では「びんたの会」が存在し、個人のミスは連帯責任でつぐなう。上官の叱責を受けたようです。(スパルタですから教育基本法でいう体罰の禁止など関係なく張り倒したのでしょう)国内では、母が、叔母が、仮にも戦争で命を落としていたら、私や従弟は生まれてきていません。私の母は空襲で防空壕に逃げ遅れ、後方数メートルのところに焼夷弾が落ちたという。不発弾のため九死に一生を得て今日私の生存があります。

 艦載機の機銃掃射も、凄まじいものがあったという。建物の屋根スレスレを飛んできて動くものが在ると見るや、ものすごい機関砲を掃射してくるとも。

 屋根の瓦など簡単に突き抜け、畳にまで突き刺さっていることも。叔母は知多半島に学童疎開に行っていて、艦載機に追われ機銃掃射にあったと聞く幣方縁者がいて「や江子死んだふりしろ!!」と言われ、地べたにころがった。

 何度も何度も飛来を繰り返したらしく生きた心地がしなかったと。

・姉妹の共通認識。艦載機のパイロットは大体が白人、小柄ではなかったか。
・恥ずかしくて書けないことだが、親戚の家に疎開していても、食べるものがない。心が痛んで書けないことも。

地震、戦争、台風 激動を生きた

愛知県 名古屋市

鹿住坦

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私の激動を生きた記録

 私は2020年11月で82才になりました。今年で戦後75年になります。私は太平洋戦争を経験した記憶のある最年少の一人として、戦争は戦う人達だけではなく、一般市民、子供大人を巻き込んでひどい暮らし、つらい悲しい思いを幼少期、青年期の激動の時を思い出し3件に分けて話します。

1.東南海地震
 まずは67年前太平洋戦争末期、名古屋の空襲※1が激しくなる前年1944年(昭和19年12月7日)午後1時30分ごろ、マグニチュード7.9※2、2011年(平成23年3月11日)東北沖地震はマグニチュード7.0、これより少し小さい東南海地震が発生した。これが私の悲しい、つらいことが連続に起きたことの始まりです。

 遅い昼食中、家がガタガタと音がして大きくゆれました。広い場所は庄内川の堤防上しかなく、母は大きな声で「堤防に逃げろ」と叫びました。家には母、姉、次兄、私、生後2ヶ月の赤ちゃんの5人が居ました。父と長兄は外出中でした。外に出ると瓦が落ちてきたり窓ガラスがガシャンガシャンと割れる音がして道路は幅10cm、長さ60cm~70cmくらい所々裂けていてヨタヨタと堤防まで40mくらい走りました。堤防わきに側溝があり、ゆれて片足が水につかり冷たく寒かったです。それから一週間くらい余震が続き、夜中は非常に怖かったです。そして水道の断水が3~4ヶ月続いたと思います。さいわい家より100mくらい離れた場所に弁天池があり、1才上の次兄とバケツで水運びが日課となりました。もちろん食事関係の水は煮沸して使い、食べ終わったお茶碗をお茶ですすぎ、それを飲むといった状態で水は大変貴重でした。

 地震の前にもう一つの悲しいことがありました。これより半年前、父が肋骨カリエス※3を発症していたのです。これは劣悪条件の飛行機生産工場で長時間労働した結果でこれも戦争の犠牲者です。翌1945年(昭和20年2月)、収入もなくなり食事もろくに出来なくなってしまいました。そこで姉が考えたのは、社宅の一画に独身寮の食事を作る台所があり、そこで姉(小4)、次兄(小1)、私(入学2ヶ月前)の3人が食事の準備の手伝いをさせてもらい、玉ねぎ、長ねぎの皮むきを涙をポロポロとこぼしながら手伝いをして、蒸かしたサツマイモを1個ずつもらい一食としました。帰りには野菜くずをウサギの餌にするともらってきて食べものとしました。春が来ればヨモギ、セリなどの野草、小川ではザリガニ、どじょう、フナ、田んぼではイナゴ、タニシをとり。1年くらいはごはんは口に出来ませんでした。

2.太平洋戦争
 そして1945年(昭和20年3月)夜中に大空襲があり、防空壕※4から外に出たら空は真っ赤で方向がわからず怖くて震えていました。翌朝、我家の一軒となりまで焼けていました。入学予定の小学校も半分焼け、入学式はありませんでした。勉強は学校より半分くらいの所にお寺があり、そこに1~2年生が通いました。教室は座敷机で正座、まるで江戸時代の寺子屋教育でした。

 6月ごろになると毎朝のように空襲警報がありました。その日はお寺に先生が来られなかったので、10時ごろに下校しました。1~2年生7~8人が田んぼの一本道を帰る途中、アメリカ軍の飛行機がゴゥーとうなり音をたてバリバリと機関銃で撃ってきました。(これを機銃掃射という)ふり向くと、薄笑いをしたパイロットの顔が見えました。さいわい道わきに防空壕があり、全員逃げ込み助かりました。恐怖のあまりその後お寺の学校に通ったかは記憶になく、夏休みに入りました。そして1945年(昭和20年8月15日)終戦、昼ちかく近所の家の前にひとだかりがありラジオからシャーシャー、ガァーガァと雑音の中から天皇の声が聞こえてきたが、意味がわからなかったので大人に聞くと、戦争に負けたのだと教えてくれ、心の底からもう恐い空襲がなくなると思ったことを今でも鮮明に覚えている。

 悲劇はまだまだ続きます。翌1946年(昭和21年2月)、7人家族での生活ができなくなってしまい、東京の祖父母に姉(小5)、私(小1)、妹(1才4ヶ月 、後に叔母の養女になる)の3人が預けられることになりました。私たちを送るため同じ列車に乗ってきた母は、静岡の親戚に用があるとの事で静岡駅で下車。別れ際、母は妹と一生の別れになる事を知っていたのでしょう。ホームで目を真っ赤に泣きはらした顔をしていたのを今日のことのようにまぶたに焼きついています。それはまるで映画のワンシーンのようでした。夜遅くにもよりの駅に着いた時は、雪がちらつき寒かったです。祖父母の家は躾が厳しく、到着した翌朝から冷水で廊下を雑巾がけする日が夏休みまで続きました。姉と私は小学校に転入したものの、名古屋ではほとんど教育を受けられておらず、勉強についていけませんでした。6月ごろには住宅の焼跡に作られたキュウリ、ナス、トマトなどの畑の中にかくれて野菜をかじりながら昼まで時間を過ごし、何食わぬ顔で帰るという生活になっていました。そんな生活を半年くらい続けた8月の夏休みに私だけ名古屋にもどりました。姉はまだ小さい妹の面倒を翌年の2月までみて、約1年で妹(2才4ヶ月)を残し名古屋にもどりました。

 その後、私の小学校時代は菓子の包装、着古した毛糸のセーター等の糸をほぐして毛糸にし再生する仕事をし、中学時代は紙袋(当時のレジ袋)貼り、古綿再生工場の古綿ほぐし、再生品をふとん屋へ配達し古綿回収する等をし、高校時代は新聞の朝、夕刊(中日新聞)の配達のアルバイトをしバイト、バイトの学生時代でした。

3.伊勢湾台風
 1959年(昭和34年9月26日)、社会人となって2年、ほっとしたのも束の間20才の秋、伊勢湾台風に遭いました。夜9時ごろ雨風でゴウゴウと音が鳴り、玄関の引戸が内側に反ってきたので畳を建て掛け背中で支えていました。そのうち畳の境目から20~30cmくらい水が噴き上がり、グラグラと畳が浮き上がりました。そこで洪水と知り、おなじみの庄内川堤防に逃げることに。家には母、次兄、私、妹(小3)が居て、私は母を、次兄は妹をおぶり真暗な濁流の中を堤防へと急ぎました。途中濁流は胸まで増水し、母は流木が太股にあたり沈みかけ、自分も引っ張られ沈みかけました。この極限状態の時、私の頭をかすめたのは「死にたくない、母の手を離したら死なずに生きられる」と正直思いました。でも手は離さず2人共助かりました。私のこの思いは冷酷な人間でしょうか。母は90才で亡くなりましたが今も葛藤しています。正解はあるのでしょうか。

 家は20日間ほど水に浸かり、その間堤防上に2~3軒で掘っ立て小屋を建て、そこで生活しました。この時、姉は嫁いでいて、父は復職し、長兄、次兄も夜間高校を卒業し、全員サラリーマンで家もすぐ修復できました。やがて順次結婚し、皆家を持つことができました。

 私は70才まで働き、70才の手習いで自然を学ぶ機会を得て植物の絶滅危惧種※5に興味を持ち、絶滅しないよう雑草を刈り、木を間伐し生育環境を良くして次世代につなげるよう作業及び啓蒙活動※6しています。これも戦後75年平和が続いているからです。

 今でも世界では戦争をしている国があります。テレビで骨と皮だけのやせた子供達を見ると、75年前のころを思い出し悲しくなります。日本だけでなく世界中永遠に平和が続くよう祈るばかりです。

1 飛行機から爆弾や焼夷弾を落とし町を焼いたり壊したりする

2 地震の大きさ

3 結核菌が肺の骨につく病気

4 空襲をさけるため地中に掘った穴

5 ほおっておくと草木が枯れて種がなくなってしまう貴重な植物

6 正しい知識を与える活動を積極的にすること

死体見慣れて 恐怖感薄れた

愛知県 名古屋市

伊藤勇

85

 私は昭和十七年四月に国民学校に入学いたしました。その時の、日本は太平洋戦争初期で米英軍を圧倒した戦果に歓喜を上げていました。しかし、四月十八日に米機による初空襲以後、戦局は日増しに悪化して、十一月二十四日には大規模な空爆が日本全土に及びました。

 昭和十九年六月に国民学校の三年から六年までの児童に、地方に親戚や知人のある子は、個人的に疎開する「縁故疎開」か、学校ごと集団で疎開する「集団疎開」が決定します。翌年四月には、一年から全員疎開となり、私は飛騨の山村に住む叔母の家に縁故疎開いたしました。疎開先の学校で図工の時間に、アメリカ軍の空襲、B29が投下した焼夷弾で民家が火の海になり燃え上がる様子を描きました。その絵を見た先生が「あなたの絵は上手ですが、この絵はいけません。もっと勇ましい絵をかきなさい」と、言って私の絵を破り捨てました。

 子供心にも悔しくて思わず涙しました。私は名古屋で毎日のように敵機の焼夷弾や爆弾で燃やされる民家を見ていますから、その光景しか書けません。そのことが原因で、「非国民だ」と、いじめられ、学校も休みがちになり、ついに、縁故疎開先から逃げ出すことを決意して母に迎えに来てもらい、村人に見つかることもなく名古屋に帰りました。集団疎開でも逃げ出す生徒が多くありましたが、見つかり連れ戻されていました。しかし、名古屋に戻りましても学校は閉鎖され、行くことは出来ず、毎日の空襲と食糧不足で恐怖と飢えの日々です。飢えで思い出すのは、カエル、かたつむり、アリまで口にして、畑で見つけた泥まみれの種芋を食べたことです。

 空襲は一段と激しさを増し、空襲警報は日に何度も出され、そのたびに防空壕に避難いたしました。爆弾が近くに落とされると、地響きでみしみしと揺れ、防空壕が崩れないかと不安でした。爆弾の落ちた家は、家族五人が即死状態で、一人は首から上がなく、見るも無残な有様でした。その死体をお棺に納めるとき、布を丸め顔に見立てました。その時のことは鮮明に思い出されます。空襲による死者は日増しに多くなり、国民学校の雨天体操場には死体の棺が並べられ、毎日、私はその数を、今日は七十八だ。今日は多い九十二だと数えに行きました。あまりにも多くの無残な死体に見慣れてしまうと恐怖感が薄れてしまう。これが戦争の真の怖さだと思います。

 昭和二十年の初夏。抜けるような青空にB29の編隊が、不気味な爆音を響かせ、名古屋上空を西に向かって飛行する。その一機にゼロ戦が真下から体当たりしました。B29は白煙を上げ、墜落していきました。私は体が熱くなり「やった」と、叫びました。そしてこの光景をもっと早く見ていたら、先生に褒められる絵がかけたと思いました。

 名古屋の大空襲は、六月二十六日、B29一二〇機。七月十五日、B29一〇〇機。夜間の空襲には爆弾を投下する前に、白く光り輝く照明弾を落として明るくします。その光が防空壕に差し込むと、目もくらみ、全員が防空壕から飛び出しました。その直後、爆弾が情け容赦なく投下され、爆風で吹き飛ばされ、大勢の人が命を奪われました。私が体験したこの空襲は、今でも目に浮かびます。八月十五日戦争が終わりました。私は、昭和二十一年一月に再開した国民学校に入学できました。昭和十六年から国民学校法に基づき、小学校を改正して国民学校となりましたが、昭和二十二年の学校教育法により、再び小学校となります。私は昭和十七年四月に国民学校に入学いたしました。入学式が終わり校外にでました。学校の前に文房具店がありましたので友達と入りますと、世界地図が張ってありました。文房具店の主人が「赤色の国は全部日本だよ」。東南アジアや太平洋の島々が日本の領土でした。「日本はすげぇな」と興奮しました。しかし私の思いは長く続きませんでした。四月十八日の米機の初空襲以後、空襲は日増しに激しくなりました。授業中に空襲警報が報じられると、食パン一斤をもらって家に帰ります。ある日、私が授業中「ううーう」と声を出してしまいました。空襲だと一斉に立ち上がりましたが、近くの子が「こいつが言った」。それを聞いた担任の先生は激怒。「馬鹿者」と、私は往復ビンタを受けました。その直後、本当の空襲警報が報じられました。食パンをもらって我が家に一目散でした。

 ある日の学校の帰り道で不発の焼夷弾を見つけました。一人の子が焼夷弾に触れた瞬間、爆発してその子は火だるまになりました。一命は取り留めましたが大やけどを負いました。

 十一月二十四日に最大の空爆が日本全土に及びました。昭和十九年六月に国民学校の三年から六年までの児童に、地方に親戚や知人のある子は個人的に疎開する「縁故疎開」か、学校ごと集団で疎開する「集団疎開」が決定します。

 私は飛騨の山村に住む叔母の家に縁故疎開いたしました。食糧事情は日増しに厳しく、米の配給もわずかな量が遅れがちで叔母は米が入ると後先を考えず食べますので月の半分はジャガイモに葉や茎の雑炊で飢えをしのぐ有様でした。

 私は栄養失調による皮癬で湿疹が体中にでき、それを疎開先の学校で行われる上半身裸になり乾布摩擦で湿疹を見られて虐められ、学校も休みがちになりました。私は母にたのみ、縁故疎開先から連れ出してもらい名古屋に帰りましたが、学校は閉鎖され、行くことはできません。毎日の空襲と食糧不足で恐怖と飢えの日々です。母は軍事品を扱う町工場に勤めていました。休みの日に着物をもち古知野町(現江南の中央部)に買い出しに出かけます。私もついて行きました。

 「これでなんぞ分けて頂戴お願いします」「なんにもありぁせんで、それにこうゆうやわらかもんはあかん木綿もので丈夫なものならな。今日は、ぼうも一緒か。ぼうに、ぼちをにぎっておやり」。やがて大きなおにぎりが出された。このときのおにぎりのおいしさは八十五歳の今でも鮮明によみがえります。

 米の配給は一段と厳しく、米粒がわずかでサツマイモのつるや葉がほとんどで雑炊にはほど遠いお湯を飲んでいるようでした。白米のご飯が食べれたらごま塩だけで十分だと思いました。

 空襲は激しく、夜も寝かせません。それに昭和十九年十二月七日午後一時の東南海地震マグニチュード七九、その三十七日後、昭和二十年一月十三日午前三時の三河地震が終戦の序曲でした。

四日市空襲 まさに地獄絵図

三重県 四日市

河村紀子

あの日、あの頃

 一九四五年六月一七日。

 戦局は私たち学徒にも、もはや勝ち目はないものと薄々ながら認識せざるを得ない程悪化の一途を辿っていた。

 四日市橋を隔てた南北に東洋紡績を接収した三菱航空機があった。

 再び戻ってくる必要のないJ2M3とかM4という特攻隊機製造専用工場だった。ペンをハンマーやヤスリに変えた勤務動員学徒は、戦局の流れるままに動かされているロボット軍にすぎなかった。付添教師よりはるかに監督官(陸軍配属将校。いつも白い布をつかに巻いた軍刀を腰にぶらさげていた)や工場関係者が優位に立ち、国家総動員の非常時下、軍需工場に心身を捧げて働く教え子を先生たちは遠巻きに眺めているより他に手はなかったようである。

 四日市高等女学校(現四日市高校)の生徒であった私は、一日中立ちっぱなし、隔壁の鋲打ちに疲労が重なって栄養失調状態。他の多くの友人も同様であった。症状を訴えても工場側の病院の老医師はビタミン注射一本ですげない対応であった。その注射も二度とはしてくれなかった。それでも白鉢巻に三菱のマークの入った腕章、もんぺ姿で歩調をとり、「七たび生まれエ―兄は征く…」と元気一杯の声をしぼりながら南工場通いをした。

「明日は一寸えらいでサボったろか」

 友人と約束したその夜が運命の四日市空襲になろうとは……。

 きびしい灯火管制下、電灯は消すか、暗幕で覆いかくし、少しでも外部へ漏れると年配の警防団員や隣組長たちが各戸ごとにきつい調子で注意した。

 昼間でもそうだが、死んだような街となり、軍事色一色に塗りつぶされた中で女、子ども、老人たちは毎夜息をひそめてくるものを待つ不安な日が続くのだった。

 現在の若者がとても想像できっこないようないでたちのまま、すなわち防空ズキンに鞄、靴を枕元において浅い眠りにつく……。

 あの日、夜の八時を過ぎていたであろうか。いったん空襲警報が解除になり、再び横になるや否や、中庭のトタン屋根にドリルで穴が開けられるような耳をつんざくような「バリバリバリッ!」というすさまじい物音に足がすくんでしまった。「やって来たな!」。庭に飛び出ると空が真っ赤!爆音も聞こえる。異様な興奮と神経の状態。家の防空壕では周りが燃えてきたとき脱出できないと思い、とっさの判断で着のみ着のまま母親を促し中町を北に進んだ。

 乳母車を押して右往左往する人、逃げまどい泣きわめく子どもや年寄り、ふだん知りつくした町通りが煙や火の手で遮られて皆目見当がつかない。人の放り出したふとんを水槽に突っ込んで頭からかぶり、火の粉がじかに落ちてくるのを必死で防御する。

 呼吸が出来ない。目も口もあけてはおれない。早くどこか広い空間を!と歩き続けた。

 三滝橋はすでに猛火の中にあり、渡ることが出来ず、かき船のあるあたりから母をまず堤防から川に突き落とし、私もあとから飛び込んだ。腰ぐらいの川水であったが、流石に六月の水はひんやりとした。暗闇の川面にも容赦なくエレクトロン焼夷弾は搾裂して、私の頭をかすめて燃えさかった。

 すでに恐怖をとおりこえ誰しも殺気だっていた。防空ずきんを被っているし、眼前ぐらいしか不明なのに川面の赤さからして対岸の町並みが、一挙に激しく燃えている様子がうかがえた。

 川の中で、このまま炎に焼かれ命を落とすのだという異様な状況下で、今は亡き母と娘は抱き合って水没してみたり、流れに身をまかせたりして夜を徹し明け方を待った。

 水中から重い水浸しの身体をやおら動かして堤防に沿って末永方面へと歩いていった。

 媒で真っ黒になった顔、誰かもわからぬくらい。堤防にしゃがみ込んだぬれねずみの人々の姿は、さながら原爆図にも匹敵しうるものであった。不幸にして焼死された人や傷をおわれた人を置き去りにして業火は翌日までくすぶりつづけ、地表から燃えたたせた数千度の高温は翌々日でも飛び跳ねていないと片足が焼土に着かないほどであった。

 離散した肉親との再会を求めてさまよう人たち。放心したように堤防にいつまでも立ちつくす人。生まれてこの方、敵機がやってきてわが四日市をこんなふうに灰じんに帰すとは!ご神体もくそくらえ。神風は遂に吹かず―。こんな惨禍に陥しこんだのは一体誰だ!口もきけないドロドロの状況、地獄絵を地でいくとはこの時のことをいうのであろう。

 昼過ぎにいききする堤防で、当時七〇歳ぐらいだった祖父にも会え、無事を喜んだ。父は三十五、六歳だったと思うが、警防団副分団長の職にありながら、在郷軍人会との折り合いが悪く防衛召集にとられて、西浦町の天理教会や四商工で市街防衛の訓練をさせられていて当夜は不在だった。父も二、三日後に天理教会で再会したが、教会内は顔見知りの近所のおばさんが火傷で身体や皮膚がペロンとめくれていたり、死体をも含めて死臭がただよい、目を覆うばかりの惨状であった。

 それにしても最後まで消火活動をしてついに帰らぬ人となった呉服屋のあるじ。

 家の防空壕で一家全滅のお菓子屋さん。警報のために母校の奉安殿を守るためにかけつけて戦災死した下級生の皆さん。第五国民学校のご真影を取り出そうと業火の中をとびだしていき、そのまま奉安殿の前で黒焦げで発見されたI校長先生。諏訪公園の一隅の防空壕で亡くなった芸妓見習いの同級生。

 旧市内は一望できた。一夜にして廃墟、瓦礫の山と化した(私にはふるさととよべるものがこのときからなくなったと心に強く言いきかせた)。

 四五年たった今、いまだに行方不明の母や子。死者は家族が認定しない限り、隣家の人は永遠にどこかへ旅だっていつかはきっといきのあるうちに帰ってくるのだろうと思っていられるにちがいない。庶民の中の戦後はまだまだ終わりを告げていない。

 六月十七日がくると、鼻の奥からいまだにきえることのないきなくささや死臭がよみがえってくる。このことはわれながら不思議に思える。

 浜町の線路わきに死んでいた大きな牛。沖の島あたりの水槽からヌーと出ている半こげの人間(誰だったのだろう)。上半身黒こげ、下半身は水につかったので衣服をつけていた。人間の丸やけ、直撃をうけた人のむごい顔。あらゆる人間料理を眼のあたりにして、瓦礫の中をさまよう自分自身も本当に生きているのかと疑いたくなるほどであった。これが戦争というものか。侵略戦争のつけは名もなく貧しい人々の頭上に完全に落とされたのだ。

 当時私は十六歳。青春ゆえに乗り越えることができた。戦傷。無一物。虚無。焼け出され。しかし、焼土から不死鳥のように翔き上がる不屈さ。

 これが戦後を平和、反核へむけて歩き出す教育者としての私の原点となっている。

 (当時、四日市市中町、十六歳)

「今に感謝を」 祖母の口ぐせ

三重県 鈴鹿市

荻野勝幸

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 私の住む三重県鈴鹿市南玉垣町一帯は海軍航空隊でした。
 父の直接的な戦争経験ではございませんが、幼いころの思い出は良く語っています。具体的には、

・イタズラ心で、離着陸するゼロ戦にめがけ石を投げて遊んでいた。
・終戦後GHQによる爆破解体の光景。その後のグズ鉄拾い。
・たくさんの車列、進駐軍の物資車両が転倒し放棄して、その後町内全員が盗みに行った。
・終戦末期は兵隊さんを軍の命令で泊めており、出撃命令が下った特攻隊員への最後の晩餐、上官が配膳、食事している光景。
・B29の爆撃。
・家族親族総出での防空壕づくり
・四日市空襲の煙と炎が見えた。
・父の伯父の出兵、ビルマ戦線死亡後の指を詰めて持ってきた軍関係者。
・上官からの暴力平手打ち、下士官たちへの𠮟咤激励。
・軍関係者だけが食べられる屠畜場の光景。私自身も今は無き父方の祖母から戦争の話は大変よく聞かせれました。

 当時、上官を宿泊させていたそうで、配給下にも関わらず、軍優先の白米や野菜と肉なども、自宅に持ってきてくれた。

 私には小さい頃、耳元で「とにかく、お前らは幸せだ。毎日食べられる事を、そして幸福な今を感謝しなさい」と嫌と言うほど聞かされました。いつか祖父に届く、召集令状に毎日毎日怯えていたそうです。

 昭和天皇がお伊勢参りの際には、町民総出で河原田駅までお召列車から馬車へ乗り換える際に迎いに行っていたそうです。

 当然来る前から行った後でも、土下座で下を向いたままで、上は見れなかったそうです。私も小学校の頃には、近所に戦争遺跡として残っていた大きな格納庫が3つ残っており、その中に忍び込んで遊んでいました。

 大砲も残っており、ぶら下がって遊んでいました。

食糧足りず 草も虫も食べた

三重県 いなべ市

出口克見

『軍国主義の中に於ける父の青春記』

昭和三年  八日市の陸軍飛行隊三聨隊に現役入隊

昭和四年  除隊

昭和十二年  日支事変開戦
<経済状態>徐々に悪化していく <政治状態>軍国主義

昭和十六年  大東亜(太平洋)戦争開戦

同年七月  浜松航空隊に召集
 間もなく広島県宇品港から『満洲』に向けて派遣される。満洲の大連に上陸。同じく満洲の新京に一週間がかりで到着【三年間滞在】
 しかし、『氷点下三十八度の寒さ』に悩まされる。[何しろ小便が凍るのである]
<経済状態>ここでの物価は安く豊富 <政治状態>関東軍治下

昭和十九年五月  満洲からフィリピンへ移動
 この時、大連港が占領されつつあったので、数十キロ離れた釜石港から乗船。途中、門司港に寄港【一週間滞在】

六月  門司港から『約一万人の兵員』と乗船
 途中、台湾の高雄港へ燃料・食糧等補給のため入港【一週間滞在】
 <経済状態>高雄港には内地へ物資輸送ができず、倉庫から砂糖の汁が多量に流れ出していた。

七月  高雄港から輸送船に乗船・出港
 途中『バシィ海峡』で、アメリカ軍の『魚雷に攻撃』される。『朝五時、輸送船が沈没』、海に放り出される。『船の残骸の板切れにつかまりながら、漂流』。「味方の駆逐艦」に、その日の「夕方にやっと救助」される。
 これこそ『九死一生』いや『九苦一生』であったと・・・田舎育ちの「親父は体力」があり、長時間つかまることができたが、町の人は体力がなく、「力尽きる者」が多かった。
 この「攻撃・撃沈」で、輸送船に乗っていた『兵員約七千人が死亡』した。

八月  フィリピンのルソン島(マニラ)に到着。
 ここマニラ港には、攻撃で破損した船が数多く散乱していた。

九月  マニラからネグロス島の飛行場へ移動
 この時、『艦載機グラマン(米軍機)』により、大空襲を受ける。

昭和二十年三月  この島の戦闘が、より激化する。【ネグロス島に半年滞在】
 この頃、フィリピンには『日本機は、一機も無く』、アメリカ軍の艦砲射撃とB25の爆撃を受け、「山中に追い込まれる」。山中では『濠』を掘り、その中での生活を余儀なくされた。食糧不足のために『草・木の根・蛙・虫など』口に入る物は、『何でも食べて生き延びた』と。
 当然、栄養失調で亡くなる者も多かった。

八月十五日  終戦(太平洋戦争終わる)
 日本大敗退

九月二日  ネグロス島にて、アメリカ軍に降伏
 フィリピンの『日本軍収容所』に入れられる。【捕虜生活】

十二月  アメリカ軍の船で、日本の浦賀港に帰々。
 その時、『兵役給料』として『十五円支給』されたが、「みかん五個とスルメ一枚」買ったら、十五円すべて飛んでいったそうだ。
<親父>帰って来て、物資不足と物価の高いのには、実に驚いたそうである。

「学徒待避!」 先生は叫んだ

愛知県 犬山市

日比野信子

93

 戦いありき

 子供時代は満州事変、支那事変と戦争の色濃い時代で、若い男の人には召集令状が来て 嫌応なく戦争に征かなければならず、私の家の義兄も老父母と子を宿した姉を残し出征しました。白布に千人針を縫いつけ持たせて日の丸の旗を振って送り出しました。

 「眞珠湾に戦争がはじまったと師は言ひて山の小学校の朝寒かりき」

 十二月八日大東亞戦争勃発。作文の時間には村から出征した兵隊さんに手紙を出した。

 「信子さん、お手紙ありがとう。今日は尾張富士程の山で戦い帰った処へ懐しい故郷から慰問袋が届いて疲れもとんだ処です。」と返事が来ました。(注)(尾張富士は私の故郷今井から見る姿が一番美しい。春夏秋冬、朝に夕に教室の窓から眺める姿に慰められた)

「大陸に戦い戦痛死せし義兄はいまわのきわに蜜柑慾(ほ)りしと」

「やどしたる子をのこし征きし義兄は送りし子の写眞遺骨と還る」

「父の顔知らぬ二歳の姪(めい)負いて位牌(はい)持ちたる葬り忘れず」

「左胸貫通銃創なりしといふ二十六歳の凛々しき写眞(うつしえ)」 (主人の兄)

「その気概(がい)毛筆に込め幾枚も夫十五歳の予科練志願書」

「弟妹ら兄に届けと「戦友」を歌えばはやも涙となりぬ」

 山の国民学校を卒業し憧れの犬山高等女学校に入学したが二年生から勤労学徒動員で五郎丸にある「大阪陸軍被服廠名古屋出張所犬山倉庫と云う所へ動員された。そこは牛・豚・馬や毛皮等を軍靴にするために大きな皮革を裁(さい)断する所であった。今日は名古屋から陸軍のお偉いさんが視察に来られるからと整列して待って居た処へ折から空襲警報が発令された。 何しろ軍隊のこと故絶対服従の世で工場側は絶対そのまゝ待てと云うのを付添いの岡部一二三先生は学徒だけでも待避させて慾しいと交渉されたが埒があかぬまゝこれまでと思はれたか顔をこわばらせた先生は独断で「学徒待避!」と大声で叫ばれた

 防空頭巾にもんぺ姿の動員学徒スタイルのまゝ私達はそれぞれの防空壕へ突進した。

 その時であった。各務原の方角からとてつもなく大きな翼(つばさ)をひろげた敵の艦載機が超低空で私達の鼻先に迫ったのである。作業の合間に自分達の手で掘った壕とは名のみの壕へ飛び込むや否や耳をつんざく爆音と同時にバリバリバリと機銃掃射の音があたりを圧した。

 「お母さーん」と呼ぶ子、「カミサマー」と呼ぶ友。私は思わず法華経を唱えた。お父さんお母さん私はこゝでと遺書を書かねばとノートを探った。厚い防空頭巾に汗びっしょりの恐怖の時間が過ぎ警報解除の知らせで壕から出ると、何と作業所の天井や壁は穴だらけであたりには銃弾がころころところがって居るではないか。 工場側の髭の主任さんが怪我をしたのみで幸にも生徒は皆無事であった。聞けば壕まで行けず皮革をかぶって這っていた友も居たとか。

 あの時の岡部先生の一瞬の決断がなかったら、命令が無ければ動けぬ當時の無防備の女子学生の集団に犠牲者が出たことは必定であった。

 「学徒待避!」と叫びし師ありて機銃掃射まぬがれえたり動員の日よ」

 点呼をされる先生の姿に金色の光が射(さ)したかと思ふ神々しさを今も忘れることはできない。

 その頃誰もがそうであつたが、朝行って来ますと家を出る時、夕方元気な姿を見せられるかは 保証されない毎日であった。

 体に鞣革(なめしがわ)の臭(にお)いをしみ込ませて働いた戦争の日々、今私達の子等にあの体験をさせてはならない。 一瞬を時は止まれり眞夏日の

  動員の庭に聞きし昭勅 頭(こうべ)垂れ玉音放送聴きたれど

  意を解せしはその後なりき 耐え難きを耐え忍び難きをとのみききとれし

  天皇の聲

 この様な壕に埋りて果てたるか

  ひめゆりの乙女らはわれと同じ歳 青き海と抜ける様な空を沖縄に

  見裂くればきこゆ阿鼻叫喚は 色褪(あ)せし軍服ひつぎに添へてあり

  八十九歳従兄逝きます 木曽川に大花火の音とどろきて

  ふとよぎるは戦いの夏

戦争 逃れがたい人間の「業」

愛知県 春日井市

加藤啓

83

「人間の集団殺戮し合いは終わりがないことを問いたい」

 敗戦が濃厚となったS20年初夏、米軍戦闘機は名古屋の上空を自由自在に飛び回って爆弾投下。我が家は寺。本堂の上をB29?は市東部にある三菱の軍需工場を目指して飛んでいく。だが、問題は爆弾投下を終った帰りだ。道を歩いている人たちを機上から機銃掃射で撃ち殺した。黒焦げの遺体が道に累累と転がることになった。

 反面、上空から見れば寺は大きな目標になったはず。しかし寺には焼夷弾など爆弾を落とされることは一度もなかった。我が家の寺だけでなく、周りの寺も同じだった。察するに、寺は目標対象から外されていたとしか思えないが、何故かと今も思う。

 だが住職である親父は、寺に何れ爆弾が投下されることを覚悟していたようだ。しばしば本堂の前に立って、ご本尊に最後の阿弥陀経をあげていた。幸い寺には爆弾が投下されることはなかった。だが爆撃機は三菱の工場爆撃の目標を達した帰りには道を歩いている人たちを狙い撃ちした。亡くなる人も多く、黒焦げの遺体となって、道路のあっちこっちに転がることになった。そしてその遺体は籠を被せて大八車で寺へ運び込まれ、住職(私の親父)が一人一人枕経を挙げた。その後は区役所の方たちが、粗末な木棺に硬直した遺体の足や腕をへし折って押し込んだ。その木棺は大八車に乗せられて八事の火葬場へ運ばれ、火葬された。

 そして粗末な小さな木の骨箱に納められ、寺へ帰ってきた。住職がご本尊前に骨箱を並べて一巻あげた。受け取り手がないと、そのまま本堂の余間に骨箱は並べて安置された。そして後日ご本尊下の納骨堂に収められた。引き取り手のないまま納骨堂へ納められたが、そのまま今も残る骨箱も多い。

 以来、納骨堂は毎年盆の季節だけ開けられ、多くの参拝者がお参りした。戦後30年間くらいは骨箱を取りにくる方もいたようだが、今や取りに来る方は皆無。骨箱は静かにご本尊下の納骨堂に収まって眠っている。戦後80年経過し、何れ遺骨を纏め、供養した後に土の中へ埋葬することになるとは思うが。何時になるかは寺の判断次第だ。戦争は人間の「業」だ。その壁を破ることは難しく、今も世界の何処かで争いが起きている。

 野蛮で犬畜生にも劣る戦争だが、人間の「業」から逃れるのは難しく、人と人の殺し合いは果てしなく続く。B29の爆音は終戦後も長く耳について離れなかった。

肩寄せ合い 警報解除待った

愛知県 春日井市

中野博子

92

 私は、昭和七年八月二十九日生 九十二才です。空襲は昭和十八~九年、二十年と徐々に回数が増し激しくなったと思います。当時私は、名古屋市昭和区御器所に住んでいました。幸い家族、住宅共に被害を受けることなく終戦を迎えました。

 私より悲惨な経験を、された方々の記事を読めば何となく申訳ない気持ですが、しかし幾度も経験した空襲の恐ろしさは、忘れられません

 その中で特に心に残っている事柄を記してみました。

 (一)昭和二十年四月、旧制高等女学校の入学式の日 ほこらしい気持で講堂に入ったのに、式が始ってからまもなく、空襲警報となり式は中断され、各自帰宅、又は、学校に残留、自由でしたが私は、学校に残ることにしました。防護室(運動場側のガラス窓に木枠をはめ、更に角材を当てて補強した教室)に入りました

 そこは机も椅子もなく、外の照りが全く入らない暗い処でした。大勢が床にすわって、肩寄せ合う様にして黙って空襲の終るのを待っていました

 外の情報も全くわからない不安と、上空での飛行機の撃音や高射砲の大きな音などに、おびえながら警報の解除を待ちました。長い時間の様に感じました。あの空襲は、北区大曽根に有った、三菱重工業が襲われて、多数の方が犠牲になられた事を知りました。(二)日時は、記憶していませんが、授業中、空襲警報となり自宅まで二キロ程の道のりを友達と一緒に走っていました

 その道中、手旗(昔海軍で行われていた手旗信号の練習を、校舎の屋上で時々、行っていました)を落してしまいましたが二~三米の距離を戻って旗を、ひろおうか、このまゝ、早く家へ、行ってしまおうかと、迷った時の心の葛藤を、忘れられません 一時の爆撃で多くの命、財産が消える恐ろしい事でした。戦争は、絶対ダメです。

 私は、今でも打上花火の音が高射砲の音と同じに聞こえます。花火はあまり好きではありません

投稿の一部に読み取れない部分がありましたが該当箇所を省略して掲載します

もんぺ姿で 風船爆弾作った

愛知県 大口町

伊藤利子

95

 「風船ばくだん」第一号を作らされた私(九十五才)です。

 静かに顧りみますに 遠い々、むかしのこと 記憶は 完全とは、言えませんが…。

 当時 小牧高女在学中に学徒動員とやらで春日井市にあった鷹来こうしよう(名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所)に集められ 折角の勉強も出来んまゝ、寮生活に入り頭に日の丸(必勝)のはちまき、モンペ姿で 毎日、汗とホコリの中での弾丸づくりでした

 ある日 数名の者が呼び出され、両手指の検査。何のことかわからないまゝ別の工場につれられていった、そこにはコンニャクのにおいがきつい大きな釜に 煮立った大量ののりが 仕込まれていた これが後に 風船づくりに大じな 貼り合せる 命ののりであった。

 はり合せる為には 指先が美しくそり返った手に力が入るとゆう事で選ばれた十名だった。私は天頂とゆう 風船の天っぺんで一番大じなところの作業だった。

 指導者のシキに従い大きな大きな風船が出来 それに風を吹き入れて検査がありそれわそれわチミツな検査で 第一号が出来上り部屋いっぱいに ふくらんだ風船が「風船ばくだん」であることをきかされとび上らんばかりに㐂こんだのも遠いむかしです。

 その後 いくつ作ったかは覚えていません……。そして八月十五日 終戦! 天皇のおことばを涙して聞き 私達のつとめも終って 学校にもどれた。あの風船ばくだんは…どうなっただろう……。

 終戦後 しばらくして、相手国で 原因不明なばくはつが各地でおこった と小さく聞かされたことはあったが本当のことはわからない

引き揚げの怖さ 今でも胸に

愛知県 春日井市

藤森温子

 昭和二十年十月朝鮮京城から引き揚げて来ました。

 当事私は七才、妹五才、弟三才と一才の弟・両親の六人家族でしたが、下の弟が突然亡くなり、両親と三才の弟を残して、祖母、叔父、叔母、従姉妹、私と妹で夜中に工場の引込線から荷車で従業員の運転士さんと逃げました。私の家は嶋屋と言う味噌、醤油を作る工場をしておりましたので、いつも引込線に荷車がありましたおかげで釜山まで行くことが出来、どの位いかかったかわかりませんが、釜山に着き、大きな体育館のような中に入れられ、引き揚げ船で九州の博多に着き日本に帰えってこれました。 そこから祖母の生れ故郷の滋賀県で両親の引き揚げを待ちました。

 半年以上引き揚げ出来ず、つかまっていたそうですが親切なアメリカ兵に助けられて、釜山までジープで送ってもらい船にのれたそうです。

 父の知り合の方は子供を橋のランカンに目かくして、川の中に落して、ご夫婦で命からがら引き揚げたと聞き自分達は皆無事に日本に連れて帰ってもらい幸でした

 戦争のこわさは、わかりませんが、引き揚げのこわさは子供ながらに、覚えております。

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