「失われていった感情と感覚」
平塚 矩正
番組「原爆救護~被爆した兵士の歳月~」で放送されなかった部分を含めた元兵士たちによる戦争の証言。
- [2]太陽がふたつある03:11
- [3]広島市内に向かう01:38
- [4]「息の残っているやつから助けろ」07:59
- [5]「かたきを取って」と頼まれて04:09
- [6]失われていった感情と感覚06:45
- [7]江田島に戻る03:04
- [8]帰郷02:34
- [9]生き残った負い目01:26
- [10]社会に広がる偏見01:31
- [11]戦友たちの早すぎる死03:56
1機で来たから偵察に来たと思った。写真撮って行って、次の日かその日の夕方ね、爆撃されるんですよ。だから1機だから偵察機だから、「あれ今晩か明日、広島やられるぞ」なんてね、話してたら「ピカーッ」と光ったんですよ。辺りが見えなくなるくらい光ったんですね。ぶったまげてね、何があったんだか分かんね。広島の方見たら太陽みたいなやつがね、あるんですよね。「太陽2つあるはずねえな」と思って。それが黄色くなったり赤くなったりしてこう、それで原爆雲が「パー」っできてね。その原爆雲が普通下から上さ上がるんだけどね、下がってきたように見えたんです。「おかしいな」って思いながら。爆風は来るしね。熱線はこなかったね。爆風は来た。かがんでいたから爆風に吹っ飛ばされなかった。立ってたら吹っ飛ばされたけどね。
赤くね、火が「ダー」って燃えてるんですよ。あれ見てね、「あの雲の中に入ったら、俺骨まで溶けるなあ」って思ってね。まあ、「どこさ逃げっぺなあ」って、みんな逃げてんですよ。防空壕(ごう)さね、「パー」って走ってるの見たんですけど。その桟橋から防空壕まではずいぶん距離あるのね。「ああ、海に入っかな」と思ってもたもたしてるうちにその雲がね、東の方へ動いた。東の方に動いから、俺たちは南の方にいたんだけども、東に向いたから「大丈夫助かるな」って、その時は「ほっ」と、助かる気持ちになった。それまでは「だめかなあ」って思ったね。どこに逃げていいか分かんない、あんまり大きくて、目に入るだけが全部雲みたいな感じでね。すごく大きかったです。
それで少したってからね、みんなガヤガヤと集まってきて、「何したんだべ」なんて話しとったら、「ガスタンク破裂したんでねえか」なんて、そんな話だけど。ガスタンクではあんなにはならねえんだけどね。見たことねえから。ガスタンク破裂したくれえしか頭にねえんだ。
けが人がいっぱいいた。桟橋にいっぱいいてね、桟橋のコンクリートの床が血のりでベトベトになってるのね。僕たちが上陸用舟艇で軍用桟橋に行ったんだ。俺たちが船から降りるか降りねえうちに入り込んでくるんですよ。
船にワラワラと乗り込んできた。けが人の山見てね、びっくりした。すごいけが人ばっかりだもん。やけどしたやつから、血だらけのやつや、おっかねかったな。
おっかねえ。見たことねんだ、そんなの。死んだ人も見たことねえんだ。触ったことももちろんないし。だからね、そういう人たちがいっぱいいるからね、ほんとに恐ろしかった、おっかなかった。気絶したやついるんだから。気絶したやつね、「おめえ別に役立たねえ、帰れや」なんて言って帰されたんだ。見て気絶したんだよね。
3時ごろかな、夕方近くだった。街の中に入ったときは。
駆け足でね。どこを通ったか分からない。御幸橋は通った覚えはあるんだけど、そのあとどこを通って行ったか分かんねえ。とにかくまだあちこち燃えてるんですよ。その燃えてない所、燃えてない所を通って行くからどこを通ったのか分かんない。相生橋まで行って、「この辺が中島町だ」っていうふうに隊長が言ってね。本川国民学校、あれの建物が残ってたんです。校庭にね、子どもたちはあんまりいなかったよ。その校庭も広いし。「ここを拠点にして救助活動すっぺ」って。あ、そうだ、土俵があったのかな、なんだか土俵みたいのがあって、そこの土俵の上がって、隊長がね、いろいろ命令を下すんですよ。「お前はどこさ行って人を助けてこい」とか。その時に「息のいいやつから助けろ」って言われたの。「今死ぬようなやつは後にして、息の残っているようなやつから助けろ」ってそういう命令で。
いたる所に倒れている。それがね、裸になって倒れてるのが多いんですね、逃げてくるやつも裸で逃げてくるんです。「何で裸でみんなくるんだべな」って、最初は分からなかったの。あとで分かったんだけど、熱線や爆風で、服皆持っていかれた。だからみんな裸。
頭割れて脳みそ出してるやついたよ。よっぽどなにか大きいやつが頭に当たったんだね。それから腹切られて、はらわた出てんのもあるし。首切られてカクってなってるのもあるし。最初「刀で切られたのかな」って思ったの。「刀で切るやつもいねえしな」って、分からなくていたんだけど、あとで分かったのはガラスとかトタン板、吹っ飛んできてね、こうやって首なんか切るんだ。首が。
河原に下って行ったのね。階段を下りて。階段の下にいっぱいあるんですよ。そいつをまたいで、河原まで下りて行ったら、「助けてー」って言ってね、5~6人かな、「バー」っと抱きついてきた。そいつの顔見たら、やけどする、目玉は飛び出してるね、皮はむけてるね、もう、「おそろしい」っていうか、「おっかねえ」っていうか、「いやだ」っていうかね、とにかく「いや」だった、「逃げよう」と思った。ところがその人たちが放さねえんだよ、俺たちから。
どうしようもないんだっちゃ。土手の上に上げて寝せるだけ。というのは川だからね、満ち潮、引き潮があって、満ち潮だと「ズー」っとこう河原も水が埋まってくるのね。だからね、「河原にいるやつを早く助けろ」って。そればかりでなく、今度「川の中にいるやつも助けろ」って言われてね。それで川の中に服着たまま入って行ったよ。
「1人ずつ来い。そんなにいっぺんにたがけねえ(抱えられない)から、1人ずつ来い」とかって、こうやって離してね。1人だけ……、背中におんぶして。そして階段上がって、土手の上さ、皆置いたの。俺1人でやるんでねえから、みんなでやるんだから。土手いっぱいに「ズー」っと並んだんですよ。その次の日の朝はもうほとんど死んでんだわ。
その時、川の中まで入って行って助けた。川の中で男の人が生きてたのね。その人、俺、あの時助けたんだ。その人助けたっけ、「兵隊さん、俺、電信棒のてっぺん見たよ」って、最初分かんなかったの。「何でてっぺん見たんだかね」って。あとで分かったけど、爆風で飛ばされて、人間が飛び上がって馬も飛び上がった。風速440メートルっちゅうな。熱線が3千度とか4千度で、熱線やら爆風で、どうなったんだべなあ。3階近くまで舞い上げられたんでね。こっからドーンと落ちてくんだ。大抵それで死んじゃうんだけど、その人はね、川へ落ちたの。それで助かったんだ。そんで、あっぷく(溺れ)しそうになってるところを俺が助けた。
次の日はね、死体集めと生きてる人を助けること。生きてる人を助けるって言ってもね、何にもできねえんだ、河原から上げてきて土手に置くだけ。それだけ。あれもう、そうやって置いた人たちね、3日間、炎天にさらされて、水も食べ物もない、けがしたままで日陰もないところでいたんだよ、救助隊こねえから。俺たちはどうしようもねえんだ。なでてやることが手いっぱいで。なにもできなかった。「今救助隊来るから待ってろ、待ってろ」って言うんだけど、その救助隊がね、次の日も次の日もこないんですよ。
3~4日たってからだな。「新型投下爆弾」ってそういう名称を言われたの。「原爆」って言葉は使ってない。「新型投下爆弾」とかって。投下爆弾っちゅうのはね、最初地面で破裂したと思ったんだ。俺、穴探しやったんだ。「探して来い」って言われて。おかげでね、広島の遠くまでじゃないけど、1キロか2キロくらいの範囲の所は見て歩いたの。それで、被爆者たちがどういう状況に立っているのか分かったんですけどね。最初はあんなに大きな爆撃だからね、穴がいっぱいあって、爆弾いっぱい落とされたって(思った)。でも1つも穴ねえのね、「穴ないよ」って帰って行ったら、その時はそれで終わりだったけど。それからしばらくたってから、「新型投下爆弾」って、「上空で破裂した」って言われたんです。
原爆の次の日かな、本川国民学校の奉安殿の所に40(歳)くらいのおばちゃんいてね、着物着てたんだ、何で着物着てたんだかな。どっから来たかも分かんない。奉安殿の脇の方に横になってね、俺通って行ったら、「兵隊さん、おなか痛い」って言うの。「う~ん」って。腹なでてやったさ。そしたら俺の手を握ってね、「アメリカの焼夷(い)弾にやられた」って。原爆っていうの知らないから。燃えてるから焼夷弾と思ったのね。「焼夷弾に」言いよった。「敵(かたき)取ってくれ」って言われた「うん、取ってやるよ」って。本気になって俺敵取る気でいたんだけど。その約束は今でも果たせねえけど。ほんとに「アメリカ兵のことをやっつけっぺや」てな、「敵取ってくれ」って言って、「うん、敵取るぞ」って言ったっけね、「パク」って死んじゃった。女の人だ。「敵取ってくれ」って、ほんとに敵取りたい、今でも。でも取る方法ないの。かわいそうだったなあ、あのおばちゃんなあ。
早く言えば、無差別虐殺いうんだかね。そんなのを目の前で見てるから。おかあちゃんなんかね、赤ん坊をこの腹の下に入れて、こううつぶせになってね、死んでんだよ、ずいぶんいるのそういうの。それから体が風船みたく「バーン」って膨れ上がってね。それが紫もあるし青いのもあるし、赤いのもあるしね。何であんな色つくんだか分かんないけど、そういうのいっぱいあったしね。とにかく至る所にそういうの転がってた。「あー」と思ったのはね、見てるうちにね、2歳か3歳くらいの男の子かな、あとで分かったけど。壁にこうやってんのね。見つけて、「ああ、生きてるな」って思って、その子どものところにいったさ。抱えたっけ、死んでんだわ。「何でこんな子どもまで殺さなくちゃ(いけ)ねえんだべ」ってそういうふうに思ったな。絶対にアメリカのところ、敵とらな(くちゃいけ)かないと、今でも思ってるよ。だから、アメリカ、憎らしい。今でも憎らしい。オバマ大統領来てね(2016年に広島を訪問)、おわびはしないと思うけども、来ただけはいいと思うんですけどね、絶対おわびしないけど、俺はおわびしてほしいと思う。被爆者の前で。だけどおわびはしないでしょう。だけど、オバマが来たっていうことはある程度おわびの気持ちもあったんでないかと思うの。
僕海外旅行やるんだけどね、アメリカだけ外してんの。アメリカに行きたくない。見たくもない。いまだに憎いです。
俺の感覚がおかしくなってくんの。ほんとは死体あると臭いんだけどね、あんまり臭くねえの。悲しくもない、おっかなくもない、気持ち悪くもない、うれしくもない、そういう感情なくなっちゃうんだわね。ロボットです。そんで仕事したの。自分でも封印してからね、「なんだ俺、あの時俺なにしたかな」本当に感情がなくなった感じですよ。死体焼くんだって平気で焼いてたもんね、こうやって。
白骨まで焼かないんです、黒くなってコロコロになって終わりにして。というのは次から次へと、死体、なんぼ焼いてもきりがないんです。黒焦げになって、やめて、土かぶせて、「何人のお墓」って書いてね、次の仕事って。だから俺、なんだかな、100人くらい焼いたかな。なんぼ焼いたか分かんね。ずいぶん焼いた。
(感覚が)狂ってる。何でもねえの。人と思わねんだ。人と思わねえって、魚とも思わなかったけど、何ちゅうことねえの。ただ腕持ってきて、もいできて、落ちてたやつ、「ポイッ」てまた火の中、投げ入れるんだから。手で、素手でつかんでだよ。その時に焼けた肉の匂いするんだね。
最初、こうやって触んのも嫌やったけど、うん、だけど、そこがやっぱりおかしくなってくんだろうな、頭な。平気でそういうことやんだよ。死んだやつの死体の始末なんいうのは、遺族なんか見たら怒るよ。トタン板さ載せてね、引っ張っていくんだけど、ヒモないでしょう、電線を石でたたいて切って、ヒモの代わりにして、トタンさ石で穴開けて電線を通して、死体載せて運んだんだけどね。そのくれえならまだいいけど。とびぐち(鳶口)拾ってきて、そこの鎖骨、ここのとこさ、こうやって、腹さやったらボーンって跳ね返ってくるから、腹はあんまり刺さんねえな、ここ(鎖骨)は刺さるな、ここに刺して引っ張って「ズルズル」。そんなことをしてたんです。遺族の人見たらね、怒るな。
西練兵所(現在の県庁付近)が死体置き場になった。夜ね、火の玉、あれ出るの、「パパパッ、パパパッ」て、リン燃えるんだね。最初は、おっかなかったけど、だんだんと慣れてきてはね、何ともなくなって、そこんとこ通って歩いたけど。死体置き場なんぼ、なんぼあったいな、何百ではないな、とにかく、見渡す限りが死体だから。「ザー」っとね。
Q:皆さんの食事は来るんですか。
食事はね、3日目の昼に来たの。それまでは水ばっかり飲んでた。というのは本部からね、食料は来るんです、江田島の幸之浦からね。その来た食料が、被爆者に皆取り返される、だから俺のところに来たのは空箱だけ。そいつが3日間、3日目の昼になっておにぎりが、塩付けたおにぎりが、梅干しも何も入ってないの。おかかも何もない、ただ塩付けたおにぎりだけ、3日目の昼前にやっとね、食事できた。それまでは水ばかり飲んでた。おかしくなるな、吐き気してくんのね、水ばかり飲んでるから。
2~3日してから下痢起こしたかな。それが下痢だけどね、便所がないんですよね、紙もない。手で拭くしかない。拭いた手、今度水道さ行って洗って。汚ねえっちゃ、汚ねえ。
Q:その時は何で下痢したと思ってたんですか。
分かんない。「水ばかり飲んでたから、それで下痢したかな」と思った。でも汚い手でね、なめたりなんかもしたんじゃないかな。
Q:周りのみなさんはそういう体調不良とかは?
いたいた、いっぱい。いっぱいいた。
下痢が多かったな。それから「力が出ないんだ」って言うとったね、「疲れたんだべ」なんて言ってたけど、なんか疲れただけじゃねえんだね、あれね。体調が悪くて力出ねんじゃないかな。でもその時は「疲れたからだべ」なんていうような、その程度しか僕は思わなかったから。だいたい俺たちのこと構ってくれる医者なんかいねえんだもん。看護婦もいねえし、自分で自分のことを治さなくちゃならない。下痢なんていうのは何回したって、下痢なだけでね。そのまま、薬も何もない。
12日に、「原隊に戻れ」っていう命令が出たんです。その「ソビエトが満州に入ってきたから、それを迎え撃つために原隊に戻ってその戦闘準備をやれ」って。言われて、(遺体を)焼くのを半分にして、ぶん投げるようにして、隊に戻ってきた。それが12日のお昼頃、戻ってきた。
鉄砲よこされて、実弾よこされて、戦に行くばっかりになったところが、さっぱり命令が出ない。
武装はしたんですけど、何もしなくて、ただ毎日うろうろしてるだけだった。戦が、僕はもうまるっきりに、「戦する」と思ったの。ところが命令が出ないんですよね。出動命令が。だから幸之浦にいただけ。幸之浦にいただけです。何もしない。
Q:玉音放送とかは聞かれたんですか?
聞いたけど何言ってるか分かんない、がやがや。小っちゃい、このくらいのラジオでね、それをみんなして囲んで聞くのよ。俺遠くの方にいたから。ラジオそのものがおかしいんだから。遠くの方にいたんで何言ったのか分かんねえ。終わってから解散して戻ってきて、夕方になって「戦負けたんだ」っていうふうに言われて初めて、終戦っちゅうことが分かったんだ。そしたら、俺の部下で、イワナミから来たやつ、そいつがね、「万歳」って言うんだよね、「このやろう、何で万歳だ」って言ったら「うちに帰れる」って。俺も「ああ、うちに帰れるなあ」って思ったんだけども、終戦…ていうかね、なじょしてうちに挨拶して入っぺな(どんな顔で家に帰ろうか)って思った。
10月何日だったかな、忘れた。その、「戦に負けて帰りました」と言うか、「ただいま」と言うか、「こんばんは」と言うかね、なんと言ってうちに入ったらいいか分かんなかったの。そいで、仙台駅でね、くらくなるまで待ってたんですよ。くらくなってから塩釜の方に汽車で帰った。それで、こうやって見とったらね、塩釜の一部焼けてる所あるんですよ。「ああ、俺のうち焼けたかな」って、うちとの連絡全然ないから分からないんですよね。塩釜空襲されたかなんか。汽車から私のうち見えたんで、「ああ、残ってたな」って。汽車から降りて、夜ですよ、くらくなってから。裏口から、そーっと入っていったのね。何にも言わねえで、黙って「ぼーっ」と。そしたらみんな夕ごはん食べてたのよ。ぼーっと入ってたらね、俺の方「パーッ」とみんな見るのね。見て、俺は、帰ってきたからみんな喜ぶんでねえかと思ってたのね。誰も喜ぶやついねえんだ、「げーっ」てして見てんのね。そして「おかしいなあ」と思ってたらおやじが、「矩正か」って。「はい」って返事したら、そしたらみんながにこにこってした。「もう死んだと思った」って。それまでは汽車の駅の近くに、うちがあるもんだから、おやじがね、汽車が着くたんびにリアカー持って俺のことを迎えに行ったんだって。何回行っても帰ってこねえから、「やっぱり死んだのかな」と思っていたらしいね。
お仏さんにね、生きて帰ってきたって報告しようと思ってね、仏壇のある部屋に行ったの。そしたら仏壇にね、俺の写真が飾ってんの。ごはんもあがって、お線香ささってね、「あらあ」と思ってね。その写真を俺見たときに「俺、生きてんだかや、死んでんだかや」と思って、ちょっとなんだか訳分かんねくなったでや。
生きて帰ってきたことがね、なんか、あとでね、負担に感じるんです。「お前生きて帰ってきて良かったなぁ」ってよく言われるんだけどね、俺は「死んだほうが良かったかなぁ」って思うことが時々あったよ。というのは、特攻隊に行った時に、みんなと一緒に、「死ぬべな」ってみんなで約束したんですよ。なのに俺生き残っちゃった。
だから、「俺、生き残って悪いなぁ」っていうような気持ち、こないだ幸之浦さ行ってね。おわびしてきた。「生き残って悪かったなぁ」って。まぁ、誰もいないところで、独り言しゃべってきた。「死んだほうが良かったなぁ」ってときは、前はよくあったよ。本当に苦しいときね。うんと苦しいとき、やっぱり特攻隊で死んだほうが良かったかなって思うとき、よくあったけど。
学校を卒業して、就職したけど、月給安くてとても食っていけない。闇屋やってるときに、闇屋の仲間からね、「お前、被爆者だべ」って「原爆症はうつるから来るな」って、伝染病に思われてた。原爆症は伝染病。
俺も原爆症っちゅうのは、伝染病だと思わなかったけどね、みんなから言われて、「そうかなぁ」って思ったこともあった。本当に分からなかった。
結婚の話が出たときもね。広島にいたっていうだけでね。「早く死ぬ人とは結婚できません」って。2回くらい断られたな。今の女房には言ったの。「広島にいた」って。承知で結婚したんだけど。
多い、ほんとにガンが多いよ、ずいぶん多い。
「何で死んだ」っていうと、「ガンで死んだ」って。そういうのがちょいちょい。仙台市内だったらみんなお見舞いに行ってるけどね、みんなガンだな。脳腫瘍とか胃がんとか。
Q:被爆と関係あるかどうか、みなさん心配の原因としては……
ある。みんな心配してる。原爆受けたことについての恐怖心ですね。なんかあるんでねえかと。
「おう。お前原爆受けたんだべ」ちゅうから「んだ」って「血液検査するから」って。俺は軽い気持ちでね、耳から血を取らせて、それで白血球の数かなんか調べらるんだとばっかり思ってたの。そしたら、病室に連れて行かれて、この胸の骨に直接注射器刺してね。
「おかしい、血球のあれがおかしい」って言うから、何かおかしいなとは思ったけどね、そんで「治っかや」って聞いたら、だけん「治る」って言わねんだ、あいつがね、「しばらく通え」って言っただけで。「しばらく通え」って悪いのかなって。で、治療っていうのはたまに注射するくらいで、薬だってね、薬いっぱい飲まされてね。
そして注射するときもね、何とも言わねんだ、「何ともねえ」って言うだけで。「何でもねえのに何で注射すんだべな」って、そう思うくらいでね。
「何で言わねぇんだ」「お前、心配するかと思って、言わなかったんだ。本当は白血病なんだ」それで白血病だって分かった。治ってからね。
でも、白血病だけにはびっくりしたな。まさか俺、白血病になるとは思わなかった。なにかガンにはなるんでないかっていうふうな、みんながガンになってるからね、そうは思ったけども。俺白血病になるとは思わなかったな。白血病になったときは「やっぱりだめかな」と思ったけれども。治ったから、治ってからだからね。そんなにまあ、あれ病名言われなかったから分かんなくていたけど、病名言われてたらやっぱりガクってきたかもしれない。
証言者プロフィール
平塚 矩正さん
- 1927年
- 宮城県塩釜市に生まれる
- 1944年
- 8月、陸軍特別幹部候補生として入隊
- 海上挺進第43戦隊に配属
- 1945年
- 8月6日、広島市内に入り救護活動をする
- 江田島幸之浦で終戦を迎える
- 10月、帰郷
- 戦後は、教師となる
出来事の背景
【原爆救護~被爆した兵士の歳月~ 放送日 2016年7月24日】
平塚さんは1945年(昭和20年)8月、広島の江田島で特攻兵として訓練していました。6日の原爆の投下直後から部隊で救援活動を始めました。あまりにも多くの負傷者と遺体を処理したので、感情と感覚がなくなったと語ります。戦後、原爆症は伝染するとか、早死にするので結婚を拒否されるなどの差別や偏見を受けました。







































