愛を知っている人として生きる。
東京在住の女性A様から「年末年始はみんな実家に帰るけど、私には実家がない。行く場所もないから毎年さみしくなるのだけど、坂爪さんがいるじゃないかと思って会いたいと思った。お邪魔じゃなければ熱海に行きたい」とご連絡をいただいた。私の正しい使い方である。自分だけと思うと苦しくなる。自分だけじゃないと思うとあたたかくなる。さみしさの奥に愛がある。さみしさは、同じさみしさに出会った時、ぬくもりに変わる。
A様は言った。誰にも話せない事を、坂爪さんになら話したいと思う。多分、坂爪さんには社会がないからだと思う。社会がない代わりに、世界がある。人間はこんな風にも生きられるのだって言う事を、言葉ではなく、生き方で見せてくれる。言葉は悪いかも知れないけれど、街の中で野生の動物に出会ったような、驚きと、喜びを与えてくれる。そして、自分も動物だったんだってことを思い出させてくれる。それが嬉しいのだと思う。
A様は言った。生きていると「ちゃんとしなくちゃ」と思って、愛されるために自分を変形させなくちゃいけないと思ってしまう。自分を責めて、頑張ってダメだったことを更に頑張ることで乗り越えようとして、無理を重ねて、壊れてしまう。坂爪さんはもっと怖い人かと思っていたけれど、怖いんじゃなくて、普通なんだと思った。普通に生きてて、普通にリラックスをしている。脱力しているから、一緒にいると脱力できて、涙が出て来たり、押し殺していた本音が出るのだと思う。自分の身体の声をノイズだと思って、世間の声に合わせようとしていたけれど、違った。身体の声はノイズじゃなかった。身体の声が本音だった。
A様は言った。本当の愛が何かなんて知らないけれど、坂爪さんには愛を感じた。だから、会いたいと思ったのだと思う。私は言った。本当の愛が何かなんて知らないと言うより「私は本当の愛を知っている」と思って生きた方が、いいと思う。愛を知らないと言う前提に立つと、自分には身寄りがないからとか、自分には力がないからとか、愛を知らない理由が集まってくる。愛を知っている前提に立つと、いま生きていられることとか、いま一緒にいられることとか、愛を知っている理由が集まってくる。私は愛を知っている。なぜなら、私は◯◯だからだと、愛を知っている前提で物事を捉え直すと、世界が変わって見えてくる。
こう言う時はこう言うものだとか、こう言う時はこうやるものだとか、社会規範などのテンプレートは、人間関係をスムーズにする代わりに、心の硬直化を招く。損か得か、有利か不利か、合理的な価値判断だけでは、自分の望みを見失ってしまう。自分の身体がノイズになって、不協和音を奏でてしまう。自分の身体が、一番身近な自然だと思う。自分の声を無視することは、自然の破壊になってしまう。愛を知っている人として生きる。本当の愛なんてわからないけど、とか言わない。愛を知っている、から、はじめる。知らないところには、知らない理由が集まってくる。知っているところには、知っている理由が集まってくる。裏切りの先の一歩先。一歩先には許しがある。悲しみの奥のずっと奥。愛ならずっとここにある。
坂爪様
松山でお会いした◯◯です。
お話ししていた堀宗凡の本をお送りします。
お伺いしたお話の中で最も強い印象となっているのは「愛を知っている人」として生きる、という事です。
お陰様で、自分の中にあるもの、これから出会うものを見過ごす事なく生きていけそうです。
武術における「脱力」の極意も、同じように、未知と出会い愛する事を説いているように思います。
坂爪さんとの時間は、温暖な瀬戸内海にまで迫って来た鮮烈な寒波と共に、夢のような時間として記憶に残っております。
どうぞよいお年をお迎えください。
おおまかな予定
12月31日(水)静岡県熱海市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
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ばっちこい人類!!うおおおおおおおおお!!


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