「トットちゃん」を育てた自由教育 時代に敗れ去ってはいなかった
「100年をたどる旅~未来のための近現代史」幸福編②
子どもの自発性を重んじる大正自由教育が、1910年代から広がった当初は静観していた文部省。だが、自由教育の代表的存在だった池袋児童の村小学校が開校した1924年ごろに締め付けに転じた。
この年、岡田良平文相が自由教育への監督強化を指示。長野県の師範学校付属小の教員が、修身科で国定教科書を使わなかったのを問題にされ、休職に追い込まれる「川井訓導事件」も起きた。代わりに使ったのは森鷗外のあだ討ちを題材とした小説だったから、当局の不興を買う内容とは思えない。狙い撃ちの弾圧だったとの指摘がある。
前回紹介した、あの千葉県立大多喜中で生徒らの反乱に遭った手塚岸衛が、前任の千葉師範学校付属小から大多喜へ移ったのもこの時期、26年のことだった。千葉県でも知事や県議らが自由教育反対に動いていた。栄転を装って影響力をそぐ狙いがあったとの見方もある。
民衆に基盤を置く「北方性教育運動」の運動家らも、自由教育を「しょせんブルジョア教育に過ぎない」と突き放した。私学や師範学校付属校主体で、都市の新中間層のほかは世の中に理解が広がらなかった。そこに自由教育の限界があった。
敗戦2年後「児童の個性の赴くところに」
自由教育の思想家の一部は軍国主義や国家主義に対する問題意識が薄く、容認する言動すら見せていた、と教育社会学者の太田拓紀・滋賀大教授は指摘する。大多喜中の学校紛擾(ふんじょう)について論文を書いた研究者だ。「大正自由教育運動は、子どもの関心や意欲を出発点にして自由に育てていこうという考え方で、民主主義を支える自由で教養ある国民を育てるという発想は弱かった。戦後の教育改革とはそこが違ったのだと思います」
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戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の下で教育の民主化が図られた。だが、それによって「自由教育」が往時の輝きを取り戻したようにはみえない。なぜだったのか。
児童の村を研究してきた筑波…
- 【視点】
本当は「ハイレベルで自由を愛し、その意味性を適切に行使する」人の割合が増えてこそ、の「自由教育」なのだろうと思うが、実は「割合」は、今に至るまで常にそれほど変わらないように見えてしまう。そのあたりをどう考えてどうするかが、社会教育というもの
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- 【視点】
「大正自由教育運動は、子どもの関心や意欲を出発点にして自由に育てていこうという考え方で、民主主義を支える自由で教養ある国民を育てるという発想は弱かった」。大正自由教育を推進する側の「自由」観も甘かったという指摘だと思うのだが、どういう意味だ
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- 【解説】
大正自由教育の根幹は「教師と教材の工夫中心」の教育論から「子ども中心」の教育論への転換という、当時の教育界の世界的な潮流を捉えて理解するべきだと思う。「自由」が気になる識者が多いようだが、そこをあまり論じすぎると話が脇道に逸れる。 同じシリ
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