祖父が文豪・坂口安吾と暮らした日々【未公開写真有】
1.はじめに
私の祖父は、一時期坂口安吾と同居していた。
正確に言えば、坂口安吾が、祖父の棲む家に転がり込んできたのである。
今回は、1951年頃に祖父が撮った安吾の秘蔵写真とともに、祖父から見た安吾について、書き起こしていこうと思う。
(※大部分は無料で読めます)
2.祖父について
私の祖父・高岩震は1928年福岡生まれ。
今年97歳だが、いまだに元気に日本酒を何合も飲んでいる。
震は檀一雄の異父弟である。
戦時中から檀一雄夫妻と、二人の母である高岩トミらとともに福岡で同居していた。終戦を機に家族総出で上京し、石神井でなかよく暮らしていたという。
そこに転がり込んできたのが、坂口安吾というわけである。
(檀一雄らと迎えた終戦についての祖父のエッセイはこちら👇)
当時震はカメラマンを目指しており、檀からはニコンSという最新のカメラを借り、さらに坂口安吾が檀に贈った135ミリレンズを借りるという大変贅沢な環境で写真学校に通っていた。
この石神井の家は、安吾以外にも、眞鍋呉夫や尾崎士郎など名だたる文人が出入りしていた。
そんな文豪たちの日常を切り取った、70年以上前の貴重な写真を公開する。
⚠️週刊新潮にも👇下記のような記事が掲載されておりますが、私が当時新潮社に勤めていたので、せっかくならと記事化した次第です。このnoteには、週刊新潮の記事にも載せきれなかった写真やコメントを多数載せています。
3.裁判と安吾と睡眠薬
当時の安吾の様子を、震はこう振り返る。
「あのときすでに安吾はヤクチュウで、伊東市の温泉で療養してたんですね。だけど、躁状態になって、“伊東競輪不正告訴事件”を起こしたんです」
伊東競輪不正告訴事件とは、1951年9月、八百長があったとして、伊東競輪の運営団体を安吾が検察庁に告発した事件である。
「告発記事を公表したものですから、安吾は同年に競輪主催者から裁判を起こされて、沼津地裁に呼ばれました。そこに、心細いからと檀一雄や知り合いを何人か連れ立っていって、そのうちの一人が、学生で暇をしていた私だったんです。
しかし、地裁にいた競輪団体側のガラの悪い連中が恐ろしくて、彼は錯乱状態で、完全に取り乱してしまった。
そこで、地裁の一室に座らせて、とりあえず一服させました。これ(下図)が、そのときの写真です」
宣材写真のような文豪然としているこの写真に、そのような背景があったとは。
震は、昨日のことのように、その日の様子をこう語る。
「おかしくなってしまった安吾を抱えて、慌ててタクシーに乗せて熱海の旅館へ連れて行き、とりあえず酒を飲ませたんです。
片手に睡眠薬の錠剤をたくさん握って、もう片手のジン一瓶とともに飲み干していたのを憶えています。そしたらだいぶ落ち着きましたね」
精神不安の人に対してその落ち着かせ方はどうなのだろうか。令和の人間から見ると、文壇の事情はなんとも不可思議である。
「その後、精神状態が悪化した安吾は自宅に帰ることを怯えて拒否したため、我々(檀)の家に、奥さんの三千代さんとともに、しばらく居候することになったのです」
4.檀と安吾とカレーライス事件
当時の石神井は、いまでは考えられないほど自然豊かな郊外であり、大きな庭のある家で檀たちは、一カ月ほどゆっくりとした同居生活を過ごしていたようである。
写真に映る赤子は、後妻ヨソ子との子供、檀次郎だと思われる。
次郎は前年1950年に生まれたが、この数年後日本脳炎に罹り、夭折してしまう。
ちなみにこのときには、檀の娘で後に女優となる檀ふみはまだ生まれていない。
檀たちとともに暮らし、楽しそうな様子の安吾。
(25/9/14追記)
この爆笑してるシーンは、伊東に住んでいた尾崎士郎の家だという。
しかし、時折、精神不安からくる異常行動を見せていたという。
「安吾は定期的におかしくなって、なにか言いながら突然棒を振り回すこともよくありましたね。」
そして、そんな日々のなかで起きたのが、かの有名な〈カレーライス百人前事件〉。
安吾が突然妻の三千代氏に百人前のカレーの出前を頼むように言い出し、檀家の庭に次々と大量のカレーが運ばれたとか……。
祖父自体はこの現場を目撃していないのだが、上記のような錯乱した安吾についての証言からすると、さもありなんである。
5.安吾と檀の高麗神社ピクニック
1951年10月19日。祖父は安吾、檀、文春の編集者・中野修ともに、高麗神社へ向かった。
昨日の三人(※安吾、檀、中野)に写真の高岩震君を加え、四人の大男が獅子舞い見物ピクニックとシャレこんだからだ。お酒があるから男の大供のピクニック弁当も重たいものだ。
高麗神社の祭の笛――武蔵野の巻』
当時月刊の文藝春秋に連載していた『安吾の新日本地理』の取材のためである。
現在の埼玉県日高市には、高麗神社という歴史深い神社がある。
奈良時代に朝鮮半島の戦乱から逃れてきた朝鮮人が住んだ集落が高麗村であり、その子孫の支柱となったのが高麗神社である。
この写真にある将軍標とは、朝鮮半島で魔除けのために境界などに建てられるという。
現在高麗神社の将軍標はコンクリート製のものに変わっているが、以前は木製であったというから、おそらく写真のなかのものが昔の高麗神社の将軍標だろう。
⚠️高麗神社での安吾の写真や、石神井での尾崎士郎、眞鍋呉夫と檀一雄ら文人たちの写真は、以下の有料版に続きます。
フィルムの現像代(古いネガなので、高かった……)などすべて私個人の自腹なので、ご容赦ください。もし檀、安吾など当時の無頼派たちにご興味ありましたら、ぜひご購読ください。
ここから先は
面白いと思ったら応援のほどよろしくおねがいいたします! いただいたチップは執筆活動に使わせていただきます。



購入者のコメント