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脳のナゾ、イカの遺伝子から解明 米研究者の挑戦続く

ナショナル ジオグラフィック

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 米国マサチューセッツ州沖で捕れるアメリカケンサキイカ(Doryteuthis pealeii)は、100年近く前から神経や脳の研究で非常に重要な役割を果たしてきた。2020年、その研究が大きな成果を上げた。近くのウッズホール海洋生物学研究所が、CRISPR-Cas9(クリスパー・キャスナイン)というゲノム編集技術を使って、アメリカケンサキイカの遺伝子を欠損(ノックアウト)させることに成功したのだ。

イカ・タコなどの頭足類がもつ能力は、イカの皮膚細胞の色変化から、コウイカのオスが求愛時にメスに擬態する能力、タコの記憶力や学習能力まで、地球のものとは思えないようなところがある。今回の成果は、頭足類では初めてのことで、それらの遺伝学的な背景の研究に道を開くものだ。論文は同年7月30日付けで学術誌「Current Biology」に掲載された。

「自然が神経科学にくれた贈り物」

ウッズホール海洋生物学研究所に来ていた米国立衛生研究所(NIH)の神経科学者パブロ・ミランダ・フェルナンデス氏は、水揚げされたばかりのイカを解剖室に持っていき、無造作に頭部を切り落とした。続いて、冷たい海水をはったテーブルの上で半透明の筒状の身(外套膜、がいとうまく)を切り開き、金属製の鉗子で内臓を慎重に取り出していく。それから軟甲を抜くと、頭側の端から筋肉質の外套膜に伸びる一対の神経線維が現れた。これが軸索だ。

フェルナンデス氏が「いいですね」と言いながら軸索の太さを測ってみせると、ゆでたスパゲッティーの4分の1ほどもあった。人間の最大の軸索より数百倍も太いイカの巨大軸索は、電気信号を外套膜に高速で伝えるおかげで、イカは危険からすばやく逃れることができる。

1936年にこの巨大軸索が再発見されると(以前は血管だと思われていた)、研究者たちは神経系や脳の化学的・電気的メカニズムの実験にイカの軸索を使うようになった。これだけ大きければ、電流を流して電圧の変化を測定できる。また、中の成分を調べることもできる。

米フロリダ大学の神経科学者レオニード・モロズ氏は、イカの巨大軸索は「自然が神経科学にくれた贈り物」だと言う。

イカの神経の研究は、数百本の科学論文と2つのノーベル賞を生み出している。1つめは、神経が他の細胞と一連の生化学反応を介して電気信号を伝達する仕組みを明らかにした研究で、1963年に贈られた。活動電位と呼ばれるこのプロセスは、神経系を持つすべての生物の基本的なメカニズムだ。2つめのノーベル賞は、アドレナリンなどの神経伝達物質の役割を解明した研究に対し、1970年に授与された。

現在では、より細い神経線維を測定・操作できる精密なツールが開発されたおかげで、イカの巨大軸索は研究に欠かせないものではなくなったが、イカには「まだ多くの解明すべき謎と科学的な過程があります」とフェルナンデス氏は言う。

氏はNIHで、イカの特定のたんぱく質が、軸索に運び込まれるのではなく、軸索の中で作られるかどうかを研究している。この研究は、将来的には人間の傷ついた神経細胞の治療につながる可能性があるが、イカの細胞内での基本的なプロセスを理解していなければ「そのような研究は夢にも思いつかなかったでしょう」と氏は話す。

イカの特殊能力、RNAの高速編集

ウッズホール海洋生物学研究所でCRISPR研究チームを率いる分子生物学者のジョシュア・ローゼンタール氏は、アメリカケンサキイカが神経細胞内のRNA分子を高速で変化させる特殊な能力を調べている。イカはこの能力を利用して、体の各部での遺伝子の働きを調節している可能性があるが、まだ確実なことはわからないと氏は言う。

イカのRNA編集の仕組みが解明されれば、人間の病気の治療につながる可能性がある。ローゼンタール氏が共同で設立したバイオテクノロジー企業は、人間の肝臓、目、中枢神経系の疾患を念頭に、DNAを書き換えずに有害な変異を修正する技術を目指し、イカのRNA編集を研究している。

しかし、このような頭足類の謎を解明するには、その遺伝子を調べる必要がある。それには、完全な遺伝情報の情報と、その遺伝情報を利用する能力、そして実験室で頭足類を飼育する技術の3つが必要だ。

マウスやショウジョウバエや線虫などの古典的なモデル生物では、何十年も前からそれらが可能になっていて、生物学や医学に数えきれないほどの恩恵をもたらしてきた。しかし、進化上の例外だらけの頭足類は、遺伝学研究に適しているとは言い難かった(タコが水槽から逃げ出す能力をもつことは有名だが、理由はそれだけではない)。

ローゼンタール氏のチームがイカのたった1つの遺伝子を編集するのにたいへんな苦労をしたことは、その難しさを物語っている。

なぜイカのゲノム編集は難しいのか

最初のハードルは、アメリカケンサキイカのゲノム(全遺伝情報)の解読だったと、ゲノム解析を担当したウッズホール海洋生物学研究所の神経生物学者キャリー・アルバーティン氏は話す。「頭足類のゲノムは大きくて複雑なのです」

ヒトのゲノムが約32億文字(塩基対)であるのに対し、アメリカケンサキイカのゲノムは約45億塩基対もあり、その半分以上が反復配列からなる。これらの文字の並びを解読、決定する作業は、何もない青空を描いた巨大なジグソーパズルを組み立てるようなものだったとアルバーティン氏は言う。

次の難問に直面したのは、遺伝子編集に取りかかろうとしたときだった。他のイカと違って、アメリカケンサキイカの卵には厚いゴム状の卵膜があり、CRISPR-Cas9(酵素)を卵に注入するのが難しかったのだ。針が十分に刺さらなければCRISPR-Cas9は卵に届かず、刺さりすぎれば卵はダメになってしまう。

「何年間もみじめに失敗し続けました」と米セント・メアリーズ・カレッジ・オブ・メリーランドの発生学者で、遺伝子編集チームのメンバーであるカレン・クロフォード氏は振り返る。

クロフォード氏は大西洋での漁から絶え間なく供給されるイカの卵を使って試行錯誤を重ね、ついに小さなハサミを使って卵膜に切れ目を入れる方法を編み出した。切れ目は針を通せるほど大きいが、針を通した後に再接着できる程度の小ささだ。

研究チームが最初にノックアウトの対象に選んだのは、イカの色素形成をつかさどる遺伝子だった。遺伝子編集がうまくいったかどうかを容易に確認できるからだ。結果は目論見どおりになった。遺伝子編集されていないイカはカラフルな色素胞でまだら模様になっていたが、遺伝子をノックアウトされたイカはガラスのように透明だった。

これは、イカをはじめとする頭足類を遺伝子研究に利用するための重要な一歩だ。研究チームは前述の通り論文を発表し、遺伝子編集を行ったイカの細胞の90%でこの遺伝子がノックアウトされていたと報告した。

それ以来、研究チームは、他の遺伝子をノックアウトする実験を行ってきたとローゼンタール氏は話す。例えば、RNA編集を可能にする2つの遺伝子などだ。イカのRNA編集能力がどのような機能を担っているのかはまだ不明だが、イカにとって必要不可欠なものであるようだ。RNA編集遺伝子をもたない幼生は、孵化後すぐに死んでしまう。

またこの夏は、神経のスイッチが入ると緑色の蛍光を発するたんぱく質をつくる遺伝子を挿入(ノックイン)することを目標にしている。これをイカの色素を失わせるノックアウトと組み合わせれば、透明なイカの体内で、神経が発達し、働きはじめる様子を観察できるようになる。

養殖への挑戦

これだけ研究が進み、科学の発展に貢献してきたにもかかわらず、アメリカケンサキイカには遺伝子研究用の生物として重大な欠点がある。実験室での飼育が困難なのだ。「成体は大きい上に、深くて冷たい海を好むのです」とクロフォード氏は言う。

海でアメリカケンサキイカを捕まえてきて水槽で飼うことはできるが、数日で死んでしまう。また、海で捕まえたイカから採取した卵を実験室で授精できるが、孵化した幼生の食性は複雑で、繁殖できるようになるまで育てられない。これでは、実験に使う遺伝系統を確立できない。

しかし、ウッズホール海洋生物学研究所には、日本の沖合の海水を模した水を入れたプラスチック製の水槽があり、その中には別の種類のイカが穏やかに浮かんでいる。頭足類の養殖を専門とするテイラー・サックマー氏が水槽にライトを当てると、小石ほどの大きさのニヨリミミイカ(Euprymna barryi)の姿が見えた。体は透明で、光を反射した目だけが赤い。

生後1カ月のこの幼生は、遺伝子編集を受けた両親から生まれた第1世代の子だ。触腕のある団子のような親たちは、近くにある別の水槽の中に浮かんでいる。サックマー氏は母イカにライトを当てて、皮膚の色が縞状に失われているのを見せてくれた。これは、色素形成をつかさどる2個の遺伝子が欠落していることを意味する。彼女の卵が、同じ遺伝子が欠落しているオスの精子によって受精すると、透き通ったアルビノの子が生まれる。

「このメスの子孫はCRISPR研究の最先端にいるのです」と、サックマー氏はイカに気を遣うように声をひそめて言う。

アメリカケンサキイカとは違い、ニヨリミミイカは研究所内で孵化し、成体になり、繁殖させることができる。養殖の取り組みはまだ始まったばかりだが、将来的には、世界中の科学者に遺伝学研究用のイカの卵や成体を提供できるようにしたいとサックマー氏は言う。

研究所では、ミナミハナイカ(Metasepia pfefferi)、タテジマミミイカダマシ(Sepioloidea lineolata)、それにゴルフボールほどの大きさのカリフォルニア・ツースポットタコ(Octopus bimaculoides)など、他の頭足類の完全養殖にも取り組んでいる。「私たちの計画通りにうまくいけば、他の研究室からの需要も増えるでしょう」

しかし、頭足類を研究に利用できるようにするためには、まだいくつかの課題がある。例えば、ニヨリミミイカの卵を試験管の中で授精させることはまだできないため、母イカが繁殖しようとしない限り、遺伝子編集を始めることができない。また、イカは孵化してから成熟するまでに比較的時間がかかるため、研究に時間がかかる。

フロリダ大学のモロズ氏は、ニヨリミミイカについて、頭足類の神経生物学に関する多くの疑問に答えるには単純すぎる生物だと考えているが、この研究は「極めて重要なステップ」であると言う。複雑な神経と進化上の特徴をあわせもつ頭足類の基礎研究は、「イカの巨大軸索と同様、脳の解明を速めるはずです」と氏は期待している。

「頭足類は(2億5000万年前の)古生代の終わりから生きている生物です」とクロフォード氏は言う。「彼らは語るべき物語をたくさん持っています」

文=JAMES DINNEEN/訳=三枝小夜子 (ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで2021年8月2日公開)

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