藤井家は国替えを経て、常陸国(茨城県)から久保田(秋田市)へ移住した武士の一族だといわれ、何代目かが医者となり、江戸中期には大曲(大仙市)に住んだ藤井某がいたとされ、江戸末期になると久保田と大曲に薬店を開いた。 明治維新を経て、個人経営としては久保田を本店とし、1871年に東京神田、1873年に大曲に支店を開業。

Joined September 2021
おさらい。あんばいこうさんの著書や六郷町史の龍角散部分は、当時の龍角散の関係者たちの許可を得たものではないため、これを資料に使っても、龍角散の歴史は紐解けません。 その証拠に、龍角散の社員がイベントで、龍角散は六郷で創業した企業だと説明したという複数の証言あり。
江戸初期に秋田に来た藤井家 江戸中期頃に秋田入りした系統あり 下級武士は、国替え時に水戸に残ったとされます 一方、北関東から福島県へ入り、のち秋田に戻った藤井家は別系統です。渡部景一さんの「秋田市歴史地図」にある古地図によると、現在の秋田市に藤井五郎右衛門の屋敷があったようです。
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10月4日は、大曲花火大会・秋の章ですね。当アカウントのメンバーたちも今大曲におります。 龍角散の屋敷があったのは、元の上大町の信用金庫の後ろから、現在は空き地となっている付近とされます。その近くには安養寺あり。 龍角散は、古くは水戸(茨城県)や久保田(秋田市)がルーツとされます。
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藩に系図提出しているものの、本当に分流なのかどうかは不明です。 幕府藩医の原南陽の門人となるために、藤井から何人か水戸へ行かせた、または古くは分流とされる水戸に残った方を使った可能性が。 六郷が龍角散と関係あるんだ!とやりだしたのは、美郷町の町議会なので、当方には分かりかねます。
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前から何度もポストしていましたが、秋田藩のことを調査しても正しい情報が出てこなかったのは、水戸藩の薬がルーツだからです。 tokakyo.or.jp/news/wp-conten… ここの3ページ目の中段付近から読んでいくと、藩医の処方でなく、幕府の医者の処方で、中々、処方を教えてもらえずに〜と書かれています。
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福島県の行った方の藤井でなく、資料からは江戸中期〜後期の藤井文右衛門忠貞が玄信になっています。秋山高志さんの著書によれば、岩根村(茨城県)にいたと。 国替えのあとに来た藤井 江戸中期に出羽入りした藤井 尚、六郷の藤井さんという家々とは親戚ではないです。
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当家が国替え後に、大曲、または六郷東根にいたという情報自体が間違いであり、佐竹義重の御殿医だったというような情報も確認されていません。 第一、龍角散の原型となった薬は水戸藩に伝わる薬ですので、美郷町さんがどういう情報を元にしているのか分かりません。
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国替え時に出羽入りした家臣団の中に、「藤井」姓はおりません。 そして当家は代々御殿医だったのではなく、※最初は武士。何代目かが御殿医となったが正しいのです。 ※龍角散の資料、藤井康男氏のコラム等より。
"龍角散の創業家の藤井家は出羽国久保田藩(秋田藩)の初代藩主 佐竹義宣の御典医を務める家系でした" note.com/kandariverside/n/n3… 龍角散の悪魔 契約者 : 秋田藩 佐竹氏
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エックスはユーザー離れが激しいのか、Twitter時代の勢いがなくなったんですね。試しに他のSNSでやってみたら、そっちの方が表示数が多かったという結果に終わりました。 Twitter時代の方が色々と使いやすかったなと。
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失礼致します。これは間違いでして、国替え時に出羽入りした家臣団の中に藤井姓はおりません。 そして当家は代々御殿医だったのではなく、※最初は武士。何代目かが御殿医となったが正しいのです。 ※龍角散の資料より。
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美郷町六郷の志ら梅の湯川家、六郷東根の坂本さんとは親戚ではありません。 逆に、六郷東根地区で今も米作りしている龍角散の関係者は、春霞(はるかすみ)の栗林家だとされます。 間違った情報には、くれぐれもお気をつけください!
これもですね。これは龍角散が美郷町六郷東根の出身だと思い込んでしまう原因があったのでしょう。 なお六郷東根に親戚はおりません。今もこの地で米作りをしている龍角散の縁者は春霞の栗林家です。 過去の六郷町の役場に藤井という親戚はおりません。
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おさらい 例えば、秋田県の旧六郷町(現在の美郷町)の役場に藤井さんがいたとしても、龍角散とは無関係です。 同じく、秋田県南部に藤井姓が多いとしても、同じ名字だからと言って当家と関係がある、なんてことはないのです。
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久しぶりの定期: 実際問題、ただの町医者が藩にあがれるということはなく、江戸期の御殿医とは何代か続かなければもちいられなかったこと、また遊学するためには藩の学校で何年か勉強する必要があったようです。 秋田藩の学校があったのは、現在の秋田市のエリアなかいちとなっている場所。
現在の龍角散の社員さん自体同族率が低いので、本来の歴史認識が危ういのは仕方ないとしても、過去の社内報、当時の会長(2代得三郎)が発言しているかていやく、図書館で調べられるレベルのものはしっかりと調査してほしいところですね。
根本的な説明を変えてはいけません。 御殿医だとしても、過去の龍角散の資料通りに藩の武士だとしても、いずれにせよ藩にあがっていく訳ですし、複数の場所に住まいがあったという説を尊重するのが本来のやり方ですね。
根本的な説明を変えてはいけません。 御殿医だとしても、過去の龍角散の資料通りに藩の武士だとしても、いずれにせよ藩にあがっていく訳ですし、複数の場所に住まいがあったという説を尊重するのが本来のやり方ですね。
さてさて、過去に色んなことをポストしていましたので、もうお気づきの方も多いでしょうが、 過去のイベントで、東京の龍角散の社員が、「龍角散は美郷町で創業した企業である」と説明していた模様。 ところが当家は秋田市や大曲に屋敷を持っています。 美郷町の都合で歴史を変えてはいけません。
4EC80nMPuC19Ilg このアカウントの人のサイトのようですが、2020年でポスト(つぶやき)が途絶えていますね。出所不明の情報にはくれぐれもお気をつけください!
続き。 3代目・正亭治は喘息だった藩主・義堯の側医となってその改良に取り組み、龍角散と名付けたという。 龍角散という名前は、正亭治の時代よりも前についている上、本来、3代目と数えた事実はないのです。
さてさて、過去に色んなことをポストしていましたので、もうお気づきの方も多いでしょうが、 過去のイベントで、東京の龍角散の社員が、「龍角散は美郷町で創業した企業である」と説明していた模様。 ところが当家は秋田市や大曲に屋敷を持っています。 美郷町の都合で歴史を変えてはいけません。
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続き。 3代目・正亭治は喘息だった藩主・義堯の側医となってその改良に取り組み、龍角散と名付けたという。 龍角散という名前は、正亭治の時代よりも前についている上、本来、3代目と数えた事実はないのです。
share.google/ZiRc54IwMTJZmsj… 秋田藩医・龍角散創業家。江戸の上屋敷に住んでいた玄淵・玄信親子が、漢方薬に蘭学の知識を取り入れた薬を製造、将軍にも献上した。 秋田市も六郷も大曲も飛ばされていますが、佐竹原に住んでいたと伝わります。 そして江戸中期の玄信の住まいは、水戸の岩根村ですね。
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