「なぜ働いていると」「考察する若者たち」は「好きを言語化」してしまうのか
『好きを言語化する技術』の違和感
三宅香帆『好きを言語化する技術』は、ある意味三宅香帆らしい著作であるし、三宅香帆らしくない著作だ。
三宅香帆の著作はある種のケアを含んでいる。『なぜ働くと本が読めなくなるのか』では、本が読めなくなる要因をライフステージの変化、社会の労働環境とし、その苦しみが個人の問題ではなく、社会構築的なものであるという主張を力強く述べている。
けれども、『好きを言語化する技術』に関しては、大きな違和感を持った。
推し活的な論者として有名な彼女が、そういうノウハウ本を書くのは別に不思議なことではない。
けれど「好きを言語化」したい人に対して、そのノウハウを伝授することが本当にケアなのだろうか?
「好きを言語化せよ」という圧力が社会的に要請され、それ故に「好きを言語化」しないといけないという焦りや息苦しさを与えられているのではないか。
もし『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を書いているときの三宅香帆を憑依させ「好き」と「言語化」のテーマについて書くのだったら、私はその社会的な構造についての批評を書く。
「好きを言語化」出来ないのはあなたのせいではない。それは社会に無理矢理、語りを要求されているだけだ。まず、そこから自由にならなくちゃいけない。
三宅香帆の二面性
『好きを言語化する技術』は批評としてはやや難点がある。けれどもノウハウ本としては非常に役に立つ本だと感じた。
三宅香帆を批評する際、区別しなくちゃいけない観点がある。
批評家としての三宅香帆と、マーケターとしての三宅香帆だ。
批評家としての三宅香帆は、力強い論点、話題設定を行い、つまらない本があったら最後まで罵倒するというパワフルな書き手だ。
そしてマーケターとしての三宅香帆は、本を推し活化し、多くの人たちを動員し、出版産業を活性化させる救世主としての存在だ。そのような存在の三宅香帆は、先ほどの尖りを潜ませ、本を読むことって最高! というポジティブなスタンスを崩せない。ある種、ポジショントークになってしまう。
この二面性がおそらくは三宅香帆についての議論をややこしくしている所だろう。特にマーケターとしての性質が、一部の読者に軽薄さを与えているのだろう。
三宅香帆論の難しさ
三宅香帆は賛否両論あるが、強い筆力と軽快な文体で多くの人を魅了する。そして彼女の影響力は日に日に増している。
三宅香帆論は、適当に書いてしまったら痛い目を見る。それは三宅香帆の議論の巧妙さ故に、部分的な矛盾を指摘しても三宅香帆の議論の強さに負けてしまうからだ。
批判、揚げ足取りが批評ではない。新たな論点を作るのが批評だ。文体を非難しても、単なる人格攻撃だ。そしてまあ、三宅香帆批判は単なる弱者のルサンチマンと言い張ることも、適切な議論を妨げることになる。
私は三宅香帆とは異なる論点を提出する。
「好きを言語化する」ことは本当に良いことなのか? マーケターとしての三宅香帆ゆえに批評できなかったその間隙を、私は突いてみたい。
そのキーワードが、ビョンチョル・ハンという思想家だ。
『好きを言語化する技術』の要約
『好きを言語化する技術』は、ノウハウ本だと言ったけれど、彼女らしい批評の片鱗も存在する。
この本の主張を簡単に説明するなら、他者に影響されず、自分らしい言葉を作っていこうというものだ。
自分がまだもやもやとした「好き」しか抱えていないとき、ほかの人がはっきりとした強い言葉を使っていると、私たちはなぜか強い言葉に寄っていくようにできています。
(中略)
強い言葉って、「もともと自分もそういう考えだったのかもしれない」と思わせる力があるんです。共感を呼びさます力がある。それが強い言葉の定義です。
でも、他人の強い言葉に身を委ねすぎるのは、危険です。自分が思ってもみなかったことなのに、さも自分がもともと考えていたかのように抱いてしまう。すると、自分の「好き」はおろか、自分の感情や思考、もともと持っていた言葉も見失ってしまいます。
他者の言語化に影響されないで、自分の言葉をきちんと作っていこう。
そのノウハウとして、細分化すること、孤独にメモを作って自分の考えをまとめようなども紹介している。
けれどもそのノウハウの中には、他者との情報量の差を意識しようなど、他者への意識が強く存在するような気がした。
『好きを言語化する技術』は単に自分の言葉を作る営みというよりも、推しのプレゼン術という側面が強い。伝える相手が明確に存在してしまっている。
自分らしい言葉を作ろうとしているのに、その営みには他者の眼差しが存在する。
まあ、他者の言葉、雰囲気に流されないようにするというのは重要だ。それには同意する。
けれども『好きを言語化する技術』では、その試みがどこか中途半端な気がしてならない。
ビョンチョル・ハンという思想家
ビョンチョル・ハンは韓国出身で、ドイツで活躍している思想家、哲学者だ。専門はメディア論。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』のラスト、彼女の半身労働論で大きく引用されていたのが、ビョンチョル・ハンの『疲労社会』という著作だ。
三宅香帆の『疲労社会』の説明をそのまま引用する。
ハンが名づけた「疲労社会」とは、鬱病になりやすい社会のことを指す。それは決して、外部から支配された結果、疲れるのではない。むしろ自分から「もっとできる」「もっと頑張れる」と思い続けて、自発的に頑張りすぎて、疲れてしまうのだ。
『疲労社会』はこのような社会のことを指す。誰かから命令されて苦しむのではない。むしろ自分で、自分を搾取的にしてしまうのだ。その際のキーワードが能力である。
ビョンチョル・ハンは『Psychopolitics』という著作では以下のように述べる。
〜すべき(規律)には限界がある。けれど、〜出来る(能力)には限界がない。
(Should has a limit. In contrast, Can has none.)
「〜すべき」という押し付けの規律なら、あくまで表面的に守ればいい。けれど、「〜できる」という能力を主体とした考えだと、出来るまで自己を搾取し、頑張り続ける。これについては、『疲労社会』でも同様なことが述べられているが、上手く引用できる箇所が少なかったので別の著作を引用した。
ネオリベラリズム的な世界ではすべてが自己責任論に帰着する。何かをしないのも全て自己責任だ。
だからこそ、私たちはそのような考え方から離れるべきだ。それがビョンチョル・ハンの主張であるし、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の主張である。
それらを元に、自己搾取のような全身全霊をやめて、半身労働や、週3勤務、兼業的な主張をする。
さてさて、賢明な読者なら少しずつ何を言いたいか分かってきたかもしれない。
『好きを言語化する技術』は、「好きを言語化する」能力を磨く本だ。
つまりは自己搾取のための方法を説いた本。つまり、三宅香帆の半身労働論と、『好きを言語化する技術』は相反する主張なのだ。
『好きを言語化する技術』は、自分で言語化することを重視する。
けれど、自分らしさを重視するのも、かなり個人主義的だし、能力主義的だ。
三宅香帆は、ケア的な論を展開しながらも、個人主義的な能力主義的な論も同時に展開する。そのアンビバレント性について見つめる必要がある。
なぜ『好きを言語化する技術』で『透明社会』を引用しなかったのか
さて、三宅香帆批評において重要な補助線がビョンチョル・ハンだと私は考える。
そのいちばん重要な著作が『透明社会』だ。
#2023年の本ベスト10
— 三宅香帆/新刊『考察する若者たち』 (@m3_myk) December 31, 2023
3.『立身出世と下半身―男子学生の性的身体の管理の歴史』(澁谷知美)
2.『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』(三浦英之)
1.『疲労社会』(ビョンチョル・ハン)
でした!今年読んだ本のベストなので、今年刊行とは限りません🙏 pic.twitter.com/FzlLgxpj5p
三宅香帆は、2023年のベスト本が『疲労社会』と述べている。けれども、彼女のXでビョンチョル・ハンについて検索しても、『疲労社会』以外の著作については何も述べていない。
ビョンチョル・ハンの著作で邦訳されている著作は『透明社会』『情報支配社会』の二作があるのだが、三宅香帆はそれらの著作について言及しない。たぶん。これは三宅香帆の執筆した記事をすべて読めているわけではなく、どこかでは言及している可能性はあるが、調べた所見つからなかった。
さて、三宅香帆の『好きを言語化する技術』の痛い所を突くのが『透明社会』だ。もちろん、ある本を引用するなら、その著者の他の本もすべて読む必要があるとは思っていないが、私はそこをあえて深読みしようと思う。
透明社会とは、簡単に言えば分かりやすく簡単なものが求められる社会のことだ。
私たちの世界は加速している。技術成長もどんどん早くなっている。生成AIの成長は凄まじい。
透明なものは世界の加速を妨げない。目まぐるしく変わる世界で本をゆっくり読むのは遅いから、ネットニュースで分かりやすい情報を手に入れたくなる。
そういう透明社会では見えることが前提となる。見えないもの、つまり探さないとすぐわからない情報は、透明ではない。だからこそ簡単な情報が必要になってくる。
三宅香帆的なワードを使うなら、ノイズのない情報が必要になる。
抽象的な話をしすぎた。
つまりその現象とは何か。
言語化だ。
言語化とは、私たちの感情を、好きを、見える状態で展示することなのだから。
図像になれという図像的強制 [der ikonische Zwang]である。あらゆるものが見えるようにならなければならない。透明性の命法は、可視性に屈服しないものに疑いの目を向ける。透明性の暴力はこの点にある。
ビョンチョル・ハンは、見えやすくあれ、という強制を強く批判する。世界を加速させるために透明になり、人々の心の内も言語化することが求められる。
もちろん、ビョンチョル・ハンは言語化については言及しない。けれど『透明社会』が批判しているものの一つに、言語化があるような気がしてたまらない。
言語化というのは、簡単でわかり易い言葉で、自身を説明しろという現象なのだ。そこで要求されるのは自身を表現する能力である。
お前の心の内を全て、隠さずに教えろ。その要求が私たちの窮屈さ、燃え尽きる原因になってるのかもしれない。
さて、三宅香帆が『好きを言語化する技術』でこの本を紹介しなかったのは、あくまでマーケターとしての三宅香帆の著作であったから、少し難解な思想書を引用しなかったというのもあるだろう。
けれども、『透明社会』には、三宅香帆の気まずさが詰まっているような気がした。
ケア的な論を展開しながらも、能力主義的な世界を見つめてしまっている彼女のアンビバレントさが。
言葉にするのが辛いならしなくていいよという優しさではなく、こういう方法を使えば言語化できるというノウハウをマーケティング的に教えている矛盾が。
『考察する若者たち』に潜む能力主義
三宅香帆は、基本的に能力主義を肯定しているわけではない。けれどもケア的な方法が解決策であるとも考えていないようなアンビバレントさを感じる。
『考察する若者たち』の中でマイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を引用し、私たちの成功は外部的な要因、運の要素が強く、私たちが努力しても必ずしも成功できないことを強調する。
けれども、彼女はあとがきで以下のように述べる。
あとは、やはり今回書いたようなエンタメが流行する背景には、若い世代の貧困や経済格差の拡大といった問題があると思います。『ようこそ!FACTへ』で描かれていたとおり、貧困を無視して「失敗してもいい」なんて言えない、と私は思ってしまいます。そういった社会の経済的な問題を解決することも、大人として一つひとつ努力すべきだなと。
三宅香帆は努力すべきと述べる。この発言が31歳の三宅香帆から私たち20代の若者に対して投げかけられた母性だとするのなら良いのだけれど、大人であれば社会問題を解決するために努力するべきという能力の問題となると、やや歪なものがある。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で引用されていた『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』の著者ジョナサン・マレシックが、大学教員というそこそこな年齢になってからバーンアウトしてしまったことを考えると、必ずしも20代のような若者だけの問題ではなく、30代、40代、下手すればそれ以上の年齢においてもバーンアウトは起きてしまう。
三宅香帆は能力主義を批判しながらも、どこか能力主義を隠しきれていない。
まとめ 働く三宅香帆、ケアする三宅香帆
三宅香帆は働きすぎだ。最近、毎月のように新書を出している様子には少し引いてしまった。
三宅香帆は、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』ではケア的な主張をしたにも関わらず、彼女は半身労働とは一線を画すような労働量をこなしている。Youtubeもやりすぎ、メディアにも出すぎ。絶対たいへんだ。
これも、先ほどの三宅香帆の矛盾によって説明できるだろう。
三宅香帆は、マッチョイズム的人間だ。そして、批評的な文章が好きなのでケア的な思想にもハマった。
だから、ケア的な主張がどこか浮いているように感じる。彼女は有能すぎるのだ。行動することを重要視し過ぎている気がする。
彼女は真に、本が読めないのは社会のせいだと信じているはずだ。けれども、どこか彼女自身にはしっくり合っていないような気がする。
彼女は能力主義的な舞台と相性が良い。けれど彼女は著作の中でケア的な主張をする。
これは理想と実践の乖離として認識するべきだろう。
三宅香帆の半身労働論は、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』にも書かれているように理想的な側面が強い。たしかに彼女はそういう社会の到来を期待している。けれども、そんな社会はすぐには訪れないことをシビアに理解している。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の最後に、簡単なノウハウを書いてしまった。
だからこそ、彼女は労働する。そして、好きを言語化することを勧める。
確かにビョンチョル・ハン的な見方をすれば、『好きを言語化する技術』は能力主義的な社会を押し進めるという点で有害だ。
けれども私たちは生きていかなくちゃいけない。他者に自分の思いを伝え、自分の好きを伝えていきたい。そこに過度な自己搾取があってはいけないが、能力主義の全否定もそれはそれで不健全だろう。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』での理想と、『好きを言語化する技術』による実践。
いろんなメディアに出演し、異常な量の労働をする三宅香帆。おそらくは、出版業界が盛り上がり、他に彼女のようなプレイヤーが増えることを期待しているからこそ、彼女はオーバーワークする。
彼女は、多くの人をケアしたいのだろう。だからこそ強い三宅香帆を求めてしまう。ある種、自己犠牲的なのかもしれない。
彼女を取り囲む令和人文主義というワード自体、三宅香帆を生贄にすることで他にヘイトを向かないようにする、ある種の装置としての役割もある。令和人文主義とは三宅香帆を用いた供犠の儀式でもあるように感じる。
三宅香帆はその儀式において生贄として捧げられても、死なない強さがある。ある種の不死性を感じる。
今回の記事で、三宅香帆の矛盾、そして多分彼女のその葛藤を想像しながら、私はあえてその矛盾を指摘した。
私は三宅香帆が半ば諦めてしまった理想をもっと見つめたい。(多分彼女は諦めていないと言うのだろうけれど)
私は言語化しなくていいと言いたい。
言語化というのは他者からの圧力があるから、無理に自分の言葉を作ろうとしなくていいんだ。そう言いたい。
こうやって三宅香帆論を平易な文体で構成し、ケアと能力主義における矛盾を言語化した自分が言うのもまた、アンビバレント的なのだけど。
アンビバレントさに向き合おう。いつか解決する手段があるのかもわからない。そして私たちはもっと三宅香帆をちゃんと眺めるべきだ。どこか矛盾してしまう当たり前の人間として。
補足
三宅香帆論としてはまとまりのあることを言えて、個人的には満足しているのだが、三宅香帆についてはもっと語りたいことがある。6000字以上書いてきたので、残りは有料で書きたい。
特に『考察する若者たち』について。
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