愛着
やっぱ親の車出さないと動けない中高生時代を送る人と、電車で気軽に色んなところに行ける中高生時代を送る人だと、考え方や経験に大きな差がでる https://t.co/T19gKbjLdI
— ねこひめ (@nekohimereal) December 27, 2025
朝、こんなポストが流れてきた。
私は車を運転するのが好きだし、遠くへ行くのが好きだ。時間に縛られず、人流に揉まれながら移動するのも苦手だし、何より気楽に思いつきで出かけられるからだ。
ポストの内容に直接関係はないが、何故私が「より可能性の高い車の中で練炭を焚かなかったのか」という話に触れたいと思う。
楽しかった場所
私にとって車とは、とても大切な場所だ。
子供のころの幸せな記憶がよく残っている場所。
私のことを色々なところに連れて行ってくれた場所。
恋人とたくさんの時間を過ごした場所。
どの思い出を切り取っても宝物だ。
だからこそ、そんな場所を自分の命の終点に選びたくなかった。それだけは言えよう。
そんな悲しいことがあるか。
ストッパー
自分で死ぬ、というのは怖いものだ。
恐怖心や未練など、色々なものがストッパーになる。
そのひとつが、私にとっての「免許と車」だったのかもしれない。
私は子供の頃からかなりエグめの虐待を受けていたが、その分愛情も注いでもらったことはわかっている。
ただ、やはり「色々されてきたこと」を思い出すと、どうしても親の存在というのは、自死のストッパーにはなり切れずにいた。
実際、幼稚園児の頃から常にそういったストレスに苛まれ、成人式を迎える頃には立派な精神異常者が完成していた。
おそらく、そのまま進んでいたら確実に死んでいただろう。
しかし、親は首都圏に住んでいるにも関わらず、私に免許を取らせた。しかも、親の費用でだ。
車の必要性や興味も一切なかった私にとっては意味がわからなかったが、結局言われるがままに取得し、気づけば大学生の癖に車を持っていた。
運転の爽快感と自由気ままな旅行の楽しさを知った私は、以前と打って変わって超アウトドアとなり、色々なところへ出かけた。
本当に夢中で、楽しくて楽しくて仕方なかった。
恋人との出会いもそうだった。恋人はまだ10代だったが、いつも車で移動して、移動中はずっと二人で話をしていた。そんな時間が、最初の頃も今でもとても好きだった。きっと、車がなければここまで仲が深まることはなかっただろう。
友達もそうだ。車界隈の友人に囲まれ、色々なところにみんなで行った。一人一台というイカれ具合で、10人で寿司屋に行けば車が9~10台だったりと、周りに迷惑もかけた。でも、10代の頃よりも、20歳を超えてからの方が圧倒的に友人関係に恵まれたし、楽しくて、生きている心地がした。
その経験こそが、私を今回死なせなかった「ストッパー」なのだと思う。
私を生かしたのは
勿論、私の危険を察知してくれた仲間だろう。とても感謝しているし、してもしきれない。でも、それだけではない。
人生を豊かにさせた経験、友人との交流、そして恋人との時間。
その全てが、練炭自殺の方法としては致死率が極めて高い車内での実行を思いとどまらせた。
だから、どうしても車というスペースの中で死にたくなかった。
今までも、死にたくなる時はあった。それでも、嫌になった時はふらりとドライブに行ったりして、気を紛らわせていた。
何度も何度も、私は車と免許に命を救われているのである。
私は車で出かける時間を、友人と遊んだ時間を、恋人と過ごした時間を愛している。だから、その愛している時間を守ってくれた車の中で死ぬことは、どうしてもできなかったのだ。
これは特異なケースかもしれない。
それでも、車と免許というものは、たくさんの可能性を秘めている。
車がなくても出来ることはたくさんあるが、車がないと出来ないこともたくさんある。
事実、私は免許があったからこそ、大事な人間関係やアイデンティティを構築できたし、愛する人とたくさんの時間を過ごすことができた。
そして、最後の手段として思いとどまることができた。
ポストの真意とはかなりズレてしまうが、まぁ仮に首都圏に住んでいて車は不要だったとしても、免許くらいは取っておくことをお勧めする。
それだけ、免許というのはあなたの人生を彩ると思うから。
この記事を書いている途中、車の関連で交流のあった友人、恋人とドライブや旅行をしている時のことを思い出して、本当にバカなことをしてしまったと、改めて強く反省した。
今度気落ちしたら、またドライブにでも行こう。


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