東京龍角散秋田支局旧藤井薬舗というアカウントから、創業家は水戸藩出身ではない間違えるなと高圧的なコメントが届きましたと投稿している人がいますが、どうやったらそんな解釈になるのでしょうか? こちらは支局とつけておらず、高圧的に説教していません。印象操作しない。それでは弁護士は動きません。子供じみた悪戯はやめなさい!

Joined September 2021
Replying to @mugichanomouze
ndlsearch.ndl.go.jp/books/R1… 六郷町史やこの筆の跡に載っているのは、主に秋田側の関係者のエピソードのため、当時の康男社長が調査に行っても分からなかったのは無理もないことで、龍角散に関することはほぼ書いていません。 龍角散の歴史は昔の社内報や薬の会報誌などで、2代得三郎が語っています。
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それでは出します。茨城県や水戸側の記録から。 龍角散の原型となる薬を水戸藩に習いに行ったのは藤井玄信と名乗った久保田藩医ですが、 これは原南陽(はらなんよう、1753-1820)の門人。 これを創薬したのが1797年または1799年だと言われています。 kotobank.jp/word/原南陽-14700
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Replying to @mugichanomouze
昔の薬袋の画像は龍角散のページにありますね。 大曲市史の龍角散部分的は佐藤康平先生がきちんと調べたものです。他にも市史の編纂委員に秋田藩の研究者がいたため、他の本よりはいくらか詳しく書いてあります。 この時代の得三郎とは、東京がつけた4代目で薬剤師です。 ryukakusan.co.jp/history
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様々な裏付ける資料がありますので、よって繰り返し指摘していますように、 龍角散の由来が 佐竹義堯(相馬家の三男) と 藤井正亭治 では年代が合わない訳ですね。
#佐竹資料館 にある #黒澤家日記 の1835年(天保6年)2月の日記には、江戸から買い求めた物のリストの中に「龍角散」という名前があるようです。
#佐竹資料館 にある #黒澤家日記 の1835年(天保6年)2月の日記には、江戸から買い求めた物のリストの中に「龍角散」という名前があるようです。
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定期:現在、 #大仙市 大曲では、#大曲史談会 さんによる「ふるさと大曲の記憶展」のパネル看板が設置されているようです。 上大町の信用金庫の手前の看板には、昔の勝町(浜町付近)の地図が使われており、そこに藤井玄渕(玄淵)の名前が載っているそうです。
再掲載 どうやら、小林製薬のある大阪市中央区道修町近辺から怪しいニオイがプンプンします。 龍角散もそうですが、小林製薬の小林家が何代も続く内、どこかで何かトラブルに巻き込まれる要素はなかったでしょうか? 怨恨の可能性あり。タイムライン注意! そこに犯人が?
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江戸中期に藤井一族が水戸藩に遊学に行ったのは複数の記録から来ています。よって東京側が数えている2代玄信ではないので、お気をつけください。 その時の幕府の医者が誰であったか?など記録はちゃんとある訳ですね。よろしくお願い致します!
当家には、利庵(としあん?)という医者もいたそうですが、この人についての詳細は不明です。 利庵は、現在の #大仙市(大曲)に住んでいたようです。 #龍角散 #秋田県 #花火の街大曲
当家には、利庵(としあん?)という医者もいたそうですが、この人についての詳細は不明です。 利庵は、現在の #大仙市(大曲)に住んでいたようです。 #龍角散 #秋田県 #花火の街大曲
猪木武徳さんが書いた「地霊を訪ねる もうひとつの日本近代史」ですが、この龍角散部分は無許可です。 正しくは龍角散のパッケージは、最初は徳川の葵の紋が使用され、のちに下がり藤の家紋に改められたものです。 これは大曲市史(秋田県大仙市)に書かれています。
猪木武徳さんが書いた「地霊を訪ねる もうひとつの日本近代史」ですが、この龍角散部分は無許可です。 正しくは龍角散のパッケージには、最初は徳川の葵の紋が使用され、のちに下がり藤の家紋に改められたものです。 これは大曲市史(秋田県大仙市)に書かれています。
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定期:2月以来 当家に関することは、六郷町史(秋田県美郷町)よりも大曲市史(大仙市大曲)の方が詳しいです。 興味がある方は図書館でご確認ください。 よろしくお願い致します。
定期: 当家に関することは、六郷町史(秋田県美郷町)よりも大曲市史(大仙市)の方が詳しいです。 興味がある方は図書館でご確認ください。 よろしくお願い致します。
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おさらい ・藤井得三郎は、正亭治の三男 ・久保田(秋田市)には得三郎の兄がいた ・明治初期は久保田が本店で、東京と大曲は支店 ・得三郎は東京府(東京都)の支店長扱い ・どこかで支店(東京)と、本店が入れ替わった ・秋田市の店は閉鎖 ・菊乃丁(大町)店は別の親戚が始めた店である
これは家系研究協議会(名字の研究会)と佐竹商店街、秋田市は友好関係にあったことなど、秋田市側の歴史が語られないことに原因がありますね。
※藤井家を六郷出身(#美郷町)と書いているのは「六郷町史」。 常陸国(#茨城県)から久保田(#秋田市)に入り、大曲(#大仙市)へ移住したと書いてるのは、丸山浩一(日本家系図学会常任理事。家系研究協議会名誉会長)さんの著書です。
※藤井家を六郷出身(#美郷町)と書いているのは「六郷町史」。 常陸国(#茨城県)から久保田(#秋田市)に入り、大曲(#大仙市)へ移住したと書いてるのは、丸山浩一(日本家系図学会常任理事。家系研究協議会名誉会長)さんの著書です。
現在の隆太社長の祖父は末期養子。社内闘争により、父を飛び越して、当時30代で康男氏が社長となる。同族経営からの脱皮を模索した時代だったようです。 これは康男氏の著書やコラム、当時の龍角散や薬の会報誌などに掲載された話より。
定期:基本情報 本来の数え方として、#常陸国#水戸)時代から数えるのか、国替の後に #出羽国 #久保田#秋田県 #秋田市)にやって来た藤井某を初代と数えるのかは不明。 玄淵から数えて6代目と名付けたのは3代得三郎(勝之助)。息子の康男前社長は「便宜的に7代目を名乗らせて頂いている」と
定期:基本情報 本来の数え方として、#常陸国#水戸)時代から数えるのか、国替の後に #出羽国 #久保田#秋田県 #秋田市)にやって来た藤井某を初代と数えるのかは不明。 玄淵から数えて6代目と名付けたのは3代得三郎(勝之助)。息子の康男前社長は「便宜的に7代目を名乗らせて頂いている」と
定期:間も無く5年 2019年の8月17日~21日の #秋田市 では、 秋田県の文化を収集する会(#油谷これくしょん)さん主催で、 #秋田県 発祥の漢方薬「#龍角散」に関連する資料を集めた「『龍角散』のふるさと秋田 健康を支えた家庭薬展」が、秋田市山王の #さきがけホール で行われました。
2019年の6月は? #秋田県 #大仙市 では #はなびアム の別館で、#油谷これくしょん の展示会が開催されました。 『江戸時代に藤井家によって作られた #龍角散 は、今や世界中で販売されています。ルーツとなる資料のうち明治・大正・昭和時代の懐かしい資料を取り揃えました。』 #あぶこれ
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2019年の6月は? #秋田県 #大仙市 では #はなびアム の別館で、#油谷これくしょん の展示会が開催されました。 『江戸時代に藤井家によって作られた #龍角散 は、今や世界中で販売されています。ルーツとなる資料のうち明治・大正・昭和時代の懐かしい資料を取り揃えました。』 #あぶこれ
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龍角散が美郷町の物だと言い出したきっかけは「生薬の里構想」ですが、これは町長が東京の龍角散へ訪ねていき、トップセールスを行ったことによるもの。 八峰町との関係は、龍角散役員の加賀亮治が八森町出身であることから、同級生である町会議員に提案したのがきっかけ。 秋田市でもと話もあった。
秋田公文書館の系図調査の結果として、国替えの時に来た家臣団の中に「藤井姓」がないことは、昔のホームページに載っていた。 何代目かが医者となり~、この文面は現在の隆太社長の父にあたる康男氏がコラムや著者に書いている。 六郷や大曲に来た藤井某は、今現在の子孫の先祖ではない可能性が。
基本情報。複数の資料から。 藤井家は現在の茨城県から来た武士の一家。実は国替えの時に来ておらず、そのあとに秋田市に来たとされる。 時は流れ、何代目かが御殿医となり、藤井一族が龍角散の原型となる薬を調合。 江戸期の住まいは、東京下町、秋田市と茨城県、経緯は不明だが、六郷や大曲へ。