大学一年生の前期、レポートの書き方や討論のやりかたを学ぶ授業があった。あるとき、班を作って自由テーマで発表することになり、わたしの班が選んだのは「カルト宗教」だった。日本には主にこんなカルト宗教がある、洗脳の手口はこうで……と講義室で順番に発表したが、今思い出しても、熱意も考察のかけらもない稚拙なものだった。ユルユルの教養単位だったとはいえ、いつもニコニコしていた先生の精神力には頭が下がる。
発表のあと、聴いていたクラスメートのひとりが手を挙げた。
「僕は親が●●の信者で、僕も中学生までは信者だったけど疑問を感じて抜けたんです。そのときは、今の発表にあったような違法な引き止めはされませんでしたよ」
「元信者の人は脱退したあと、まるで正反対の宗教に入ったみたいに熱心に教団批判をすることもあるんです。もちろん反社会的な宗教団体はあるけど、冷静さを欠いたバッシングもあることを差し引いて考えてもいいかもしれません」
●●は、有名な新宗教のひとつだ。教室に気まずい空気が流れた。
とにかく恥ずかしかった。30人のクラスに、新宗教に関わりを持ったことがある人がいる可能性を想像さえできていれば、少なくとも新宗教がまるごと「カルト」であるかのような雑な発表は避けられただろう。似た立場の人が黙っていた可能性を考えると、彼が手を挙げてくれたことはひとつの救いである。
わたしの生家はいちおう浄土真宗だが、お正月は神社に初詣に行き、クリスマスにはケーキを食べる。おそらく日本人の最大派閥の宗教観に属している――つまり、仏教や神道の下地はあるが、確固たる宗教上のアイデンティティはなく、それで悩んだこともない。12歳のときにオウム真理教事件が起き、大学入学当時もイベントサークル等を装い新入生を勧誘する宗教団体が話題になっていた。宗教を強く意識する場面の多くで、宗教は「日常の向こうからたまに手を伸ばしてくる悪いもの」として現れた。
その嫌悪の眼差しを、クラスメートに言い当てられたのだ。反社会団体としてのカルトには用心が欠かせないし、教団のイメージも場面によって変わるだろう。でも、雑な物言いをしたあげく、ケンカを売るつもりのない相手を不快にさせた失態は消えない。
多くの人にとって大学時代は輝けるものらしいが、わたしが思い出すのはこんな気まずいことばかりだ。勉学なら高校時代のほうがよっぽど打ちこんでいたし、これという趣味もなく、世間知らずだがプライドは高いがゆえの小さな行き違いを繰り返していたような気がする。
「か、かわいい……」
ここに来て、何度口にしただろう。ゴシック建築のキーワードは「荘厳」だと、世界史の授業で丸覚えしたような気がする。でも、この白い木造の教会はとにかくかわいらしい。
コウモリの翼のように、細いアーチが集まって作られた錐形が連なる「リブ・ヴォールト(こうもり天井)」は、ヨーロッパの宣教師がこの地に伝えたゴシックの建築様式だ。この小さな教会にも高さを与え、たしかに荘厳さを醸し出すのに一役買っている。
でも、パステルカラーに塗られた堂内、大きな巻貝を使った聖水盤、木のベンチに置かれた赤い表紙の聖書、簡素なステンドグラスの色合いの愛らしさに、わたしの乙女心はかつてないほどに燃え上がった。磔にされたキリスト像さえうたたねしているような表情で、赤ん坊を抱いたマリア像のふっくらした頬には農婦の面影がある。
ここは長崎市から西に100kmほど離れた場所、五島列島の福江(ふくえ)島にある水ノ浦教会。江戸時代、長崎本土の外海(そとめ)地区からたくさんのキリシタンが島へ移民してきた。その子孫たちが建てたものだ。
五島列島は中通(なかどおり)島、福江島、若松(わかまつ)島、奈留(なる)島、久賀(ひさか)島の5つの島を中心とした、無人島を含む約140の島嶼群だ。五島に移住してきたキリシタンの信徒たちは、迫害の時代を経て明治6年(1873年)に禁教令が解かれたあと、次々と教会を建てた。北東から南西に向けて、約80kmのエリアに横たわる細長い列島に、なんと約50ものキリスト教の天主堂がある。そのほとんどは今も現役で、ミサなどの行事に使われている。
九州の近代文化遺産を紹介する『九州遺産―近現代遺産編101』(砂田光紀、弦書房)という本でこの教会群を知ってからというもの、訪れたい思いは募るばかりだった。念願がかなったのは、2011年の春のことだ。
教会の裏の高台は、墓地になっていた。墓石のてっぺんに十字架をのせた和洋折衷感のある墓が並ぶ中を通り抜け、教会を見下ろす。黄砂にけぶる曇り空の下、尖塔の向こうに海が見える。外洋の高波も、リアス式の複雑な海岸線や小島に守られてここには届かない。漁船がしきりに往来するにぎやかな海だ。
墓石のひとつに水色のガラスのロザリオがかけられていて、その風景がとても美しいと思った。古くても大事にされている場所のにおいを嗅ぐと安心する。
古い教会建築もいいが、比較的新しい教会にもすごく素敵なものがある。三井楽(みいらく)教会は1971年に建てられた平屋だが、内部がとにかく素晴らしい。祭壇に向けて傾斜した屋根、いくつも下がるシャボン玉のようなライト。
窓に入ったステンドグラスは、地元の人たちが自ら工房を作って製作しているものだ。羊や茨冠(けいかん)といったキリスト教のモチーフだけでなく、海に向かって立つ墓やカニなど、この島の風景も描かれている。
三井楽教会のような立派なステンドグラスのある教会は珍しい。多くは先ほどの水ノ浦教会や写真の貝津(かいづ)教会のように、木枠と色ガラスを組み合わせ、窓に取り付けたものだ。しかし、それもかえって素朴な美しさがある。小学生のころ、黒い画用紙と色つきセロハン紙で思い思いに工作した切り紙で体育館を彩ったことを思い出した。あのときも、セロハンを通した光が体育館の中に落とす影に最高にときめいたものだ。
ここは、これまでに行ったどんな場所にも似ていない。それでいて、今までに歩いた好きな場所たちを断片的に思い起こさせる。
福江島からフェリーに乗り、「上五島(かみごとう)」と呼ばれる北東部の中通島に向かった。福江島よりさらに険しく細長い、まるでたなびく人魂(ひとだま)のようなフォルムの島だ。福江島ではできるだけバスを使って観光したが、中通島では観念して貸切タクシーを頼んだ(運転免許証を所持してはいるものの、高額な身分証明書としての機能しかない)。
旅館の女将さんが「わたしのおすすめの人に電話するね」と言ってくれたとおり、翌朝現れた運転手さんは非常に達者なガイドだった。五島育ちのカトリックで、リクエストした教会を回るかたわら、島の名所や歴史を手際よく説明してくれる。一日かけて、教会だけでも8か所ほど連れまわしてもらった。
急峻な島の山道や海辺にぽっかり現れる教会は、寄り合い所のような簡素な木造のもの、明治期の外国人邸宅のような瀟洒なもの、レンガや石造りの重厚なもの、コンクリートでできた近代建築――、と本当に多様で、まるで島に散らばる宝石みたいだ。
仲知(ちゅうち)教会で、建設に関わった功労者たちが描かれた精巧な「漁師のステンドグラス」を眺めていたときのことだ。地元の人に「東京から来たの? まあ、そんな遠くから巡礼なんてえらいことねえ」と声をかけられた。「あ、いえ……」と縮み上がったが、運転手さんを見ると「誰も損しないから、そういうことにしておきなさい」的な顔をしていたので、はっきり否定しないでおく。
長い歴史のあるもの、土地と深いつながりを持って愛されているものに憧れる一方で、どこかにどっぷり根付きたいとはどうも思えない。そんな自分をいたたまれなく思う気持ちは、旅先にいつも影のように着いてくる。
レンガ造りの青砂ヶ浦教会、ルルドで有名な鯛ノ浦教会などを次々とめぐってもらう。ルルドは、フランスのルルドの泉(聖母マリアが少女に秘蹟を授けたという聖水の泉)にちなんで教会の敷地内に作られた泉だ。白い花の下、マリア様を伏し拝む少女の像も愛らしい。運転手さんは「マリア様を作る工房に連れて行きたかったけど、今日はお休みでねえ……」と残念そうだった。
お昼に「遣唐使ふるさと館」で名物の五島うどんを食べて出てきたところで、不思議な鳥居の神社を見つけた。海童(かいどう)神社という海神(ワダツミ)を祀る神社だそうだが、石の鳥居のうしろにあるのは、捕鯨会社が奉納したクジラの顎骨の鳥居だ。東シナ海に浮かぶ五島は捕鯨の歴史も長く、ほど近い横浦地区には捕鯨基地の跡地もある。そして、もちろんカトリックだけの島でもなく、仏教や神道も共存する島なのだとあらためて実感する。
運転手さんは「わたしは階段を登るのがきついから、よかったら見てきてくださいよ」と、わたしが神社を見てまわる間待っていてくれた。もしかしたら、敬虔なカトリックとしてあまり神社に立ち入りたくないのでスマートに断ったのかもしれない、とあとで思った。
運転手さんが子供のころは、仏教徒とキリスト教徒の子は一緒に遊ばないし行事も分かれていて、断絶は今よりずっと大きかったそうだ。それは単に宗教観によるものだけでなく、厳しく険しい山奥に住むしかなかったキリシタンの移民と、元からこの地にいた仏教徒や海神を奉る漁師たちとの間にあったコミュニティの格差が、長年にわたって引き継がれたものだったかもしれない。
その後も見学を続ける中で、特に心に残ったのは頭ヶ島(かしらがしま)教会だった。頭ヶ島は中通島とは地続きでない離れ小島で、政府の目が届きにくく禁教下のキリシタンには住みやすかったようだ。しかし明治初期の「五島崩れ」と呼ばれる弾圧を受けて全戸が落ち延び、一時は無人島になっていたという。
晴れて信仰を表明できる世の中になったから、今度こそずっと大事にできる教会が欲しかったのだろうか。頭ヶ島教会は、西日本で唯一の石造りの天主堂だ。近くの島から砂岩を切り出して運び、中通島とも架橋して、なんと11年という歳月をかけて完成させたのだという。
その喜びは、外観の重々しさとは対照的な内部の華やかさにも表れている気がする。五島の教会には珍しい船底天井に、五島の名産であるヤブツバキの花が優しい色であしらわれ、「花の御堂」とも呼ばれている。
この教会は、鉄川与助という五島出身の大工棟梁の設計によるものだ。福岡・佐賀・長崎で活躍し、宣教師から積極的に教会建築を学んだ。特に五島の教会建築ラッシュを支え、生涯で30余りの教会の設計に関わり「日本の教会建築の父」とも呼ばれる。
「福江島で見た堂崎教会に水ノ浦教会、中通島では青砂が浦教会、それに大曽教会も……材質も様式も、全然雰囲気が違う教会ばかりですね。与助ってすごい棟梁なんですね!」と運転手さんに話しかけると、「そうでしょう。でも、本人は一生、浄土真宗の仏教徒だったんですよ」と言う。元海寺という与助の菩提寺にも連れていってもらった。
美しい教会をいくつも建て、宣教師や信徒たちとの関わりも深かった与助が仏教徒だったというのはなんだか意外で興味深い。わたしなんて、ちょっと見て回っただけで「こんな場所を心のよりどころとして暮らせたら、すごく心が救われることもあるだろうな……」と思いつつあるのに(これは単なるミーハー心だが)。でも、信徒でないわたしが教会群の美しさに打たれ、大事にされている様子に安心するのと同じように、美しいものや人が集まる場所を作りたいという気持ちの源は信仰心でなくてもいいのだろう。
江戸幕府がしいた寺請制度のもと、潜伏キリシタン達はもれなくお寺の檀家でもあった。1868年に起きた久賀島の大殉教「牢屋の窄(ろうやのさこ)」では、200人の信徒が12畳の狭い部屋に8ヶ月にもわたって押しこめられた。座ることもできず排泄もその場に垂れ流しという想像を絶する拘禁で、40名が亡くなった。与助が生まれたのはその11年後だが、弾圧の時代が終わってよかったという気持ちは仏教徒も同じだったのではないか。
「神父さんも与助さんにキリスト教への入信をすすめたことが一度だけあったそうですけど、与助さんもきちんと断って、その後はお互いにその話はしなかったそうですよ」
運転手さんも、与助と宣教師の間に、信仰心とはまた別の絆を感じているようだった。
教会のそばの海辺のキリシタン墓地に、ピンクのマツバギクがたくさん咲いていた。曇り空の下、頭の中までぐちゃぐちゃになりそうな強い潮風に揉まれながら、砂地に根を張る花と厳しい土地にかじりついてでも生きた人たちのイメージが重なった。
バスに乗り港へ向かう道すがら、穏やかな入り江をのぞむ中ノ浦教会を最後に見ていくことにした。
中ノ浦にも「五島崩れ」の弾圧の歴史があるというが、静かな入り江にその面影はない。教会は祭壇部のみリブ・ヴォールト、それ以外は船底天井という不思議な造りで、列柱の上に並ぶ真っ赤な椿の装飾がとても鮮やかだ。実際よりも少ない4枚の花びらのヤブツバキは、十字架になぞらえたものだろう。この島ならではのモチーフに彩られていることが、この教会群をいっそうかけがえのないものと思わせてくれる。
五島の教会群を、ユネスコの世界遺産に認定させようという活動も行われているようだ。過疎が進む五島でこれからも教会を守っていくため、文化遺産として整備することも必要かもしれない。でも、あくまで生活の中で大事にされているがゆえの美しさを目の当たりにした身としてはちょっと複雑だ。小値賀(おぢか)島の民泊など、早くからアイランドツーリズムの新しい挑戦をしている五島だから、良い方向に向かえば良いのだけど――でも、これはニッチな場所好きな観光客の勝手な期待にすぎない。
勝手な期待といえば、この旅をきっかけとして、最近驚いたことがもうひとつある。
信仰の自由が認められたあとも、カトリック教会の宣教を受け入れずに潜伏時代の信仰を守る「カクレキリシタン」と呼ばれる人々がいる。美しい教会をめぐるかたわら、わたしは五島にもわずかにいるというカクレキリシタンについても想像を広げていた。
旅の中でカクレキリシタン信仰に触れることは難しいが、当初伝えられたキリスト教を弾圧に耐えて秘匿するうち、変容して元と相容れない形になってしまったというのはすごく面白い。そして、今も秘教の形態を守っているというのはどこかロマンがある――そう思っていたのだ。
しかし、先日読んだ『カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容』(宮崎賢太郎、吉川弘文館)が、目からボロボロとウロコを落としてくれた。長崎生まれのカトリック信者で長崎のミッション系大学の比較文化学科教授である著者は、「カクレキリシタン」という言葉に対する上記のような誤解を、ひとつひとつ誠実な筆運びで解いていく。
正しく伝えられたキリスト教の教義が、弾圧の歴史を経て変わってしまったのではない。江戸時代の庶民にとって、キリスト教の教義を正しく教わる機会はあまりに少なかった。キリスト教は仏教や土着の信仰と矛盾するところなく、よく効きそうな新たな「助っ人」として受け入れられた――つまり、伝道の当初からキリスト教本来の姿ではなく、祖先崇拝や現世利益志向の強いきわめて”日本的”な宗教だったという。儀式や礼拝を厳しく秘するのは、「先祖代々伝えられてきたものを絶やさない」という祖先崇拝および儀礼重視の表れだ。
これもまた冒頭のエピソードと同じような、よりセンセーショナルでオカルトチックなエピソードを求める心が生んだわたしの誤認識だったのだが、このときは恥ずかしさよりも嬉しさが先に立った。新しい信仰を飲みこんでは咀嚼して進み続ける民衆の心のはたらきが、たくましくて愛おしいと思えた。
ここで思い出したのは、大阪にある国立民族学博物館(通称「みんぱく」)の展示だ。今年の8月に訪れたとき、博物館の展示が仮面や民族衣装などの「広い世界の珍しくおかしなもの」を紹介するというより、「世界が混ざり合って変わっていく姿を示す」ことに、とても力を割いていることに気づいた。
たとえば、女性の社会進出が進んだ結果、オートバイに乗って出勤するようになったタイの女工と、昔ながらの托鉢僧の展示。または、移民に伴う世界の料理店の変化。エリック・カールの名作絵本『はらぺこあおむし』を、ページを開いてあらゆる世界の言葉で読んでもらえる音声装置。古いものや珍しいものだけを集めて並べるのではなく、世界の現在や未来と向き合う覚悟がそこにあるような気がして、見てまわりながら泣きそうになってしまうことが何度もあった。
以前にもみんぱくには来たことがあったのに、そんな風に感じたのは初めてだった。移動に関する文章をこうして書きはじめたこと、ここ数年で出かける回数がぐっと増えたことから、世界が混ざっては変わっていく様子をより強く意識するようになったのかもしれない。しかし、世界のほとんどの人々は移動することがないままでも、否応なしに混ざる世界に巻きこまれ、変わっていく。
今は、目を開けてその様子をしっかりと見ていたい。勘違いをすることも誰かを傷つけることもきっと無くならないだろうが、世界の美しいものを目におさめ、あれこれと憶測し、次の瞬間には憶測を裏切られ、そのすべてをつたなくも書き残しながら歩き回ってみたい。
(第8回・了)
この連載は隔週でお届けします。
次回2015年12月10日(木)掲載