日本史最大のタブー「山窩(易断)」の正体

一、山窩のルーツ

謎の漂泊民族といわれて山窩(サンカ)は、後に述べる「穢多」「非人」と被るところがあるが、ここではまず「山岳民」としての山窩について述べる。

山窩は、「山家」、「散家」、「三家」、「山室」ともいい、地方によっては、「ほいと」、「ばたや」、「ぽんすけ」、「やまんご(山の子)」、あるいは、「鬼」、「天狗」、「なまはげ(秋田)」などとも言われてきた。

明治維新後、政府の意向で「新平民」という戸籍をもらって里に下りたが、その多くは馴染めず、また山に帰ったという。

昭和になってからも取り締まりが行われ、徴税、徴兵の目的もあって里に出されたが、まだ一部は山に戻ったという。

山から下り一般社会に出た山窩も、その多くは各地の「山谷」など “ドヤ街 ”に屯したり、ホームレスとして街中にもいる。

山窩に特有の職業は、皮革業、生肉業、解体業、土木業、芸能関係、傀儡子(くぐつし=人形使い)、製菓業界、警備業界、現代では金融・証券業界に多く、易者も多いことから「易断」ともいうが、これについては後述する。

山窩のルーツに関しては諸説あり、物部氏ら古代の敗残勢力や平家の落人、戦国時代の落武者、飢饉が酷かった広島では、江戸時代の天保の大飢饉後の農耕放棄農民、逃亡した犯罪者などもある。そんな中、民俗学者の柳田國男は、縄文古代人説を唱えた。

二、山窩の超人的能力

先の大戦前には、被差別部落解放を目指す「全国水平社」が結成された。戦時中は、山窩も徴兵され、とくに南方の密林での戦闘では、その高い運動能力で活躍したという。

実際、私・長髄の師匠の末次一郎先生(陸軍中野学校出身特務少尉)は、撃墜したB29から落下傘降下した米兵を惨殺してGHQに追跡されていた時、山窩のネットワーク(八咫烏)を使って山々を逃げ回っていたと聞いている。

山の漂泊民である山窩は、超人的な能力を持っていたらしい。1922年の警察の記録によると、「断崖絶壁を軽々と登っていった」「3メートルを越える跳躍を軽々とできた」

また、1939年の記録では、「24時間移動しても、全く疲労しない。」「数日先の気象を当てる。」「動物とすら会話する。獰猛な動物や毒蛇をなだめる能力があった。」「現代では消滅した薬草を特定の地域で栽培し、豊富な薬草の知識を持っている」

さらに、1920年代の説教強盗事件では、「建物の土台に20センチの穴をあけ、関節を抜き差しすることで、潜入する忍術を持っていた」とある。

忍術や霊感、呪術は「山伏」と共通性があり、1943年の調査では、「手かざしによって不治の病を数日で治した」「気功や催眠術を使って十度の痛みや出血を止めた」「全くの暗闇でも、空気の変化や音響で距離感を察知し、障害物に当たらずに高速に移動できた」と記録している。

また、山窩と伊賀、甲賀忍者とのつながりは複数の文書で確認され、幕末は山窩の協力で幕府が動き、1855年の地震では被害状況の把握に役立ち、寸断した経路を把握して、物資を搬送できたと記録されている。

数時間のうちに数百キロ離れた地域に、取り締り情報が伝わったという話もあり、これが、後に述べる徳川家康と同様に山窩(易断)といわれる、豊臣秀吉の「中国大返し」を可能にし、天下を取らせたとの伝承もある。

山窩は、「裏金融システム」をも持ち、独自の信用情報を使って金融機関が扱わないリスクの高い取引もしたという。

また、情報機関としてのネットワークも持っており、戦後も宗教団体や建設業界を通じて影響力を行使しているようである。まさに「八咫烏」である。

三、中世山窩の嚆矢は真方衆と岩屋梓梁

時代は遡るが、中世以降の日本社会に浸透し國體、即ち日本の裏面史に関わってきた「易断(党)」について、岩屋梓梁と西郷隆盛を中心に述べる。

中世における山窩の歴史は、南九州薩摩地方を拠点とした「真方衆(まがたしゅう)」に始まる。

 伊賀、甲賀はもちろん雑賀、根来などの忍者集団の嚆矢(こうし)である「真方衆」は、主に山窩によって構成されたが、その中核が後に西郷隆盛を輩出した「伊集院氏」である。

 そして伊集院氏は、薩摩国日置郡を本貫とする土豪と伝わるが、「日置」とは即ち、我が長髄一族の分脈たる「日置氏」であり、私・長髄と西郷は血族ということになる。

 ところで、伊集院氏は島津氏を生むが、薩州史においては伊集院氏、その後裔の「窪田氏」と島津氏は爾来、島津久光と西郷隆盛との関係に見られたように緊張関係にあった。その最大の理由が、「岩屋梓梁(いわやしんりょう)」の存在である。

 窪田梓梁、岩屋天狗、橋口弥次郎など複数の名を持つ岩屋梓梁であるが、後裔・窪田志一氏の蔵する『かた “いぐち ”記』と『異端記』によれば、その壮大な活躍の記録が残されており、明治以降の西郷隆盛とともに、今なお炯眼(けいがん)を持つ信奉者のロマンを掻き立てて止まない。

 世の史実から抹消されたその事績は枚挙に暇がないが、岩屋一党(真方衆)が関わった幾つかを挙げると、

①鉄砲伝来と其の普及、量産化

②イエズス会(切支丹)伝来

③易断銭(えたぜに)発行(新通貨発行)による船舶、港湾施設整備、寺社建立

④石山本願寺合戦

⑤織田信長暗殺

⑥西南の役(西郷隆盛)、などがある。

 抑々、南方系海洋民族である磐余彦(神武天皇)を輩出した日向(ひむか)族に起源を持つ弥次郎(岩屋梓梁)の遠祖は蕃異人(アラブ人)であるが、その(橋口)弥次郎は、当時、既に天竺(インド)に拠点を確保していたポルトガルの宣教師ザビエルとの接点を持っており、これが縁でザビエルの日本渡来を支援した経緯がある。

 まず、一五四二年(天文十一年)八月二五日、イエズス会は弥次郎の手引きで「鉄砲」を種子島に持ち込んだ。

鉄砲の力を背景とした弥次郎は諸大名を動かし、とくに織田信長の武力強化を通じて桶狭間に今川義元を討ち、三河国に「易断(えた)党」の拠点で、平将門以来の独立国「易断国」を建国したのち、室町幕府をも滅亡せしめた。

四、易断党と徳川家康

 易断党の支援勢力たる一向宗(浄土真宗)は、主に信長の勢力圏である近畿、北陸、三河などで一揆を起し抵抗を示すが、同様の事態を危惧した弥次郎の故郷・薩摩でも布教禁止となる(これに対し、信長と対立関係にあった毛利氏からは歓迎され、これが後の薩長対立の遠因となる)。

しかし、徳川幕府になってから、弥次郎(岩屋梓梁)と易断党を歴史から消し去ろうとする動きが徹底されるが、その最大の理由は、徳川家康の出自を隠したかったからである。

 村岡素一郎著『史疑徳川家康蹟』には、「徳川家康は、三河国額田郡岡崎城主・松平広忠の子ではなく、江田松本坊なる風来坊の子だった」とある。

 ここにいう「江田」とは、「易断(えた)」のことだが、一方の「松本坊」とは、岩屋梓梁が歳寒三友松竹梅の中の「松」をとくに賞翫(しょうがん=めでること)し、自分の血を享(う)けた子や党類に姓や名を与えたものである。

 このような関係から、永正年代以降、三河国には梓梁に繋がる薩摩系人材として本多、大久保、山口、榊原、井伊、平岩、五島、土屋、高橋、茶屋、小山田、窪田、鳥居、酒井、内藤、奥平、設楽、伊奈、彦坂、東郷、西郷が生まれた。

かくして、伊集院窪田真方衆(易断党)は、代々、後奈良天皇の皇孫として「窪田幕府(易断政府)」樹立を目指し、天正一〇年(一五八二年)六月二日、これに抗する織田信長を本能寺に討った。

 もう一つ、易断党が家康から睥睨(へいげい=にらまれる)された理由に、「鉄砲」がある。

 先に見たように、弥次郎こと岩屋梓梁は種子島で鉄砲を入手した後の天文十四年(一五四五年)八月二十八日、積載した船が伊豆国岩地海岸に漂着。

話を耳にした北条氏康は現地に急行して岩屋梓梁に諮り、湯河原に日本最大の鉄砲製造鍛冶集団を作り、根来衆などの易断党を使って全国の大名に売りさばいていたばかりか、易断党自体も強力な鉄砲武装集団と化した。

この結果、易断党及びその軍事勢力は日本最大の武装勢力となり、後に秀吉の「紀州征伐」を経て、徳川幕府にとっても最大の脅威と見做されたのである。

五、「易断黄金」と平和相互銀行事件

 さらに、易断党が徳川幕府から警戒された理由の一つに、その巨大な経済力の原資たる「易断黄金」がある。

 岩屋梓梁(橋口弥次郎)の子・大久保長安は、家康側近として財政、経済、産業の各分野で大いに貢献し、佐渡、伊豆金山奉行当時に獲得した黄金、加えて、伊集院恒成が尊恵親王を擁して宋国に対し行った倭寇で奪取した黄金、鉄砲生産で獲得した黄金な ど一五万両以上を、窪田隼人正相兼をして伊豆半島一帯の一六か所に分散、隠匿した。これが世間でいう「徳川埋蔵金」であるが、広くは「國體黄金(黄金の百合)」に含まれる。

 なお、近代以降、易断黄金を本位財とした「易断資金」は、且つて「相互銀行」と言われた特殊銀行で管理された。

 ただ、平成十年(一九九八年)一一月二五日に判決が下りた「平和相互銀行事件」において、伊坂重昭(元東京地検特捜部検事)、稲井田隆元(社長),らによる不正融資が特別背任罪に当たるとして、金融スキャンダルの舞台となったため、同行は住友銀行が吸収、全国の「相互銀行」自体も一九九二年、第二地方銀行と合併するなどして消滅したこととされている。

 また、河村良彦(社長、元住友銀行常務)や伊藤寿永光、許永中(金融王)、さらには五代目山口組若頭・宅見勝らも絡んだ、同時期に起きた「イトマン事件」もこれに関係しており、「易断利権」の闇の深さを物語っている。

因みに、昨今(令和六年)騒がれている「斎藤元彦兵庫県知事」も、前知事の井戸敏三氏が固めた「易断利権」解体を試みたため猛烈な抵抗、バッシングを受けているのが真相である。

 このように、易断と言えば「伊」や「井」に因む苗字の人物が名を連ねるが、映画監督の井筒和幸氏を含め、いずれも「伊集院氏」の「伊」に由来している。

 加えて、岩屋梓梁の別名「橋口弥次郎」や牧口常三郎、出口王仁三郎などにもみられる「口」がつく苗字も、同じく易断に多い。

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