「広島カープがあったから死ななかった」原爆孤児が涙で振り返る半生
戦地や空襲などで孤児となった「戦災孤児」は2万8200人に上る。厚生省(現厚生労働省)が1948年2月に行った調査によると、地域別では被爆地である広島県が最も多く、6千人近くに達した。戦後80年を迎えた今年、広島原爆で肉親を亡くした小島純也さん(85)に話を聞いた。
小島さんは1945年8月6日、広島市千田町(現・中区)の自宅で被爆した。「原爆の話をすると、いまでも5歳の時の気持ちに戻るんですよ……」
逓信局勤務の父親が持ち帰った乾パンを食べようと、庭に出た時だった。虹色の閃光(せんこう)が走り、ドサーッという音とともに、崩れた土壁の下敷きになった。泣き声に気づいたいとこに助け出され、義母と3人で郊外へ逃げた。全身やけどの人たちが「痛いよ、痛いよ」「水をくれ」と声を上げ、どす黒く血の色に染まった川にはたくさんの遺体が浮かんでいた。
1週間後に祖父が、1カ月後には父親が息を引き取った。47年に祖母も亡くなり、小島さんは「原爆孤児」となった。
ビルマ(現ミャンマー)から復員した親族に引き取られたが、日常的に暴力を振るわれた。「僕が死ねば、お父さんたちのところへ行けるなあ」。小学生の時は、そんなことばかり考えていた。
唯一の心の支えは、50年にプロの球団として誕生した広島カープ。「選手たちが私のお兄さんのように思えたんですよ。カープがあったから死ななかった」
中学卒業後、市内のはんこ屋で修業した。22歳でリンゴ箱ひとつを抱えて上京。はんこ職人として生計を立てた。
「俺は、原爆孤児だ」
あえて明るく振る舞うことで、孤独や差別から自分の心を守った。青春を取り戻そうとジャズやボウリングに打ち込み、後楽園球場でカープの私設応援団長を務めた。31歳で結婚し、2人の子どもにも恵まれた。
「広島を捨て東京へ出てきたんです」と、小島さんは涙ながらに振り返る。カープの優勝やあこがれだった家族のだんらんを経験し、大病もせず暮らせている。「父親たちが守ってくれているから、東京で思い通りに生きてこられたのかな」。悲惨な被害を知れば、どんな独裁者でも核兵器は使えないはずだと信じている。