努力にも人それぞれの環境による限界があって、それだけでは結果を覆せない場合なんて腐るほどあります。
努力の限界を感じて、努力とはあくまでも主観的なものに過ぎず、社会とはこういうものなんだという相対的で現実的な認知を学習するのです。
(※努力が無駄という意味ではありません。努力は必要です。しかし万能ではありません。)
ではなぜSNSに努力信仰に縋る人たちがいるのでしょうか?
それは、そういったイベントを回避してきたからではないでしょうか?
挫折を恐れ努力を検証しないままに大人になってしまうと、宗教的な絶対原理に成り代わってしまうのです。
努力が主観的な絶対的概念のままなので、「努力している自分は間違っていない」というアイデンティティ防衛装置になってしまうのです。
だから主観的な「努力の過程」しか誇れず、相対的な「努力の成果」で比較することができない。そして情動的な物語性だけに執着してしまうのです。
恐らくここまで見て「クリエイターの努力にタダ乗りしている無産生成AIユーザーの盗人ポジショントークだ!」と憤る人もいるでしょう。
しかし読み返してください。私は一言もイラストや生成AIについて触れていません。あくまでも構造や原理の話をしているだけです。
そういう認知が危ういと言っているんですよ。