5. 捜査官A
防犯カメラ映像について、自分が重要だと考えた論点について4.で書いた。ここからはその他の点について考えながら書いてみようと思う。まずは捜査官Aについて。これについては、「どの倫理(価値)」を重視するのかで評価が分かれている。
内部告発者として協力してくれた人と捜査官を捉えれば、協力者の音声を無断録音して使うのは当然ダメでしょうという議論は、ジャーナリズムやドキュメンタリー制作倫理からまずある指摘だ。当たり前すぎる前提。
だが「サバイバー当事者」として捜査官を「警察権力」と捉えるなら、サバイバー視点のセルフドキュメンタリーを構成する上では使用する判断も「あり得る」との議論にも、ある程度の説得力がある。
伊藤さんが映画公開時に出された見解の6.に、詳細な思いが説明されている。https://b1d31439-1394-4a7e-96ea-9452286e8747.usrfiles.com/ugd/b1d314_89afae96343c43659ef00bb740575eb2.pdf
問題の本質はサバイバー当事者として接していた時には、伊藤さんにとっての「警察権力」であった捜査官が、その音声素材を「映画のフッテージ」として映画に使用され公開された時点で、「警察権力」から「ジャーナリスト(or 監督)にとっての取材源 / 被写体の一人」に、「事後的に変わってしまう」という厄介な構造にあるのだと思う。
これはとても難しい問題で、取材源の秘匿を守っていないじゃないか、という単純すぎる議論にも無理があると思うし、サバイバーなんだから当然その権利があるという主張にも、やはり無理があると思う。
伊藤さんは、「被害者として」捜査官Aが「警察権力」であって「取材源」ではないことを正当化の理由にしているが、伊藤さんは今や監督でもあり、かつ監督としての説明責任を問われているので「それでは説明が不十分」と言わざるを得ない(当事者に対してそこまで求めるのはどうなんだ…という「一見配慮ある優しい」意見が多いのは承知しているが、それとこれとを同列に置いて比較してしまう姿勢自体が、「監督」を名乗って作品を公開している人の主体性や責任能力を軽視していると私は思う)。
本当に議論されなければならないのは「犯罪被害当事者が「事後的に」作り手になる時」に、既存のジャーナリズム倫理やドキュメンタリー制作倫理は、どの程度適用されるべきなのか?という問いではないだろうか。
本当ならドキュメンタリー映画制作者が、この議論を積極的に進めていくべきだと思う。
この問いに私自身の明確な答えの用意はまだない。しかし、制作者として語らなければならないのでは?と私がずっと気になるのは「少なくとも映画完成前に捜査官の同意を取ろうとしたのか?」という点だ。その結果「同意は得られなかった」可能性が高い。だが、制作者が果たすべき説明責任として最も重要なのは、そのプロセスを透明化して社会に開くことであると思う。
特に「公益性」の観点からチームとして使用を決定したのであれば尚更で、その「公益性」が他者の権利侵害と比較した上でも正当と言えるのかどうかの判断は「制作内部」だけで完結していいわけがなく、「社会に共有」されなければ説得力を持たない。「公益性の評価」は制作サイドだけで「判断も断言も」出来ないことだからだ。
以上が、「捜査官A」について重要だと考えている論点だ。
残りは、録音部として気になってしまう点について。
「声を加工をしている」という言葉の「内実」が説明されないと、何も分かったようで分からないんだよな…という部分。元弁護団は、海外版を確認した時点で「音声がそのまま使用されている」と述べており、対する伊藤さんの反論としては、「最初から加工していた」から「弁護団の見解は事実と異なる」としている。
毎日毎日嫌になるくらいに「音声を加工」しまくっている職業の私からすると、「その加工はどのレベルで?」(海外版で、そして日本版で)を制作サイドが説明しないと何も分からない。ピッチを変えたの?EQでどの帯域を何dB落としたの?など「その加工の程度」で、本人の声と「他者が認識する」かどうかが決まるからだ。加工の「程度次第」で「元弁護団の耳」には「そのままに聞こえる」レベルだった可能性も十分あり得る。
そして最後に。当の捜査官Aさんは、今どのような心境なんだろうか。彼も同じ時を生きていて、生きていく。
映画の中では、「酔っ払って電話でサバイバーにセクハラ発言をした捜査官」という表象を、固定化されて背負いながら生きていく。
映画制作現場の人間としては、それがずっと気になっている。