2. 伊藤詩織さんの告発と戦いが日本社会に及ぼした影響の再確認(映画BBD以前)
BBDを巡る議論では省略されてしまう、「BBD以前」について、つまりは伊藤さんが性被害を実名顔出しで社会に訴えた事や、裁判の戦いが日本社会全体に及ぼした影響の大きさについて、改めて簡単に確認しておきたい。ありがたいことに、ここには文字数制限がないので。

伊藤さんが会見を開いたのは2017年5月。まだ日本に#MeToo運動が浸透する前だった。同じ年の10月に『Black Box』が出版され大きな話題を呼んだ。私も発売翌日の夜に購入し一気に完読した事を覚えている。読後メモとして本に書いてあったのは「憤り」という一言だった。告発相手の山口が元TBS記者で時の首相番であったことも、大きな話題を呼んだ原因の一つだろう。

(裁判過程としては、2016年2月に刑事告訴、同年12月に不起訴処分。2017年5月の会見を挟んで、9月に検察審査会でも不起訴相当の議決が出た。2017年12月に民事訴訟が提起され、最高裁まで行って最終的に山口による性暴力が認定され、損害賠償請求も認められる伊藤さんの勝利で法的決着がついたのは、2022年の7月だった)

10月の出版に呼応するように、その年の秋から冬にかけて(だったはず)、日本にも2年遅れで#MeTooが広がっていった。色々な境遇のサバイバーたちがそれぞれ自身の体験を語り始めた事を覚えている。
この頃から、日本社会に蔓延してきた性暴力やセクハラについての議論が活発になっていったと思う。

「セクハラ・性暴力は許されない」という価値観が社会に徐々に浸透していった(そのバックラッシュは依然として全く無視できない大きさで残っているが)。2019年にはフラワーデモも始まり、これまで中々広くは可視化されて来なかったサバイバー当事者の痛みや苦しみの声が、社会に開かれていくようになった。事務次官のセクハラ発言、映画監督による性暴力、著名なフォトジャーナリストへの告発や、芸能界での複数の告発、自衛官による告発など、毎年のように被害の告発が相次ぎ、この国を覆ってきた性被害の実情と、その深刻さが徐々に社会に認知されるようになっていった。

伊藤さんの2017年の告発が、数多くのサバイバーたちに勇気と希望を与えたことに疑いはないと思うし、それが大きな契機となって、海外からの#MeTooの動きに連動し、日本社会での性暴力被害の深刻さが可視化されていった事にも疑いがない。その功績自体の大きさはBBDとは関係なく、これからの私たちの社会において残っていくはずだ。

ただ、伊藤さん以前にもサバイバー当事者として、その被害を社会に訴えていた方達がいることもここに明記しておきたい。自分は学者ではないので網羅的に把握しているわけではない事を前提に書くと、『Black Box』が出版される前に個人的に読んだことがあった当事者による本としても、大藪順子さんの『STAND:立ち上がる選択』(2007年)、小林美佳さんの『性犯罪被害にあうこと』(2008年)、にのみやさをりさんの『声を聴かせて』(2011年)、キャサリン・ジェーン・フィッシャーさんの『涙のあとは乾く』(2015年)、山本潤さんの『13歳、「私」をなくした私 — 性暴力と生きることのリアル —』(2017年2月)などがあった。

さらに書けば、匿名での被害体験の告白などは、伊藤さんの告発以前からも当然この社会に発せられていた。それらの無数の声の積み重なりがあり、「社会の側が」時代の変化の中で、ようやく広く問題を受け止めるきっかけになったのが伊藤さんによる告発と、その「報道の大きさ」であったのだと思う。

そして最後に、「声を上げた」サバイバーの功績が注目されることで相対的に透明化されがちなのは、被害に遭った後に「声を上げる選択をしなかった」当事者たちのことだ。その方たちの選択や判断は、当然ながら誰からもジャッジされるべきものではなく尊重されるべきものであり、被害を受けた時代、社会、個々人で全く異なる状況において「声を上げる」こと自体の難しさは一様ではないこと、「声を上げる」ことだけが「戦ってきた」ことの証明ではないこと、そして、多くのサバイバーにとって「その後を生き抜くこと自体」がどれほど大変なことかについて、社会は忘れてはならないし、声を上げても、上げなくても、サバイバーが加害者や社会の無理解から受ける痛みや苦しみは、決して他者が比較することなど出来ない。​​​​​​​
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