諸外国が日本の近海に出没し始めると、
幕末期には列強諸国に対抗するための軍事力が課題となりました。
そのためそれまでの青銅製の大砲ではなく、
西洋式の鉄製の大砲が求められ、反射炉建造が求められました。
そうして嘉永3年(1850)に日本初の反射炉が佐賀藩で建設され、
のち技術水準の差こそあれ開明的藩主のもと築造されていきました。
反射炉は17〜18世紀にかけ欧州で発達した金属を溶かす溶解炉で、
石炭などの燃料で発生させた熱を炉内の湾曲した天井で反射させ、
鉄を溶かすことが可能な千数百度以上を出すように工夫され、
それゆえに「反射炉」と呼ばれています。
世界文化遺産に登録されている韮山反射炉や、萩反射炉が有名ですが、
幕末期にあって民間で反射炉を築造したものもあるのです。
あまり知られていませんが、
「大多羅反射炉」「六尾反射炉」「安心院(あじむ)反射炉」などです。
まずは岡山市の「大多羅反射炉」。
元治元年(1864)蘭方医・塩見常蔵と宮大工棟梁・尾関滝右衛門が協力し、
民間主導で建設した反射炉で十数門の大砲を鋳造しました。
そして、鳥取県東伯郡の「六尾反射炉」。
安政4年(1857)財政に窮乏していた鳥取藩が、
大庄屋・武信佐五右衛門と分家の養子の武信潤太郎に命じ、
民間主導で造らせた当時最先端の反射炉。
大砲50門以上が鋳造されたといわれ、
藩内の台場のほか、大阪の天保山などに配備されました。
さらに九州地区では「安心院(あじむ)反射炉」。
豊前国の庄屋・賀来惟熊(これたけ)らが築いた民間主導の炉で、
島原藩の注文に応じて大砲の鋳造を行い、
また佐伯藩の求めにより3年間で22門の大砲が鋳造され、
賀来家が確立した大砲鋳造の技術は鳥取藩へも伝えられたとのこと。
実はこの賀来家は、俳優の賀来千香子、賀来賢人のご先祖とのこと。
これは初耳でした。
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