https://anond.hatelabo.jp/20251225145954
父が次に向かった場所はアラバマ州ドロマイト、フランク・キャンパーの主催するマーク・スクールである。
元ベトナム戦争上がりでLRRPに属していたフランクは、自著で金を稼ぐために先行してやっているミッチェル・ウェーベルの学校を真似てこの傭兵学校を開校したと語っている。
父は、「勝共思想」という雲をつかむような思想の為に秘密の戦争や軍事という世界に足を踏み込んだ。フランクは、金のためにこの世界に足を踏み込んだ。皮肉なことに、二人は1982年、まったく異なる理由を背負って同じ場所に立っていた。
フランクの主催する学校のカリキュラムは、厳しいことで有名だった。軍事史マニア的な目で語るのであれば、それはベトナム戦争時代の「リコンドー・スクール」の訓練をそのままやっているに過ぎない。
フランクの傭兵学校でどのような訓練が行われたのかは、映像も、日本語で読める資料やルポを含めて大量にあるので、ここでは省略したいと思う。
後に、エア・インディア182便爆破事件に関与したシク教徒のテロリストが84年に訓練を受けている。そういう意味では、本物の「西側のテロリスト養成学校」で父は訓練を受けたことになる。
父の生前、実家の額縁にマーク・スクールの修了証が飾られていたのをよく目にした、フランク・キャンパーとともにスターリングSMGを構えて記念写真を撮る父の写真を目にした。
だが、父の覚書や報告書も、父自身もあまり印象に残らなかったのであろうか、紙面でも話でもあまり印象に残らなかった、という様なことを記して、俺に語っている。
父は約2か月近くも家を空けていたようだ。
これが、父が関与した最初の「国際勝共連合としての正式な任務」だった。
報告書や覚書には、若い血潮をほとばしらせた22歳の右翼青年の浮かれた様子が書かれている。
人は、時代が変わっても、驚くほど同じ夢を見る。
そして同じ場所で、同じようにつまずく。
1983年、父は南米に向かい、そこで3週間程いたことになっている。
父は、統一教会からの指令で傭兵学校で訓練を受けて帰国した後、早稲田大学の夜学に入っている。
そこで休学届を出し(2週間以上講義を休む場合は必須らしい)、1983年、コントラ戦争最盛期の南米、コスタリカへと向かった。父が23才、俺が生まれる2年前の時である。
統一教会からの命令かどうかは覚書や報告書からは伺えない、恐らく自主的に「アカのサタンを倒すための反共戦争」に身を投じたのだろう
ここで時代背景の補足をしたい。1975年から1980年代、こういった「自主的に反共闘争」に身を投じる軍人崩れや右翼活動家はこの世界では珍しいものではなかった。
「傭兵: 狼たちの戦場 ロブ・クロット著」に詳細がよく書かれているが、当時の傭兵ルートには三種類あったことが記載されている
① イギリスやアメリカの特殊部隊が、政府からの任務で一時除隊という体でフリーで現地勢力に接触し、訓練の支援や戦闘などを行う(SBS特殊部隊員 ダン・キャムセル著 並木書房出版を詳細は参照)
② アメリカの傭兵学校やソルジャー・オブ・フォーチュンといった雑誌の編集者に連絡を取り、コネで斡旋してもらう(というより、SOF誌では独自に反共のために元軍人や元警察官が集って訓練チームを編成して、各地の代理戦争に顔を出して活動していた、狼たちの戦場を参照)
③ 直接現地に行って仲間に入れてもらう、雇い入れてもらう(ローデシア紛争などで一部見られた形態。日本人で言えば、田中光四郎等が該当)
父は②だった。
詳細を言えば、父はSOF誌が発起人となった訓練チーム(ボランティア)の一員として、南米へ渡った。俺のよく知る父の友人である元自衛官の「おじさん」も帯同していた。SOF誌にコネがあって連絡を取れる様なことができるのは、当時おじさんしかいなかったから、らしい。
現地の反共勢力に各々が得意の軍事技術を教える、そうなっていた。
コントラ戦争といえばニカラグアが主体で、ニカラグア民主軍(FDN)が主に戦ったといわれるが、彼らを支援してるのはアメリカであり、グリーンベレーやCIA:SADだ、つまり父の様な「半端者」でなく、軍事として本物のエリートたちだった。
父の様な熱意だけの右翼青年が、入れる隙間などなかったのだろう。
アメリカからの支援が薄く、コスタリカを拠点にニカラグアへ越境攻撃を仕掛けていた民主革命同盟(ARDE)に訓練をつけることとなったのである。
エデン・パストラ司令官の率いるARDEは、FDNに比べれば兵力は多く見積もっても五分の一、兵力は乏しく、主導権もなく、歴史の周縁に追いやられた存在。
まるで、父の「反共戦士」としての人生の生き写しの様だった。引き寄せの法則というものは、意外と本当にあるのかもしれない。
父はそこで初めての挫折を味わった。「おじさん」が昔俺にしてくれた話と、覚書には父の偽らざる本音が生々しく記されている。
父は警察官以外で正式に訓練を受けたわけではない。拳銃の腕前も並みだった。
他のチームはアメリカ軍などで訓練を受け、ベトナム戦争を経験した人間もいる、父の友人の「おじさん」も、自衛隊で正式に訓練を受けている、軽迫撃砲を教えることとなっていた。
ハッキリ言って、父は戦場という場においては「役立たず」だった。1980年代当時、現地の反共勢力が欲しがった技術は対空兵器(スティンガーミサイルなどが有名)、重機関銃や重兵器、迫撃砲といった支援火器、爆発物や地雷・手榴弾といったものだった。
父が彼らに教えようとしたのは「Unconventional weapon(非正規武器)」、つまり戦争においては主流になりえない様なものだった。
俺もよく知っている。バーネット・コマンドクロスボウというものがあった。古い特殊部隊の訓練などで稀に写真で見かける程度の、箱根や江ノ島の御前メニューの端っこについている香の物の切れ端の様な居場所しかない武器、そういうものだった。
技術的な話をさせてもらうと、175ポンドの張力のこのクロスボウは、当時の技術の限界からわずか33ft/lbsの威力しかない、狩猟用のPCP空気銃のローエンドモデルより若干下というレベルの性能だ。こんなものをハインドDが徘徊する戦場で振り回す人間なんて、それこそ漫画やアニメの世界だけだろう。(コントラ戦争でハインドが確認されたのは、父がとっくに帰った80年代後半なのだが)
狩猟で使える有効射程は、30㎏サイズの小型の鹿で約15メートル、物理学的な威力は弓道で使う90㎝の引き尺の22㎏(六分の弓)と同等、こんなもの、少し体格のいい男子中学生や、女子高生でもがんばれば行ける程度の現代では引ける人間が珍しくない弱弓だ。
ハッキリ言って評判は悪かったようだ。悪かった以前に現地のARDEの民兵から見れば父は「評価対象以前の問題」だった。とりあえずコスタリカの基地で、酒を片手に的当て遊びに使う程度の余興の玩具、それ以上でもそれ以下でもなかったという。
評判が良ければ、実際に指揮をして戦闘に出る。おじさんは赤痢になって下痢腹でピーピーになって帰国することとなったが、父はARDEの幹部から丁重に戦闘参加をお断わりされて、失意のうちにともに帰国となった。
父にライフルの射撃術を教えた「バート」は、平和な世界で軍服を模したセクシーな恰好のコンパニオンたちに「ごっこ遊びの兵隊」と笑われた。
そして、バートから教えられた射撃術を携えて南米の戦場に立った父は、現地の花形である戦闘員たちから同じく「ごっこ遊びの兵隊」と嘲笑を受けた。
父が幼いころから胸に抱いた「異国の地で戦うサムライ、反共戦士として活躍する夢」の最初の活動は、あっけなく終わったのである。
余談だが、始めて俺が撃たせてもらった「武器」は、このバーネットコマンドクロスボウだった。勢いよく的に向かって刺さる矢に、とてつもない威力を手にしたと6歳の頃の俺は思ったものだ。
何度も喜んで撃った。父はそれを見て嬉しそうに笑っていた。
ひょっとしたら父は、この過去のトラウマを払拭したかったのかもしれない。
失意の帰国から2年、俺が生まれた年、父は再び早稲田大学の夜学に休学届を出して、アフガン紛争最盛期のアフガニスタンへと再起をかけて身を投じている。
アフガニスタンで戦ったという経験を持つ仲間の「おじさん」と一緒に、その場所へ立っていた。
高部正樹、田中光四郎、アフガニスタンの戦場で戦い、名を上げ、歴史に名を刻んだ日本人たちが戦った「反共の戦場」、父はそこへいた。報告書と覚書には、そう記されている。
だが、今のネットやミリタリーオタク界隈が示す様に、父は反共戦士として名を遺すことはなかった。
父が名前をかすかに残すのは、もうとっくに廃刊になった傭兵ミリタリー雑誌、「Eagle」マガジン(EAGLE Magazine Adventure Survival Truth)1985年号(売れなくて廃刊となった最後の号である)のたった2ページの現地ルポの記事の中だけである。
「熱砂の戦場ーーーソ連軍と戦う外国人義勇兵たち」 そう特集された小さな記事の中に父とおじさんの名前(読み方をもじっただけの偽名)と、当時25歳の若かったころの父がリー・エンフィールド.303を持った写真が写っている。
ミリタリーマニアであればこの時点で、あまりの痛々しさに目をそらしてしまうだろう。
写真の中でおじさんは、どこからか流れてきているのかRPK軽機関銃を担いでいた。他のムジャヒディンたちはAK(当時は中国製が多かったらしい)を誇らしげに手にしていた。
だが、父はとっくの昔に型遅れになったリーエンフィールドライフルである。技術史的には、1800年代の銃である。現地のムジャヒディンたちは、父を役に立たない男とみなしていたのだ。少なくとも俺はそう判断した。
ここからは父の主観の入った覚書しか足跡を追うことができない。
父とおじさんは「サタン国家ソ連の兵士」に引き金を引く前に、2機のMi-24ハインド(85年であればD型ではなくV型かもしれない)の鉄の暴風という圧倒的暴力の前にあっけなく逃げまどい、渡りをつけたムジャヒディンの部隊が大損害を受け、なすすべもなく1か月アフガニスタンを流浪した挙句に、失意の帰国となった。
怪我はなかったようだが、ロケット弾と機関砲の掃射を受けて、1週間は耳鳴りが止まらなかった、そう覚書には記されていた。
父が「宋さん」から教わった日本軍仕込みの射撃や銃剣術も、「反共秘密軍」で教わった散弾銃の腕前も、統一教会の金で受けたフランク・キャンパーとミッチェル・ウェーベルの戦闘訓練も、何一つも役に立たなかった。それが現実であった。
まぁ、無傷で生きているだけマシというものだろう、と俺は思う。
だが若き血潮に燃える25歳の「反共秘密戦士」にとっては、かなりショックな出来事だったのであろう。その様子が覚書には克明に見て取れたことをよく記憶している。
高部正樹が雄々しく戦い、田中光四郎がマスコミから「アフガニスタンで戦うサムライ」と英雄視されていた頃。父は確かにアフガニスタンで戦っていたようだ。だが「サタン国家と戦う反共戦士」の栄誉は、ついぞ得られることはなかった。
「色々やってみたがダメだった。なろうとしたものになれることは、俺の人生で一度もなかった」
生前、俺が大学生の頃、父がそう寂しそうに言っていたのをよく覚えている。
父の「反共秘密軍としての活動」は、実質的に1985年を最後に途絶えている。
6年後、あっさりソ連は倒れて冷戦は終わった。ベルリンの壁が崩れて、世界は新秩序へと移行していった。
共産主義の危機は去った。歴史を見れば、父が自身の青春をかけて立ち向かった「共産サタン国家」にトドメを刺したのは、
皮肉にも父が望んでいなかった才能を発揮した平時の経済活動に失敗し、石油暴落で予算が飛んだからであった。
父が命を賭して戦おうとした「サタン」は、戦場ではなく、経済の論理によって崩れ去った。
英雄になれなかった父の人生を、歴史は何事もなかったように通り過ぎた。
ソ連が崩壊し、ベルリンの壁が崩れた日、父に何か変わった様子はなかった。
覚書にも、その日は何も書かれていない。
その後早稲田大学の夜学を卒業した父は、当時情報産業のIT企業に転職し、65才その生涯を終えるまで「サタン国家日本」の中で生き続けた。
余談だが25歳まで父は、母のヒモだった。アルバイトで稼いだ金は、すべて「反共戦争」のための旅費や道具・訓練費用に消えていったのだ。
父は、アフガニスタンで負け、俺が生まれてから人生のメインステージが終わったことを悟ったのであろうか?
俺はそれについて、あえて想いを筆を乗せない。
父を思い出すとき、俺はどうしても夏の片瀬江ノ島のある光景を思い出せずにはいられない。
どこからやってきたのか、海を渡ってきたのであろうか、小さな江ノ島の中で生まれて育っていたのであろうか。
中津宮広場の前の小さな池で、小さなツチガエルが黒みまでかかるほど抜けるほど青い空の下、夏の日差しと穏やかな海からの風を受けて、ミドリガメをかき分け、池の水面を泳いで岩肌の草陰へと消えていった。
父もまた、そうだったのかもしれない。どこにも辿り着けなかったのではない。ただ、自分の場所を探し続けただけだったのだ。
そしてその旅は、誰にも知られず、静かに終わった。ただそれだけの話である。
父は何がしたかったのだろう。何を求めていたのだろう。自分が果たせなかった何かを、息子に託そうとしていたのかもしれない。
その答えを、俺はまだ知らない。これからも知ることもないのだろう。それでいいと思う。そうやって世界は変わらず廻っている。
父の過去を巡る旅を終えてみると、そこに浮かび上がったのは二つの顔だった。
ひとつは、統一教会という巨大な思想装置の中で、「非公然の戦士」として生きた男の顔。
もうひとつは、ただ自分の居場所を探し続けた、少しばかり頭と体の良い、
父が所属した統一教会(勝共連合)は、父と同じくその役割を終え、解散命令の末に歴史からも日本社会からも排斥されようとしている。栄枯盛衰である。
個人的な気持ちを書かせてもらえば、消えて当然の存在だろうと思う。「サタン国家」が敵わなかった経済を極めて帝国を築いた統一教会は、皮肉にも冷戦時代、いや前世紀、
その「サタン国家ソ連」が最も得意として、それで建国まで為した「テロ」という技術で、たった一発のテロリストの弾丸で音を立てて崩壊した。父親が人生の大半を捧げてなっていた職業である。
統一教会が予言した「恐怖の世界の終わり」は、ついぞ俺が生きている間は少なくとも実現することもないのだろう。凝り固まった思想に逃げ込まない限り、涙も痛みも怒りも憎悪もいつかはありのままの世界と自然が、やがては風と光にさらされて、静かに薄れさせていってくれる。
彼らに勲章が贈られることはない。ただ黄ばんだ文書と色あせた写真とビデオテープの上で存在しているだけである。
それでも世界は廻っている。
あの夏の日の江ノ島の海のように。
何事もなかったかのように。
https://anond.hatelabo.jp/20251223142115 以前、統一教会(国際勝共連)の非合法武装部門にいた父や、その「秘密軍」のことについて書いた中で、最後の質問として 「結局父は何かテロリストっぽ...
なんかいきなり消えてたけどなんだったのこれ
山上はテロリストじゃないけど