https://anond.hatelabo.jp/20251223142115
以前、統一教会(国際勝共連)の非合法武装部門にいた父や、その「秘密軍」のことについて書いた中で、最後の質問として
「結局父は何かテロリストっぽいことをしたのか」という質問があった。
結論から言えば、父と、父の友人である「おじさん」は、1980年代3つの出来事に関与している。
母が燃やしてしまう前にすべて目を通した父の1980年~95年まで書かれた紙の覚書や報告書、手記から、当時の回想、関係者が語っていた事等と、
当時の事が書かれている第三者の史料の出典と照らし合わせながら、できる限り追える様に書いたので、やや冗長になる部分もあるが、年末の暇つぶしがてらに「こんな時代もあった」という気持ちで、
東京都小平市と小金井市、そして清瀬市、隣接するここら辺は日本のスパイマニアからはちょっとした「特別な場所」である。
古くは、自衛隊の小平情報学校が再建された場所であり(現在は移転)、警視総監狙撃事件の真犯人とされる中村泰が犯行後も暮らしていたアジトが存在している場所である。(警察庁長官を撃った男 新潮文庫を参照)
また、朝鮮大学校を舞台に昔から諜報活動が繰り広げられていた場所でもある(2016年、警察が検挙した事件が今でもネット記事で見ることができる)
そして、赤軍派の塩見孝也が晩年を生き、最期を迎えた場所でもある。
場所をぼかすが、父はここで生まれて幼少期を過ごした。1960年~1970年代前半までのことだという。
父が初めて「そっちの世界」の触れたのは、中学生の頃だという。
近所に住んでいた「宋」と名乗る、元陸軍中野学校一期生を自称する怪しい右翼崩れの中年と老人の中間ほどの男から、一手幾らで小遣いを渡す代わりに、「秘密戦士」としての技や知識を教えてもらっていたという。
この「宋」という人間、俺が調べたところによるとひょんなところから右翼活動に関する書籍で名前を見かけたため、実在している。
共産党の「前衛」を纏めた「政治反動と右翼テロ (1974年出版)」の中に、こんな記述がある。
「任侠右翼団体、"日の丸評論社"課長の石井吾郎が1972年12月20日号で、自身の機関紙で中野学校一期生で、中国でスパイ活動をしていたという"宋"という男の講義で、北一輝の著作との学習と、猟銃を持って山林を駆け回る「屋外訓練」をした体験記が乗っている」
また、「事件写真 : 目で見る現場報告 一九七二年一月一日-六月三十日の記録 毎日新聞社」を見ると、同年6月12日にこの訓練を受けた石井吾郎なる男が、「新型手製爆弾9個をもって、日教組大会の爆撃を計画していた」として、警察に逮捕された記事が載っている。
その後を調べてみたが、宋という男も、この石井吾郎とかいう右翼ヤクザも足跡を追う事が出来ず、静かに歴史から姿を消している。
事後孔明となってしまうが、この宋という男、恐らく中野学校の人間ではない。
父が受けた「スパイ技術の手ほどき」の内容と、実際の中野学校校友史、二俣分校校友史といった一次史料を見ても、術科も実科も基礎理論も全く乖離していた。
詳細を書けば、宋という男が教えたのは、基本的な軍事教練と小銃射撃技術、銃剣術であった。これは、中野学校一期生の学科/術科/実科で教えられたものと全く違う、戦時中当時は中学生であろうが教えられていた基本的な学校教練の技術である。
銃の構え方、行軍、精神論。どこにでもある、ありふれた“兵隊ごっこ”だった。
タカトク(※60~80年代にかけて存在した最古の日本エアソフトガンメーカー)のエアガンと、どこからか宋という男が持ってきた木銃を使って練習をしたという、父は、「7mmツヅミ弾のSS1900だったと思う」と書いてあるが、これは記憶違いであろうと思う。
恐らく、当時ではよくいたというが中国大陸でどこかの特務で下働きをしていた男が、食うために「インチキ中野学校の秘密戦士」を名乗ってシノギをしていたのであろう。
現代でもyoutubeだのを見ればこんなインチキ経歴で商売をしている人間は山ほどいる、生きるために「軍事専門家」を名乗り、虚構を売る山師たち。人というものは進歩しない生き物なのかもしれない。(それにしてもヤクザ相手にインチキ商売をして金をとるだなんて、随分見上げた根性だと思うが)
余談であるが、右翼活動家で本当に中野学校にいた経歴を持つ人物は末次一郎(中野学校二俣分校三期)がいる。
父も気づいていた、だが、この男に恨みはなかった。
桜が吹雪の様に舞う春の休日、この男と公園で「中野学校流の諜報術」の手ほどきを受けたことの景色が自身の人生の原像になっている。
恐らく、宋というインチキ諜報員も自分が生きてきた何かを、父に伝えたかったのだろう。年を超えた奇妙な人間同士の通じ合いがあった。
そこには清いまでの空の青さと、散っていく桜吹雪のコントラストが強く記憶に残っていると、父の覚書や、俺が成人して聞いた話ではそう書かれ、答えている。
そこにあったのは、欺瞞であっても、完全な嘘ではなかった。
人が人に何かを手渡す瞬間の、あの言葉にならない温度だけは本物だった。
皮肉なことに、後年、本物の非合法工作員となる父の原点は、この「偽物」によって形づくられたのである。
だが、得てして諜報といった世界は「嘘が真」になり、「誠が裏切り」に変わるグレーの世界だ。
端的に言えば、本当か嘘かは問題ではない。大事なのは本物か、本物になれたかどうか、なのだろう。
その後「右翼高校生」となった父は、当時設立数年目の国際勝共連合に参加している。
覚書を見ると、1976年の「北方領土奪還1千万人署名運動」、1978年「スパイ防止法 制定3000万人署名国民運動」に署名や運動員として参加している様だ。
高校を卒業後、父はそのまま警察官に就職した。こんな運動をしていたゴリゴリの右翼高校生が、何故警察に入り込めたのか。それについては当時の社会状況と、前述の記事で答えた通りだが、運がよかった、というほかない。現代なら100%ハネられているだろう。
警察官時代のことの4年間を父は何も語らない。ただ「拳銃の撃ち方と柔道ができて金がもらえるから」ということを俺が聞いてよく答えていた。
前述しているが、父が「勝共連合の非合法武装部門」に属していたのは、報告書と覚書の日付から、1980年からとなっている。つまり、父はたったの2年間だけだが、警察官とテロリストという二つの顔を持っていたことになる。
このタイトルにはやや誇張がはいっている。実際には「お父様」と「お母様」から直接指令を受けたわけではない、が、勝共連合(統一教会)の「上長」から正式に父に初指令が下った。
それは、「アメリカの傭兵スクールを回り技術を習得し、これを持ち帰ること」であった。
警察を辞めた直後の1982年、父はジョージア州パウダースプリングスに渡米した。そこにはコブレイカンパニーのミッチェル・ウェーベルが主催する 「SIONICS(反乱軍および反体制活動の作戦的否定に関する研究(Studies in the Operational Negation of Insurgents and Counter-Subversion )」の傭兵スクールに参加した。
費用は当時で2週間で1250ドルである。勝共連合が出してくれたらしい。景気のいい話である。 もっとも、その金の匂いがどこから漂ってきたのかを考えると、軽く笑って済ませられる話ではない。
なお、父は映ってはいないがyoutubeに当時のコブレイ・スクールの特集映像とニュースが見れるので、興味がある場合は見ていただくことをお勧めする。
父がコブレイ・スクールで訓練を受けた翌年、ミッチェル・ウェーベルは癌でこの世を去った。父が訓練を受けた頃にはかなり体調が悪かったらしい。
父の手記と、生前の父の話でよく聞かされた、彼が印象に受けた人物の名前が残っている。
アデルバート・ウォルドロン(Adelbert "Bert" Waldron)、今ではこの名前を知っている人間もベトナム戦争マニアしかいないであろう。
クリス・カイルに破られるまで、アメリカ陸軍最多狙撃殺害数を記録していた狙撃手である(109名)
皮肉を込めて彼は海外では「忘れ去られたスナイパー」「幻の狙撃王」という二つ名で知られている。
彼は当時、コブレイ・スクールで狙撃教育の担当だったという、父は、「バート」からM-21(M-14の狙撃銃版)を使ってどんな風に敵を倒したか語っていたのをよく覚えていた、という。
端的に言って、彼も戦争の犠牲者であり人生の「負け組」であった。彼の人生のピークはベトナム戦争で活躍したあたりまで、それ以降は職を転々として、妻にも逃げられ、結婚出来た体験を引きずりながらペンパル募集欄で女性と文通を模索している、そんな男だったという。
一番長く続いた仕事が、このコブレイ・スクールの射撃教官の口だった。人のことをあまり悪く言わない父が「とてつもなく口下手だった、教えるのも下手だった」と苦々しく振り返っている程だった。
彼の姿で一番印象に残っている話を父から聞いた。
1982年のSOF(ソルジャー・オブ・フォーチュン)コンベンションという華やかな催しがあった。 軍服を模したセクシーな衣装の若い美少女のコンパニオンたちに、バートはこう笑われていたという。
「Playing soldier(ごっこ遊びの兵隊)」と、彼はわなわなと背中を震わせて静かに泣いていた、という。
父と対照的だと俺は思った。
「戦場」で歴史に名を残し、平和な社会では人生の負け組…今でいう「弱者男性」として苦労しながら生を終えたバート、
「戦場」で何も名を為せないまま、平和な社会での仮初の身分では社会的成功を収めた父
時代や生まれた国が違えば逆だったかもしれないからこそ、父は強く印象に残ったのであろう。
1980年号の「ソルジャー・オブ・フォーチュン誌」にコブレイ・スクール紹介記事の訓練カリキュラムが乗っている。
.45オート、3時間が14日。.38リボルバー、3時間が14日、非武装戦闘、8時間…10個程あるカリキュラムに、わずか1日、2時間だけ「Sniper scope」というバートが受け持つカリキュラムが記載されている。
事後孔明となるが、このカリキュラムは、ミッチェル・ウェーベルがCIAの前身、第二次世界大戦のOSSでSO(secial operation)ブランチで受けた訓練をそのまま転用している。
つまり、父が生涯初めて受けた「本格的な工作員訓練」なのである。(The Close-combat Files of Colonel Rex Applegate パラディン・プレス出版を参照)
ミッチェル・ウェーベルは、第二次世界大戦中、中国大陸とビルマを転戦し、日本軍と戦った。毛沢東率いる共産党軍の訓練を行い、日本軍への破壊工作とゲリラ戦を指揮した。これは、その当時中共軍が受けた訓練そのものであった。
皮肉なことに、父は「サタン国家中国」がかつて受けた訓練と全く同質の訓練を、「偉大なる統一教会の命令で、反共戦士となるために」受けたのである。
父の2週間の訓練は終わった。次に父がいった「傭兵学校」はフランク・キャンパーが主催するマーク・スクールであった。1982年、フランクがテロ幇助容疑でFBIに逮捕される3年前の話である。
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https://anond.hatelabo.jp/20251225145954 アラバマのマーセナリー・スクール 父が次に向かった場所はアラバマ州ドロマイト、フランク・キャンパーの主催するマーク・スクールである。 元ベトナ...
山上はテロリストじゃないけど
なんかいきなり消えてたけどなんだったのこれ