オリジナルアニメ『前橋ウィッチーズ』が描いた「社会」と「魔法」の範囲について
群馬県の高崎市で中高生のヤングケアラーがいる家庭にヘルパーを無償で派遣する支援事業が開始されたのが2022年9月でした。自治体主導のヤングケアラー支援としては全国初の取り組みだったので、ニュースになったときのことはよく覚えています。
ボランティアの方に無償で依頼するのではなく、予算化した事業として「ヤングケアラーSOS」という取り組みが進められています。学校教育課から直接繋がってサポーターが派遣される仕組みになっていました。
県内のヤングケアラーの実態を把握し、早期の発見や適切な支援を検討するために実施された実態調査については、以下のURLに詳しく掲載されています。
「令和4年度群馬県ヤングケアラー実態調査」調査結果報告書の公表について - 群馬県ホームページ(児童福祉課) https://share.google/hTfbxk9i3IT9fvPzY
報告書(116P)によると、ヤングケアラーと思われる子どもたちに支援をする際の課題は、「家族や周囲の大人にヤングケアラーという認識がない」が第1位で75.5%、「福祉分野や教育分野など複数の機関にまたがる支援が必要となるが、そうした支援のコーディネートをできる人材や機関がない」が次いで高く62.6%、「学校など関係機関との情報共有などネットワーク構築が不十分」の課題が続き57.1%となっています。
第8話は、これらがふまえられた描写になっていたと思います。チョコが学校で家のことを相談したとき、担任の先生はどう対応すれば良いか分からず困惑しますが、他の先生が支援窓口へと繋いでいました。母や祖母にパンフレットを見せて、認識を共有する様子も描かれていました。
『前橋ウィッチーズ』が、2020年代の社会と地続きに思えたのは、ヤングケアラーの他、ルッキズムやミスコン、ボディポジティブなどのテーマが背景にあったからです。
水原希子さんが「最も美しい顔ランキング2020」に選ばれたことを受け、Instagramのストーリーで企画への批判を投稿されたのが2020年6月でした。「自分が知らない間にルッキズム/外見主義(容姿によって人を判断する事)の助長に加わってしまっているのかもしれないと思うと困る。見た目で人を判断するのは絶対違うと思うし、そもそも一番美しい人なんて選ぶことは不可能」と、"ルッキズム"という言葉を用いて、企画趣旨に異議を表明されています。大森靖子さんが「ルッキズムが才能より偉い世界がとても嫌い」とInstagramに投稿されたのは同年の7月でした。
第3話のアズの、「だって結局世の中、可愛い子が、正解で正義じゃん」という台詞は、人を外見で判断する社会へと向けられていました。第4話、第5話では、ミスコンが題材になっています。キョウカの「ミスコン自体の時代錯誤さは否めないけど」という台詞も描かれていました。
ミスコンがルッキズムであるという批判が高まり、2020年に上智大学がミスコン廃止を決めて「ソフィアンズコンテスト」を新設したニュースが記憶に新しいです。ルッキズム=人を外見で判断するからよくない(だから別の基準を設けるべきだ)と、問題化する範囲を狭義に捉えてネット上で語られていたことも含めて印象に残っています。外見判断そのものの良し悪しといった「私」の領域ではなく、評価基準となった外見がジェンダー差別やエイジズムなど、様々な差別と深く結びつく「公」の領域を問題視するべきだと当時感じました。
ルッキズムという言葉が、日常での使われ方と理論的な議論とで乖離している流れを受け、西倉実季さんが『「ルッキズム」概念の検討 : 外見にもとづく差別』(2021年)という論文を書かれています。
この論文では、ルッキズム概念を通して何が問題化されてきたかがまとめられていました。ルッキズムをめぐる議論を、本来無関係(イレレヴァント)な場面で外見が評価されることを問題視する"イレレヴァント論"、美が社会的カテゴリーによって不均衡に配分されることを問題視する"美の不均衡論"、労働市場で評価される外見が美的労働によって組織的に形成され、その過程で格差が生じることを問題視する"美的労働論"の三つに分類することで、先行研究の論点が整備されています。ミスコンからソフィアンズコンテストへの転換に、これらの論点が反映されていない点についても言及されていました。世の中で注目を集めるようになったルッキズムという言葉の使われ方が、本来の用法と異なることが示される一方で、人々がその言葉で可視化しようとする現実について把握することは学術研究の課題でもあると記されています。
第3話、凛子に来たオファー描写は、クリエイティブディレクターの佐々木宏氏が、東京オリンピック・パラリンピックの開会式の演出案として、渡辺直美さんの容姿を侮辱する提案を行っていたことが問題になった2021年の報道が背景にあったと思われます。渡辺さんが、YouTubeチャンネル『NAOMI CLUB』のライブ配信の冒頭で、この報道や、報道に対する反応についてコメントされていました。
「もしも、その演出プランが採用されて、私の所にきた場合は、私は絶対に断ってますし、その演出を、私は批判すると思う」
「自分で決めたいんだよね。自分が痩せたいと思う理由が出たら痩せるし、自分がこのままでいたいっていったら自分は太ったままでいたいっていう、自分のことは自分で決めたいんだよね。これはたぶんみんなもそうだと思う。自分の髪色は自分で決めるし、自分が着たい服は自分が決めるし、自分の身体のことは自分で決めたいんだよね」
"ポジティブ"という言葉を繰り返し使われていたのも印象的でした。
第3話では、凛子が「ブタの衣装着たくありませんから」と、きっぱりとオファーを断る姿が描かれています。「自分が着たい服は自分が決める」「自分の身体のことは自分で決めたい」は、キョウカの第4話の台詞「自分は好きなものを着たいかな」や、第2話のアズの台詞「アズはアズが可愛いって思うものしか着たくない」、アズの第12話の「そんなすぐにどっちかなんて決めらんないでしょ。どっちのアズもアズなんだから」など、キャラクターの言葉にもなっていました。
第3話は、ルッキズムへの対抗としての「ありのままの身体を受け入れる」ボディポジティブがひとつのテーマになっていたと思うのですが、アズはそうしたムーブメントからは離れた場所にキャラクター像を結びます。「ありのままの自分を受け入れていますから」と、アズに対して聞こえよがしに語るのはケロッペの方でした。アズはポジティブを示唆するケロッペを踏みつけます(第9話)
藤嶋陽子さんは、「身体を受け入れること、身体を手放すこと。――ボディポジティブは誰のために、そして誰を突き放すか。」(『現代思想2020年3月臨時増刊号 総特集=フェミニズムの現在』、青土社、2020年)で、自身の体験を踏まえ、"プラスサイズ女性の地位向上という目的に矮小化された"ボディポジティブへの批判的な視点を提示されていました。「ポジティブさ」が、美を放棄したり身体を美の概念から切り離すことではなく、自分自身の中に美を見出すことにあるのであれば、従来の画一的な美の基準に対抗しながらも、美という基準が維持され続けることで、結局は美という単一の基準に取り込まれてしまっているのではないかとの指摘がなされています。ボディポジティブムーブメントが体現する気高く美しい力強さのイメージは、他者を勇気づける可能性があるとされる一方で、その強さに共感や共闘ができず、はじき出される存在もいるとの考えが示されていました。
第3話でアズは、凛子に「あなたみたいにカッコよくなれない」と胸の内を明かします。凛子自身も色々なこと飲み込んで、やっと自分のことが好きになれてきた、とこれまでの過去を語りました。「ありのままの身体を受け入れる」ボディポジティブの「ポジティブさ」を前に、取り残されたように感じているアズのキャラクターと、ポジティブを体現する一方でそこへ至るまでに、アズと同様の過去を背負ってきた凛子のキャラクターが描き出されています。
ボディポジティブというワードに、キャラクター像とキャラクターの歩むストーリーが、明るく前向きなものとして集約されない視点があったと思います(楽曲中に彩度が落ちる演出が強く印象に残ります)「私」がいかに変わろうと、問題自体は依然として解決されない「公」を強調して描こうとする眼差しを感じました。アズが行き着くのは、どちらかといえばボディニュートラルの考え方でした(ただ、アズの身体に対する捉え方もユイナの夢のなかの台詞のため、固定化はされていません)
藤嶋陽子さんは前掲書で、価値観のアップデート、身体像や主義主張までをも含めたステートメントをマーケットに転化するファッションの力学構造(美の放棄を赦さない構造)についても触れられていました。
ファッションに関する台詞は、第2話でキョウカが「安すぎる品物は結局労働搾取によって成り立っているから自分もいかがなものかとは思ってる」と語る場面や、ユイナが「うちのお財布にあわせてお買い物するとオシャオシャガールじゃなくてペラペラガールなっちゃうんだよね」と、こぼす場面などで、お金と結びつけて語られています。
また、マイのファッション(無難コーディネーター熊井のアカウント)は、SNS上で多くの支持を集めていて、フォロワー数が目に見える数字に表れていたり、ファッション自体も「100点よりも70点」といった点数で表されていたり、おしゃれする能力の評価や、ファッションそのものが数値化されていました。
本編で明確に数値化されているものと言えば、マポでしょうか。悩める人たちの願いを叶えるとレジにポイントが貯まり、99999ポイントで魔女見習いから一人前の魔女になれる(成長できる)という設定になっていました。
ケロッペの台詞でも、魔女見習いとしてお店でお客さんの願いを叶えることが、接客業と関連付けて語られています。第1話「接客業としてアウトだね」、第5話の「マックで働いたのにスタバの人にお給料くださいって言ってるようなものだからね」などが分かりやすいです。魔女修行の失敗は"クビ"と表現されていました。
第4話のケロッペの台詞で「マポドロのことは忘れて働きましょう」の背景にある「24時間戦えますか」のキャッチフレーズは、実際にあった栄養ドリンクのCMが元ネタになっていました。本来の意図とは離れて、かつてのビジネスパーソンの働く姿勢を象徴するフレーズとして広まった広告です。
『ヤングケアラーってなんだろう』(澁谷智子 著、筑摩書房、2022年)では、同じ栄養ドリンクのCMについて触れられていました。「生産」を支えるケアの領域でもある「再生産」が長い間軽んじられ、時代が変わって家庭で使う時間や人手が減ることで「再生産」の領域でどういった問題が起こるかに関心が向けられてこなかったこれまでの社会について書かれている章で、ケアを組み込まない当時の働き方の一つのイメージとして、このCMが取り上げられています。
「生産」のみが中心になることで、見えなくなっている「再生産」のケアの領域のテーマは、そのままキョウカとチョコのやり取り(第6話、第7話)に繋がっていたと考えます。
第6話では、キョウカの説得によって、お店の労働環境を改善するためにクーラーの設置が決まります。キョウカがお客さんの悩みを聞き出してくれるのでケロッペに情報提供を求めなくてもよいこと、キョウカが当番表を導入して業務を仕切ってくれるおかけで無駄なマポを使わなくて済むようになったことなど、「生産」の領域でのキョウカの存在感が強調されていました。
常にウトウトしている眠そうなチョコに対して、「やる気がない」と「生産」の領域からキョウカは批判的な視線を向けます。第6話では、ユイナに「魔女になるためにやる気ない人の分も頑張るしかないよ」と話していました。
『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』(デラルド・ウィン・スー 著、マイクロアグレッション研究会 訳、明石書店、2020年)は、あからさまな差別と比較して、加害者が無意識の内に伝えてしまう認識しづらく問題化しにくい差別のメカニズムを「マイクロアグレッション」という概念で言語化した書籍でした。
本書では、マイクロアグレッションの例の一つとして、視覚障害のある患者へ薬を手渡す際、看護師が大声で話しかけるという場面が挙げられていました。ここでの看護師の振る舞いには、障害を持っている人はあらゆる機能が劣っている、というメッセージが患者である受け手に対して暗に伝えられています。その他の例として、教師が保護者面談の際に、生徒がよく居眠りをして宿題を出さないことから、学習上の問題を抱えている、と保護者に伝える場面も挙げられています。その生徒は実際には、家庭を助けるために多くの時間を費やしていました。悪意のない教師の言葉は、貧困下での生活がいかに活力を奪うものであるかについての意識がないことを受け手に対して言外に伝えています。
キョウカとチョコの家庭環境は、その格差が強調されていたのですが、キョウカの視線は、チョコの眠そうな様子をやる気の欠如として捉え、それを「生産」の基準から評価しているように描かれていました。チョコが家庭の事情で睡眠時間を削られている可能性に目が向かず、キョウカの家庭環境の尺度で判断してしまうことで「再生産」も覆い隠されてしまいます。本来「公」で扱われるべき問題が、「私」の領域へと押し戻されるイメージを持ちました。
「人の願いも叶えて行けば、ろくでもない世界も少しは変わるかな」とユイナに話していたキョウカは、社会へ目を向けるキャラクターとして描かれていました。第8話では、キョウカがこれまでの自分の振る舞いや発言を振り返り、理想や正しさを掲げてきた一方で、相手の立場や気持ちに十分寄り添えていなかったことに気づき「自分が恥ずかしすぎて」と言葉にしています。
チョコとのやり取りを経たキョウカは、第8話のラストで「市長になってもっと前橋を良くする。誰もしんどい思いをしない場所を作る」と夢を語りました。個人間のやり取りに見える出来事を、社会的立場の違いや構造的な力関係など、より広い文脈の中で捉え直す上でも、マイクロアグレッションの概念を用いる効果があるのですが、キョウカが個人間の問題を社会構造の問題として捉えて、その解決に繋げようとした思いには、マイクロアグレッションの視点がふまえられていたと思います。
第3話で、先生から凛子が伝えられた「ほら先生言ってたでしょ。見た目のことなんて歳を重ねたら、気にならなくなるのよ」という台詞も、悪意のない言葉として前向きに手渡されるのですが、「歳を重ねなければ、見た目は気にするもの」と暗にメッセージを伝えるだけでなく、年齢と関心の関係を一方的に決めつけたり、凛子が今抱えている悩み(プラスサイズモデルとしてどのように自分を表現すべきか・したいか)を無いものとして扱ったり、年齢と外見の固定観念を含んだマイクロアグレッションとして描かれていたと感じます。
キャラクターたちが、個と分かちがたく結びつく社会を生きているのと同様に、魔女修行するお店もそうした社会の中に設定されていました。
第10話で、栄子がケロッペにお店を開く理由(魔女見習いを育成する理由)を尋ねたとき、ケロッペは、人間がキッチンでハーブを育てたり、"ありんこ"を飼ったりするようなものだと答えていました。成果や状態を観察、調整して管理する小さなプロジェクトに近いイメージで、成果のための育成対象として扱っている点は、人間を人的資本として捉える発想と似ています。
魔女見習い同士で、出来が違うと言ったり、資質の違いに言及したり、価値を成果に結びつける本音が垣間見え、ケロッペが用意したお店の空間では、願いを叶えることも、一人前になることも数値化されているので、全てが市場経済の枠組みの中で機能している印象を持ちました。ケロッペが取り仕切る魔女見習いのお店が、市場経済の原理を取り込むのは、新自由主義下で政治が同様の振る舞いをするのにどこか似ています。お店で働く五人の魔法少女見習いは、一人でもお店を開くことのできる栄子によって入れ替え可能なものとして描かれていました。
ユイナたちの私室(クローゼット)と、ケロッペが用意したお店の空間は、休憩室を挟んで隣接しています。休憩室が社会的空間に思えたのは、私的なスペースから扉を開けて休憩室に来るまでに、それぞれのキャラクター間で格差があったからです。
チョコは家庭を助けるために魔法を使って時間を巻き戻していて、その分疲労困憊した状態で休憩室にやって来ていました。アズも身体を変えるために魔法を使っていて、常に体力を削られながら休憩室で過ごしています。
魔女修行の舞台を社会に置き、市場経済の原理を取り込んだ本作の魔法は、人々の願いを叶える力として描かれる一方で、使用することで体力を消耗するものとしても表現されていました。
お店と私室は、空間的にはケロッペによって区切られています。別の私室に勝手に入ることは禁じられていました。第3話で、ケロッペは「そこはアズのドアだから。プライバシーは尊重しないとね」と理由を説明します。その際、ユイナから「自分は勝手に部屋に入ってきたくせに」と矛盾を指摘されていました。
新自由主義の権化(?)のようなケロッペは、お店(公)と部屋(私)を、「プライバシーは守られるべきだ」と、最もらしい言葉で明確に区切る一方で、魔女見習いの人材をリクルートするときには、その境界を自由に行き来する存在として描かれていました。
お店と社会が分かちがたく結びつけられているように、個人と社会も分かちがたく結び付けられているイメージを持ったのは、休憩室の表現だけでなく、それぞれのキャラクターが世間の価値観を内面化させているように感じられたからです。
キョウカが、眠そうなチョコを「やる気」がないと捉えたように、アズも世間の価値観を内面化させていて、凛子に対して「痩せたいんですよね」と、お店を訪れた理由を断定していました。
加害の眼差しに繋がる一方で、キャラクターたちは、加害に晒される存在としても描かれています。キョウカは性的なDMを送られる性被害にあい、アズは周りから体型を侮辱される差別にあって、学校に行けなくなっています。
「私」の領域にまで侵入する加害として捉えられていました。私室の外では、男らしさや女らしさ、娘であることなど、両親の一方的な視線に晒されるため、キョウカは部屋に閉じこもりますが、扉を隔てていても、その会話は耳に届いてしまいます。ネット上に、自分らしくいられる居場所を見つけたはずでしたが、配信者から性的なDMが送信され、スマホのなかに見出していた私的な空間までもが侵されてしまいます。
アズは学校で差別にあい、私室に閉じこもりますが、スマホにはクラスメイトからの心無いメッセージが届き、アズを苦しめます(第9話)SNS上でも、コメントで体型を侮辱されるだけでなく、可愛い子が多くの"いいね"を集め、外見で全てが判断される世の中の価値観をアズは見つめていて、そのことに苦しんでいました。
社会の中の個であるキャラクターたちの抱える問題は、ケロッペが私室とお店を区切った境界設定を越えていきます。ケロッペ自身も、ユイナをチョコの部屋に招き入れる役割を負っていました(第7話)
第7話で、ユイナはチョコの日常を追体験します。チョコが一人で抱えていたケアの時間は、一人で抱え続けるには「しんどい」ものと受け止められました。チョコが助けを求めることで、サポートを必要とするヤングケアラーとして「公」の領域に繋げられていきます。
キョウカが晒された視線や受けた被害も、キョウカ自身、チョコと比べて「自分が悩んだり怒ってることがくだらなすぎて」と話すのですが、辛いもの、性犯罪であると、他の四人へと認識が共有されます。魔法を用いて、脳内の記憶が言葉を介さずに伝わる様子が描かれていました。
個人が抱える悩みの大きさは、数値化されず、上も下もないものとして表現されています。第7話、チョコがユイナと会話するシーンでは、「私よりもっと大変な家はいっぱいあるから」と話すチョコに対して、ユイナが、「うちはチョコちゃんがしんどいかどうかの話をしてるの!」と返していました。チョコと比べたら自分の境遇は辛いものではないと話すキョウカには、「そういう気持ちって、誰かと比べることじゃない」とユイナは返しています。
アズが抱える苦しみも、マイが抱え込む思いも、私室から五人で過ごす空間へとシフトしていく印象を持ちました。
個が抱える苦しみは、それが例えばジェンダーの不均衡な構造と不可分であっても、「私」の領域に、押し戻されることが多々あります。性的被害を受けても被害者個人の行動に責任を転嫁されたり、多くのケアの時間を費やして疲弊している場合であっても個人の努力不足にすり替えられたり、他と比較する中で「しんどさ」が低く見積もられ、そもそも問題として扱われないことも少なくありません。
個人の問題と狭めて、公私の区分に線引きされるのではなく、個人の抱えた苦しみが、私室からお店へと持ち込まれることで、五人の中で共有される様子が繰り返し描かれていたと思います。個人(私)が一人きりで抱えていた問題が、社会(公)の問題として捉え直されていく視点があったと思います。個人が抱え込もうとする苦しみに対して、世の中の方が間違っていると訴えてきたのはユイナたちでした。
そんな子、どこにでもいちゃダメです!
無理! そんな当たり前のことが贅沢になっちゃう世の中とかほんと無理
『「社会」を扱う新たなモード 「障害の社会モデル」の使い方』(飯野由里子、星加良司、西倉実季 著、生活書院、2022年)では、主に2020年以降の社会が対象となっているのですが、この本で提起されている「社会」の範囲の再考と、作品の扱う社会とが重なる部分がありました(オリンピック・パラリンピック東京大会を契機に推進された「心のバリアフリー」に関する論考も収められています。オリンピック・パラリンピック繋がりで東京大会の演出案を作中で扱った『前橋ウィッチーズ』を観ていて、より強く意識されました)個人の心身機能の問題とされてきた障害を社会的障壁との関係で捉える「障害の社会モデル」が、本来持っている分析力を再確認する内容になっています。
前掲書では、社会モデルと個人モデルには、①発生メカニズムの社会性(障害者の困難は社会/個人の問題だ)、②解消手段の社会性(社会/個人の側で解決可能だ)、③解消責任の社会帰属(社会/個人が対処すべきだ)という三つの位相があって、②と③の社会性のみが注目される現状に対して、①こそが社会モデルの要諦であると述べられています。
①の社会性が注目されず、「障害者の困難は個人的な問題だが、社会で解決可能だから社会が対処すべきだ」という実践で温存される(強化される)障害を個人の問題とみなす認識では、障害者をスティグマ化する認識が維持されるだけでなく、②の解消手段や、③の解消責任の所在の内容や範囲にも制約がかかり、本質的な解決につながりにくくなるという構造が指摘されていました。
障害者の困難は、社会がマジョリティ側の基準で作られていることから生じるだけでなく、その解決を個人の問題と捉えるか、社会的な問題と捉えるかの境界設定自体も、マジョリティとマイノリティの「権力」や「特権」の非対称な配置によって規定されているという主張が背景にありました。
心身機能の問題とされてきた障害を、マイノリティの側が放置・排除される社会の不均衡の問題として扱う本来の社会モデルを確認しつつ、ユニバーサルデザイン2020行動計画に定められた「心のバリアフリー」や、「合理的配慮の提供」など近年導入・推進されてきた制度や施策も、本来の社会モデルの視点から検討する必要があるとされます。単にアクセス改善や配慮の義務化を進めるだけではなく、それらが「障害は個人の問題」という個人モデルの前提を温存していないか、またはマジョリティ側の基準を問い直す方向に働いているかを検討することが重要であるとする立場が取られていたと感じます。
社会モデルの分析力の再確認は、障害問題の他、「権力」や「特権」の非対称な配置によって境界設定されている他の問題を、社会的なものと捉えて問題化していくことに繋がるという視点も提示されていました。前掲書のあとがきでも、ジェンダーの不平等構造と深く結びつく公私の区分は、そのまま維持されていては非対称な配置を改められないため、フェミニズムがあらかじめ規定されている区分自体を批判的に問い直してきたことが指摘されています。
つまり、フェミニズムにとって公/私区分の問題とは境界設定の問題であり、その線引きに働く力こそが政治的な権力であると考えるフェミニストたちは、境界設定を当然視する権力に異議申し立てをしてきた。こうした議論に慣れ親しんできた私たちが、既存の社会モデル理解において捉えられている「社会」の範囲に疑問を抱いたのはいわば必然であった。
『前橋ウィッチーズ』も同様の社会の範囲が描かれていたように思います。公/私区分を作品内に視覚的に設定し、私室に閉じ込められていた私の領域の問題を、社会の範囲に押し広げて私室の外へと繋ぎ、個人の問題とされてきた事柄を社会的な課題(みんなの問題)として再定位する視点があったのではないかと考えます。全ての非対称な配置が問われているわけではありませんが、第8話のラストでキョウカが「市長になる」と宣言するシーンには、構造上の問題にこそ目を向ける視点があったように思われます。
何が「公」の領域として扱われ、何が「私」に押し込められるかは中立ではなく、マジョリティ側の視点や利益に沿って恣意的に線引きされていて、マイノリティが抱える問題は社会の課題として認められにくく、私的な領域のこととして扱われる社会を生きているので、同様の社会が作品に描かれていて印象に残りました(私自身が生活してきた2020年代と地続きに思える瞬間もたくさんあったのですよね⋯⋯)
第5話では、サブキャラクターである優愛の私室にも、web会議を通して、ミスコン主催者側の蔑視的な言葉が流れ込みます。優愛は、マイのアカウントを要求して家へ押しかけるキャラクターとして描かれるのですが、マイが周りと馴染めずに学校へ行くことがしんどくなっていた時期に、毎日家を訪れるキャラクターとしても描かれています。100点よりも70点の言葉は、悩みを一人抱えていたマイに、自分が外の世界(社会)とどう付き合っていけばよいか、心の持ちようを教えてくれました。マイはその考え方をお守りに、外の世界へ向けて個の価値観を発信していきます。第5話の描写にも、私室の行き来や、個人と社会のモチーフがあったように思います。
栄子の抱えた悩みも、部屋の中に閉ざされていましたが、ユイナたちが繰り返し栄子という個に寄り添うことで、栄子が本来の望みを想起して、部屋の外へと出ていく様子が描かれました。栄子は、子供の頃に憧れた、医者の道を再び志します。お店を訪れたお客さんの悩みを、一度は無いものとして扱いながらも、社会の中で他者を助けていく道を歩もうとしていました。
ユイナがチョコの家を訪れたり、これまで友達が来ることのなかったユイナの部屋にみんなが集まったり、お店の外に出られないアズと一緒に過ごすために私室と社会の間に夏祭り空間を作ったり、アズがみんなと一緒に外へ出かけたり、私室と社会(外)との行き来が、私の領域と社会とが分かちがたく結びつけられた作品世界の延長に描かれることで、境界を越える以上の意味をもって表されていたように思います。
チョコの家を訪れてチョコの日常を知ったこと、ユイナの部屋でユイナ自身の過去が打ち明けられたこと、作り物で偽物のはずの空間でアズを救う言葉が手渡されたこと、一人では出られなかった外へみんなと一緒に出かけたこと⋯⋯それぞれの行き来に、社会のなかで孤独に抱え込んできた「私」の領域が解きほぐされ、連帯(円のイメージ)へと繋がっていくように感じました。チョコのアイスが溶ける描写も、「私」の領域が徐々に解けていく表現として受け取りました。
第4話〜第5話、マイと優愛の関係性の中で修復された円のイメージが熊のヘアゴムでした。ふたりのお揃いのアイテムでもあります。優愛が持っていたヘアゴムは熊の部分が欠け、ゴムの輪っかが千切れていました。第5話のラスト、優愛が自分だけの力でミスコンに臨むシーンでは修復され、ヘアゴムの輪っかは、丸い形を取り戻しています。小学生の頃にマイと優愛が食べたおやつのドーナツも丸い形をしていて、ふたりが過ごす時間の中に円のイメージとして存在していました。かつての関係とはその形を変えながらも、ふたりの関係性が円のイメージに沿って回復していくように感じられました。
おまんじゅうの穴を連想する円のイメージは、ドーナツの穴や、ヘアゴムの輪っかの他、栄子にまつわる逆回転する時計の背景などでもモチーフになっています。現状維持のときには止まり、一度逆行した時計は、栄子が歩み出そうとするときに、再び時間が前へと流れ始めて、元の回転を取り戻していくように思えました。
幼い頃に父親を亡くしたチョコとその家族も、バラバラの時間を過ごしていましたが、チョコが助けを求めることで、チョコとお母さんとおばあちゃんの時間は重なり(チョコも子供に戻って)、三人が身を寄せ合う姿が描かれました。社会の中で解かれていた円が、再びその形を取り戻す印象を持ちました。
それまでチョコが食べることの叶わなかったまんまるのチョコケーキがみんなから手渡され、キョウカが隠れた丸い穴をみんながのぞきこんで手が差し伸べられます。第1話、五人で手を繋いで形作られた輪は、当番表やビニールプールなどの円を経て、後に形だけのものから、チョコとキョウカを覆っていく傘や、アスが見上げた花火に象徴される円の記憶へと変わっていきました。
第10話で記憶を失うことで、その円は解かれてしまいます。五人は互いの姿を求めて集まりますが、すれ違い、円が解けるように、バラバラの方向へと歩いていきました。五人が生きる社会は、それぞれを私室の領域に閉じ込め、円を解こうとする方向へ、その力を作用させていくのですが、ぽっかり空いた記憶の穴を頼りに再び互いの存在を求めて集まり、円陣を組む際には、五人の円のイメージが回復します。第12話では、丸いテーブルを囲んで会話する様子が描かれていました。
「ペラペラ」も多様なイメージの中で描かれていたと思います。ユイナの服もペラペラで、服の値段がユイナ自身の口から告げられます。ユイナが脳内から捻り出したお店のチラシもペラペラで、ケロッペから世間的には無価値のものであると評されていました。進路希望調査票、七夕用の日めくりカウントダウンカレンダーなどもペラペラに含まれるでしょうか。
「誰も本気じゃない」「願いが叶うなんて思ってない」と、チラシ配りのときにキョウカがユイナにもらした七夕の短冊もペラペラなものでしたが、チョコの妹や弟の願いが書かれた短冊としても表現されています。ペラペラ=紙とすると、ヤングケアラー支援のパンフレットも同じペラペラだったのですが、チョコがお母さんやおばあちゃんに自分のことを伝えるきっかけとして機能していました。アズが一人で考えたお店巡りのプランもペラペラの紙に書かれていました。記憶が失われたときに白紙になってしまいますが、ユイナの母が商店街の腕相撲大会の案内と賞金を持って部屋を訪れる斜め上のペラペラの介入によって、その白紙が捨てられなかった経緯が描かれています。
一度は値段が付けられ、無価値と判断されたペラペラは、お店のチラシとして繰り返し配られたり、多くの人が願いを託したりする過程の中で、ただのペラペラとはいえないものになっていきました。アズの考えたプランの紙も、ペラペラなティッシを集めて作ったてるてる坊主(逆さに吊られていたのが、後に晴れることを願って吊るし直されたてるてる坊主)も、ユイナが撮影・現像したペラペラな一枚の写真がみんなを繋ぎ、たくさんの写真の集積によって円が形作られたように、一枚であっても複数の集積であっても、別の価値を帯びるものとして描かれていたと思います。
ペラペラと評されたユイナのフラットな眼差しは、様々なタイミングで差し挟まれています。みんなの様子をパシャパシャと写真に切り取るのもユイナの役割でした。フラットな眼差しは、評価を持ち込まない視点でもあり、外的要素よりその人の状況や思いそのものを見る視線でもあるのですが、相手を変えようとするよりも、相手が自分のタイミングで動き出せる余白としてのペラペラさ(どんなところにでも入り込む余地のあるペラペラさ)をユイナは体現していたと思います。
第6話で、ユイナがチョコのことをずっと見ているキョウカの様子に気付いたときも、キョウカはチョコの態度から非難する視線を向けていたのですが、ユイナは、キョウカがチョコの誕生日をどうお祝いしようか考えてソワソワしているのではないかと捉えていました。誕生日は、それ以前に明確に示されていたデータでした。
お店が節約モードに入ったとき、「お花屋さんにお花がなかったらお花屋さんじゃない」と、目に見える変化と当たり前の事実を述べるユイナに対しては、「もっと消えたものたくさんあるでしょ」とアズからツッコまれています。
第7話で、チョコがこれまでの生活と、生活の中で一人抱えていた思いを打ち明けて、「引くよね?」と聞いたときには、頑張っているチョコが、「頑張ってて偉いなとは思うけど」と応えています。一方で、アズが凛子の容姿を侮辱する言葉を投げつけたときに誰よりも怒ったのがユイナでした。相手を価値づけする言葉からは距離を置いたキャラクターとして描かれていたと思います。他者に見せたいと思う自分(なりたいと思う自分/見せたくないものは見せないと決める自分)を、尊重するのがユイナのキャラクターでもありました。
他者を数値化して判断しない眼差しは、人の願いを叶えることや、一人前になることが数値に置き換わった世界の中で、あらゆる対象に注がれていました。辛いという思いも、数値化されて比較されるものではないとユイナは言います。
そういう気持ちって、誰かと比べることじゃない。上も下もないよ。
個人のしんどさを数値化せずに受け止めることは、正確なアセスメントが前提となるケアの領域においても大切な考え方だったと思います。
濱島淑惠さんは、『社会福祉セミナー 2022年10月~2023年3月』(NHK出版、2022年)に収録された「ヤングケアラーの現状と課題」の章で、ヤングケアラーの定義を比較しながら同様のことを述べられていました。「日本ケアラー連盟」、「令和2年度 子ども・子育て支援推進調査研究事業の調査票(アンケート調査ご協力のお願いの用紙)」、「ヤングケアラー支援体制強化事業実施要綱」などに書かれた代表的な定義を比較し、ケアの程度・負の影響の有無を定義に加えるかどうかといった定義ごとの違いを確認しつつ、イギリスなどの定義をふまえると、ケアの程度・負の影響の有無まで絞り込む必要はないといった考えを書かれていました。ケアを必要とする家族を抱え、そのケアを担っている子どもはヤングケアラーとみなされ、その中には負の影響を受けている子どもも存在するという理解が適切であるとされています。
『子ども介護者 : ヤングケアラーの現実と社会の壁』(濱島淑惠 著、KADOKAWA、2021年)では、複数の定義を概観して、イギリスで2014年に成立した法律が、「最も広い範囲でヤングケアラーをとらえていると言える」と書かれています。
『ヤングケアラーを支える法律 : イギリスにおける展開と日本での応用可能性』(澁谷智子、2017年)によると、イギリスで2014年に成立した「2014 年子どもと家族に関する法律」について、ヤングケアラーの定義をあえて広く設定することで、各自治体における法律の運用がしやすくなっているという指摘がされています。
『ヤングケアラー : 介護を担う子ども・若者の現実』(澁谷智子 著、中央公論新社、2018年)では、著者の澁谷智子さんが、「ヤングケアラー」とはどの程度の作業量や頻度、負担を想定しているのか、またケアの担い手や受け手がどのように決まるのかが分からなくなり、「ヤングケアラー」という言葉との向き合い方に混乱されることもあった過去について書かれていました。子育てのように、より良いケアを求めて深く関わっていく構造は自ら制御できるのか、自発的に担った場合は自由意思とみなされ支援対象外になるのか、といった疑問も抱かれていました。2015年にイギリスでヤングケアラーや支援者と何度も接する中で、感情や生活に支障が生じているのであれば、アセスメントを経て、みんながヤングケアラーとして支援されているという現地の様子を見聞きして、それまでの疑問が解けていったと書かれていました。
第7話、第8話の背景には、ケアの重さが時間や回数だけでは測れず、その負担が単純な量的指標に置き換えられない⋯⋯ケアの実態を時間や作業量といった尺度だけで評価することでサポートする対象を狭めてしまわないというヤングケアラーの定義や支援への視点もふまえられていたのではないかと考えます。
キョウカの辛い気持ちだけではなく、チョコのしんどい気持ちも比べられないものとして捉えられていました。
チョコ「私よりもっと大変な家はいっぱいあるから」
ユイナ「え?」
チョコ「お母さん看護師だから話も色々聞くし、私なんか高校も行けてるし、全然⋯⋯」
ユイナ「他は関係ないよ! うちはチョコちゃんがしんどいかどうかの話をしてるの!」
「誰にも話せない」「ヤングケアラーと言われたくない」「何から話せばよいか分からない」「同世代に話してもきっと分かってもらえない」など、ケア当事者が語れない/語らない状況から、周囲が、当事者の負担の有無や、当事者にとってのケアの価値を一方的に判断することで、本人の思いが無視され、ますます語れない/語らない状況が生まれてしまう構造があります。ケアをしてきた時間が、就職をする際に評価されない現実も存在しています。どのような家庭の事情があってケアをし、ケアを通じてどのような思いを抱いていたか(今も抱き続けているか)の背景には、それぞれのストーリーがあることが『ヤングケアラーわたしの語り : 子どもや若者が経験した家族のケア・介護』(澁谷智子 編、生活書院、2020年)を読むとよく分かります。
チョコが家のことを話さない/話そうとする描写には、現実でケア当事者が直面する困難が反映されていたと思います。チョコがどう話し始めればよいか分からないでいるときに、魔法が言葉や認識の壁を越えていく表現が強く印象に残りました。個人が抱える感情の大きさが比較できないのと同様に、個人が抱く願いもまた、他者との間で優劣や大小をつけられるものではないというテーマも提示されていました。
ジャンルにおけるキャラクターが生きる社会の範囲を更新した本作の魔法の領域には、同様に社会の領域(市場経済の原理)が入り込みます。「生産」の前で見えなくなっていた「再生産」の視点を描く本作には、本来数値化され、「私」の領域に押し込まれるものではない、個の抱える辛さや悩みを規定する線引きに対して、キャラクターが社会の範囲を押し戻していく視点があったのではないかと考えます。労働の対価としてあったポイント化された魔法は、現実の社会の仕組み自体が容易に変わらないように、依然としてお店の中に組み込まれているのですが、その中で、他と比較されない個々の願いを同等に大切な思いとして受け止めて、願いを叶えるために使われていく魔法本来の価値は失われていなかったと思います。魔法と魔女見習いとが、願いだけでなく、願いのもとにある悩みや辛さ、他者への思いといった両極の感情を個が抱えるものと捉えて寄り添うことで、フィクションであってもその描写には"物語"としての強度も感じました。そういった強固な物語の上に、魔法や魔女見習いというフィクションの存在が表されていたように思います。
魔法があって魔女見習いたちが存在するのではなく、魔法を通じて叶える願いに寄り添う姿にこそ魔女見習いたちが描かれていました。だからこそ、「魔女はもういいかな」という台詞で、魔女見習いたちが魔女見習いでなくなったとしても、キャラクターの魅力は何一つ失われなかったと思います。「私」と「公」といった社会の範囲のみならず、「魔女見習い」と「魔法」といったジャンルの範囲に対しても、「私」のキャラクターが押し広げられていました。
誰かから魔法を与えられて(属性を付与されて)初めて、魔女見習いとして存在し始める、どこかその依存によって結ばれるイメージからは離れて、自立した存在としてキャラクターたちが捉えられた作品でした。
魔女見習いである主人公たちは、魔女見習いである以前に、一人の人間として存在していたと思います。魔法少女たちの存在を規定する「魔法」に対して、その範囲を問う眼差しも感じました。
変身前の姿の強調は、なりたい自分(見せたい自分、ありたい自分)との距離感を考える描写として繰り返し描かれていたと思います。魔女見習いになろうとする以前に、自分自身になろうとするユイナたちの姿が記憶に残りました。
⋯⋯⋯⋯
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『前橋ウィッチーズ』で印象的だったのが、「エモ」の多様さでしょうか。文脈によってはどんなものでも指示できそうな言葉が、あらゆるものに対して使われていたところが印象に残りました。現実ではあらゆるものに対して使われすぎている言葉なので、逆に何がエモなのか分からない状況が生まれている気がしていたのですが、その多様さ(広範囲の使われ方)を逆手にとって、エモの集積にエモの輪郭を描いていくのがすごかったです。エモって本来そういうものなのかもしれません。シャッター街がエモいには一瞬ヒヤリとしましたが⋯⋯
マイベストエモエモ写真を撮るために入店したユイナでしたが、ユイナのエモは様々な対象に向けられていました。鏡越しの自撮りや、魔女も、誰かに対するデレも、エモになります。ふたりだけのコスメトークもエモで、91年後に見る写真、友情爆誕の瞬間、マイがアカウントを通じて友達ができたことなどもエモでした。
ユイナの〇〇大作戦も、仲直りだったり、サプライズだったり、そもそも名付けに失敗した作戦名だったり、目的も内容もバラバラで、あまんじゅうの穴やペラペラといった他のモチーフと同様、特定のものを指示するものとしては描かれていませんでした。
人を外見で判断するテーマが描かれながらも、メイクの話題を共有したり、おしゃれしたり、優愛がミスコンに向かっていったり、なりたい自分になろうとする姿が肯定的に捉えられているのも良かったです。
世の中では、何が美しいとされるかはある程度決まっていて、私自身もそうした美の基準からは逃れられなくて、美しいものを美しいものとして受け取り続けることで、美しいものとそうでないものの区分けを再生産しているように感じます。また、美しいとされるものを他者と共有する・社会へ提示することで、美の基準を強化し、画一化を促進しているのではないかという不安もつきまといます。
美しくあること(私の場合、なりたい自分になること)は、本来数値化されないはずのものです。ただ、画一化が進むと、基準が生まれて、その基準によって上や下が決まるのであれば、美しくあることは、「なりたい自分」に近づくための個人的で自由な営みではなく、順位づけや評価の枠組みに組み込まれてしまいます。自己表現として始まった美の追求によって、本来多様であるはずの美のあり方がますます狭められてしまうのではないか⋯⋯そんな危うさも感じています。
色んな美の基準があって、それらが織りなすぼんやりとしたもののなかに、なりたい自分がある⋯⋯曖昧な輪郭に形づくられ、美しいとされなかったものも区分けに排除されるのではなく、後からでも輪郭の一部として加わることができる、そんな多様な価値観を包摂する基準があったら良いなと時々考えます。
ユイナが第12話で語っていたおまんじゅうの穴は、「なりたいもの」や「エモエモMAX」の形を指し示していたのですが、上に書いたような輪郭についても表しているように聞こえました。「エモ」を「美しさ」に置き換えるようにして鑑賞したので、より記憶に残ったように思います。
ユイナが第10話で語った過去は、ユイナ自身がどのような人間であるかが周りから一方的に評され、「ウザい」の一言で判断されてしまう過去でもあったのですが、みんなのなかでユイナという人間が、多様な輪郭を結び、忘れても忘れない存在(この言葉自体もユイナの台詞のリフレイン)として、その肖像が描かれていくストーリーに心を打たれました。
ユイナ自身が、他者の輪郭を正しく残そうとカメラ(眼差し)を向ける存在でもあったので、そう感じられたのかもしれません。一方的な視線で他者を価値付けせず、示そうとする姿に眼差しを向け続けるユイナと向き合って自分自身の輪郭を捉えたみんなの眼差しが重なり合った円の中に、ユイナ自身もまたその像を結んでいる気がしました。おまんじゅうの穴と、ユイナが重なるイメージです(ユイナがおまんじゅうの穴からみんなをのぞき込む第12話のシーン)
「エモエモパシャパシャうっさい!」とアズから疎ましがられる様子を描くのも本作の魅力で、丸いテーブルを囲んでみんなの視線が注がれるなか、おまんじゅうの穴についてユイナが語るのを、「とりあえず聞こうか」と、一定の距離感で見守っている関係性も良かったです。
ユイナの眼差しの先にみんなが自分という存在を結ぶ一方で、完璧なユイナ依存ではなく、みんながそれぞれ個として存在し、ユイナを見つめている⋯⋯そんな表現にも思えました。「疎ましさ」も、過去にユイナがクラスメイトから投げつけられた「疎ましさ」から解放されていくイメージを持ちました。正しく疎まれる、というと少し語弊がありそうですが⋯⋯多様さは、印象のまとまらなさ、固定化されない表現にも繋がっていて、第1話から個のキャラクターが強調された会話のまとまらなさも魅力でした。そのなかで、ふとした時に円に結ばれる(みんながまとまる)表現も際立っていたと思います。
先行作品が、魔法少女の題材で世界の仕組みそのものを書き換える大きなテーマを描いて以降、同じジャンルがこの先どのような世界を描いていくのか、私自身より一層注目するようになった気がします。
世界のルールそのものを書き換えるのではなく、社会と捉える範囲や、少女たちを規定する魔法自体の範囲を更新していく描き方もあるのかと、本作を観て心動かされました。「社会派」のワードが思い浮かんだのですが、その一言だとどうしても既存の社会(?)をそのまま指してしまう気がしたので、今回の記事では本作が「社会」と捉えたその範囲に着目して感想をメモしてみました。
また、社会(公)の範囲を問う「フェミニズム」や、願いを叶える「魔法」を行使する前後に描かれた、悩みや願いに寄り添おうとする変身前のキャラクターたちの姿にも着目しました。「魔法」自体の範囲を問い、魔法少女たちが「魔法」によって規定されない、自立した存在として、社会の中で互いの手を取り合っているイメージを抱いたので、そのあたり上手く伝わるメモになっていたら良いなと思います。
印象が先にあってそこを目指して書いてしまった気もしますし、楽曲の魅力について何も語れていないメモになってしまいましたが……(『Meteor Shower』の雨の表現がとても好き⋯⋯)何よりも五人の会話が魅力的だったので、会話が魅力的な作品についてどういうふうに感想を書けば良いのだろうと悩みました。
第4話のAパートでチョコが、良かれと思って会話のための会話を始めたシーンで、みんなが内容に共感を示すよりも個人個人の感想を述べてチョコの意見が宙に浮いたときの損をこうむってどんよりするチョコと、画面いっぱいに動きまくるユイナのやかましさが同じ引きの絵におさまる絶妙な感じとか、そういう面白会話の魅力について感想を書けたわけではないので、色んな人の良かったポイント、面白かった会話シーン、感じたことなど知れたら良いなと思いました。
参考、引用文献
飯野由里子、星加良司、西倉実季『「社会」を扱う新たなモード 「障害の社会モデル」の使い方』(生活書院、2022年)
澁谷智子『ヤングケアラーを支える法律 : イギリスにおける展開と日本での応用可能性』成蹊大学文学部紀要 / 成蹊大学文学部学会 編. (52):2017.3,p.1-21.
澁谷智子『ヤングケアラー : 介護を担う子ども・若者の現実』(中央公論新社、2018年)
澁谷智子 編『ヤングケアラーわたしの語り : 子どもや若者が経験した家族のケア・介護』(生活書院、2020年)
澁谷智子『ヤングケアラーってなんだろう』(筑摩書房、2022年)
デラルド・ウィン・スー『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』(マイクロアグレッション研究会 訳、明石書店、2020年)
西倉実季『「ルッキズム」概念の検討 : 外見にもとづく差別』和歌山大学教育学部紀要. 教育科学 / 和歌山大学教育学部紀要委員会 編. 71:2021.2,p.147-154.
濱島淑惠「ヤングケアラーの現状と課題」『社会福祉セミナー 2022年10月~2023年3月』(NHK出版、2022年)
濱島淑惠『子ども介護者 : ヤングケアラーの現実と社会の壁』(KADOKAWA、2021年)
藤嶋陽子「身体を受け入れること、身体を手放すこと。――ボディポジティブは誰のために、そして誰を突き放すか。」『現代思想2020年3月臨時増刊号 総特集=フェミニズムの現在』(青土社、2020年)
『日々は過ぎれど飯うまし』の感想を書きました。
『アポカリプスホテル』の感想も書いてます。




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