黄金の簒奪者たち:その135

 

 高橋五郎氏の『天皇の金塊』に登場する藤田なる怪人物は、大手銀行の頭取や日銀総裁と携帯で話をするような間柄で、「大室寅之祐は自分の曾祖父だ」と胸を張って嬉しそうに語るのだという。実際、藤田のもとにはイメルダ・マルコスがお忍びで融資の申込みに訪れ、”金塊”を担保にマネーを借りたいと言ってきたとある。藤田の仕事は、この世に存在しないカネを、存在するとみなすことで、「信用」という名の架空の担保をもとに大金を生み出すことであり、そうした高度なペテンを操る国際金融ブローカーの一人なのである。

 

 藤田の血脈は、岸信介、佐藤栄作、松岡洋右、共産党の宮本顕治など、左右双方の超名人たちを多数排出した山口県田布施に連なっており、曾祖父が明治天皇となる大室寅之祐だとして、鹿島曻が書いた明治天皇すり替え説についての本をいつも大事そうに抱えていたという。これは以前にも紹介した『裏切られた三人の天皇 — 明治維新の謎』のことだ。鹿島氏によれば、吉田松蔭は偽朝である北朝の天皇を倒し、正統である南朝の天皇を立てることによる南朝革命論を打ち立てており、南朝方の菊地家の末裔である西郷隆盛がその考えを聞き、薩長連合が誕生したという。そして岩倉具視と伊藤博文の策略によって北朝の孝明天皇と睦仁親王が殺され、長州に匿われていた南朝の末裔である大室寅之祐が睦仁親王とすり替えられ、明治天皇として即位したというものである。

 



 鹿島曻氏は、その証拠として、親王時代には病弱なイメージであったのに明治天皇になってからは馬術にも長けたたくましい姿に変わっていること、北朝の天皇である明治天皇が南朝正統論を発表したこと等を上げている。さらに社会党の前国会議員であった山田恥目が、国会で某自民党の議員から
「大室近祐と南朝天皇家のことを調べ直して、日本の歴史を明らかにしよう」という提案が提出されようとしたが、それを見た岸信介と佐藤栄作がその書類を握り潰して提案を揉み消した現場を見たとか、以前、大室家にある宮様が来て大室近祐に「近祐の孫を天皇家の養子にもらえないか、昭和天皇にも了解を得ている」と言ったが、その話を断った等具体的な話が書いてある。

 

 「南朝天皇」の話は過去にいくつも存在した。肝心なのは”我こそは南朝天皇”という物語が登場する背景である。藤田は、ソニーが開発したトリニトロン・カラーテレビのアメリカ市場対策の研究機関の”裏の責任者”を任されていたといい、なぜ彼は日銀や大手銀行の頭取に電話一本で指示できるような立場にいたのか。そうした疑問を解くカギは、藤田の血脈のルーツが山口県熊毛郡田布施、つまり「長州閥」にあったからだ。ペテン国家を支える元祖である長州閥の大物たちをベースに国際的な商売をしているのだから、国内外でのマネーゲームは成功するのだ。

 

 彼らにとって、「本当のことはどうでもいい」のである。大切なのは、その話は面白いか面白くないか、なのである。そして、南か北かという話も、結局は血筋だけの歴史問題ではないという現実を覆い隠すための都合の良い説なのである。彼らにとっての皇統の実態は、どこまでいっても分母は”カネ”なのである。これまでも書いてきたように、明治維新の”憂国の志士”とやらの連中の正体は、カネと権力と名誉を欲するだけの単なる田舎サムライでしかないのだ。

 

 

 彼らの末裔は、今も明治維新を「尊王攘夷運動の結果だ」などとするインチキな歴史を国民に押し付けている。「尊王攘夷」とは、天皇(王)を尊び、外国勢力を排除(攘夷)しようとする思想であり、その思想のもとに始まった幕末の政治運動である。江戸時代末期、黒船来航による対外危機と幕府への不満が高まる中で、天皇の権威を重んじる「尊王」と、排外主義的な「攘夷」が結びつき、長州や薩摩などが中心となって幕府を倒し、新しい政府を作る原動力となったもので、表向きこれを「王政復古」などと読んでいる。

 

 だが、冷静に考えると、どう考えても辻褄が合わないのである。幕末の元治元年(1864)7月19日未明、大軍を率いて上洛した長州の田舎サムライたちは、京都御所(禁門)に向けて総攻撃を開始した。世にいう「禁門の変」である。この時、御所を守ったのは、会津と薩摩を中心とする幕府軍である。激しい戦闘の結果、長州軍は撃退され、長州の尊王攘夷派は壊滅した。だが、その4年後に「尊王攘夷」だと言って、急ごしらえのインチキな錦の御旗のもとに、明治天皇を奉じて幕府と戦うのである。どう考えても辻褄が合わないのである。

 

 お分かりだろうか。日本の歴史上、天皇の住まいである京都御所を攻撃したのは長州軍だけなのである!! 天皇に刃を向けた国賊の連中が、どう考えても「尊王攘夷」など考えるはずなどないのだ。仮に孝明天皇と仲が悪く、孝明天皇の代わりに睦仁親王を擁立して戦うというのならば、まだ話は分かる。壬申の乱をはじめとする天皇家内部の権力闘争に武士が加勢するのならば、南北朝の時も同じように北朝を奉ずる足利尊氏と南朝の後醍醐天皇に加勢する軍勢が戦った。が、天皇に刃を向けた国賊は長州のみなのである。だからこそ長州のやることは一事が万事全てインチキなのである!!

 

「禁門の変」

 

 明治維新の志士たちとやらは、黒船に乗って日本にやって来る外国の人間たちを手玉に取ろうとして、逆に彼らの手練手管にやられてしまって、気がついたら150年も経ってしまったのである。不平等条約を解消するために岩倉使節団として海外に渡ったものの、逆に彼らの豪華な世界に魅せられて、まんまと彼らのやり方に乗せられてしまったのである。彼らは反省の言葉を述べるのは得意なのだが、だまされる時はあっけない。そして、現実お行為としては、矛盾したことを平気でやってのけている。ペテンの島国に住むからそうなるのだ。

 

 彼らの内実は天皇を尊敬しているわけではない。ただ天皇家を支配下においておくことこそが、彼らの権力を維持し、彼らに富をもたらすのである。戦前の日本で政治上もっとも重要な役割を演じたのは、宮中だった。そこでは、決して公開されることのない「秘密政治」が行われていたのである。宮中の政治を理解するには、宮中のなかの政治権力の関係を理解することが重要である。アメリカの日本研究家デイヴィッド・タイタスは、その構造を調べ上げ、『日本の天皇政治 宮中の役割の研究』として発表している。

 

 タイタスによれば、宮内省の中心機能は天皇家の財政運用のマネジメントであり、職員の約半数が皇室財産や財政の運用に携わっていたという。宮廷の財政運用に関する筆頭諮問機関は、明治24年(1891年)に創設された「帝室経済会議」であり、宮内大臣、内藏頭、帝室林野局長官によって構成されていた。この会議に天皇が臨席し、各種決済の決定が行われていた。同じ年に制定された皇室会計令では、通常会計の他に料地に関する特別会計、資本に関する御旨会計の三種の会計が設けられている。その審査は帝室会計審査局によって行われたが、「内廷費」や「機密費」などは審査もされなかった、とある。

 


 
「巨大な富を手中にする宮中官僚が、宮廷の資金を政治目的に使うことも考えられないことではなかった。宮内大臣が政治的野心の持ち主だったり、政府指導者に対する負い目があったり、宮内相のポストを維持するのに時の政府指導層の協力が必要だったりすれば、そうしたことはますますもってありうることだったと思われる」


 タイタスは、宮中がいかに政治の中心的な舞台となっていたかも書いている。政治の舞台といえば、通常は議会であるが、戦前の議会の権力は限られており、立法過程において議会の通過が必要であったが、結局、それを裁可するのは天皇であった。

 

 「宣戦だとか総理大臣任命だとかの重大決定は、つねに、責任者たる国務大臣、軍部の長、宮内顧問官らの手によって行われた上、帝国議会ではなく宮中において裁可されるのだった。誇張していえば、政府の政策を究極的に正当な国家政策にしたててくれるのは、玉璽(ぎょくじ)ではあっても帝国議会の通過ではなかったのである」

 

 このように、戦前の日本で政治上もっとも重要な役割を演じたのは宮中だったのである。戦前の宮内省というのは、特殊な組織だった。日本という国家のなかにあって、皇室制度は一種の小国家とも呼べる存在だったのだ。皇室制度は、独自の基本法である皇室典範という法律と、独自の評議機関である皇室会議を有していた。宮内省は日本国の政府官僚制がカバーする全ての分野のミニチュア組織であり、財政、外交、警察、教育、福祉などの諸機能を有していた。これはカトリックの総本山バチカン市国と同じ形態なのである!!
 

戦前の宮内省

 

 宮内省は、現在の宮内庁と同じ陽だと見るべきではない。戦前の宮内省は、他の省庁と比べても規模の大きい組織だったからだ。現在の宮内庁の人員は1000人くらいだが、昭和18年の宮内省の人員はなんと6000人に上っていた。また「親任官」という天皇が叙任し、辞令書に内閣総理大臣の副署を必要とした高級官史が9人もいた。その数を上回ったのは唯一、外務省のみだった。外務省が今も「伏魔殿」と言われる所以である。

 

 2025年12月15日付けの産経新聞で、宮内庁長官交代のニュースが報じられた。宮内庁の西村泰彦長官(70)が近く退任し後任に黒田武一郎次長(65)が就任する人事が固まったという。黒田氏は昭和57年、自治省(現総務省)入り。総務事務次官など経て令和5年、宮内庁次長に就任。西村長官のもと、秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さまの成年式などの実務にかかわった。警察庁出身の西村氏は警視総監、内閣危機管理監などを歴任。平成28年に宮内庁次長、代替わりを経て令和元年から長官を務め、新型コロナウイルス禍で皇室のご活動を支えたとあるが、警察庁とは薩摩閥であり、自治省とは長州閥である。

 

 今も昔も宮中を仕切るのは薩長閥なのである。問題は、それでも昔は神道祭祀を理解する天皇を守護する者が多くいたが、今や宮内庁は官僚たちの権力争いの場と化している。南北朝の話と同様、数少ない天皇陛下サイドの人間と、秋篠宮家側に付く人間が分かれ、裏では冷酷な駆け引きが行われている。女性週刊誌に登場する「宮内庁関係者の話」という形で、雅子妃をずっと虐めてきた勢力は、要は「玉」を秋篠宮にしたかった勢力のことで、最近は愛子様の人気が急上昇している背景にも官僚たちの駆け引きがあるのだ。

 

上段左:黒田武一郎次長 上段右:西村泰彦長官

 

 戦前の宮中の政治過程を理解するには、宮中の中の政治権力の関係を理解しないといけない。タイタスは宮内大臣、侍従長、侍従武官長、内大臣の四大宮中官に焦点をあてて分析している。宮内大臣とは「天皇の筆頭マネジャー」であり、侍従長とは「天皇の首席メッセンジャー」、侍従武官長は「天皇の首席軍事顧問」、内大臣は「天皇の首席政治顧問」としている。この表現は非常に的を得ていて分かりやすい。彼らこそが、日本の権力構造の中枢にいた者であり、天皇財閥すなわち「天皇家=宮内省」という複合体の取締役たちなのである。

 

 ハーバート・ビックスの『昭和天皇』には、宮中グループについて以下のように記されている。

 

 「昭和時代の初頭から、天皇を取り巻く少人数の視野の広い宮中グループは、まったく憲法の外にあって彼に助言し、援助してきた。それは伝統的な支配層と、明治以後新しく授爵され、富裕化した階層からなる特権階級の飛び地であり、日本の権力エリートの中核であった。日本社会の階級、権力、富のピラミッドの頂点にあって、宮中グループは、軍部を含む日本帝国のすべての支配階級の利益を代表していた。当時の西洋人観察者や、その後も型にはまったアカデミックな歴史家が言うように、彼ら宮中グループをまったく軍部と対立するものと見ることはできない」

 

 アメリカは戦前から宮中グループ、宮廷高官らの重要性を研究していた。戦時中の昭和17年(1942年)に、アジア研究者のケネス・コールグローブが書いた『日本国天皇をどうするか』という論文の中でも同様の指摘がなされている。

 

 「おもな高官は、内大臣、侍従長および宮内大臣である。これら高官は、天皇の側近進言者である。天皇が総理大臣および閣僚の任命について下問するのは内大臣である。これら高官すべてで天皇のまわりの特権グループを形成している。天皇への拝謁は、総理大臣の場合でさえ、彼らの承諾なしには許されない。このような理由から、過去においてしばしば青年将校が宮廷高官を襲ったのである。⋯⋯<中略>⋯⋯宮廷高官の制度は非民主的であり、それは、これらの高官が、代議制議会に対して何らの責任も負わず、天皇個人の守護者としての職務をつうじて日本の政治を実際上支配していることを意味する」

 

上段左:西園寺公望 上段真ん中:牧野伸顕 

下段左:近衛文麿 下段真ん中:木戸幸一

  

 『昭和戦前期の宮中勢力と政治』を書いた日本史研究者の茶谷誠一氏によれば、戦前の宮中の勢力図は、大正期以降、①西園寺公望時代(〜大正期)、②牧野伸顕グループ時代(昭和初期〜1930年代中期)、③木戸幸一・近衛文麿時代(1930年代中期〜終戦)という3つに区分できるという。明治から大正までは、明治維新の元老たちが日本の政治を支配していた。明治維新の志士たちの生き残りの連中の手中にあったのである。なかでも、大正期まで生き残った山縣有朋や松方正義、西園寺公望らが宮中を支配した。しかし、元老たちが相次いで亡くなり、権力の中枢は次第に天皇を中心とするグループに移っていったのである。

 

 山縣有朋と松方正義が死に、最後に残った元老が西園寺公望である。西園寺は京都生まれ尾公家である。フランス留学後には伊藤博文の腹心となり、第2次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣し外務大臣を兼任、第3次伊藤内閣でも文部大臣として入閣した。第4次伊藤内閣でも入閣し、伊藤博文の病気療養中は内閣総理大臣臨時代理を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めた。大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。

 

 「最後の元老」というのは、明治天皇が田布施出身の大室寅之祐であるということを知っていた最後の人という意味である。西園寺は長命で昭和15年まで生きるが、昭和初期からは自らは政治の中心となることはなく、牧野伸顕らの後見役を務めている。牧野伸顕は大久保利通の次男であり、岩倉使節団にも加わっている。牧野家に養子に入った人物で、吉田茂は娘婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。昭和初期の薩摩閥の筆頭であり、明治天皇の秘密を受け継いだ人物である。牧野は内大臣となった宮中官僚グループこそが、西園寺の後見のもと「英米協調外交」とは名ばかりの「日本株式会社」の海進出を推進したのである。

 

<つづく>

 

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