「穴」としての藤田ことね
「学園アイドルマスター」(学マス)の藤田ことねは、私の知る限り、アイマスシリーズの歴史上で最も倒錯した人間である。
シナリオ初期の彼女は、自己肯定感の低さを特徴としている一方で、自分の顔の可愛さには絶対の自信を持っている。
経済的な困窮というトラウマがあるがゆえに上昇志向が高いにも関わらず、自分を高く評価してくれる十王星南のことは(様々な理由をつけて)忌避する。その一方で、星南に対してはある種の幻想に裏打ちされた敬意を抱いている。
打算的でありながら同時に発作的・感情的であり、現実主義的でありながら理想主義的である。
ことねの抱えている問題は、「低い自己評価に見合わない実力を持っている」という、一見してごく単純な構造のようでありながら、それを解きほぐすのは並大抵のことではない。
アイマスシリーズのキャラクターは、「問題」と「解答」が自明には一対一に対応しない系の中でどのように生きるかを描いたモデルとして読むことができるというのが、本noteで繰り返し論じてきたことであった。
ことねの場合は、「問題」と「解答」が自明に対応しているように見える場合であっても、それを能動的に一致させることは、場合によっては恐ろしく困難であることが語られているのだ。
そこからはやはり、他のアイマスのキャラクターと同じく、人間が生きていく上で出会う困難とどう向き合っていくかのヒントを読み取ることが可能であろう。
何重もの倒錯を抱えていることねについて論じるのは並大抵の難易度ではないだろうが、無謀を承知で挑んでみようと思う。
さて、ことねを象徴する言葉を一つ挙げるとすれば何があるだろうか?
有力な候補として、まず「世界一かわいい」という、彼女の最初のソロ曲でも歌われている彼女自身の自意識が挙げられるだろう。
一方、その経済的なトラウマに根ざした彼女の行動様式を示す「守銭奴」という語も捨てがたい。
「世界一かわいい」と「守銭奴」が両立しているのは一見異様であるが、このようなギャップがあるキャラクター自体は珍しいものではないだろう。
あざといキャラ・腹黒キャラは古くから一定の人気がある。
ことねにおいて特徴的なのは、彼女が自分のそのあざとさ・腹黒さを、プロデューサーに全く隠そうとしていないことである。
ことねが周囲に愛想を振りまき媚びを売っているのは、やはり経済的なトラウマによって身についた一種の処世術であることが作中では語られている。
しかし、彼女はプロデューサーに対しては、「サバサバとした守銭奴」という裏の顔を知られた後でも、「かわいい」自分を見せ続ける。
ここに彼女の最大の倒錯がある。
彼女が媚びを売るのは、経済的な利益を得るための行動に他ならなかったにも関わらず、プロデューサーのことを信頼した証として、彼の前であえて「彼にかわいいと思われるような『私』」を見せ続けるという選択を行うのである。
これは、ことねの中では論理は成り立っていると思われる。
彼女は守銭奴ではあるが、不当に利益を得たり、利益を受けたにも関わらず相手に還元しなかったりすることを嫌う、経済的観点においては倫理的な人間である。
そんな自分が、「本来は利益を得るために他者に見せる『世界一かわいい私』を、信頼した人間には無償で見せる」ことが、信頼の証であるという理屈は成り立っている。
だが、プロデューサーに守銭奴としての顔をすでに見せてしまっている以上、彼女が見せることができるのは「世界一かわいい私」ではなく、「『世界一かわいい私』を演じる私」でしかありえない。
言い換えれば、プロデューサーが見せられているのは「世界一かわいい藤田ことね」という個物ではなく、「藤田ことねが『世界一かわいい私』を演じている過程」である。
ここには、アイマスシリーズでほぼ一貫して描かれてきた、「演じるとはどういうことか?」という大きな問いに関わる問題が潜んでいる。
この点を考えるため、多少の周り道をしてみよう。
現代日本のサブカルチャーのキャラクターを語る時、まずはその属性によって記号的に呼ぶというのが、一般的にも研究の世界でも取られてきた立場である。
『ツンデレ』『ヤンデレ』『地雷系』『あざとかわいい』など、あるキャラクターの在り方を記号的に表現する言葉は数多く生み出されている。
さて、私の専門分野であるHAIで近年見られるようになった研究手法の一つに、「サブカルチャーの中で魅力的な記号として扱われている概念を分析し、それをエージェントの設計論に応用する」というものがある。
その一つに、HAIシンポジウム2024で発表された、東京大学の栗根・植田による「表情から読み取る「あざとさ」に関する検討」(注1)がある。
「あざとい」という言葉は、元々はどちらかと言えば否定的・侮蔑的なニュアンスを持つものであったはずが、いつからか、「あざとかわいい」などの派生語に見られるように肯定的に使われるようになった。
この栗根らの研究では、、俳優に「自然な笑顔」の演技と「自分自身の印象をよくするための笑顔(すなわち、あざとい笑顔)」の演技をしてもらい、それぞれの動画を参加者に見てもらって印象を聞いている。
その結果、「あざとい笑顔」の「あざとさ」は動画を見た参加者には見抜かれるにも関わらず、「あざとい笑顔」は参加者に魅力を感じさせるということがわかった。
つまり、「あざとさ」は相手にバレても問題ないということである。「信用できない奴だ」と思われて魅力の評価が下がってもおかしくなさそうなのだが、そうはならなかった。なぜこのような結果になるのだろうか。
一つの仮説として、「自分自身のことをよく見せようと努力している人」に、私たちは好感を持つのではないかと考えられる。
たとえその狙いがバレバレであったとしても、「そこまでして自分を魅力的に見せようとしている」ということ自体に、私たちは好感を持つのではないか。
これは言い換えると、最終的に表面に出てくる「かわいい」という記号ではなく、「『かわいい私』を演じている」という過程を評価しているということになる。
キャラクターは表面的な記号とその背後にある過程、どちらで評価されているのか。
私は古川仁氏との共同研究で、この問題について考察した(注2)。
私たちは、記号的な側面が強いキャラクターを「古典主義的キャラクター」、過程の側面が強いキャラクターを「ロマン主義的キャラクター」と呼ぶことにした。
古典主義的キャラクターは、共時的であり、「どのようなキャラクターなのか」というプロフィールによって把握される。
ロマン主義的キャラクターは、通時的であり(つまり履歴が語られ)、「いかにして今のようなキャラクターになったのか」という形で描写される。
アイマスシリーズで言えば、「デレマス」は基本的に古典主義的キャラクターによるゲームである。多くのキャラクターが「〇〇アイドル」という記号的な名で呼ばれること、ストーリーにおいて時間経過や時系列の概念が比較的薄いこと、キャラクターのパーソナリティは基本的に他のキャラクターとのやり取りを通じて描かれることから、そのように言える。
一方「シャニマス」は基本的にロマン主義的キャラクターによるゲームである。ほとんどのキャラクターにおいて、その履歴(過去に経験したこと)が重要性を持っていること、ストーリーに極めて通時性が高いこと(STEPとパラコレの存在がその象徴である)、キャラクターのパーソナリティの多くは本人の独白で語られることなどがその根拠である。
とはいえ、古典主義的な側面とロマン主義的な側面は多くのキャラクターで共存しているものであり、あくまでもどちらの側面がより支配的かによってキャラクターの特徴を語ることができる。
例えば「ゆるキャラ」などは限りなく古典主義的側面が強いキャラクターであり、ストーリー漫画の登場人物の多くはロマン主義的側面が強いだろう。
このモデルをここまで述べてきた話に接続すれば、「古典主義的キャラクター」とは記号によって評価され、「ロマン主義的キャラクター」は過程によって評価される。
それでは、藤田ことねのような、「『記号を見せる過程』を見せている」キャラクターは、この枠組みの中でどのように考えるべきだろうか。
ことねは「世界一かわいい」という記号と、「守銭奴」という彼女の履歴に起因する過程とを両立させている。この2つは直観的には両立しえないものなので、この状態は郡司ペギオ幸夫の言うところの「肯定的アンチノミー」である(注3)。
郡司の天然知能モデルでは、この肯定的アンチノミーが否定的アンチノミーに脱色される時、すなわち両立していたはずのどちらも否定される時、論理空間自体が否定され、「穴」が生じると説く。そして、その穴が「外部」、すなわち私たちが予期していなかったものを召喚すると論じる(注4)。
アイドルマスターシリーズにおいて、「アイドル」という概念は、キャラクターたちにとって多くの場合「外部」として描かれている。アイドルになることで知りえなかった世界に初めてアクセスできるようになるキャラクターもいれば、目指していたアイドルになった瞬間に、それが自分が予期していたものとは全く違うものであったと気付くキャラクターもいる。
ことねが「世界一かわいい私」と歌うのは、当初は経済的な成功を得るためであり、この意味で「守銭奴」という過程と繋がっていた。しかし、「プロデューサーの前では損得勘定に関係なく『世界一かわいい私』を演じる」という選択をした時点で、彼女の論理空間は破綻する。
「世界一かわいい」が演技であり、かつ「守銭奴」というポーズすらも取らなくなったとすれば、果たして彼女は何者なのだろうか?
この事態をより深く考察するために、郡司のモデルに「演技」という概念を加えてみよう。
「世界一かわいい」という記号と、「守銭奴」という文脈がどちらも否定された時、その間には郡司の言う「穴」が生まれる。
ここで重要なのは、その否定が「演技」という形でなされていることだ。
ことねにとって「世界一かわいい私」は演技である。一方、経済的な合理性を欠いた行動を取った時点で、「守銭奴」というポーズも、あくまで彼女が周囲の世界に適応するために取らざるを得なかった演技として解釈される。
藤田ことねを特徴づけるのは、この穴を埋めることができるのは「アイドル」ではない、ということである。
なぜなら、彼女は「世界一かわいい」というアイドルとしての顔を、プロデューサーとの一対一の個別的な関係を結ぶために使ってしまっているからである。おまけに、その過程で「守銭奴」という自分のもう一つの顔まで否定してしまっている。
彼女は記号としての自分も過程としての自分も「演技」として否定し、かつアイドルであり続けている。ゆえに、彼女の「穴」はこの三項の間にぽっかりと空いたまま埋めることができない。
私がことねをアイマス史上で最も倒錯した人間だと考える最大の理由は、他に例を見ないこの構造を彼女が持っているからに他ならない。
では、藤田ことねとは何者か?
それはもはや、この論理空間に空いた「穴」そのものに他ならない、と言うしかないのではないだろうか?
これがいかに特異な事例かを示すために、学マスの他のアイドルについても論じておこう。
外見上はことね以上の倒錯構造を体現しているかに見えるのが姫崎莉波である。
彼女は年下であるプロデューサーに「お姉ちゃんと呼んでいいですか」ととんでもないことを言われながら、彼への好意ゆえにその役割に自らコミットしていく。
他者に求められる像にコミットすると同時に、彼女は「はみ出したい」と歌う。
彼女においては「お姉ちゃん」という演技としての記号と、内面とが激しく綱引きをしている。
ここにやはり穴が生まれるのであるが、莉波においてはその穴を埋める外部として「アイドル」が機能している。
アイドルとプロデューサーという関係になることを経由することでこそ、彼女は「はみ出せる」からだ。
一方で、「演じる」ことが多層構造になっているのが月村手毬である。
一見すると、彼女は徹底して演じることを拒否している、裏表がない人間である。
言葉は選べない。猫はかぶれない。
よって、彼女においては記号と過程との間に全く齟齬がないかのように当初は思える。
だが、実はそのような彼女の言動自体が、かつての盟友であった賀陽燐羽の演技であることが示唆される。
手毬は「演技ができない人間」という演技をしていたわけであるが、その演技を始めた過程自体が彼女の過去を形成しているため、やはり彼女においては記号(「クールすぎる」私)と過程とが齟齬なく接続されている。
彼女において「アイドル」は当初より明確な目標として認識されていた概念であり、外部ではない(今のところは)。
他者に与えられた役割にコミットしながら「はみ出したい」と歌う。
「演じることができない」ことを演じる。
学マスで描かれているのは、人間が生きている限りどうしようもなく抱え込んでしまう矛盾である。
莉波はその矛盾ゆえにアイドルになり得、手毬は矛盾を抱えたまま「アイドル」という目標に疾走する。
そして、ことねにおいては、幾重にも重ねた矛盾を宙づりにしたまま、「穴」として生きる在り方が描かれている。
これが意味することは、ステージの上で「世界一かわいい私」として歌うことも、Re;IRISのリーダーとして他の二人に振り回されることも、プロデューサーの前で「恋する乙女」になることも、彼女はすべて飲み込んで生きていけるだろうということである。
特定の属性や言動、もしくはそれらの記述の束で、彼女を指し示すことはできない。
注1 粟根 愛華・植田 一博 「表情から読み取る「あざとさ」に関する検討」、HAIシンポジウム2024
注2 松井哲也、古川仁「スマートフォンゲームアプリの二次創作量を規定する因子」、デジタルゲーム学研究= Journal of digital games research/日本デジタルゲーム学会 編 17.1 : pp33-38、2024年
注3 郡司ペギオ幸夫「創造性はどこからやってくるか ――天然表現の世界」 ちくま新書、2023年
注4 郡司ペギオ幸夫「天然知能と「穴」としての身体」https://distance.media/article/20231012000075/(2025年12月23日閲覧)


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