伊藤詩織さんの映画をめぐる会見について、弁護士として考えたこと

伊藤詩織さんのドキュメンタリー映画『Black Box Diaries』は、性暴力の被害を受けた当事者が自らの言葉と映像で、捜査・司法・社会の「ブラックボックス」を記録した作品で、海外では高く評価されています。 ところが日本では、映像や音声の使用許諾をめぐる論争が前面に出て、公開が長くままならない状態が続き、2025年12月12日に公開がはじまりました。伊藤さんにとっては性被害の痛みに別の形の苦しみが重ねられているようにも見えます

( 本記事は、以前にこちらのFacebook投稿で発信した内容をもとに
再構成しています。
水俣病患者の支援に従事してきたアイリーンスミスさんの記事も、
本件との関連でご一読をおすすめします。)

今般、日本公開を機に、12月15日には日本外国特派員協会(FCCJ)で試写会と記者会見が開かれ、修正版の説明や経緯が語られました。終盤には東京新聞の望月衣塑子記者との質疑が衝突する場面もあり、議論はいっそう注目を集めています。  こうした状況を前提に、以下では、私が弁護士として感じた違和感を整理してみます。

私はもともとの事件の詳細を追えていません。映画も見れてません。報道や会見の断片で見聞きしている部分が多い。それでも、元代理人弁護士が会見で「恩を仇で返す」といった趣旨の言葉が発せられたのを視聴したとき、引っかかりが残りました。引っかかりの中心は、伊藤さんの行為の是非というより、弁護士が公に依頼者(元依頼者)を糾弾する構図です。

心情には共感できるが、法律論をふりかざして公開非難する方法は不適切

もちろん、弁護士の心情としては分かります。弁護士と依頼者との間に約束ごとがあった、なのにそれが破られたとなれば、激しい怒りや落胆もあるでしょう。長く伴走して、時間も労力も注いだ事件であればなおさらです。ご本人たち同士でなければわからない理不尽さもあるでしょう。依頼者に腹が立つ。裏切られたと感じる。弁護士も人間ですから、そこまでは共感できます。としても、それでもなお、弁護士はそこで踏みとどまらないといけないことがある。
なぜなら弁護士は、依頼者のため社会のために法律の力を使うからこそ、この立場を許されているからです。法律は、正当な救済のために機能する一方で、使い方によっては、相手を黙らせたり、萎縮させたり、孤立させたりもできてしまう。
また、弁護士は、業務上、さまざまな情報を得ることを許されますが、それも同じです。依頼者の最善の利益のために使うという約束のもとで共有されてきた、極めてプライバシー性の高い事柄を取り扱っています。この点について、常に意識を持ちつづけ自問自答することが弁護士には求められるんだと思います。

弁護士が抱いた不満や抗議の思いは、非公開で、弁護士・依頼者間での折衝を通じて解決を模索すべきものだったように見受けられます。紛議調停といった手続も弁護士会には準備されています。法律論をふりかざした公開の場での糾弾という手段を用いるべきではなかったと、私は考えています。
その動機が弁護士本人の中で「公益」と「怒り」が混在して見えにくくなっているなら、なおさら危険です。法律は、弁護士の気持ちをぶつけるための道具ではありません。弁護士の言葉が「法の顔」をして響くからこそ、発信の方法と場面は慎重であるべきだと思います。

弁護士の言葉はなぜ暴力性を帯びるのか

弁護士の言葉は「法律論の装い」をまとった瞬間、一気に力を帯びます。聞き手には「法的にアウトなのだろう」「もう結論が出たのだろう」という印象が残る。依頼者である作家の反論や発言を封じ、もしくは命を削って取り組んできた制作活動を止める方向に働くわけですから、そこには暴力性が混じります。例えば国や大きな権力から依頼者を守るためには、この種の暴力性が必要なときはあるわけです。しかし、弁護士はその暴力性に無自覚でいてはいけない。一般にジャーナリストや評論家が外野として意見を述べることはあります。聞き手も「一つの見方」として距離を取り、ある程度は割り引いて聞ける。でも実際に事件を担当した弁護士が同じ語り口で出てくるとなると、全然話が違ってきます。
「法律家が言うのだから正しそう」という外観で、「対話」のまえに「制裁」を作用させてしまいかねないのです。

弁護士が法の暴力性を行使できる条件

弁護士が、法律の暴力性を自認しながら行使することが許容される場合というのは、具体的な依頼者があって委任を受けて、その依頼者の最善の利益のため必要最小限で行う、ということだと思います。具体的な依頼者からの個別具体的な事情の聞き取りがあってこその説得性を備えているか、というところが重要です。訴えが提起されたときは法廷という土俵が設定されて、相手方からも十二分に反論ができるという場面設定があるのが通常です。そのようななかでも、あえて弁護士が依頼者のために発言をしていると言う言葉の重み。裁判になる前の場面でも、これに類した舞台装置の設定が必要と考えるべきです。
弁護士が「強い言葉」を社会に出すときは、実際の依頼者と、その依頼者の個別具体的な事情、公正な反論可能性という条件が、最低限そろっていないと危ない。それが欠けたままの発信は、たとえ動機が善意でも、結果として強すぎる「法律による圧」を外界に放つことになりかねません。

「法の土俵」で、そして「今」この時点で説明責任を問う不当性

 ~時間の経過に伴う社会変化の可能性を視野にいれているか

ドキュメンタリー作家の仕事は、いつも安全な正解の上に立っているわけではありません。作品の公開は、ときに「ぎりぎりの判断」になります。公開することで誰かが傷つくかもしれない。法的権利どころか人権すらをも侵害するかもしれない。しかし、反対に、公開しないことで社会が大切なものを見落とし続け、その間、次々と新たな被害者が生まれて傷つくかもしれない。公開しても、しなくとも、どちらにも責任が発生する。責任というのは、法的なものもあるかもしれませんが、それはおそらくほんの一部であり、おそらくもっと大きな責任、社会に負っている特別な責任をひしひしと感じて、日々、ひた走っておられるのではないでしょうか。

そして、その責任がなんなのかというところは、作品の公開前の段階では確定できない類のもののはずです。作品を見ないことには評価ができないものもあるでしょう。公開直後でも判断がつかないことが多いかもしれません。作品内に登場した方との間に公開によって何かしら問題が生じた場合は、作家が公開後にどれだけ事後的説明を尽くすか、どれだけ関係者への影響を減らす努力をするか、その後の時間の経過のなかで評価が変わっていくことがあるからです。作家は、それを分かった上で、批判も非難も引き受ける覚悟で勝負をかけることがある。
公開前に「白か黒か」の二択へ追い込まれれば、作品内に登場することに明確な許諾という形では答えられない人も出てくるでしょう。公開後に社会の反応を見て、はじめて「結果として、あの形で、あの作品が出て良かった」と感じるようになる展開だって、現実には起こり得ます。見切り発車が常に正しいという話ではありません。でも、「見切り発車が絶対に許されない」とも言い切れない。最終的には、作家が自分の名前で責任を背負う領域が残ります。
だからこそ、今回の問題は、原則として、外野の弁護士が干渉をすることなく、公開するかどうかは作家のプロフェッショナルな判断に委ねるべきであったと思います。トラブルが起きるのであれば、当事者の間で私的に、法律の介入なくジャーナリズムの土俵で扱われるべき事柄であったはずだと私は思います。

(参考記事  もちろん現時点において、明確に拒絶意思を表明しておられる方々がいらっしゃることに盲目であってはなりません。作家の責任で国内版で修正対応がされたということを念頭に、作家の対応はこれで十分なのか、社会的に議論していく対象ではありつづけます。願わくば、利害関係を持つ元代理人弁護士らの干渉のないところで。。)


司法判断の時的な硬直性 ~基準時の設定を「今すぐ」に強要しがちな司法の土俵

ひとつ、法律という別世界の物差しが苦手とするのは、時の経過とともに変化する動的要素が伴う評価です。裁判のルールでは口頭弁論終結時という基準時を設定してタイムスライスの法的評価がくだされるわけで、もしかして、今回の弁護士たちも、なんだかその枠組みにとらわれてしまってはいないでしょうか。
ジャーナリズムの世界では、裁判にもちこまれる状況にならなければ、評価の基準時のようなものが意識されるわけでもないと思います。そもそも判断を下すための明確な土俵が設定されるものではない。作品と対話しながら社会は変動し、作家と当事者との関係性もまた変動していく。作品のある世界のなかで時間はとうとうと流れていく。こうした当事者間の関係性の変化、社会的な変化・貢献が続くなかで、作家はそのときどきの責任を考えつづけ悩みつづけて行動していくわけです。
裁判という手続ではそんなこと言ってられません。無理やり基準時を設けて、その時点までに主張と反論を尽くさせ、その時点での社会の価値規範で一定の判断を下さざるを得ない仕組みとして整備されています。この「裁判という土俵」に乗せられることを弁護士は当然視してはいけません。「今この時点で白黒つけろ」と説明責任を強要し迫っていくことは、やはり暴力的です。そして、このような司法の強引さが、結局のところ本来あるべき判断を誤る危険があると思います。

もちろん、当事者——とりわけ被害を受けた当事者たち——が、そうした土俵設定を求め、法的救済を望むのであれば話は別です。今、現時点での権利侵害性についての評価と、説明責任が求められるでしょう。そして、代理人弁護士に委任をして公の場での発信を望むのであれば、そのときは法律家として説得的な記者発表に取り組むことは弁護士として何の問題もありません。今回の件は、そのような場面設定が備わっていないままのように見受けられます。

委任のない「第三者の利害」を、弁護士が代弁し始める危うさ

今回、私が気になるのは、弁護士が、委任を受けていないはずの第三者の利害関係を、声高に主張し始めている構図です。なぜ弁護士が、依頼者でもない第三者の利害を声高に主張して、正義を論じているのか。そこが問題なのです。
もちろん弁護士自身が約束違反をされてしまったこと。それについて傷ついていること、恩をあだで返されたと感じていること。それを自身の権利として抗議することまでは、当然のことではあります。では、その抗議の方法として、仮にこの弁護士自身の権利だけの問題提起であったならば、公開記者会見での糾弾まで正当化できていたでしょうか。公開会見の暴力性が正当化しえただろうか。そこまで事態は成熟し、あるいはひとたび公開されれば回復不能などと逼迫していたと言えるのでしょうか。例えば、公開は許容したうえで、作品内の不当な切り抜きや文脈の脱落については、事後的に、それこそ記者会見などで弁護士が発信したならば、かなりの部分、弁護士の名誉回復・業務に対する信頼回復は可能であったのではないか、と思うわけです。
公開前の記者会見での糾弾が、弁護士としてやり過ぎだと受け止められてしまえば、弁護士固有の個人的な感情論で報復目的であるととられかねません。他方、自身の権利侵害と並列させる形で、複数の第三者の権利侵害を指摘することができれば、弁護士に対するその種の批判を避けるために有効でしょう。そうすることで、全体としての問題提起についての客観性をまとうことができます。

ホテル防犯ビデオをめぐる誓約書の評価

今回、弁護士自身の署名もあるホテルとの誓約書への違反についての問題提起もありました。しかし、これも公開の記者会見で上映そのものにストップをかけてしまうには、やはり弱いと感じます。
確かに、何年か前に、誓約書が作成されて署名・押印された時点の判断では、防犯ビデオ提供の事実はホテルにとって明らかに「知られたくないこと」「外部に公表されたくないこと」だったかもしれません。しかし、今となっては、性被害の可視化や被害者救済の議論を促す一因となり、社会に貢献したと評価され得る側面もあります。よくやった、とホテルに対する肯定的な評価や、企業イメージの向上につながる余地さえ十分にあるでしょう。国際化する日本社会において、国際スタンダードに足並みをそろえていく方向でホテル業界全体が取り組みをはじめる可能性だってあります。公開後、映画自体の評価が高まれば高まるほど、過去にこうした誓約書を作って公開を縛ろうとしたこと自体が、将来的には不名誉なことへと変化していく可能性すらある。ホテルとしてはむしろ公にされたくない事実へと変わっていく可能性すらもあるわけです。
つまり、コンセンサスはない。
法律の土俵で立証責任の支配のもとでの判断場面ではないことに注意喚起したいと思います。映画の公表によって、性被害や被害者の救済の枠組みが、今後何年にもわたって大きく変動し得る。その見込みを織り込んだうえで、作家が自分の責任で、防犯ビデオ動画の公開へと踏み切っている場面です。

その作家の覚悟に対して、弁護士は、ジャーナリズムに関して作家を凌駕する専門性を持っているわけでもありません。将来の社会の動きに対して特段の洞察や説得力を備えているわけでもありません。むしろ「過去の規範の体現者」とさえいうべき存在です。そのようなところになぜ弁護士が割って入っていって、法の暴力性を行使できるのか。作家の判断を尊重すべきではないか。その責任と覚悟と生き様を尊重すべきではないか。その作家が、元依頼者であれば、元依頼者の切なる願いにそって法的見地から、最善の利益を実現すべく伴走すべきではないか。

こう書いてみて、弁護士と言うのは、本当に辛い稼業だなぁと自分でも思うわけです。仮に恩を仇で返されることが予想されていたとしても、それでも依頼者の最大の利益のために伴走する。そういう職業であるからこそ、さまざまな場面で特別な説得力を感じてもらえるのかもしれません。

映像や音声を公開されるであろう人々が沈黙しているとき、あるいは連絡がつかないとき、その沈黙の意味は一つではありません。拒絶とは限らない。心の中では公開を望んでいるかもしれない。判断がつかずに、今は言えないだけかもしれない。程度も事情も人によって違う時期によっても変動していくことも見込まれます。そのときどきの社会の動きによっても移ろっていくはずです。
にもかかわらず、強い影響力を持つ弁護士が「きっとあの人たちは望んでいない」「将来のために止めるべきだ」「人権侵害だ」と言い切ると、それは聞き手に対しては、当事者の意思であるかのように独り歩きします。当事者自身の心持ちにも直接影響してしまうかもしれない。繊細な心境を作家が慎重に綱渡りでつないできた関係性を、弁護士の発信が、ぶち壊しにしてしまったのかもしれない。「法律家の説得性」をまとって届いてしまうというところが、一般的な有識者や報道機関の発信とは決定的に違うところです。外野の人が言う分には、聞く側もある程度予防線を張って、まゆつばで聞ける部分もあります。場外の野次馬として距離を取れるわけです。でも弁護士が法的な正しさをまとって発言をし始めると、自由で対等な議論にならない可能性があります。

弁護士に求められる自制

本来は専門外であったはずのドキュメンタリー作家の領域に、今回は、弁護士が「法律」を掲げて割って入ってきてしまった。本件は、そういうことではないでしょうか。ジャーナリズムについては素人である弁護士が、謙虚さを忘れ、法律という別世界の物差しをあてて絶対的な正義であるかのようにふるまう。自分の正しさを確信した瞬間ほど、視野が狭くなるのは、弁護士の世界でも同じです。そうなると、本人にとっては「正義」でも、客観的には私的「制裁」として作用する事態が起きてしまう。私たち弁護士は常に、自分に問い直す必要があると思います。

  • 私は今、誰の依頼で話しているのか

  • その依頼者の最善の利益のために、相手方にとって無用に過大な不利益を課す主張になっているか

  • 事後であっても、相手方が対等に反論できる土俵はあるのか

  • 自身の私的な感情(怒り・屈辱・面子)が、公益の顔をして混じっていないか

最後に:この文章を書く私の立場について

ここまで書いてみて、私自身もまた、依頼者を持たない外野の立場で論じているのだと改めて自覚しています。私にも「弁護士」という肩書がある以上、この文章が「法律的に正しそうだ」という雰囲気を帯びてしまう危うさは、私が批判の対象とした元代理人たちと同じ構造の中にあります。
本稿は、私が断片的に見聞きした公表情報の範囲で、弁護士としての振る舞いについて考えをまとめたものにとどまります。私は本件のいかなる当事者の代理人ではなく、個別事情やそれぞれ方の心情を把握して事実認定を行える立場にはありませんので、読者のみなさんには、あくまで外野からの一意見としてお読みいただければ幸いです。もし事実関係の誤り等にお気づきの点があれば、ご指摘いただけると助かります。これ以上の混乱に寄与しないためにも、必要に応じて訂正します。


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