Vol.029|常に今が最真で、最善で、最美
『MONOLOGUE』は、エッセイのようでいてコラムのようでもある、そんな型に囚われない備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を、毎回3本まとめてお届けするマガジンです。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。
観念世界を生き抜いた哲学者
前回の『MONOLOGUE』Vol.28では、全体を通して観念世界にひきこもって一歩も外に出ようとしないことの愚かさを訴えかけた次第で。
ところで、実は前回書こうとしたものの、構成上しっくりこなかったので、泣く泣く見送った話がある。実に示唆に富むもので、ぜひともしておきたい話の一つなので、補足がてら今回書いておこうと思う。
実存主義の父こと哲学者キルケゴール、彼はレギーネという女性と婚約したものの、一方的にそれを破棄している。といっても、彼女を愛せなくなったわけではない。愛していたものの、一方的に別れを告げたのである。
なぜにそのような発想に至るのかというと、まずキルケゴール自身が常に抑うつ状態にあるような人物で、自身の人生を呪われたものとして捉えたいたことが挙げられる。つまり彼女を自らの呪われた生に巻き込むわけにはいかないと考えたわけだ。
こうした発想はわれわれ現代日本人にとって、共感はできなかったとしても、少なくとも理解はできるんじゃないだろうか。ありふれた発想とまでは言わないまでも、それほど珍しい発想でもない。現に精神疾患や発達障害と向き合う複数の知人から、同じような発想を見聞きしたこともある。昨今、何かと勢いを増している反出生主義も、発想そのものには通底するものがあるように思う。
キルケゴールがきわめて独特で、およそ現代日本人には理解されないだろうと思われるのはここからだ。
キルケゴール哲学の欠かせない概念の一つに〝単独者〟がある。キルケゴールいわく、これは「神の前にただ一人で立つ者」を指しており、結婚へと向かう一般者とは異なった宿命を背負った者のことである。キルケゴールはそうした一般者の生を否定はしないが、自身は一般者ではなく、あくまで単独者であると考えていた。
レギーネとの婚約破棄以前にもその思想の萌芽は見られることから、この一件によって単独者の概念がより確立されたと見なすべきだろう。つまり自身が単独者であると考えたことによって、彼はレギーネに別れを告げたわけだ。神の前にただ一人で立つ宿命を背負っている以上、彼女とこのまま一緒にいるわけにはいかないのだと。
そして、こうした一連の動きは、キルケゴールが現実世界への適応を捨て去り、観念世界に住まうことを選択したことを強く示唆している。
キルケゴールという人物の生涯をつぶさに追いかければ追いかけるほどに、「ああ、この人は観念世界の住人として人生を生き抜いた人なんだな」と思わされる。それゆえに彼の人生は絶えず陰鬱に満ち満ちていた。社会的にも孤立し、嘲笑と中傷にまみれ、一人孤独に死んでいくこととなった。とてもじゃないが、他者から憧れられるような生ではなかった。
観念世界の住人は、みな大なり小なり似たような運命を辿る。誰にも理解されず、それゆえ誰からも相手にされることなく、前回も引用したヒュームの言葉を借りるならば「思弁的な憂鬱」「終わることのない不確実さ」「世間の冷たい応対」によって罰せられる。歴史にその名を刻んだキルケゴールとて、それは例外ではなかった。
ただし、キルケゴールが手前勝手な観念世界にひきこもる凡百の人間と違ったのは、誰よりも真理に誠実であったことだ。愚直に神を追い求め続けた。まさしく単独者としての生をまっとうしたのである。そうした半ば狂気的な生き方は、観念世界の質をかぎりなく高め、結果として観念世界を生き抜いたにもかかわらず、実存主義の父とまで呼ばれるに至ったのである。
前回も言ったように、自分は基本的に観念世界の住人を嫌悪しており、その生き方は根本的にズレていると考えているが、さすがにここまで突き抜けられると、やはり有無を言わさぬ説得力を感じるし、敬意を抱かざるをえないものがある。
<我―それ>と<我―汝>
宗教哲学者マルティン・ブーバーは、そんなキルケゴールに対して「彼は単独者としてではなく、妻レギーネとの関係を通して神と出会うべきだった」と批判している。ブーバーは単独者の概念を高く評価しつつも、はっきりとその限界を指摘する。
ブーバーによるキルケゴール批判の意図はどこにあったのだろうか。これを理解するためには、ブーバー哲学をひも解かなければならない。
ブーバーによれば、人間の世界の捉え方には二つの根本的態度があるという。一つは<我―それ>の関係で、これは対象をモノとして捉える態度のことだ。
世はまさに大SNS時代であるからして、フォロワー数を例にとればわかりやすいだろう。フォロワー数が多いから自分は優れた人間なのだと痛々しい勘違いをして他者に尊大に振る舞ったり、目の前の人間がフォロワー数が多いからといって媚びへつらったりするのは、まさしく<我―それ>の関係である。人間がフォロワー数という数字に還元され、モノとして捉えられているからだ。
就活や婚活などもそう。そこで求められるのは容姿・学歴・収入などの、とどのつまりスペックである。スペックによって比較しているということは、すなわちモノ扱いしていることに他ならない。なんだか小綺麗にパッケージングして必死に誤魔化してはいるものの、やっていることは家電を買う際のスペック比較とそう変わらない。
仕事の場においても、<我―それ>の関係はいくらでも見出すことができる。たとえばクライアントへの態度を契約金額によって変化させたり、結果をだせない人に対して「使えないやつ」の烙印を押したりなどがそうだ。目の前の人間を肩書・数字・属性に還元しようとするのは、すべて<我―それ>の関係である。
このようにわれわれが生きるこの現代社会は、<我―それ>の関係であふれかえっている。そしてブーバーは<我―それ>の関係は必要不可欠であるとしつつも、それだけに閉じてしまうと人間性が失われてしまうと喝破する。
フォロワー数に執着する人や、就活や婚活に向き合う人たちの多くが精神を病んでしまうのは、人間性が失われていくからだ。人はモノ扱いされ続けると、遅かれ早かれ病むようにできている。これはモノ扱いする者も同様で、<我―それ>の関係とは、互いが互いにモノ扱いし、またモノ扱いされる関係なのである。
もう一つの根本的態度は<我―汝>で、これは対象を全存在として受け止めて向き合う態度のことだ。目の前の人を肩書・数字・属性などに還元せずに、一人の人間としてその全存在を受け止め、条件抜きで真正面から向き合う態度のことである。この<我―汝>の関係を築けているときにこそ、われわれはもっとも人間らしくあれるのだ。
そして、<我―汝>の関係における究極形は、神との関係であるとブーバーは述べる。ブーバーは神を<永遠の汝>と表現し、神との関係こそが唯一失われることのない普遍的な<我―汝>の関係であると述べる。
この神との関係である究極形としての<我―汝>を、単独者として追い求めたのがキルケゴールであった。けれども、神との関係としての<我―汝>と、人間関係としての<我―汝>は、決して競合するようなものではなく、むしろ人間関係としての<我―汝>の只中にこそ、われわれは神と出会うことができるのだとブーバーはそう考えた。それゆえ「彼は単独者としてではなく、妻レギーネとの関係を通して神と出会うべきだった」の批判につながるのである。
ブーバー哲学は「対話の哲学」と呼ばれ、彼自身も対話の実践者であった。思想そのものが生き方に反映されており、同時代の人たちからは「彼自身が<我―汝>の関係を体現していた」と評されるほどで、意見には反対されることはあっても、人格そのものを嫌われることは極めて少なく、広く尊敬され愛される人格者であった。
ブーバーという人は、つくづくバランスのとれた人だなと感じる。前回、観念世界を主として現実世界を従えよと、主従関係の大切さを訴えかえたわけだけど、それを地でいくような哲学者である。われわれが生きるこの現実世界を決しておろそかにせず、それでいてあるべき観念世界への憧憬を失わなかった。まさに理想的なバランスである。
ブーバーによる「対話の哲学」は、誰も彼もが<我―それ>の関係に生きている現代社会を生き抜く上で、大きなヒントになると思われるので、興味があればぜひ著作に触れてみてほしい。
常に今が最真で、最善で、最美
ここまで若干とっつきにくいであろう小難しいテーマが続いたので、箸休めに最近感じていることを。
過去に書いた本マガジン『MONOLOGUE』の記事を読み返していると、あまりにその出来栄えが悪すぎて、今すぐにすべて削除したい衝動に駆られてしまう。
一応シリーズものとしてナンバリングしているのもあるし、残しておけばもしかするとどこかの誰かに役立つかもしれないの思いで、ぎりぎり踏みとどまってはいるものの、本音をいえば今すぐすべて削除してしまいたい。残しておくにしても、せいぜい直近に書いた5記事程度だけを公開しておきたい。
新たにまた一から説明するのが面倒で、つい過去記事を引用してしまうが、本当はこれもあまりやりたくはない。出来栄えが悪いとわかっている記事をわざわざ引用したくはない。けれども、毎回のように丁寧に説明していると、とてもじゃないが更新が追っつかない。
現にどうしても更新が間に合わず、さらに過去に書いた記事をリライトして公開したことが何度かある。今はもうほぼそのストックも切れているので、すべて今の自分が書いているが、過去にはそうして更新を乗り切ったことが何度かある。
悲しきかな、凡人は締め切りを設定せねばすぐに筆を折ってしまうが、締め切りが設定されると期限に追われてしまう。
いや、わかっている。これでも文筆歴は無駄に長いので、誰よりも自分自身がよくわかっている。おそらく誰もそんなことは気にしていない。気にしているのは自分だけだ。そうはいっても、どの記事がリライトされて公開された記事かなんて、誰にもわかりはしないだろう。
しかしながら、自分だけはそれがよくわかっている。よくわかっているがゆえに、その出来栄えの悪さに、さらにはその出来栄えの悪い記事が公開されているという事実に、耐えがたい羞恥心のようなものが湧き上がってくる。
ただ、一方でそれは救いでもある。それだけ成長している証でもあるのだから。常に今が最真で、最善で、最美でなければ、そうした内省には至らないはずなのだ。
本マガジン『MONOLOGUE』では、手を変え品を変え〝らしさ〟の重要性を訴えかけているが、その意味ではより今のほうが〝らしさ〟が発揮されるようになっているからこそ、過去の自分の書いた文章がらしくないと感じるわけだ。らしくないと感じるからこそ、不自然な振る舞いをしている自分に対して、羞恥心をおぼえるのである。
その証拠に数年前に書いた文章なんかを読み返すと、まるで別人が書いたかのよう。コアとなるテーマやスタンスには、たしかに通底するものはあるものの、あまりに稚拙で、あまりに未熟で、あまりに幼稚。黒歴史とはまさにこのことだ。数カ月前に書いた記事を読み返すのですら苦痛なのに、数年前に書いた記事となるともはや拷問である。
それでも、それでもやっていくしかない。われわれ人間はどこまでいっても不完全で、完全へと向かうことを宿命づけられているが、完全へと到達することは未来永劫ないのだから。もっといえば不完全が完全へと向かい続けるその過程にこそ、完全性が宿るのだから。


