◆高円宮憲仁親王 三笠宮崇仁親王の三男
1954-2002 48歳没
■妻 鳥取久子 鳥取滋治郎の娘
1953年生
*英ケンブリッジ大学卒業
●高円宮承子女王 1986年生
●高円宮典子女王 1988年生
●高円宮絢子女王 1990年生
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高円宮久子妃 2003年
初めて宮様にお会いしたのは、東京青山のカナダ大使館でした。
カナダ大使夫妻のお嬢様が結婚されたので、お祝いのレセプションが開かれたのです。
その場で大使夫人から宮様を御紹介いただきました。
「いま父宮殿下のお手伝いをしております」と御挨拶しました。
〔久子妃は三笠宮崇仁親王の翻訳・通訳を務めた〕
レセプションが終わると、宮様から「このあと一杯飲んで帰るけれども、一緒にどうですか?」と仰ったのです。
「二次会」の後は宮様に送っていただくことになり、別れ際に「電話します」と仰ったので、私の名刺をお渡しいたしました。
社交辞令と思っておりましたが、一週間と経たずに御連絡をいただいたのです。
それからは頻繁に宮様とお会いするようになりました。
仕事をやりくりしては、バレエや音楽会い御一緒させていただきました。
毎日お電話もいただきました。
父宮殿下が宮様に「鳥取さんのことはどう思っている?」とお尋ねになると、
宮様は「いいんじゃない?もう候補に入ってますし」とお答えになったそうです。
私の方にはお仕事でお目にかかった時に、父宮殿下からそれとなく「高円宮をどう思うか?」とお尋ねがありました。
どのようにお答えすべきか戸惑った末に、「宮様らしい宮様でいらっしゃいますね」と申し上げました。
すると父宮殿下は「結婚を考えてもいいんじゃないか」というようなことを仰ったのです。
私はビックリして、「いいえ。私の家はとてもそのようなことを考えられるような家柄ではございません」と申し上げたところ、父宮殿下は「それはない」と仰ってくださいました。
父宮殿下は私が学会のお手伝いとしてお勤めする段階で、これまでの経歴だけでなく祖先の家系図に至るまでお調べになっていらしたようで、コピーを出して見せてくださいました。
宮様が「お見合いの話があるのだったら断るように」と仰ったのは、この次の日でした。
出会ってからわずか2週間。
本当に急展開で、宮様の御決断力には驚くばかりです。
私も素直に宮様の御言葉に従い、お見合いのお話はすべてお断りいたしました。
子供たちに言わせると「出会って1カ月でプロポーズだなんてありえない」らしいのですが、カナダ大使館でお会いしてから1カ月後にすっかり有名になってしまったプロポーズの御言葉をいただきました。
場所は東京赤坂のホテルでした。
「大垂髪が似合う顔でよかった」とか、ラブラドール犬が好きだと申し上げると、「うちの庭は広いから、ラブラドールを飼うのにちょうどいいね」とか、結婚を連想させるようなお話が出ていました。
でも私自身は正式に申し込みをいただいているわけでもなく、恐縮しながら「いつもそう仰っていただきますが、まだプロポーズをしていただいていませんし」と申し上げたのです。
そうしたら「ああ、そう言えばそうだっけ」と少し困った表情をされた後、「Will you marry me ?」と照れくさそうに仰ったのです。
私も英語で、「Yes」とお答えしました。
日本語で「結婚してくれますか?」と言われたら、「両親ともよく相談いたしましてから」といったフレーズがついたと思います。
驚いたのはプロポーズの後でした。
宮様は「じゃあ、御両親に伺わなくっちゃ」と仰って、私の自宅へ向かわれたのです。
時間は深夜12時頃。
母は私が帰宅するのを待っていましたが、父はすでに寝ており、母に叩き起こされたあげく、何が怒っているのか見当がつかないという面持ちで、着替えをして二階から滑るように降りてきました。
宮様は「たとえ皇族として生活できなくなる時が来たとしても、必ず何らかの形で生活できるよう、久子さんをきちんとお守りしますから」と仰ってくださいました。
父は「よろしくお願いいたします」とお答えして、二階に上がって行きました。
父はベッドに腰を下ろし、「もしかしたら大変なことを申し上げてしまったのかも」とつぶやいたそうです。
母も「ええ。大変なことを申し上げた気がします」と答えたそうです。
気を落ち着かせて降りてきた両親は、宮様と私のためにシャンパンを開けてくれました。
結婚前のお妃教育は4回通いました。
皇后陛下や皇太子妃殿下は何度もお受けになられるのですが、私の場合は4回でした。
そのうち2回は、宮様が「僕も知らないことがあるから」と仰って、一緒にいらっしゃいました。
私はほとんど外国で生活していたため、知らないことばかりでした。
宮様からは「わからないことがあったら、何でもお母様に聞けばいいから」と温かい御言葉をいただき、それからはすべて三笠宮百合子妃殿下に教えていただきました。
一日に何度もお電話したり、伺ったりいたしました。
結婚の日取りについては、宮様が母宮殿下とお話になって、「12月に結婚式を挙げれば、新年の行事から一年間を通して経験することができる」とお考えになってお決めくださいました。
結婚の儀では2時間かけて大垂髪を結い、さらに2時間かけて十二単を身に着けました。
私が着させていただいたものは、もともと貞明皇后が大正の御大礼のためにお作らせになったものです。
けれども父宮殿下がおみ腹にいらしたので、その十二単はお召しにはなりませんでした。
後に父宮殿下の御成婚の際には、戦時中であったため、母宮殿下は十二単を御遠慮されて、小袿をお召しになりました。
その十二単を私がお借りすることになりました。
記念撮影の時は、「久子は大垂髪がきっと似合う」と仰っていた宮様が、「言った通りでしょ」と御満悦でした。
御自分については、「面長なので束帯が似合う。それは成年式で確認済」などと仰っていました。
結婚の儀を終えた後に、宮様は「面白いでしょう」と仰いました。
この日昭和天皇から「高円宮」の宮号をちょうだい致しました。
宮様は「いい宮号をいただいて良かった」と、とてもお喜びでした。
「高円山と三笠山は二つ並んでいて、高円山の方が少し高いんだ」と。
母宮殿下が「高円宮は食べ物にうるさい上に小食なので、栄養には気をつけてやってほしい」と仰いましたが、私は耳を疑いました。
最初にお目にかかって以来、宮様はどちらかというとよく召し上がる印象があったからです。
宮様にお聞きすると、家庭の主婦の場合は毎回微妙に味が変わってしまいますが、宮家には専門の料理番がプロの腕をふるうので味にブレがないらしいのです。
一期一会という言葉がお好きだった宮様は料理に対しても同様で、「おいしい料理にめぐりあうと、もう二度と会えないないかもしれないと思って全部食べてしまう。久子は料理の本には絶対に載っていないようなものを作るからね」と仰って、たくさん召し上がってくださいました。
凝られることには凝られる宮様も、お料理だけは御自分でなさいませんでした。
もしなさっていたら、きっと私より上手においしくお作りになったことでしょう。
お蔭さまで宮様は周囲の方に、「久子は料理が上手、おいしい」などと仰ってくださいました。
宮様はおいしい物とおいしいお酒を召し上がることがお好きでした。
高くておいしいのは当り前ですが、安くてこの味というこだわりを持ったお店。
私はそのこだわりを味わうのが好きでした。
例えば「この店はつくねがとてもおいしい」と聞けばつくねだけを食べて、「このお店はお刺身がおいしい」と聞いたお店に行ってお刺身だけを注文するというように、食べ物屋さんのハジゴをやっていた時期がありました。
「このお店はお豆腐がおいしい」などと聞くと、お豆腐一丁のためだけにタクシーに乗って出向いたこともあります。
宮様からは「飲み屋のハシゴをする人は多いけど、食べ物のハシゴは珍しいね」と仰いました。
結婚の話が決まったとき私はは、「ああ、もうこういう庶民的な所にはこられないのかな」と残念な気持ちがありました。
宮様も「妻となる人とはこういう所では飲めないのかもしれない」とあきらめていらっしゃったそうです。
ところがお互いに、「こういう店に行っても(相手は)大丈夫なんだ」というのがわかりました。
それで、「食べ物の好みも合いそうで安心した」と仰いました。
宮様は本当に御決断の早い方なのです。
例えばお買い物。
とてもお買い物が早い。
よく「どうして迷うのかわからない」と仰っていました。
「どうしても欲しいのだったら買えばいいし、それほどでもないなら買わなければいい」と。
宮様からは本当にいろいろな物をいただきました。
私が冗談で「宮家に嫁いだら、婚約指輪はないし結婚指輪はないし、苗字もなくなってしまいました」と申し上げると、
宮様は「だから、あんなにたくさんいろんな物を買ってあげてるじゃない」とお笑いになりました。
宮様との最初の外国訪問は、結婚から2年半経った、メキシコ・カナダへの公式訪問でした。
私にとっては久しぶりの海外で、飛行機から雲を見て妙にはしゃいでしまいまして、宮様に笑われてしまいました。
私の人生でこんなに長い期間同じ国(日本)に留まったことは過去になかったものですから、ウキウキしてしまったのです。
宮様が外国訪問で時差の解消のためと称して、ディスコに行かれるようになったのも最初のメキシコでのことでした。
宮様はダンスもお上手でした。
ダンスパーティーでは必ず踊っていらっしゃいました。
御相談はいつも英語でいしておりました。
周囲の人たちにわからないようにお話ができますし、娘たちがいる時も子供たちに聞かせたくないようなことは英語で話していました。
もっとも娘たちもそのうち英語がわかるようになってきましたので、そうも行かなくなってきましたから、宮様は「二人で話せるもう一つの言葉を覚えなければいけないね」と仰いました。
宮様が、「新しい語学を勉強したい」と仰いました。
私は「フランス語はカタコトですが私が話せるので、二人ともカタコトのフランス語を話すよりも、カタコトでも結構ですからスペイン語をなさったらいかがですか」と申し上げました。
宮様も乗り気になられて、スペイン語の勉強をお始めになりました。
宮様は、「子供は大勢の方がいい。笑顔の絶えない家庭にしたい」と仰っていました。
私は三人の娘に恵まれました。
長女承子は眠ることを嫌う子供でした。
お料理を作ろうと思ってもなかなか離れられないような時は、宮様が「じゃあ、僕が抱いているよ」とよくあやしてくださいました。
たまに承子に「おかあまがいい」と言われて、「なぜだ」と憮然とされてしまうこともありましたけれど。
子供たちは私たちを、「おとうま」「おかあま」と呼びます。
大きくなってから子供たちは、「ウチだけよね、こんな呼び方してるの」と言ってましたが。
しつけについて特に心がけていらっしゃったことは、お手本となるような日本語をお使いになることでした。
子供たちは、「おとうまに叱られると本当に怖かった」と申しております。
宮様は音楽の才能がとてもおありでいらっしゃいましたが、秘かに御自慢の特技をお持ちでした。
それは他の人の歌声にハモリをおつけになることで、お友たちからも「ハモリの三笠」とお呼ばれになるほどでした。
宮様は音楽をお聴きになりながら、本をお読みになることも少なくありませんでした。
片方の耳にヘッドホンを当てて音楽をお聴きになりながら、もう片方の耳ではテレビのニュースをお聞きになり、さらにコンピューターに向かわれているのです。
宮様は「自分は学者になれる素養はあったかもしれないが、なりたいとは思わない」と仰っていましたが、資料の収集能力やその記録の仕方はまるで学者のような感じでした。
高円宮邸は宮様御自慢の家で、「建てて5年経っても10年経っても嫌いなところがない」と仰って、非常に満足されていました。
皇族は一度家を建てると、簡単に建て替えたり引っ越したりすることはできません。
一度建てたら一生住むことになります。
宮様は建設にあたって、「一生嫌だと思わない飽きない家にしたい」と仰って、驚くほど設計を勉強されました。
宮様は設計士や宮内庁と打ち合せを繰り返し、宮邸づくりに励まれました。
宮様が特にこだわられたのは、どこにいても音楽が聴こえるとう点でした。
例えば宮邸で夕食会を開いた際に、お客様がどこに移動しても音楽が耳にできるように、オーディオやスピーカーの配置にまで気を配られていました。
宮様は御自分の健康にはかなり自信をお持ちで、お熱を出されたとか体調を崩されたということはほとんどありませんでした。
御自分でも、「肩こりや腰痛を感じたことは一切ない」といつも仰っていました。
内臓にも自信がおありでしたので、二日酔いの頭痛なども御経験がなく、お薬をお飲みになったこともほどんどありませんでした。
結婚してからしばらくは救急箱もなく、子供が生まれて初めて救急箱を買ったほどです。
年に二回の人間ドックも、時間ができた時にすればいいという風でいらっしゃいました。
検査の結果どこかお悪いと言われたこともありませんでした。
宮様の御遺体をお乗せした車が宮邸に着いた後、宮様には寝室のベッドで休んでいただきました。
宮様はまるでお眠りになっていらっしゃるようでした。
宮様がお倒れになった時、「父親が亡くなった」ということをどのようにとらえるのか、母親としてまず心配いたしました。
お倒れになった後 子供たちは期末試験を迎え、否応なしに学校生活に再突入したことも、いま考えればよかったのかもしれません。
御棺が宮邸の二階にあった時も、夜中でも当り前に「じゃ、ここで勉強してる」とか言いながら、私の代りに御棺の前に座っていました。
宮様がお小さい頃は公務にお忙しい母宮殿下に代って、容子さまが細かなところまで御面倒を見てくださっていらしたそうで、大人になられてからもよく容子さまに御相談遊ばされ、その御助言をとても御信頼になっていらっしゃいました。
宮様はプライベートでお出ましになることに、「おしのび」という言葉を使うのを嫌われて、絶対にお使いになりませんでした。
徳仁皇太子は音楽がお好きなので、私どもの所にヨーヨー・マを招いて徳仁皇太子との演奏を企画したりしました。
徳仁皇太子がウチの子供たちに「この曲を一緒に弾きましょう」と仰って、パッヘルベルのカノンの楽譜をくださったこともございます。
御成婚なさってからは、徳仁皇太子と雅子妃そして高円宮様とウチの三人の娘による合奏も実現いたしました。
徳仁皇太子はバイオリン・雅子妃はフルート・高松宮様と絢子はチェロ・承子と典子はバイオリンを弾きました。
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1954-2002 48歳没
■妻 鳥取久子 鳥取滋治郎の娘
1953年生
*英ケンブリッジ大学卒業
●高円宮承子女王 1986年生
●高円宮典子女王 1988年生
●高円宮絢子女王 1990年生
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高円宮久子妃 2003年
初めて宮様にお会いしたのは、東京青山のカナダ大使館でした。
カナダ大使夫妻のお嬢様が結婚されたので、お祝いのレセプションが開かれたのです。
その場で大使夫人から宮様を御紹介いただきました。
「いま父宮殿下のお手伝いをしております」と御挨拶しました。
〔久子妃は三笠宮崇仁親王の翻訳・通訳を務めた〕
レセプションが終わると、宮様から「このあと一杯飲んで帰るけれども、一緒にどうですか?」と仰ったのです。
「二次会」の後は宮様に送っていただくことになり、別れ際に「電話します」と仰ったので、私の名刺をお渡しいたしました。
社交辞令と思っておりましたが、一週間と経たずに御連絡をいただいたのです。
それからは頻繁に宮様とお会いするようになりました。
仕事をやりくりしては、バレエや音楽会い御一緒させていただきました。
毎日お電話もいただきました。
父宮殿下が宮様に「鳥取さんのことはどう思っている?」とお尋ねになると、
宮様は「いいんじゃない?もう候補に入ってますし」とお答えになったそうです。
私の方にはお仕事でお目にかかった時に、父宮殿下からそれとなく「高円宮をどう思うか?」とお尋ねがありました。
どのようにお答えすべきか戸惑った末に、「宮様らしい宮様でいらっしゃいますね」と申し上げました。
すると父宮殿下は「結婚を考えてもいいんじゃないか」というようなことを仰ったのです。
私はビックリして、「いいえ。私の家はとてもそのようなことを考えられるような家柄ではございません」と申し上げたところ、父宮殿下は「それはない」と仰ってくださいました。
父宮殿下は私が学会のお手伝いとしてお勤めする段階で、これまでの経歴だけでなく祖先の家系図に至るまでお調べになっていらしたようで、コピーを出して見せてくださいました。
宮様が「お見合いの話があるのだったら断るように」と仰ったのは、この次の日でした。
出会ってからわずか2週間。
本当に急展開で、宮様の御決断力には驚くばかりです。
私も素直に宮様の御言葉に従い、お見合いのお話はすべてお断りいたしました。
子供たちに言わせると「出会って1カ月でプロポーズだなんてありえない」らしいのですが、カナダ大使館でお会いしてから1カ月後にすっかり有名になってしまったプロポーズの御言葉をいただきました。
場所は東京赤坂のホテルでした。
「大垂髪が似合う顔でよかった」とか、ラブラドール犬が好きだと申し上げると、「うちの庭は広いから、ラブラドールを飼うのにちょうどいいね」とか、結婚を連想させるようなお話が出ていました。
でも私自身は正式に申し込みをいただいているわけでもなく、恐縮しながら「いつもそう仰っていただきますが、まだプロポーズをしていただいていませんし」と申し上げたのです。
そうしたら「ああ、そう言えばそうだっけ」と少し困った表情をされた後、「Will you marry me ?」と照れくさそうに仰ったのです。
私も英語で、「Yes」とお答えしました。
日本語で「結婚してくれますか?」と言われたら、「両親ともよく相談いたしましてから」といったフレーズがついたと思います。
驚いたのはプロポーズの後でした。
宮様は「じゃあ、御両親に伺わなくっちゃ」と仰って、私の自宅へ向かわれたのです。
時間は深夜12時頃。
母は私が帰宅するのを待っていましたが、父はすでに寝ており、母に叩き起こされたあげく、何が怒っているのか見当がつかないという面持ちで、着替えをして二階から滑るように降りてきました。
宮様は「たとえ皇族として生活できなくなる時が来たとしても、必ず何らかの形で生活できるよう、久子さんをきちんとお守りしますから」と仰ってくださいました。
父は「よろしくお願いいたします」とお答えして、二階に上がって行きました。
父はベッドに腰を下ろし、「もしかしたら大変なことを申し上げてしまったのかも」とつぶやいたそうです。
母も「ええ。大変なことを申し上げた気がします」と答えたそうです。
気を落ち着かせて降りてきた両親は、宮様と私のためにシャンパンを開けてくれました。
結婚前のお妃教育は4回通いました。
皇后陛下や皇太子妃殿下は何度もお受けになられるのですが、私の場合は4回でした。
そのうち2回は、宮様が「僕も知らないことがあるから」と仰って、一緒にいらっしゃいました。
私はほとんど外国で生活していたため、知らないことばかりでした。
宮様からは「わからないことがあったら、何でもお母様に聞けばいいから」と温かい御言葉をいただき、それからはすべて三笠宮百合子妃殿下に教えていただきました。
一日に何度もお電話したり、伺ったりいたしました。
結婚の日取りについては、宮様が母宮殿下とお話になって、「12月に結婚式を挙げれば、新年の行事から一年間を通して経験することができる」とお考えになってお決めくださいました。
結婚の儀では2時間かけて大垂髪を結い、さらに2時間かけて十二単を身に着けました。
私が着させていただいたものは、もともと貞明皇后が大正の御大礼のためにお作らせになったものです。
けれども父宮殿下がおみ腹にいらしたので、その十二単はお召しにはなりませんでした。
後に父宮殿下の御成婚の際には、戦時中であったため、母宮殿下は十二単を御遠慮されて、小袿をお召しになりました。
その十二単を私がお借りすることになりました。
記念撮影の時は、「久子は大垂髪がきっと似合う」と仰っていた宮様が、「言った通りでしょ」と御満悦でした。
御自分については、「面長なので束帯が似合う。それは成年式で確認済」などと仰っていました。
結婚の儀を終えた後に、宮様は「面白いでしょう」と仰いました。
この日昭和天皇から「高円宮」の宮号をちょうだい致しました。
宮様は「いい宮号をいただいて良かった」と、とてもお喜びでした。
「高円山と三笠山は二つ並んでいて、高円山の方が少し高いんだ」と。
母宮殿下が「高円宮は食べ物にうるさい上に小食なので、栄養には気をつけてやってほしい」と仰いましたが、私は耳を疑いました。
最初にお目にかかって以来、宮様はどちらかというとよく召し上がる印象があったからです。
宮様にお聞きすると、家庭の主婦の場合は毎回微妙に味が変わってしまいますが、宮家には専門の料理番がプロの腕をふるうので味にブレがないらしいのです。
一期一会という言葉がお好きだった宮様は料理に対しても同様で、「おいしい料理にめぐりあうと、もう二度と会えないないかもしれないと思って全部食べてしまう。久子は料理の本には絶対に載っていないようなものを作るからね」と仰って、たくさん召し上がってくださいました。
凝られることには凝られる宮様も、お料理だけは御自分でなさいませんでした。
もしなさっていたら、きっと私より上手においしくお作りになったことでしょう。
お蔭さまで宮様は周囲の方に、「久子は料理が上手、おいしい」などと仰ってくださいました。
宮様はおいしい物とおいしいお酒を召し上がることがお好きでした。
高くておいしいのは当り前ですが、安くてこの味というこだわりを持ったお店。
私はそのこだわりを味わうのが好きでした。
例えば「この店はつくねがとてもおいしい」と聞けばつくねだけを食べて、「このお店はお刺身がおいしい」と聞いたお店に行ってお刺身だけを注文するというように、食べ物屋さんのハジゴをやっていた時期がありました。
「このお店はお豆腐がおいしい」などと聞くと、お豆腐一丁のためだけにタクシーに乗って出向いたこともあります。
宮様からは「飲み屋のハシゴをする人は多いけど、食べ物のハシゴは珍しいね」と仰いました。
結婚の話が決まったとき私はは、「ああ、もうこういう庶民的な所にはこられないのかな」と残念な気持ちがありました。
宮様も「妻となる人とはこういう所では飲めないのかもしれない」とあきらめていらっしゃったそうです。
ところがお互いに、「こういう店に行っても(相手は)大丈夫なんだ」というのがわかりました。
それで、「食べ物の好みも合いそうで安心した」と仰いました。
宮様は本当に御決断の早い方なのです。
例えばお買い物。
とてもお買い物が早い。
よく「どうして迷うのかわからない」と仰っていました。
「どうしても欲しいのだったら買えばいいし、それほどでもないなら買わなければいい」と。
宮様からは本当にいろいろな物をいただきました。
私が冗談で「宮家に嫁いだら、婚約指輪はないし結婚指輪はないし、苗字もなくなってしまいました」と申し上げると、
宮様は「だから、あんなにたくさんいろんな物を買ってあげてるじゃない」とお笑いになりました。
宮様との最初の外国訪問は、結婚から2年半経った、メキシコ・カナダへの公式訪問でした。
私にとっては久しぶりの海外で、飛行機から雲を見て妙にはしゃいでしまいまして、宮様に笑われてしまいました。
私の人生でこんなに長い期間同じ国(日本)に留まったことは過去になかったものですから、ウキウキしてしまったのです。
宮様が外国訪問で時差の解消のためと称して、ディスコに行かれるようになったのも最初のメキシコでのことでした。
宮様はダンスもお上手でした。
ダンスパーティーでは必ず踊っていらっしゃいました。
御相談はいつも英語でいしておりました。
周囲の人たちにわからないようにお話ができますし、娘たちがいる時も子供たちに聞かせたくないようなことは英語で話していました。
もっとも娘たちもそのうち英語がわかるようになってきましたので、そうも行かなくなってきましたから、宮様は「二人で話せるもう一つの言葉を覚えなければいけないね」と仰いました。
宮様が、「新しい語学を勉強したい」と仰いました。
私は「フランス語はカタコトですが私が話せるので、二人ともカタコトのフランス語を話すよりも、カタコトでも結構ですからスペイン語をなさったらいかがですか」と申し上げました。
宮様も乗り気になられて、スペイン語の勉強をお始めになりました。
宮様は、「子供は大勢の方がいい。笑顔の絶えない家庭にしたい」と仰っていました。
私は三人の娘に恵まれました。
長女承子は眠ることを嫌う子供でした。
お料理を作ろうと思ってもなかなか離れられないような時は、宮様が「じゃあ、僕が抱いているよ」とよくあやしてくださいました。
たまに承子に「おかあまがいい」と言われて、「なぜだ」と憮然とされてしまうこともありましたけれど。
子供たちは私たちを、「おとうま」「おかあま」と呼びます。
大きくなってから子供たちは、「ウチだけよね、こんな呼び方してるの」と言ってましたが。
しつけについて特に心がけていらっしゃったことは、お手本となるような日本語をお使いになることでした。
子供たちは、「おとうまに叱られると本当に怖かった」と申しております。
宮様は音楽の才能がとてもおありでいらっしゃいましたが、秘かに御自慢の特技をお持ちでした。
それは他の人の歌声にハモリをおつけになることで、お友たちからも「ハモリの三笠」とお呼ばれになるほどでした。
宮様は音楽をお聴きになりながら、本をお読みになることも少なくありませんでした。
片方の耳にヘッドホンを当てて音楽をお聴きになりながら、もう片方の耳ではテレビのニュースをお聞きになり、さらにコンピューターに向かわれているのです。
宮様は「自分は学者になれる素養はあったかもしれないが、なりたいとは思わない」と仰っていましたが、資料の収集能力やその記録の仕方はまるで学者のような感じでした。
高円宮邸は宮様御自慢の家で、「建てて5年経っても10年経っても嫌いなところがない」と仰って、非常に満足されていました。
皇族は一度家を建てると、簡単に建て替えたり引っ越したりすることはできません。
一度建てたら一生住むことになります。
宮様は建設にあたって、「一生嫌だと思わない飽きない家にしたい」と仰って、驚くほど設計を勉強されました。
宮様は設計士や宮内庁と打ち合せを繰り返し、宮邸づくりに励まれました。
宮様が特にこだわられたのは、どこにいても音楽が聴こえるとう点でした。
例えば宮邸で夕食会を開いた際に、お客様がどこに移動しても音楽が耳にできるように、オーディオやスピーカーの配置にまで気を配られていました。
宮様は御自分の健康にはかなり自信をお持ちで、お熱を出されたとか体調を崩されたということはほとんどありませんでした。
御自分でも、「肩こりや腰痛を感じたことは一切ない」といつも仰っていました。
内臓にも自信がおありでしたので、二日酔いの頭痛なども御経験がなく、お薬をお飲みになったこともほどんどありませんでした。
結婚してからしばらくは救急箱もなく、子供が生まれて初めて救急箱を買ったほどです。
年に二回の人間ドックも、時間ができた時にすればいいという風でいらっしゃいました。
検査の結果どこかお悪いと言われたこともありませんでした。
宮様の御遺体をお乗せした車が宮邸に着いた後、宮様には寝室のベッドで休んでいただきました。
宮様はまるでお眠りになっていらっしゃるようでした。
宮様がお倒れになった時、「父親が亡くなった」ということをどのようにとらえるのか、母親としてまず心配いたしました。
お倒れになった後 子供たちは期末試験を迎え、否応なしに学校生活に再突入したことも、いま考えればよかったのかもしれません。
御棺が宮邸の二階にあった時も、夜中でも当り前に「じゃ、ここで勉強してる」とか言いながら、私の代りに御棺の前に座っていました。
宮様がお小さい頃は公務にお忙しい母宮殿下に代って、容子さまが細かなところまで御面倒を見てくださっていらしたそうで、大人になられてからもよく容子さまに御相談遊ばされ、その御助言をとても御信頼になっていらっしゃいました。
宮様はプライベートでお出ましになることに、「おしのび」という言葉を使うのを嫌われて、絶対にお使いになりませんでした。
徳仁皇太子は音楽がお好きなので、私どもの所にヨーヨー・マを招いて徳仁皇太子との演奏を企画したりしました。
徳仁皇太子がウチの子供たちに「この曲を一緒に弾きましょう」と仰って、パッヘルベルのカノンの楽譜をくださったこともございます。
御成婚なさってからは、徳仁皇太子と雅子妃そして高円宮様とウチの三人の娘による合奏も実現いたしました。
徳仁皇太子はバイオリン・雅子妃はフルート・高松宮様と絢子はチェロ・承子と典子はバイオリンを弾きました。
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