◆125代 平成天皇(継宮明仁親王)124代昭和天皇の長男


■妻  正田美智子 日清製粉社長正田英三郎の娘


●浩宮 徳仁親王  125代天皇
●礼宮 文仁親王  秋篠宮
●紀宮 清子内親王 黒田慶樹と結婚


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』

1933年12月23日
皇子〔平成天皇〕御誕生の由。
7時少し過ぎに電話にて承知。
まことに私も重荷の下りたようなうれしさを、考えてみればおかしな話ながら、感じてやまず。

1933年12月29日
参内。
新宮〔平成天皇〕に見上げたり。
とても赤いお顔にて、お鼻大きく高く見受けたり。
シャンペンの杯をあげ、退出。
継宮とはちょっとおかしい気がしたが、よくよく明仁とつけてみると良い御名なり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』

1934年1月7日
新宮〔平成天皇〕が御誕生になってみな大喜びだ。
しかしお兄様〔秩父宮〕も御同感のようだが、はやり御教育方法が心配になる。
新宮の御養育御教導ほど重大な問題はあるまい。
すでに照宮成子内親王その他の方々の御養育で経験もある通り、早くその方策を決定し計画を立ててかからねば失敗するであろう。
そしてこれは一般論ではいけないので、現実に即し今日に適した特殊な方法でなくてはならぬ。
昭和両陛下は共に極めておやさしい。
おそらく本当にお叱りになることはあるまい。
しかも二方とも大して御強壮な身体でない場合、そこに生まれる御子は気丈な方でない方が普通であろう。
してその上に育て方が弱々しくされることによって、男さんについて果たしてどうであろうか。
照宮成子内親王ですら、魚屋とか何屋とか果てはお寺というような物についての概念を持っていられないで、国語読本等に関する興趣もおわきにならず困るような話である。
まして御成人後はいよいよ下情に遠ざかられる立場の方が、自由なるべき小学時代までをそんなことで甚だ困りものである。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『入江相政日記』侍従長

1937年8月24日
どういうものか明仁皇太子〔平成天皇〕は太陽の直射がお嫌いで、太陽が雲間を漏れて強く照りつけてくるとすぐ嚶鳴亭へお駆け込みになる。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『入江相政日記』侍従長

1940年3月26日
侍従小倉庫次と明仁皇太子〔平成天皇〕の御教育方針につきいろいろ話し合いをした結果、元侍従大金益次郎に実情を述べて相談してみようということになり、午後大金さんの所へ行く。
実情を話した結果大金さんも非常に心配し、できるだけのことはしようということになる。

1940年11月6日
侍医頭侍医長八田善之進の所へ行く。
今日の仮御所における会議に臆することなく、東宮伝育官石川岩吉を攻撃すべきむね気合をかけておく。

1940年11月7日
八田侍医頭の所へ行き、昨日東宮仮御所で行われた会議の顛末を簡単に聞く。
大金さんの所へ行き明仁皇太子の問題につき協議。
武官を置かず伝育官を東宮侍従にせらる範囲において東宮職を早く設置、石川伝育官の上に大きな東宮大夫を置くか、皇后宮大夫広幡忠隆を宮内大臣にし黒田を大夫にするぐらいがオチであろうということになる。

1940年12月4日
明仁皇太子の御近況相も変わらぬ。
石川伝育官の不届きなやり方を聞いて憤慨する。
小倉侍従がこのあいだ広幡大夫・石川さんと協議した明仁皇太子御将来の御教育方針につき聞く。
要するに東宮職を早く設置し伝育官は侍従にしないこと、しかして大人物の東宮大夫でも据えれば石川伝育官は手も足も出ないのだがということになる。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『入江相政日記』侍従長

1941年5月27日
東宮伝育官山田康彦がその後の東宮御所の状況を話す。
呆れ果てたことばかりで今始まったことでもないが、石川伝育官が引っ込まない限りは明仁皇太子の御伝育は全くできない。

1941年6月4日
山田伝育官と東宮御所のことをいろいろ話す。
石川岩吉という人は全く自己あって明仁皇太子のことは全く閑却しているとしか考えられない。
東宮御所の伝育官・侍医結束して石川さんに当たらなければなるまい。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『入江相政日記』

1942年3月2日
山田伝育官が仮御所の近況につき話す。
石川伝育官の奇々怪々の行動につきいろいろ話を聞く。
どういう人だかよくわけがわからぬ。
明仁皇太子のおためを思っての行動とはどうしても受け取れぬ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』

1943年1月18日
皇后宮大夫広幡忠隆より明仁皇太子御学問所に関する研究経緯を聞く。
現在明仁皇太子は算術なども一般より計算等に時間がおかかりになるが答は間違いなくなさるので知能の方は普通であるが、やはり御身体の方が考慮を要する点なり。
宮内大臣松平恒雄の意見にもあり、運動場を一般と一緒にお使いになり、その間に得るところ少なからずと考えその方針なり。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』

1944年2月28日
明仁皇太子の御教育に関しては、かえって万世一系という国体に心易しとするためか、関心足らざるを感ず。
はるかに外国の国王・皇帝の後嗣の教育は直ちに皇室の存続の問題として本能的に考えられ、自他ともに熱心に厳格適切に行わるるにあらずや。
今時局の困難に直面し将来如何なる事態となるも、いよいよ天皇の御素質・英明にまつこと大なるを思えば、いまだ幼き明仁皇太子の御身の上には実に容易ならぬ御苦労を願わざるを得ざるなり。
この意味でも速やかに成年の教育を受けしめ、一日も早く天皇として人格を備えらるるよう努めざるべからず。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』

1945年10月22日
明仁皇太子の御教育についても根本的に考えを改むる要あり。
すなわち外国人に対しても単に拝謁でなく、十分応待し得らるべき御教育を必要とす。
御留学もこの見地より考うべきなり。
アメリカかイギリスか、これは各々見方による。
長短あるべし。
アメリカとしてはイギリスはすでに世界的な国にあらずして、今後の問題はなんとしても米ソの問題しかもアメリカが関係を密にせざるべからざる国となるべし。
それには早く御留学になるを可とす。
同年輩のアメリカ人とお近づきになりあることは、将来の両国の提携に資すること極めて大なるべし。
アメリカ人の考え方を御理解ありて将来の日本の優れたるところを具現し給う上に、効果大なるべしとす。
イギリスとすれば王室を持って伝統ある国として他になきものなれば、その味わうべきものは深し、ただちに日本の皇室として例を求むるところ多く、将来親交を結ぶべき国として比すべきものなき国柄なりとなす。
御学問所についてもただちに考えを革めてかかるべき時なり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』

1946年2月2日
明仁皇太子、お成り。
初めてなり。
客間のライターがお珍しく、点けたり消したり何度も何度も。
南洋でもらった海亀の剥製大中小、お欲しそうだったので「差し上げましょう」と言ったら、
二度も見にいらして「あれか、これか」とおっしゃる。
三つともというは少し欲ばりすぎるとお考えらしかったが、
「みなお届けしましょう」と言うて片づく。
豚と緬羊はやはり触ってお楽しみ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『入江相政日記』侍従長

1947年9月18日
明仁皇太子のこの夏以来の御傾向は真に憂うべきものであることを話す。
侍従長大金益次郎もことごとく同感で、東宮職の現状は深憂に堪えないと言っておられた。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治 日記 宮内庁長官

1948年10月10日
東宮侍従黒木従達来る。
明仁皇太子は自己中心、思いやりなし、わがまま。
同窓生によりて匡正したし云々。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は48万円

1949年2月3日
今日明仁皇太子、テニスコートにお成り。
先日もそのことあり警衛等に困る。

昭和天皇◆今後も頻繁とすれば、外人には分らぬ皇居内の説明は何とするか。
皇居に明仁皇太子の生活を移す問題を考えよ

1949年7月8日
昭和天皇◆マッカーサーは明仁皇太子の印象は非常に良かったらしい。
知的にも聡明で、落ち着いてチャーミング云々だと言ったとのこと。

1949年8月30日
昭和天皇◆明仁皇太子の住居のことだが、先だって小泉参与らがずいぶん明仁皇太子は常陸宮と違う、思いやりが足らぬということを強く言ったが、葉山の時は気がつかなかったがどういうものか。
(御真意のほどちょっと解しかねしも)
田島長官◆御警衛はボディガードの方に重点を置き、警視庁の配置する御警衛は廃止または少数とするよう警視庁に申し入れのことに致してあります。
昭和天皇◆あ、そうか。そんならそうだ。

1949年11月8日
昭和天皇◆実は東宮御殿は私の所と近い所がよいと思う。
往年エドワード8世と御話した時、「父陛下にどれぐらいお会いになるか」と聞かれたが、その頃は週一度ぐらいであったゆえ、忠孝の国と言われる日本として返答に苦しんだことを今も私は忘れぬ。
エドワード8世は朝一度ちょっと父王にお会いになって、各自自由の行動に移られるようであった。
東宮ちゃんはいずれ外遊するであろうが、その時また私のように苦しい返答をさせたくないと思うからだ。
田島長官◆昭和天皇は赤坂離宮は御住居としてお好みにならぬ由を承りまして承知しておりまするが、民間にては赤坂御所こそ新憲法下の宮殿としてふさわしく、この皇居はむしろ民衆の交通を阻害しているとも言えるため、半蔵門から下町の間へ蟠踞するのをイヤがる者もありまするゆえ。
昭和天皇◆この皇居も問題となれば私の住居もどこになるかわからぬが、いずれにしても東宮ちゃんの家は近い所がよいと思われる。

昭和天皇◆明仁皇太子妃を迎える場合、将来の皇后となる人ゆえ、条件は非常に難しい。
第一家柄の点だが、これも一応限られるし、本人の人物はもちろん必要だが、遺伝的なことも十分考慮の必要あり。
それから恋愛結婚とか自由結婚とかいうのではないが、本人同士の夫婦関係が円満にいくことを考えてしなければならぬ。
そのうえ本人同士の結婚関係はよくても、私ら舅とかにも良き人でなければならぬ。
田島長官◆従来もいろいろな点を考えておりましたが、御趣意に従いましていろいろ考えなければと存じております。

1949年11月28日
昭和天皇◆このあいだマッカーサーと会った時、講和は近いとの印象を受けた。
遅くも来年の6月ぐらいではないかと思う。
ついては東宮ちゃんの外遊のことだが、英米へ行くことはまずどうしても必然だと思うが、その時期の問題だ。
田島長官◆そのことは先般来、時期・期間・供奉員・費用等の点を考えております。
時期の問題は高校御卒業後ということが一応考えられますが、平和克復の直後ということもかえってよろしいかとも存じます。
期間はあまり長くなく一年半ぐらいで、アメリカの規模の小さいイギリス風の学校にちょっとおいでになり、その後イギリスへお渡りになりケンブリッジかオックスフォードのおいでになるということで。
昭和天皇◆フランスぐらいは旅行して。
田島長官◆最長二年。
昭和天皇◆一年半だなー。
ヴァレットも英語ができぬと困る。
私の時は原忠道という、今は大倉組かなにかにいるのが大変よかった。
閑院宮載仁親王のお付きしてたのは言葉が甘くなく、原が助けたこともある。
また萩本即寿とかいう者もいたが、これはいけなかった。
田島長官◆英仏両方できるとしては前田陽一。
(あまり御賛成なき御様子に拝す)
昭和天皇◆松井明などいいではないか。
外務省が離さぬかもしれぬが。

田島長官◆明仁皇太子の御外遊は、できれば御婚約の上のことがよろしいかと存じます。
昭和天皇◆それはそうだ。
私は離れてるから東宮ちゃんがどんな考えかわからないし、また何も考えていないだろうが、外国へ行けばエドワード8世のような〔結婚スキャンダル〕ことも考えられぬでもないし。
それも難しいが、私の時とは時勢も違うので婚約後は交際をすべきだと思うが、また交際の結果イヤになるということも考えられて、これは難しい。

1949年11月29日
昭和天皇◆東宮ちゃんが渡米する以上は、ヴァイニング夫人との関係をよくしたい。
供奉員のことだが、松井明など外務省の人が取れぬ場合は東宮職の人を考えねばらなぬが、私は東宮侍従戸田康英と考えるが、これは英語の関係で東宮侍従清水二郎にすべきかと思う。
田島長官◆東宮参与小泉信三は東宮侍従黒木従達を人物最良・真面目で慎重と申しておりますゆえ、東宮職からとすればむしろ黒木と存じます。
清水は先般伝育官になる時にも必ずしも衆議一致でなく、田島も人物は如何かと存じます。
昭和天皇◆そうか、清水はそうか。
それならば黒木がよかろう。
とにかく東宮職から一人は取らなければ。
田島長官◆国家的至要のことにつき、吉田首相はもちろん外務大臣も松井らよろしき者を割愛すると存じます。
昭和天皇◆そうすると、松平を大将として三人の高等官が行くことになる。
田島長官◆そのほかにヴァレットとしますと、概算月1万円として年4千万円以上にて、昭和25年度予算の関係が、もし昭和25年内に御渡米となれば如何あいなるや研究する。
昭和天皇◆東宮ちゃんはむしろ西洋などあまり好かぬのではないかと思う。
寝巻もパジャマでなく着物だ。
私も常陸宮もパジャマだが。
教育を受けた頃が戦争右翼思想時代ゆえ、日本独善的で西洋をあまり尊重せぬ傾向で、私たちの時代と違う。
例えば「ヴァイニング夫人は常識はあるが知識はない」と批評したり、外国の事物にすべて批判的であるゆえ、長く旅行したいとは思わぬと思う。
しかし今日内外の状況上、当然洋行はせねばならぬ。
ことにイギリスをはじめフランス・ベルギー等にも行く必要あり。

1949年12月5日
昭和天皇◆私は最近一つ安心したのだが、『天皇の印象』の記事につき東宮ちゃんが私に真否を第一に尋ねた。
ものを批判してかかる態度はよいと思う。
田島長官◆御批判的態度はのべて反省的態度ゆえ、それはよろしい御傾向と存じます。

1949年12月19日
田島長官◆昭和天皇に何か特別なお考えがおありで明仁皇太子御外遊 比較的早い時期との仰せがありましたのでございましょうか。
昭和天皇◆講和は締結された時にまた退位等の論が出て、退位とか譲位とかいうことも考えられるので、そのためには東宮ちゃんが早く洋行するのがよいのではないかと思った。
(感激して落涙滂沱、声も出ずしばし発言し得ず)
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年1月5日
田島長官◆秩父宮から明仁皇太子御洋行の御意見を伺いました。
「日本の大学を2年なされることと、その前に3カ月くらい御渡米のことであります」と申し上げしところ、
「東大ということになれば共産党員の学生などもずいぶんいるし、どうかと思う」と仰せにて、
「さもなければ学習院大学でございますが」と申しました。
(昭和天皇は秩父宮の御案に御賛成なき御様子に拝す。3カ月ぐらいの渡米案にもあまり御賛成なき御様子なり)
田島長官◆池田成彬に面会の折り、イギリスの教育がよろしくハーバード出身にかかわらず三子をイギリスに送り同窓より批難された時、「日本は共和国でなく君主国ゆえ、日本の子弟はイギリスが至当」と論ぜしことありとのことにて、「皇太子の場合はイギリスが望まし」と申しおりました。
またアメリカの女子は好奇心もあり男女交際も自由過ぎる点もあり、イギリスになどと申しておりました。

1950年1月6日
田島長官◆明仁皇太子来学年より第二外国語始まるにつき、とにかく試験的に学校でないフランス語のレッスンをお始めになることにつき、前田陽一を第一候補に考えておりまする。

1950年3月11日
昭和天皇◆東宮ちゃんによく話して、夜遅く起きていない習慣に変えてもらうことが先決だ。

1950年7月5日
田島長官◆三笠宮のことに関連し、明仁皇太子・常陸宮のこともなかなか考えさせられまする。
明仁皇太子は特別にて民法に長子相続もなくなったにかかわらず、皇室だけは長子相続の建前で二男・三男は冷や飯で、この点よほど注意しなければならぬと存じます。
明仁皇太子のことは東宮大夫穂積重遠の無責任ではダメゆえ東宮参与小泉信三で変わってもらうという具体案ができてお許しを得て実行しましたが、常陸宮についてはなお研究中。
昭和天皇◆田島は戦争後になって宮様方が平民的自由と皇族の特権とを両方活発にやられるようになったと言ったが、戦前からずいぶん平民的な特権をやっておいでだった。
一つは別当などの人がついていたことと、今一つは検閲制で新聞に出なかったというだけだ。

昭和天皇◆東宮ちゃんと常陸宮は教育が違う。
二人は同じ学習院へ通ってる。
私は御学問所、秩父宮は陸軍幼年学校、高松宮は中等科という風にみな違った教育を受け、私だけは特別だったから。
田島長官◆明仁皇太子は上中下と分けて上の部にお入りになり、馬・テニス何でもなさいますが、失礼ながら常陸宮は中の部にもお入りになれませぬ上、御体格上テニス等の御運動もできず、学習院でも御孤独であるとのことでございます上、明仁皇太子は将来の天皇たる天職お定まりでありまするが、常陸宮は旧憲法時代と違い軍人ということはなくなり、何か将来のことをお考えになる必要があります。
昭和天皇◆今は化学がいいと思う。
しかし専門家になってもらっては困る。
相当の暇つぶしになって、そして趣味の程度ということを考える。
田島長官◆常陸宮の問題で何か最近あったらしき様子。
昭和天皇◆皇子伝育官村井長正が皇子伝育官東園基文や次長を出し抜いて何か言うから、山田に言って次長に注意して、それから次長がいろいろやり出したのだ。
常陸宮は私に何でも進んで聞いてくる。
常陸宮はいろいろなことを私に言ってくるから何を考えているのかよくわかる。
東宮ちゃんとも議論してることがよくあるが、なごやかにやってるから心配ないと思ってる。
田島長官◆それが最近必ずしもそうでないと聞きました。
昭和天皇◆これは年頃で、性の問題にも関してると思う。

1950年9月1日
昭和天皇◆東宮ちゃんは留学はとにかく、洋行は必要だと思う。
私も行って見聞を広め有益だった。
大学は南原繫総長の間は東大はイヤだから、学習院の方がよいと思う。
南原が辞めた後なら東大でもよいが。

昭和天皇◆東宮ちゃんが軽井沢を気に入り、戯談半分に御用邸が欲しい云々の話もあったとのことだが、テニスと馬ならば那須でもできる。
他に原因があるのか。
田島長官◆友人が数名軽井沢におりましたこと、外人が多くおり会話等の関係などによるかと存じます。

1950年9月4日
昭和天皇◆東宮ちゃんやはり軽井沢よほど気に入ったらしく、珍しいことだが昨日も軽井沢の話を後から後から話してた。
常陸宮はそういうことをするが、東宮ちゃんとしては珍しい。
どうも軽井沢の空気全体がよほど気に入ったらしい。
「馬は宮内庁の馬でないのがいい」と言ってた。
だいたい宮内庁の馬は馬場ばかりの調教ゆえ、外では驚くことが多く駄目だ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治 日記 宮内庁長官

1951年7月3日
明仁皇太子近状前途光明なきこと、単調なこと、性的年頃のこと。

1951年9月13日
華頂令嬢、明仁皇太子妃候補のこと。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年8月3日
朝日記者との会見、明仁皇太子妃のことに触れしゆえ、
田島長官「平民の子は才色兼備でもどうかと思う。やはり貴族階級に限られる」というような話をしたこと申し上ぐ。

1951年9月3日
田島長官◆昨日・一昨日沓掛の明仁皇太子の御機嫌を伺って参りました。
軽井沢は非常にお気に入りのようでありまして、来年もまた御希望のように拝しました。
昭和天皇◆常陸宮から聞いたのだが、「葉山も沼津も那須もみな売って軽井沢に買えばよい」と言ったそうだ。
田島長官◆今年は馬を四頭お連れになりましたようでございます。
厩は県の方で建てましたようで、借賃を出すことと致しました。
またテニスもホテルの方でコートを作りまして借賃を出すことに致しまして、馬とテニスで御満足のように存じます。
御自分の嫌いなイヤなことは少しもなさらないようにお見受け致しましたが、明仁皇太子の御地位としては、また将来の天皇陛下としての御修養のためには、イヤなことも遊ばすということが御必要ではないかと思いました。
昭和天皇◆それは確かにその傾向がある。
私などは余り好きでないことは進んでやらねばならぬとするためか、ちょっと困ることにもなる。
例えば絵はあまり好きでないが、努めて観に行ったりすると、反対に非常に好きだと言われることもある。
田島長官◆御興味のないことは捨てておしまいになり、試みようとも遊ばされぬように拝察いたしました訳でございます。
昭和天皇◆私も統計や数字は不得手であるが予算など必要ゆえ、努めてやる。
田島長官◆先だって明仁皇太子は那須に一週間もお出ででございましたが。
昭和天皇◆自然界を見ることなど嫌いで、テニスとかピンポンとかいう方に興味があるようだ。
常陸宮はよく来るよ。
田島長官◆御自分のイヤなこと嫌いなことをむしろ進んで遊ばす昭和天皇の御修養は、やはり杉浦重剛の倫理の教えによりますこと大きいのでございましょうか。
昭和天皇◆杉浦を右翼の人のように思うが、イギリスで化学を学んだ人で非常に視野が広かった。
あるいは宗教家・哲学者は攻撃するだろうが、杉浦は「常識的に真理は一つである。釈迦も孔子もキリストも方法が違うだけで帰一するところは一つだ」と言ってた。
非常に視野の広い、包容的な考えは私にも影響があったかとも思う。
それともう一つは、私は生物学と同程度に興味があったのは歴史で、ことに箕作元八の西洋歴史は私に非常に役立った。

1951年9月29日
昭和天皇◆東宮ちゃんはいつ外国へ行くのか知らぬが、その時までには妃殿下はきっぱり決めたいと思う。
東宮ちゃんはシンプソン夫人みたような問題は決して起こさぬと確信してるが、老婆心で洋行する前にはぜひともはっきり決めた方がよいと思う。
メアリー皇太后のような方でも私に良子のことを聞かれた。
決まっていて、そしてゴタゴタしたでしょう。
それの返事に困ったことがある。
私のこの経験からも、はっきり返事のできるようにして行く方がよい。
それから社会の実情が変化して、私は節子皇太后〔貞明皇后〕の御意思というので突然波多野が言って来て、別に私の意思もなく決まり、その後も結婚まで別に会見するでもなしであったが、近ごろは孝宮和子内親王でも順宮厚子内親王でも婚約後往復をしてる。
これらの変化を考えると、事情に即したことをせねばならず、今一つそう早く結婚することもどうかと思う。
例えば二十歳というようなことは、そして婚約のあまり長いのもどうかと思う。

1951年10月22日
昭和天皇◆東宮ちゃんは普通の学生のように3年とか4年とか留学するということはできぬ。
私の外遊のようではないにしても、学校に入学して学問するというではなく、学生生活の経験のための短期の留学ということはあるかも知れぬ。
田島長官◆明仁皇太子来年高等科御卒業につき、学習院大学部へ御進学願うことに決定、奏上のはずでありまする。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治 日記 宮内庁長官

1952年1月3日
明仁皇太子・常陸宮に拝謁。
明仁皇太子無表情、常陸宮御言葉ぶりよろし。

1952年1月7日
明仁皇太子妃の範囲、第一回打ち合せ。

1952年3月14日
明仁皇太子エスケープ事件。

1952年3月15日
明仁皇太子エスケープ事件その後のこと。

1952年11月11日〔皇太子の立太子式の翌日〕
昭和両陛下および明仁皇太子拝賀す。
少々感情的になりちょっとベソ。

1952年11月17日
明仁皇太子にも stick する御癖あり、ちょっと注意を要するとのこと。
昭和天皇の手指のこと話す。
当然あれと関係あり、清宮貴子内親王にはなしと。

1952年11月20日
小泉参与来る。
明仁皇太子の御癖と御疲労の時のことと。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『入江相政日記』侍従長

1952年2月16日
6時ちょっと前に我が家に明仁皇太子・常陸宮・順宮厚子内親王・清宮貴子内親王御参。
御夕食御会食。
御食後、麻雀。
家でも麻雀を遊ばしてた由。

1952年6月19日
東宮侍従黒木従達が明仁皇太子にこの夏の御予定についてに伺ったら、
「那須と軽井沢がいい。終始常陸宮と一緒でいい」とおっしゃった由。
これは反省遊ばした結果だと言う。
それはそうであろうけれど、さればといってそのまま安心していいものかどうか。
実に考え方が安易すぎると思う。
山田侍従と二人であきれ返ってしまう。
常陸宮伝育官東園基文が問い詰めてみたが、まったく大丈夫と考えているらしい。
何をか言わんやである。

1952年7月24日〔葉山御用邸〕
東宮参与小泉信三・東宮大夫野村行一参邸。
一時間半にわたって明仁皇太子の御成績について昭和両陛下に申し上げる。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
宮内庁長官 田島道治『拝謁記』

1952年1月11日
田島長官◆皇太子妃の問題でありますが、鈴木菊男に学習院の名簿による机上調査を頼みましたが、明仁皇太子の御結婚の時期の問題で高等科1年くらいの人から初等科6年くらいの人まで適格となりますが、昭和天皇の場合は宮内大臣波多野敬直が御成年と同時に突如久邇宮良子女王のことを申し上げましたとのことでございますが。
昭和天皇◆私は突然であったが、節子皇太后〔貞明皇后〕にはその前にいろいろお話あったらしい。
(1)そう早く結婚はせぬが、まず24~25歳ぐらいか。
(2)大学卒業せず外国へ行くかもしれぬが、外国行く前に決めることは必要。
(3)自分と良子との2つの歳の差は少し近すぎる。
若い時はさほどでないが年を取ると女の方が早く老いるゆえ、5つぐらい違うほうが良い。
さりとて10は多すぎるゆえ5つ違い見当が良い。
(4)家柄関係で血の繋がる所となることもやむを得ないが、イトコはいかぬ。
イトコ以上離れた方が良い。
全然血縁ない所もとより良い。
(5)少数ながら複数候補者を東宮ちゃんに出すという田島の考え方は良い。
田島長官◆先の長い問題ではありますが、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の時と同様極秘に周到に運びまするために、昭和両陛下・明仁皇太子の御心持を伺いたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい、二人に言おう。

1952年2月11日
田島長官◆英ジョージ6世の葬儀は東京で大使館主催の弔祭式があるかと存じますが、ヴィクトリア女王の時は小松宮彰仁親王夫妻、エドワード7世の時は嘉仁皇太子夫妻〔大正天皇夫妻〕ジョージ5世の時は高松宮夫妻が御名代ということでおいでになっておりますが、今回は国際関係が正常でございませぬので御名代はどなたにお願い致しましょうか。
御思召を伺います。
昭和天皇◆秩父宮は御病気で御無理ゆえ、高松宮にお頼みしてもらおう。
田島長官◆良子皇后御名代も高松宮妃にお願い致しましてよろしゅうございますか。
昭和天皇◆御健康はどうかしら。
万一健康上の問題があれば秩父宮妃にお願いしてくれ。
田島長官◆まだ先のことでありますが、戴冠式が6カ月後なれば国交回復後と存じます。
その節もし駐英大使でなく御名代というような場合はいかがでございましょうか。
昭和天皇◆御親類の国は別として他の国の参列者の振り合いを見て、例えばフランスが大統領自ら行くという場合で政府も希望するようなら、私はむしろ名代が行った方が良いと思う。
その時もそれはやはり高松宮だ。
秩父宮は行かれないから、また三笠宮は歳もお若いから。

1952年2月18日
田島長官◆三笠宮が田島の部屋へおいでになりまして、
「戴冠式の御名代はどうなるか、私の外遊ということについて最も良い機会だが」との仰せでありました。
突然でありましてビックリしましたが、直接こんなに早くお話が出ようとは予期いたしませんでしたが、
「8月よりもっと早いかもしれませぬ。したがって正常国際関係が復活していないかもしれませぬし、またその際皇族がお出かけになることになるか大使的な人になるかも分かりませぬ」とハッキリせぬお答えを致しておきましたが、昭和天皇に直接お話があるかもしれませぬゆえ、ちょっとお耳に入れておきます。
昭和天皇◆高松宮は社交のことは御上手で、私なんかよりとても御上手だし、秩父宮が行かれれば一番良いがそれはダメゆえ、高松宮はこういう時には適当な御長所がおありだ。
この前高松宮が行かれたのはガーター勲章の御答礼で戴冠式とは違う。
戴冠式だからねー。

1952年2月25日
田島長官◆今日の新聞には戴冠式はやはり8月7日で、先方から招待状が来てみなければわかりませぬのだそうでございます。
昭和天皇◆イギリスは昔から親善だから、できれば今後も。

1952年2月29日
田島長官◆秩父宮から御手紙をいただきましたが、戴冠式に御名代の問題があれば明仁皇太子がよろしいということであります。
田島はそれまで想像もいたしませんでしたが、御手紙を拝見してみればごもっともであり筋の通ったことで、具体的に考えてみるだけの要はあると思いました。
侍従長三谷隆信は消極的で、東宮職では若い連中はとにかく東宮参与小泉信三・東宮大夫野村行一の間では否定的に傾いております様でありますが、秩父宮に直接お伺いして昭和両陛下に申し上ぐべきと存じまして藤沢〔秩父宮別邸〕へ上りました。
秩父宮は例の通り御自分の結論に反する事は枝葉的にお考えになりお論じになりますが、秩父宮の仰せは大筋はよく通っております。
「戴冠式御参列は難しいことでなくなんでもないことで御役目というものがない。これは高松宮がガーター勲章の御答礼においでになったのとは全然違う。スターとして主役は何もない。ならびに大名的である」ということで、御自分様の御経験の順序を伺いました。
「前夜グロスター公の晩餐会から始まって、当日は式部官に誘導されて席にお着きになるだけ、国会での午餐・バッキンガムでの午餐も向こうの人は不慣れな方にはちゃんと気をつけてくれるから心配無用。私的にはクイーンがお呼びになる少数の宴会もあろうけれども、大してお困りになることはない。随従の者もある程度までお付き添いできる」
「軍艦は無し、飛行機も汽船も外国のものであり、右翼の者から問題にされる」ということも申しましたが、
「日本が一等国だった時のことを思ってはだめだ」との仰せでした。
随行者の人選の問題は松平康昌らの名前なども申し上げましたが、
「松平は十分いいとは言えぬが、最近イギリスなどへ行ったということで及第点とも言えぬこともない。イギリスに在勤・在住・留学等の然るべき人がきっとあるだろう」との仰せでありました。
「なかなかありません」と田島が申し訳しても、
「小泉さんというような人も知らなんだが、明仁皇太子にああいう人ができたように探せばあるよ」との話でありました。
重光葵も足が悪くなければとの御話もありましたが、これはイギリスでは好評でもとにかく戦犯の点もあり問題になりませんし、徳川家正など良い点たくさんありますが、グロスター公接伴として当時問題になりました由で問題になりません。
秩父宮は非常な御熱意で、「話が進まなければ昭和天皇に直訴する」との御話でありました。
田島もこういう場所へ一度おいでになればその御経験は御自信をお付けになる機会でよろしいかとその点は結構と存じますが、田島・宮内庁次長宇佐美毅の積極に傾くこと三谷侍従長・小泉参与の消極に傾くこともあくまでも感じで、まだ意見と申すまでのものでもございません。
昭和天皇◆交通の問題を心配するのは右翼ばかりではない。
東宮ちゃんとしてはまたとない機会であるが、東宮ちゃんは身体が健康とは言えないし、行くとすれば香港・シンガポールの線はどうしても不可と思うゆえ、カナダかアメリカ経由ということになる。
そうするとイギリスに行く前に相当疲れてしまうと思う。
その上イギリスの儀式ということは主役でなくてもやはり疲れるから、その点どうかと思う。
秩父宮の議論は筋は通っている。
これは三笠宮をやめてもらうには非常に良いがねー。

田島長官◆明仁皇太子のスキーお出かけに関しまして、スキー場へずいぶん人が押しかけまするので、旅館その他の関係もあり首相吉田茂から白洲次郎の小屋をというような話も出ました次第で、東宮職としては県庁や一般の人に迷惑をかけぬ趣旨のもとに今回は尾瀬沼ということで、人里離れたところだそうでございます。
何か御病気の場合心配で外科の他内科の医者をもお連れになる必要ないかと念を押しましただけで過ぎましたところ、25日御出発の前々日に情報が入りまして、昭和天皇に対し京大生が試みようと致しました公開質問のようなことをするという噂、また100名ばかりの者が御歓迎申し上げるというようなことを聞き込み、小泉参与も心配いたしまして野村東宮大夫・黒木東宮侍従・宇佐美次長と5人で相談の結果、警察が責任を持つという以上、王者としていったん御発表になり地元の関係の者もそのつもりでおりますのを誰にもわかる理由でなしにお取り止めにはなれぬ、それも単なる嫌がらせ程度を例の球根栽培の指令でやることとしか田島には思えませぬゆえ、十分注意しておいで願うことに決定して、御予定通り25日お出かけになりまして、国旗を掲げたり奉迎歌を歌ったりいたしまして何事もなく、山小屋への御予定も御無事でございます。
京都の事件といい近畿行幸のビラまきといい、日共の指令に動く人間のある限り油断はできませぬのが、今回のことで教えられましたゆえ、御成年でもあり明仁皇太子の御行啓につき、御子様であった時のように東宮職だけで大体決め、形式的に本庁が当たるというのはどうかと考えるように至りました。
今後は御行啓の場合の侍従職と本庁との関係のように、東宮職と本庁と密接に統合して動くようにしたいと存じております。

昭和天皇◆東宮ちゃんの御名代の話ね、良子と話したのだが「それはちと早い、若すぎる」と言ったのだ。
しかし私が「私がイギリスへ行った歳と比べると1年かそこらの差だよ」と言ったら、
「そうですか。そんならむしろ賛成です。行ったほうがいい」と言うのだ。
それでまたとない機会だし筋の通ったことだから、具体的な事とか客観情勢とか国民感情とかで行けなくなることもあるかもしれんが、それらの点が全て差し支えないならまあ望むという方の考えだから。
実は私は東宮ちゃんが長く留学というようなことはあまり好かぬので、そういう意味での留学とか洋行とかいうことはやめたいと思うぐらいだ。
アメリカが留学など言う時でも、これをやっておけばそれを断るにもいいしね。
田島長官◆前例ではイギリスからの御招待があって決まるのでありますが、敗戦の今日果たしてイギリスはどういう風でありますか、それまでは秘密でなければなりませぬ。

1952年3月3日
田島長官◆先日秩父宮にお目にかかりました時、
「明仁皇太子の御服装はさしあたりは普通の服装以外のものは考えません」と申し上げましたら、
「ロンドンの仕立屋では燕尾服でも3回仮縫いをするから3週間ないし1カ月かかる」という御話がありました。
昭和天皇◆秩父宮が戴冠式に行かれたのはまだ日本のいい時で、私が行った時も日英同盟のある頃とは違うとしても、やはりよかった。
今度東宮ちゃんが行っても、その時のような待遇は受けられぬかもしれぬ。
どうもイーデンは労働党の外務大臣より日本に好意を持っていないようだし。
秩父宮の考えも御自分の行かれた時の考えでおられる点が多い。

1952年3月4日
昭和天皇◆昨日ニュース〔映画上映会〕に三笠宮が来られて、
「戴冠式には誰が行くのか」というお話であったから、私は「研究中だ」と言っておいた。
田島長官◆御自分でおいでになりたいとは仰せになりませんでしたか。
昭和天皇◆それは言わないが、行きたいらしい。

1952年3月5日
田島長官◆吉田首相は戴冠式の問題は明仁皇太子で非常に賛成でありまして、秩父宮から御話のあった際すぐ結構と申し上げましたようでございます。
昭和両陛下の御思召もお進みであり、秩父宮は御発起であり吉田首相も大賛成とありますれば、経費の点もまずよろしかろうと存じます。
この問題は新聞記者の注意を引き、今朝の新聞にも高松宮とか出ております。
昭和天皇◆東宮ちゃんは船に弱いが、それは寝てればいいから船がいい。
飛行機は墜落せぬと限らぬから船がいい。
フランスは共産党が多いからやめか。
それでもベルギー・オランダ・スウェーデンは王国だから行った方が良い。
田島長官◆随員のことも参考までにというような態度で、吉田首相は山梨勝之進〔元学習院院長・元海軍大将〕と松平信子〔秩父宮勢津子妃の母〕を挙げておりました。
「海軍大将で?」と田島が申しました節、
「軍縮の時の次官で、その後は学習院長であり、イギリスにいたこともあり、英語を話し文学の方もわかり、適当と思う」との話でありました。
「女さんは?」と田島が申しましたら、
「松平夫人ならば王室のことはよく知り、また友人も多いと思う」というような意見でありました。
(昭和天皇は「この際女では」とて信子さんのことは問題外らしく、山梨は「老人で」との御話)
田島長官◆なお吉田首相はしきりに「小泉はダメですか?」と話がありましたが、
「足が無理でありますから」と申しておきました。
〔小泉は空襲により顔に火傷の跡が残り、足が不自由だった〕
昭和天皇◆小泉が一番いいが、イギリスであの火傷はどうだろう。
話が出て爆弾の火災のこともどうかとも思う。
私に付いて行った沢田節蔵はどうだろう。
田島長官◆物の切り盛りはできませぬ。
人間はよろしいかもしれませんが、言葉数が多いだけで一向とりとめはありませぬ。
弟の沢田廉三はこれに反しましてなかなか気の利いた男でありますが、少し才気すぎて人物が明仁皇太子に御供するという面に欠けるところがあります上に、戦争中に仏印に参りました等でちょっと問題になりません。
昭和天皇◆山梨は人物が立派で吉田がいいというのはわかるけれども、なにぶん老人でどうかと思う。
小泉は顔の火傷のことでイギリスに行くにはちょっとどうかと思う。
田島長官◆起居すべて不自由で軽井沢に参りますにも妻が参りますほどゆえ、小泉参与はダメでございます。
昭和天皇◆それでは結局、式部官長松平康昌か。
田島長官◆積極的に適任の点はありませぬも、秩父宮も最近渡英の点などで及第との御話で、まず無難で及第点はありまするが、吉田首相がいかがでございましょうか。
昭和天皇◆前田多門はどうか。
田島長官◆イギリスにはおりませぬが、アメリカやスイスには在勤いたしまして、英仏用は足すかと存じます。
田島は親しい友人でございますが、必ずしも適任とも申されまぬ。
安倍・小泉らの間にさほど重く見られておらぬのではないかと存じまする点も気になります。
それよりも前田の長男前田洋一という者は明仁皇太子のフランス語の先生で、英仏語とも堪能であります上に、三谷侍従長の下で外交官も致しておりましたし、事務の才能もありますので、随員には適格性があると存じております。
小泉参与はむしろ山梨より元外務大臣野村吉三郎の方が良いと思ってたようでありますが、アメリカならばとにかくイギリスではと存じます。
昭和天皇◆松本俊一という外務次官をやってた人物はいいがねー。
田島長官◆これは人物だと聞いております。
三谷侍従長は駐米大使堀内謙介はいかがと申しておりました。
昭和天皇◆戦争中に外務次官をしてたからあれはいかぬ。
田島長官◆人物は温厚でありまするが、少し温厚にすぎるようでありまする。
クリスチャンでありますが少し活気に乏しいと申しますか、御批准書紛失事件は少し本人に気の毒な事情にあったと三谷侍従長は申しておりました。
昭和天皇◆永井松三はとても問題にならぬ。老人でとてもダメ。
(永井は招待状なしにイギリス弔祭式に参りし話・勲章を下げて来た話・それを忘れて三谷侍従長と話したなど申し上ぐ)
昭和天皇◆三谷はどうだ。
田島長官◆三谷侍従長はヴィシーの点がいかがかと。
〔三谷は戦時中フランスの親ドイツ政権ヴィシー政権の時の日本大使だった〕

1952年3月7日
田島長官◆戴冠式の件、第一に船にしましても飛行機にしましても御疲労になることと思われまするし、次に船はまず大丈夫でありまする代り、昭和天皇の時の軍艦とは違いアメリカ汽船等であれば新聞記者の同乗者が相当あります上にアメリカの乗客が相当うるさく、結局船で御静養できず御疲労になるということで、それよりは飛行機の方がよろしくて、同乗者は制限されまするし、早くお着きになって御静養の方がよろしいとの意見。
明仁皇太子となれば飛行機会社の競争激しく、そのためには何か失敗すればその会社の運命にも関しまするゆえ最良の飛行機・最良のパイロットを必ず使うものと思われ、決して危険はないとの説もありまして。
昭和天皇◆うん、それもそうだ。飛行機だねー。
田島長官◆新聞記者なども宮様は三殿下〔秩父宮・高松宮・三笠宮〕で、秩父宮は御病気として、他の二殿下ではあまり世の注目を引かぬらしく、ひそかに明仁皇太子と思ってるのもあります。
昭和天皇◆どうしてそんななのかねー。
高松宮は社交はお上手だし、内地でもいろいろお出ましになるが、それがかえって困るということになるらしく、節子皇太后〔貞明皇后〕から直接伺ったが、埼玉県県会議長が直接節子皇太后へ『高松宮は困る』と言ってきたことがあるとの話で、節子皇太后は否定の御返事をなすったと聞いたが、そういうこともある。
田島長官◆実は吉田首相が初めから明仁皇太子と思いましたのも、秩父宮・高松宮がイヤなためもあるかと思われます。
昭和天皇◆吉田はどうしてかねー。秩父宮はいいようだが。
田島長官◆高松宮は御招待もお断りしますし、封書も拝見せんでお返しいたしますし、吉田首相は感情的にイヤらしゅうございます。

1952年3月12日
田島長官◆28日御陪食には明仁皇太子お出まし願います事はお許しを得ましたか。
昭和天皇◆聞いたが、知らぬ人も多く、話題に困ることはないか。
田島長官◆家永三郎は歴史の博士で御承知ゆえ、前田陽一ぐらいでございましょう。
安倍・小島もおりますゆえ、話題にお困りのことはないと存じます。
侍医勝沼精蔵に診察前に極秘で、御洋行のことあるやも知れずこれにお耐えになる御健康か否か申しておきましたが、拝診後に十分およろしい御健康とのことでありました。
勝沼は飛行機渡欧の経験もありまするゆえ、その線も付加して御疲労になる事なども申しましたが、大丈夫とのことでありました。

1952年3月14日
昭和天皇◆昨日小泉と野村の東宮ちゃんの教育の話を聞いて親切なのに驚いたよ。
私の時と比べて想像もつかぬほどのことだ。
ピアニスト原智恵子とかピアニスト安川加寿子とかの女流音楽家を呼ぶとか、映画なども見るらしいし、誠に自由なことだと思う。
個人教授でない以上大家に過ぎると言うが、私の時でも大家であった。
大家は教育法がまずい学殖だけと言うが、それなら他の生徒も興味がないはずだと思って聞いたが、この点あまり返事がはっきりしなかった。
私は東宮ちゃんは国語や漢文に興味がないのは教授法のためではないと思う。
田島長官◆明仁皇太子の御成績のことでございますが、学問で身を立てるとかいうのでなければ、ビリでは困りますが1/3ぐらいでおいでなれば結構と存じます。
入間野武雄の話に新木栄吉が7番で1番の小林正一郎と申すは銀時計で、二人とも日銀に入りましたが結局小林は理事で終わり新木は総裁になりました。
昭和天皇◆陸軍や海軍で剣など褒美にもらったのが案外ダメだ。
田島長官◆明仁皇太子に関しては宵っぱりが悪い習慣で、これはお直し願いたいと存じます。
勝沼侍医も申しておりまして、節子皇太后〔貞明皇后〕の御遺伝かなどと申しておりました。
昭和天皇◆西洋流の夜会などはあまり早く寝る癖の人は困る。
(明仁皇太子のことは無意識に御弁解的なこととなる)

1952年3月22日
田島長官◆書陵部長鈴木菊男と管理部長三井安弥でありますが、これを入れ替えに致したいと存じます。
その方が適材適所と存じます。
昭和天皇◆人事のことはいいが、明仁皇太子妃の調べを鈴木がやってたのはどうなるか。
田島長官◆一応学習院分だけ調査済でありますし、他の学校は学習院以外はどうかと思いまする。
昭和天皇◆外遊と決まればそうもいかぬかもしれぬ。
田島長官◆今回の戴冠式の御外遊については特にお考え申し上げる必要はなく、御留学のような長い御滞在でありましたらその前に明仁皇太子妃をお決め願うがよろしいかと存じます。

田島長官◆吉田首相は随員に山梨と申しておりましたが、若い人はどうも山梨の長所はあまりわかりませず、侍従長大金益次郎が秘書課長高尾亮一に「山梨さんは偉い」と申しました節、
高尾が「どこが偉いのですか」と申し、大金は「歳を取ればわかる」と申しました由。
宇佐美次長も「まだ偉い所がわからぬ」と申してましたゆえ、明仁皇太子もお若うございますゆえ、世代ということは考えなければならないと存じます。
昭和天皇◆山梨は細いのだよ。
野村吉三郎はボーッとしてる。
松平恒雄なども野村はボーッとしてると言っていた。
下の者は野村の方がいいのだろう。
吉田は山梨と松平信子がいいと言ってたが、
私は「松平は女で老人で、たとえイギリスのことを知ってても供奉長官というわけにはいかんと思う。山梨はいいと思うが若い者の考えもあるので、考えておく」と言っておいた。
(松平信子については絶対反対、山梨についてはこれ以上の人がなければまあいいという御気持に拝す)
元侍従武官鮫島具重について伺ってみしも、
「いい人というだけで、とうてい供奉長官として切り盛りするという人物ではない」
元常陸宮伝育官桑折栄三郎について伺ってみしも、
「まあ、桑折ぐらいか」との仰せ。
両人とも、とてもダメとわかる。

1952年3月25日
田島長官◆三笠宮がおいでになって、
「東宮様は決まったか」とお尋ねがあり、
「三笠宮様も好機会があればお出かけ得られます」と申し上しところ、
「ヘルシンキオリンピックはどうか」との話がありました。
よほど洋行に御熱心と存じます。
昭和天皇◆大事なことを忘れていた。
鮫島は南方の司令官だったのだから、あれが良ければ三谷のヴィシーもかまわぬし、小泉だっていいのだがねー。
田島長官◆戦争の司令官たることは三谷侍従長のヴィシー以上に悪いでございましょうが、小泉参与の方は戦争犠牲者の方でありますから。
昭和天皇◆しかし戦争の話に繋がるからやはり良くない。
それから松平信子だがねー、女でダメと言ったが男女同権でもあり先様が女王だからいいかもしれん。
どうしても誰もいない時には最後の切り札としてどうかと思ってる。
信子は良い点もたくさんあるがいかぬ点もあるので、それは誰か若い人でその欠点を補う人を付けたらいいのではないかと思う。
しかしこれはどこまでも最後の切り札だよ。
信子をどうかと思った一例は、節子皇太后〔貞明皇后〕に宮中服のことをよく伝達してくれなかったことだ。
これは松平恒雄〔元宮内大臣〕と信子〔恒雄の妻〕の連絡が悪かったためかもしれん。
また信子が私の気持がわかってても、節子皇太后への申し上げようがいけなかったのかどちらか知らぬが。

1952年3月26日
昭和天皇◆今日の学習院の卒業式、吉田も慣れてきて演説が上手になったねー。
田島長官◆吉田首相も明仁皇太子について、よろしい印象でありました。

1952年6月24日
昭和天皇◆この間会食の時に東宮ちゃんが、学習院高等科の優秀は東大へ行くから、その次のが進級してる所へ、外部から入って来る者が相当あり、これが多少対立し、外部から来た者はやはり進歩的と言うか左的であり、学習院高等科から登ったものはそうでないので、なかなか難しいところがあるとのことだ。
学習院長安倍能成は誠に人格はいいが、そういうことを処理するのに進歩的な方に譲歩する傾きがあるのではないか。
米内光政と似てるのではないか。
昭和天皇◆学習院も世間の大学並に左的な空気はありましょうし、いずれの大学でも教授・学生共に進歩的でなければ一日も治まらぬ情勢ゆえ、安倍も立場も非常に困難だと思います。
勇気がないと言うより、実際的でない理論的であるかと思います。
全面講和論のごとき態度であります。
緒方竹虎に随行しました〔朝日新聞社出版局長〕嘉治隆一の話に、
「蒋介石政権では中共と正面に反対しておりまする以上、日本が国民政府に援助せぬにせよ、少なくとも中共に勢いをつけることだけはやめてもらいたい。南原繁・安部能成・矢内原忠雄というような人の言論は5万の援兵ぐらいの価値がある」と申しておりました。
明仁皇太子の教育の面も大学はなかなか難しく、場合によりますればお辞め願ってもよろしいと考えております。

1952年6月25日
昭和天皇◆もし東宮ちゃんが学習院を辞めるとなると学習院の声価に関すると思うが、その点はどうだろう。
田島長官◆場合によれば必ずしも学習院御在学の要はないのでお辞めもよろしいと申し上げましたつもりで、御退学を願うと腹を決めたわけでも何でもございません。
昭和天皇◆いや、学習院としては東宮ちゃんが辞めたとなれば評判が悪く影響するだろうから、東宮ちゃんの話を聞いても社会科がどうもいかぬとのことで、学習院大学教授清水幾太郎というのを喧嘩両成敗で辞めればそれでは良いのではないかと思うのだ。
田島長官◆安部は人物はよろしいが議論は公平というわけで、マルクスの勉強もよろしいと公然と申しておりますが、現実離れした理想論をする頭の傾向で全面平和論を固持しておりますことで、いつか田島が「清水はひどい」と申しました時にも、「考えてはいるが」というようなことでありました。
どこでも大学長は相当進歩的でなければ一日も務まらぬような情勢でありますが、最後には御退学を願う場合もあると小泉参与と話し合いましただけで、具体的にその方向へ進んでるわけではございませぬ。
昭和天皇◆いや、私の学問所は洋行の機会にやめになったのだから、今度の戴冠式に行くことになればその時がいいと思う。

1952年8月27日
田島長官◆立太子の礼に関しての献上の問題は一切お受けになりませぬ方がよろしいということでお許しを得まして通牒いたしましたが、竹田宮恒徳王が馬術オリンピック出馬の馬が逸物であるために明仁皇太子に御献上になりたく、さりとて馬術の方にはその資金がなく東京都知事安井誠一郎に話し込み、都よりの献上品ということで知事から話がありまして、皇室経済法の話を致しまして駄目と申しましたところ、宮内庁へ寄付ということならば結構、ただし献上一切やめの例外を東京都によろしいとすれば全国各都道府県それぞれに致すこととなり通牒の趣意に反しまするので、全国の都道府県全部で馬一頭を宮内庁へ寄付し、明仁皇太子御乗用ということになりまするということで、内閣の方とも話し合いまして決定いたしました。

1952年9月8日
田島長官◆小泉参与が「明仁皇太子はdutifulである」と申しまして、先般の長野県御旅行の際も大変よく遊ばしたということで結構なことと存じております。
昭和天皇◆評判がいいのはいいことだ。それにしても宮様方は。
田島長官◆三笠宮が皇居前広場をメーデーに禁じ警視庁の練習に許すのかどうかということを厚生大臣吉武恵市に御話になり、それが警視庁に伝わり警視庁では皇居内の一部を貸してくれとて申して参りました。
はなはだ面白くないのでございます。
御意見を宮内庁の者にでもちょっとお漏らしになればと存じますが、直接政府の役人に仰せばまずい場合を生じると存じます。
昭和天皇◆常に政治向きの発言なきよう言ってあるのだが。
田島長官◆東宮大夫野村行一辞意のことは申し上げましたが、小泉参与とのコンビの点を考えまするとなかなか詮考が難しくなりまするが、後藤光蔵を考えました。
陸軍省軍務局・参謀本部等には無関係で教育総監部にあり、また侍従武官として昭和天皇も御存知でありよろしいかとも考えましたが、吉田首相はなるべく軍人はやめてくれと申しまする上に、本人は申し分ない者としましても友人たる軍人が東宮職に訪問することはありえますし、それがよからぬ誤解を生みますことは避けなければなりませぬのでこれはやめました。
元文部次官日高第四郎がよろしいと存じまして、学習院院長安倍能成からも3回ほど説いてくれましたが、結局辞退いたしまするので思い切りました。

1952年9月10日
田島長官◆外務省から連絡がありまして、いよいよエリザベス2世戴冠式に昭和天皇の御名代がおいでいただけるか、またそれはどなたかを御通知願うというような申し入れが、駐日イギリス大使デニングから外務大臣宛にありました由。
(とて、右文章を翻訳して申し上ぐ。
ミッションは3人以内とか一行も最小限度とか注意事項に)
昭和天皇◆3人の制限が一行のことでなければそれでよろしい。
(交通に関しては往路カナダ経由・帰路アメリカの御希望あり)
昭和天皇◆フランスは共産党強きが如何。

1952年9月13日
田島長官◆イギリス戴冠式の招待が参りましたために吉田首相と打ち合せましたところ、これを閣議に付して決めるとのことでありましたが、閣議は機密が保たれませぬからと交渉を重ねまして、閣議で原則として御名代は御差遣に相なるということだけ決めましたが、極秘扱いで議題からも消し右の書類も回収いたしました由で、外務大臣岡崎勝男と話しましたところ、外務省としては今月一杯いっぱいくらいに原則的なことを返事をいたし、どなたがお出かけになりますかということは今年一杯くらいと申しておりました。
イギリス女王にどなたということがわかるまでは秘密にというイギリス側の希望も、他国の招請に応ずる具体的返事など公表されますると新聞社の問い合せもありましょうがと心配しますが、岡崎外相はノーコメントと申しておりました。
予算の裏付けのないのは困りまするが、これは総選挙後の国会の補正予算以外に手はなく、予算を作りますためには日程供奉員御巡遊国等目安を宮内庁で秘密に立てませんと大蔵省へ要求もできませぬゆえ、極秘でこれにかかっております。
昭和天皇の御意思は御決定と拝しまするが、明仁皇太子は既に御了承でございましょうか?
昭和天皇◆招待状なき以上まだ話していない。
私が言うか、良子にでも言ってもらうか、田島の方からか。
田島長官◆昭和両陛下から御内話願えばよろしいかと存じます。

田島長官◆明仁皇太子御名代のことは極秘のことでありますが、秩父宮の御発言によって参りましたことゆえ、招請のあったことぐらい昭和天皇から秩父宮と御話になりますることは如何と存じました次第であります。
(別に何とも仰せなし)

1952年10月16日
昭和天皇◆順宮厚子内親王の結婚式に比べると、今度の皇太子の式典〔立太子の礼〕の方はなんだか温かみがないようだねー。
田島長官◆国事となりますると御血縁の方も御出席願えぬというような点多少変でありまするが、国事という建て前は取った方がよろしいと存じましてそうなりました以上、今日の場合やむを得ませぬと存じます。

1952年11月4日
田島長官◆立太子の礼もだんだん近づきまして、鷹司信輔夫妻〔孝宮和子内親王の舅姑〕・池田宣政夫妻〔順宮厚子内親王の舅姑〕のことを承りましたが、これは御召になりますのか、あるいは何か賜物でよろしいのでございましょうか。
昭和天皇◆私は東宮ちゃんの兄弟みな揃うという日に、その二夫婦も入れたらいいではないかと思ってる。
田島長官◆今の御話でありますと、孝宮・順宮の夫の両親は揃ってるのに、照宮成子内親王の〔舅姑〕東久邇宮稔彦王&東久邇宮聡子妃はなぜお招きないかということになりはいたしますまいか。
昭和天皇◆それは菊栄親睦会に招いてあるからと言えば、照宮成子内親王はわかると思う。

昭和天皇◆このあいだ東宮ちゃんが秩父宮や高松宮なんかをお呼びした時の話に、高松宮が結婚問題をお聞きになった時、東宮ちゃんが私たち〔昭和天皇夫妻〕は二つ違いだということを言ったそうだ。
これは邪推だが「私たち〔昭和天皇夫妻〕は二つ違いだ」と言ったことの裏には、自分にも二つぐらいで良い女性を心に描いているようなことはないだろうか。
田島には前に話したように、私たちよりは少し離れた五つ六つ違いぐらいがいいと言ったが、もしそういうことがあればそれでまた考えねば。
田島長官◆それは重大問題でありまするが、昭和天皇の仰せもあり一応の適当年齢者を調べ出す仕事を書陵部長三井安弥がやっておりますが、その際にも年齢はそう近くないことに致して考えておりましたところが、小泉参与が明仁皇太子と二人だけでいろいろ御話の際、「比較的早く結婚したい」との意思を表明されたということを聞きました。
早く御結婚となりますれば明仁皇太子妃の年齢は明仁皇太子に近くということになります。
また先年三里塚へ馬にお乗りにおいでになる時、やはり乗馬をされるというので伏見宮の二人目の方〔伏見章子〕に対して御希望がありましたが、世間がうるさいからとておやめ願ったことがあります。
特定の方として考えられるのは、ちょっと伏見宮くらいであります。
昭和天皇◆伏見宮は短命の筋で。
田島長官◆明仁皇太子の御配偶のことは最も重大でありますゆえ、小泉参与ともよく相談いたします。
昭和天皇◆東宮ちゃんの結婚に関連してだが、私の経験によればイギリスの時のメアリー皇后ほどの教養の高い方でも、私に恋愛とか結婚の問題をお話かけになったことがある。
今度東宮ちゃんが行くについても、エリザベス女王はお若いし、どんな御話が出ぬとも限らぬ。
そういう点は西洋は日本とは違うからねー。
田島長官◆おでかけの時はあらかじめそんな御回答も用意して。

1952年11月7日
田島長官◆だんだん立太子の礼が近寄りまして、東京会館のごとき大きな布を下げ「奉祝立太子礼」としてありますし、宮内庁側は消極的でありまするのに、世間の関心は意外に大きいので驚いております。
昭和天皇◆吉田が話してた東宮ちゃんへの祝品に対する服部時計店の職人の話といい、また田島が話した玉座の製作者の話といい、一方に共産党のようなものがあるが、また地方にはああいう日本人が昔ながらの伝統で皇室のこと・国体のことを思ってくれるかと思って私はうれしく思ったことだが、今の東京会館の話もそうだ。宮内庁側としては消極でいることがよろしい。
そして自然に一般に関心の高まるということは誠に結構だ。
田島長官◆この気分が根無し草でないように、根底のあるものにならなければと存ずるのでございます。
付和雷同的でない、心からの気持ちになってほしいと存じます。

1952年11月12日
昭和天皇◆飛行機会社の運動があるようだが、安全確実ということならば、東宮ちゃんは船に強くないから飛行機の方がいいかもしれぬ。
田島長官◆田島の所へは先日遠回しに日航社長柳田誠二郎が申して参りましたし、式部官長松平康昌の所へはBOACの者が参ったようでございますが、BOACが特別機を勝手に提供してくれれば別でありますが、先方の定期空路に便宜してくれるということならば、インド・シンガポールなどの東南アジア各地に着陸するのではないかと存じます。
昭和天皇◆それはいかん、それはいかん。
それならカナダを通り、そして絶対安全ならば飛行機もいいということだ。

1952年11月14日
昭和天皇◆西洋人また日本の人でも今度の立太子礼、何か聞かぬか。
田島長官◆秩父宮から既にお聞きと存じますが、大使たちの夫人が呼ばれなかったので、大いに恨んで残念がっておりますそうでございます。
昭和天皇◆聞いた。そうだ、そうだ。
大使たちはそれで余計に羨ましがらせて、こうだったああだったと言うことらしい。
田島長官◆饗宴で陶器の杯など相当紛失いたしまするが、これは盗みには違いありませんが、それだけ皇室の物が世間で珍重されまするゆえ、記念にいただきたいとも考えられますので、あまりひどく悪くも取らぬようにしております。

1952年11月21日
田島長官◆昭和天皇は明仁皇太子御渡英の御供小泉の顔の点を御心配でありましたが〔小泉の顔には空襲で受けた火傷の跡があった〕吉田首相からかまわぬとの意見で、
昭和天皇も「首相やら外務大臣やら大使やらの人の意見ゆえ、それならば」と仰せになりましたが、新聞の下馬評では5人の御供は「小泉参与・東宮参与松平信子・首相秘書官松井明・侍医・侍従」とのことであります。
吉田首相は明仁皇太子御渡英の御供として山梨勝之進と松平信子を持ち出しましたが、山梨は歳を取りすぎ、信子は男様の御供に女さんではおかしいとて問題にせず、そのうちどうしても人が見つかりませんので、吉田首相に新聞に名前の出てる下馬評の人名を列挙しましたところ、元外務大臣佐藤尚武のようなバカはダメだという調子でありまして、元駐ドイツ大使武者小路公共もダメだと申しました。
外務官僚徳川家正もダメだと申しました。
昭和天皇◆佐藤のような人柄の人をバカと言うのか。
吉田も自分の嫌いな人はひどく言うねー。
佐藤のような人を馬鹿と言う。
田島長官◆田島も武者小路はどうかと存じまする。
徳川家正もちょっとまずい問題があり、また大小の判断もどうかと思いまするゆえダメと存じますが、吉田は自分の好悪ではっきり源平に分けまするゆえ、田島は吉田に「首相の好きな型の人でなくばダメという主観ではなく、もっと客観的に常識で納得する人を考えて欲しいということと、数は5人は無理ということ」を力説しましたが、そのうちに海軍大将井上成美のことを申しまして、
「昭和天皇も人柄をお褒めになる。逗子のそばで学校の先生をして近所でも尊敬してる」との話で。
昭和天皇◆南洋作戦のとき少し後退しすぎたようで軍令部総長にはどうかと思うが、事務能力は素晴らしいもので、海軍大臣はもちろんできるし実に立派な人だ。
徹底的平和論者で首相米内光政は非常に褒めたし、米内・山本五十六・井上と大臣・次官・局長の時は良かった。
今回の役には軍の作戦ということは無関係であるしいい人だと思う。
田島長官◆田島が「首相がなるべく軍人はやめてくれと言った」と申しましたところ、
吉田首相は「そんなことは言わぬ」と申しまするゆえ、
「確かに首相は言われた。だから元外務大臣野村吉三郎にもらった紹介名刺をまだ使わぬ」と申しましたところ、最近吉田首相は野村にはいい感じではないように察しました。
昭和天皇◆なぜだ
田島長官◆再軍備関係でないかと想像いたします。
昭和天皇◆吉田は自分の好きな人ではなければだめで困る。
吉田が「白洲次郎をアメリカにやる」と言うから、
「アグレマンの取れなかったような人を出して良いのか」と私が質問したの。
そしたら吉田は「政権が代るし、悪かったのはGHQ経済科学局長マーカットに悪かったのだ」と言うのだよ。
それから「私の進駐軍に反したことを言うのを彼がやったためだ」と言うが、吉田は一旦いいとなったらいいのでどうもおかしいね、白洲を使うというのは。
田島長官◆とにかくアグレマンの来なかった人をそういうことは少しおかしいように存じます。
昭和天皇◆そうだよ。

1952年11月27日
田島長官◆明仁皇太子御渡英の随員の首席を急ぎますので、吉田首相から井上成美の名が出ましたが、評判だけではと存じ横須賀まで会って参りました。
誠に立派な人物で人柄の点は申し分ないと存じまするが、山本五十六連合艦隊司令官の下の第4艦隊司令長官でありまする以上はとうていダメかと存じまする。
そこで小泉参与と会見いたしまして、三谷侍従長しかないと申しましたが、宇佐美次長とも熟議致しまして三谷侍従長しかないという結論を得ておりまして、全く符節を合するように感じました。
田島が選択の範囲を定めておりましたことは、明仁皇太子御一方で御供も少なく海外へおいで遊ばしますのでありますから、昭和両陛下の御信頼遊ばす人、直接御承知で御安心の行く人ということを考えておりまするので、式部官長松平康昌は最近イギリスにも参りましたし、侯爵ということもプラスでありますが、なんと申しましても侍従長の方が全てよろしいので、小泉参与も田島も次長も同意見であります上、ヴィシーの点で今まで考えませんでしたけれども〔戦前三谷侍従長がフランスの親独政権ヴィシー政権の駐仏大使であったこと〕今日となりましては三谷一本で行くより仕方ないと存じます。
三谷侍従長でなくば元外務大臣有田八郎がよろしいかと存じますが。
昭和天皇◆木戸は有田を議論倒れだと評していた。
木戸は重光葵とはよく、重光を通して有田と話してた。
また駐日イギリス大使クレイギーと論争してた関係もあるから有田はどうかと思う。
三谷がいい。
田島長官◆ヴィシーのこともありまするが、平和的であるとの定評の昭和天皇の侍従長として4年以上勤続いたし、現にその職にありまするのので問題はないかと存じます。
昭和天皇◆英語・フランス語ができるし、外国の経験はあるし、人柄はわかってるしよろしい。
また吉田は松平康昌が嫌いでとうていダメだ。
東宮ちゃんが西洋人と英語・フランス語で話すと疲れるという話だが、東宮ちゃんはできるだろうか。
食卓の時などは英仏を使うは良いが、会見の本当の話は通訳を使うを原則とすることにしてもらいたい。
そうすれば通訳をする間に考えをまとめることもできるし、その方がよろしい。
そうなれば随員の中に通訳を一人別に考えるか、または私の時のように出先の大使館の人を頼むかである。
私は御用掛山本信次郎が通訳で、英仏伊ができた。
沢田の兄〔沢田節蔵〕は外務省からであり、弟〔沢田廉三〕は大使館で出した通訳だ。

1952年12月1日
田島長官◆吉田首相は「三谷侍従長はよろしいでしょう。〔筆頭随員を三谷侍従長とすること〕ただし師伝としてはどうかと思うから、小泉参与を外務省からでも別動隊として行ってもらって、明仁皇太子が世界をお回りになる御輔導するようにしてもらいたいと思う」と申しますゆえ、
「経費は大丈夫でしょうか。奥さんも同行で」と申しましたところ、
「明仁皇太子のためゆえそれは出しますが、ブラリという訳には行かぬので、外務省の顧問とか何とかになってもらわねばと思う」とてひどく要望でありました。
また「松平信子はどうか?」と申しましたゆえ、
「遊撃隊としてはして下さる場合もあると思いますが、吉田首相は少人数説で、私もその方が良いと思って、余地はありませぬ」と断りました。
昭和天皇◆吉田はずいぶん矛盾したことを言うのだねー。
少人数とか敗戦国らしくとか言ってるかと思うと、明仁皇太子のためなら小泉夫妻を別に行ってもらうとか松平信子をとか言うのはどうも矛盾だ。

昭和天皇◆通産大臣池田勇人の問題で国会がゴタゴタしてる。池田の言うことも正直な点があるが、〔池田は『ヤミ行為等での倒産・自殺は仕方なし』と発言して更迭〕
ああいう言い方をしてはいかん。
政治は人情ということも考えぬと、理屈にあったことを言ってもいかぬし、いい方を注意せぬといかぬが、政情不安で東宮ちゃんの渡英が難しくなるようなことはないか。
田島長官◆対英外交は超党派的で間違いないと存じまする。
昭和天皇◆万一予算の済まぬうちに解散にでもなったら。
田島長官◆その場合には予備金支出ということもありましょうし、御心配ないかと存じます。

1952年12月2日
昭和天皇◆師伝という問題ねー。
来年東宮ちゃんが渡英するのは、私が西洋へ行ったのと同じ年齢だよ。
そうしてみると私の時には珍田捨巳であったが、今度は三谷だが、
〔自分の外遊の補導役は一人だったのに、皇太子には補導役が二人も必要と考えることは〕
どうも東宮ちゃんを軽蔑してることのように思えるがどうか。
田島長官◆吉田首相は一辺倒の人間で、最初から小泉参与が良いと信じ切っておりますのをいろいろ申し上げまして三谷侍従長で承知はいたしましたが、小泉参与が御供することがが明仁皇太子にとって望ましいという一念が、知らずああいう提案になったかと存じます。
別に明仁皇太子に対してどうということはないと存じます。
ただ明仁皇太子は目下大学生で御旅行は見学で御修行でありますから、役人風な人間のみでなく教師風の人が御供する方が良いというだけのことと存じます。

田島長官◆吉田首相はヴィシー問題を〔戦前三谷侍従長がフランスの親独政権ヴィシー政権の駐仏大使であったこと〕
自分一人でよろしいと申しましたが、外務省は今後連絡していかなければなりませんので、外務大臣岡崎勝男と今までの要点を話しまして了解を得ました。
岡崎外相も今さらヴィシーは問題ないでしょうとのことでありました。
昭和天皇◆岡崎も差し支えないと聞けば私も安心だ。
三谷が学習院女子部長になる時 吉田内閣の時 岡崎が次官で、ちょっとヴィシーのことを懸念したことがあったから。
田島長官◆昭和天皇が平和の御方であることは今日内外に周知され、その侍従長を4年半にわたり務めておりまするということで、ヴィシーの勤務は消えると田島は信じておりまするし、芦田内閣の時 侍従長任命の際やはりその点顧慮いたしましたが、GHQ民政局次長ケーディスもなんとも申しませんでしたゆえ大丈夫と存じます。

1952年12月5日
昭和天皇◆吉田はなんだか三谷では物足らぬようなこともいい、小泉のことを言った。
万全を望んでもなかなか難しいので、海軍大将井上成美が良くても第4艦隊司令長官では仕方ないし、陸軍でも後藤光蔵は人物がいいということは間違いないが果たしてこれに適任か、また陸軍中将辰巳栄一はイギリスのことはよく知ってるとして東宮ちゃんの随員長として果たしてどうかねー。
田島長官◆それは世間に納得はないかと存じます。
今朝山梨を訪ねました時に、山梨も「良い所へ落ち着きましたね」と申しましておりましたから、まず無難な人選であったと存じます。
昨夜吉沢清志郎という芦田内閣の時の外務次官に会いましたが、「まあ良いところですね」と申しておりました。
少なくとも一般には無難のようであります。
山梨は井上は人物はよろしゅうございますが少し協調的でない、元首相米内光政の葬式にも上京せぬというようなことが極端だという感じがあるらしゅうございます。
昭和天皇◆老人でなくて、人物が良くて、戦争にあまり関係のない人間というのは、海軍にもなかろう。
田島長官◆吉田首相は元外務大臣佐藤尚武をバカと申しますし、嫌いな者は近づけませぬ剣幕ゆえ、小泉参与のことを引っ込めましたのはよほどの譲歩と存じますが、別の形で何とかしたいと望むのと存じますが。
飛べば間に合うのでありますゆえ、お出かけ後でもよろしいが、今日小泉参与のことを云々しますことは良くないと存じます。
昭和天皇◆吉田は師伝とか言うて私の時の閑院宮載仁親王のこと思っているかもしれぬが、何一つ教えていただいたことはなし、師伝ということは別にない。
田島長官◆駐英大使松本俊一はBOAC御利用はイギリスに感じよしとありますが、クイーンエリザベス号に御乗船も感じよいと存じます。
昭和天皇◆吉田はカナダが飛行機を日本まで出すと言ってるとか言ってたよ。
田島長官◆場合によってはそういう話もできるむね松平康昌から聞きましたが、アメリカの船プレジデントラインもなかなか一生懸命で明仁皇太子に御乗船願えればよろしいらしく、ただいま太平洋の客船はこれだけで他は貨物船でありまするが、プレジデントラインはサンフランシスコでありまするが、場合によればバンクーバーにするとのことで、そうなれば一番よろしいかと存じております。

1952年12月7日
昭和天皇◆東宮ちゃんのカナダ行き、北の方を通る飛行機はやめた方が良い。
私の北海道行きの考慮などから考えても、もしものことがあると悪いから。
田島長官◆明仁皇太子洋行準備委員会の決定として太平洋はプレジデントウィルソン号、大西洋はクイーンエリザベス号として手紙で通告了承を得たいと存じております。
北の方の問題は今回のアイゼンハワー大統領の秘密旅行の点を考えましても、北方ソ連の方は思わしくないと存じますし、日本御出発の時は船の方がよろしいと存じますが、吉田にはカナダ行きの北方飛行機の嫌な理由は申し述べませんでよろしいかと存じます。

1952年12月9日
田島長官◆明仁皇太子御渡英の準備委員会もだんだん進んでおりまするが、随員の方は三谷侍従長・首相秘書官松井明の他に式部官吉川重国、黒木東宮侍従、東宮侍医佐藤久もし佐藤の都合が悪しければ東宮侍医佐分利六郎。
昭和天皇◆佐分利は外科だ。
田島長官◆さようではござりますが、明仁皇太子の御健康状態は数年承知いたしおりますゆえよ大丈夫と存じます。
今一人侍従をつけるかの問題が未定であります。東宮侍従戸田康英をつけるか否かであります。
昭和天皇◆病気ということがあるから。
田島長官◆少人数の建前でありますから。
ロンドンまでの交通はプレジデントライン号とクイーンエリザベス号よろしと決定しまして問い合せましたところ、既にだいぶ満員の様子でございます。
バンクーバー問題もどうなりますかわかりませず、場合によればカナダまで飛行機か鉄道ということかと存じます。
随員の方は判任官級としては会計の人・荷物の人・ヴァレー〔従僕〕ら3~4人というところであります。
昭和天皇◆ヴァレーは語学ができぬると困るよ。
私は原忠道という大正天皇の侍従職の属官であった人物と萩本即寿というヴァレーと二人であったが、これはフランス語ができてよかった。

1952年12月16日
田島長官◆今日明仁皇太子御渡欧の閣議を開きましたそうで。
昭和天皇◆それはとっくに済んでたのではないか。
田島長官◆あれは御名代として戴冠式においでの事でありまして、今日はその前後に欧米各国を御旅行になるという事であります。
昭和天皇◆それで国々は。
田島長官◆ハワイ・サンフランシスコからカナダ・イギリス・フランス・スペイン・イタリア・ベルギー・オランダ・デンマーク・ノルウェー・スウェーデンそれから北米ということであります。
プレジデントウィルソン号もクイーンエリザベス号も確約できましてまず結構と存じます。
乗客輻輳とのことでいかがかと存じておりましたが。
昭和天皇◆やはり乗船してもらいたいのか。
田島長官◆その点もありましょうが、キュナード社〔クイーンエリザベス号の会社〕にはイギリス大使館から何か申したとかとも聞いております。
ただプレジデント社〔プレジデントウイルソン号の会社〕のバンクーバー問題がまだ決まりませんので。
昭和天皇◆それはどうせニューヨークへ来てエリザベスに乗るのだから、サンフランシスコに着いてもまあ同じようなものだ。
田島長官◆バンクーバー着になりますれば問題はありませんが、サンフランシスコ着の場合はカナダと相談して飛行機に願いますか汽車に願いますか決定することになります。
随員も今日閣議で了解を得まして、三谷侍従長・首相秘書官松井明・侍医佐藤・式部官吉川・黒木東宮侍従・戸田東宮侍従、小泉参与の熱心な希望によりまして決定いたし、その代りに随行の事務は3人で合計9人ということになりました。
昭和天皇◆吉田は小泉の問題はもうなんとも言わぬか。
田島長官◆小泉参与のことは熱心でありますが、一応今回の随員はこれだけということに了解はいたしました。
ただし小泉参与も1936年に洋行いたしましたきりで、戦争後の欧米の変化は以前の何十年にも匹敵いたし、明仁皇太子御輔導役として一度視察しますることは必要という意味で、小泉洋行ということが出る可能性はあるかとも存じますが。
昭和天皇◆私の時は朝鮮人の問題がやかましかったが、私はこれはデマだと思っていたが、東宮ちゃんの身辺の問題はよく注意して。

1952年12月18日
田島長官◆明仁皇太子御誕辰拝賀のことでありますが、新嘗祭の時明仁皇太子が殿上で御拝になります時、宮様〔高松宮か三笠宮〕から「前例はあるのか」とのお尋ねがありまして、「あります」と申し上げましたが、その御質問の裏には宮様方はモーニングで拝礼かと思っておいでであったかと想像されますから、
「本来は宮様方も御装束をおつけ願うのであります」と申し上げましたが、「それは嫌だ」との仰せもありました。
それから御神楽の時明仁皇太子御拝の時に臣下は起立いたしますが、もちろん宮様方はおかけのままであります。
これは親王として御同等とのお考えもあるかと存じまするゆえ、御誕辰拝賀となりますると宮様方の御誕辰にも明仁皇太子が賀にお出かけになるべきかという問題もあり、真に難しくデリケートでありますため、御思召を拝したいと存じまして。
昭和天皇◆それはなかなかデリケートだが、皇太子の身位は未来の天皇で、私には叔父甥でも公には一段高いのだから行かぬでもよいと思う。

1952年12月18日
田島長官◆明仁皇太子御渡欧の予算を政府に提出しまするのは会計の規定がなかなか難しく、昔と違って内廷もお貧乏でございまして1,500万円の基礎勘定も2内親王様の持分はお分けになり、節子皇太后〔貞明皇后〕の分は税金の残りは癩病へ御寄付になり減少いたしましたが、幸い投資の株の値上がりのために株の一部を売りますれば1千万円ぐらいできて、残りは最初の基金以上あるかと存じますゆえ、内廷基金から1千万円の御支出をお許し願いたいと存じます。
明仁皇太子の御土産だけでも1万ドルぐらいは御入用かと存じますがこれで360万円、あと670万円は旅費の不足額補充の覚悟がいるかと存じます。
昭和天皇◆株を売るのを何を売るか知らぬが、その売られた株の会社が迷惑することはないか。
田島長官◆その点は絶対にございませぬ。
内廷会計というような名前を出しての所有の形式ではありませぬので、株式投資の金銭信託の形で信託会社が株式を持っておりますゆえ、その点の御心配は絶対にありませぬ。

昭和天皇◆子供の読むような雑誌であったが、東宮ちゃんの立太子礼が占領中であったために遅れたと書いてあったが、これも私の心地とは違った話だ。
私は11歳ぐらいで少尉となり、立太子後はすぐ東宮武官というものができた。
私は武官ほど嫌なものはないとしみじみ思った。
元侍従武官後藤光蔵は例外で、ほとんど軍のスパイで私の動静あることないことを伝えるだけの者で、こんなイヤな者はない。
それゆえ立太子礼を行えば東宮職内に東宮武官ができるから、私は立太子礼を成年後に延ばそうと終始考えてやってきたので、戦争中からずっとそのつもりであったのだ。
それを雑誌に占領中だったためというのは実におかしな間違いだ。
武官が困るので、実は侍従長と海軍のバックでいくらか抑える意味で予備役または予備にして海軍大将にしたのだよ。

1952年12月24日
田島長官◆昨日首相秘書官松井明が参りまして、
吉田首相が「カナダは招請もあることゆえ太平洋は飛行機に願った方がよい。船だとダメだ」と申しましたとの話ゆえ、
「我々責任のあります者がいろいろ研究の結果かく決めることに至りましたことゆえ、これは田島は職を賭しても動きませぬ」むね松井に申しました。
松井によりますれば、最近帰朝しました白洲次郎の説に起因しているようにも察せられますが、松井は連絡が悪いとか言うので相当ひどくやられたようであります。
書面に船のことをも書いて出したのでありますから、今更そんな思いつきで申しましても田島としては聞かれませぬ。
松井が結果を電話して参りましたのには、
「ひどい叱られ方であったが、まあ少し時を置けば」というような語調でありました。
ロンドン郊外に大使館で借りました家も、
「松平信子さんのような人が行けばよろしいが、そういう人が行かねば下宿屋みたようになるゆえやめた方がいい」と申しました由。

1952年12月26日
昭和天皇◆吉田は道路のことも改造のことも何とも言わなかった。
しかし飛行機のことは言った。
それも矛盾してることを言うのよ。
ハワイの日本人があまり上等でないからとか、船中で新聞記者に困らされるからとか言って、
「カナディアンパシフィックの北の方を」と言うから、
「私の北海道へ行くのはいかんという首相の話と、千島の北を通っていく便で行くとは矛盾ではないか。絶対に北の方はいかん」と言ったら、
「それならば南の方を通るように先方へ話してみる」と言うので、
「新しい線を慣れぬパイロットがやることは不安だと思うし、医者の言によれば飛行機は疲れるので乗った時間だけ休養とるが必要がある」と言うと、
「それならば途中ウエーキとかで御休養をお取りになればよいい」と言うが、
「ウェーキ島か何かで休んでも東宮ちゃんは休養になるかしら。島流しのような気がするだろう」と言っても、
「それではカナディアン社の方はやめます」とはどうしても言わない。
「カナディアン社の方で御心配の行かぬようにさせます」というようなことを言って聞かないのだよ。
それから「政府は少しもその決定を知らぬ」と言うから、
「そんなことはない。田島が手紙を書いたはずだ」と言ったら、
「忘れたかもしれない。そういうのは官房長官にしてほしい」というようなことを言う。
それで私は「張群事件の二の舞は困る」と言ったんだよ。
〔式典に招待するランクは各国大公使に限ると決定したため、アメリカ極東軍司令官クラークは招待しないと決まったのに、吉田首相が大公使でもなくクラークより格下の台湾特使張群を勝手に招待したので、急遽クラークも招待することになった事件〕
田島長官◆多くの人が周到に考慮した結果で、昭和天皇もそれがよろしいと仰せのものをずいぶん我を張りますものでございますなあ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
宮内庁長官 田島道治『拝謁記』

1953年1月4日
(秩父宮薨去の御悔み言上)
田島長官◆御喪儀次第は失効いたしました皇室喪儀令を参考としてお決め願っておりますが、その喪儀令の中に直系卑属なき場合の喪主は勅定すとありまして男女の別は買いてありませぬ。
道理でおかしいことはございませぬゆえ、秩父宮妃を喪主に御勅定願いたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい
田島長官◆節子皇太后〔貞明皇后〕の時のように国事と致しますことはできませぬゆえ、秩父宮家御喪儀と致しまして費用を要しまするので、内々大蔵当局とは話し合いをいたしております。
喪儀令によりましても御直拝はございませんし、庶民の間でも最近までは目上の者は目下の者の葬儀には参りませぬ習慣もありまするゆえ、昭和両陛下は御代拝しかるべきかと存じます。
昭和天皇◆秩父宮医療費がかかっているだろうから、この間のだけでは足るまいから、その点よく研究してくれ。
田島長官◆御不幸に関連いたしまして明仁皇太子の御洋行のことでありまするが、予定通り行われて結構と存じます
(と申し上しところ、それは無論との御様子にて)
昭和天皇◆3月は東宮ちゃんの壮行会や何やらあると思うし、3月は東宮ちゃんのために忙しい。

1953年1月8日
田島長官◆秩父宮薨去のため多少遅れて参りましたが、明仁皇太子御洋行の予算の点は1億1千万円を今年度予備費で認めてくれ、秩父宮御葬儀に関する700万円も今年度予備金で出すとのことであります。
御文庫の営繕2,500万円も昭和27年度予備費にしてくれとの話でありましたが、これはやめまして昭和28年度予備金にして欲しいとのことでありまして、植物の御移植等には帰ってよろしいかと存じ同意いたしました。
昭和天皇◆それは遅い方が良いが、どうして政府は堂々と予算に組まぬのだろう。
いつも予備費支出をするが。
田島長官◆ごもっともでありまして、大蔵省の意思がどういう点かわかりませぬが、正式予算で議論されますれば衆議院には社会党左派もおりまするし、参議院には共産党員もおりまするゆえ、皇室のために議論されるのを取らぬと考えておるのではないかと想像しておりまする。

田島長官◆昨年首相吉田茂がカナダのことを申し上げました後の円満解決の旨は申し上げましたが、〔吉田が皇太子外遊に際し船でなくカナディアン航空を使うことにこだわった件〕
内閣官房長官緒方竹虎が「期間・随員全員の名前等と共にウィルソン号およびエリザベス号のことを長官の手紙で見て閣議で決めたので、いまさらカナダなどというあなたが悪い」と申しましたところ、
吉田首相は「そんな手紙は覚えてない」とのことで、
緒方は「その手紙を見た以外にルートのことを知るはずがない」と言い、
吉田首相も「そうか」と了承しました由でございます。
今までの官房長官と違い緒方はそれはあなたが悪いとなかなか平気で申すらしいのでございます。
昭和天皇◆緒方はいいねー。吉田は非常識だよ。
日本の飛行機会社のことなら首相の力でどうかするということはわかるが、
カナダの航空会社を「南を通して御覧に入れます」などと言うのおかしいよ。

1953年1月27日
田島長官◆明仁皇太子御出発前の御行事のことでありますが、2月23日ぐらいからお出かけ願いまして。
昭和天皇◆2月23日か、寒い時だね。
東宮ちゃんの体大丈夫か。
田島長官◆その点は侍医の意見も聞きまして定めますが、3月には東京における御行事が次々におありかと存じます。
昭和天皇◆そうか。それでも寒いようだ。
田島長官◆外国で無名戦士の墓に御参拝でありましょうから、靖国神社という案がありまして。
昭和天皇◆無名戦士は私もみな行ったよ。
田島長官◆靖国神社となりますると明治神宮を先にということになります。
昭和天皇◆むろんそれは先だよ。
田島長官◆明仁皇太子も一度歌舞伎を御覧がよろしいかと準備いたしております。
昭和天皇◆皇族や兄弟の会合はなるべく東宮ちゃんの出発に近接して欲しい。
順宮厚子内親王には非常に忙しい時になるそうだから出発と近づけてほしい。
照宮成子内親王の産後も遅い方がいいから。

1953年1月28日
田島長官◆明仁皇太子御出発前の御日程のことにつきまして、明仁皇太子御自身御旅行等は早くしておしまいになり、23日から関西へお出かけになり、月末に御帰京後一週間くらい葉山御休憩の御希望であります。
御洋行前の御勉強が御負担が多いようでありますが、万全を期しての御講義と思いますが、お疲れでは何ともなりませぬから。
昭和天皇◆それは適当にしたらいいだろう

1953年1月30日
田島長官◆明仁皇太子の御出発前の御日程は、2月23日から3月1日まで関西御旅行、3月2日多摩へ御参拝になり、葉山へ御休養におでかけ願い、3月10日関係国大公使と御陪食、3月11日閣僚・両議長・最高裁判所所長と御陪食、3月17日に随員・随行員一同昭和両陛下に御相伴仰せつけられますようお願いいたします。
3月18日に外交官カクテルパーティー、3月20日に先生・旧奉仕・現役宮内官で御茶を賜うことにし、3月22日御学友の茶会、3月23日は御装束を召して三殿参拝、3月27日菊栄会御陪食、28日昭和両陛下・直宮・御兄弟方の御晩餐、3月29日御文庫で御内宴、3月30日皇居で御食事・御出発、4時50分御出帆と予定いたしました。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆汽車でありまするが、先だってお乗りの時は元皇族用で戦後米軍高官用となりました物を修繕して明仁皇太子用と致しましたところ、動揺が殊のほかひどく、今回は第2号の良子皇后の御車をお許し願いたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい。ただ赤くて女らしいが。
田島長官◆節子皇太后〔貞明皇后〕御乗用の第3号はもっと女性向きと伺いました。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆随員は支度料として7万5千円ないし15万円出ますが、そんなことでとうてい洋服はできませず、もとより備品の形で銘々のを作るのでありますが、予算の97万円でも不十分でありますので、別に内廷費から140万円ほどいただきたい存じます。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆明仁皇太子の御調度は主として外国でお作りの分として宮廷費で210万円認められておりますが、お身回りの化粧鞄とか燕尾服のワイシャツの真珠のボタンとかいろいろありますので、50万円ほど内廷費からいただきたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆靖国神社は明治神宮の後で適当の日に御参拝。
昭和天皇◆やはり靖国神社へ行くのか。
田島長官◆ハワイへおいでになれば442連隊などの墓へおいでが想像されますから。
昭和天皇◆それはちょっと違う。
田島長官◆違いまするが、敵国たりし国の無名戦士の墓へ参られれば我国の戦死者のためには当然。
昭和天皇◆そういう風な遺族側の考えか。

1953年2月2日
昭和天皇◆このあいだ東宮ちゃんが洋行のために少し詰め込まれ過ぎではないかと言ってたので、ちょっと聞いてみたのよ。
そしたら「ええ、少し」と言ってたが、これは遠慮して言ってると思うから少しでなく疲れてると思うから、いろいろ勉強準備するは結構だが、病気になっては何もならぬから小泉参与にでもちょっと言ってくれ。
私など行く前に何もしなかったよ。

1953年2月11日
田島長官◆仰せのありました明仁皇太子への御洋行前の御勉強のことでありますが、小泉参与に伝えました結果半減に致しました由であります。

田島長官◆明仁皇太子の御帰途には、太平洋および太平洋とも飛行機御用いのお許しを得たいと存じます。
近距離としましては大陸は、SASまたはKLMなど安全優秀な飛行機会社のものに限られております。
昭和天皇◆大西洋はアメリカの飛行機・太平洋は他のアメリカの飛行機が良いと思う。
田島長官◆パリ御発ではありますが結局ロンドン経由であります。
やはりBOACの方がよろしいかとも考えております。
太平洋はパンアメリカン機で結構と存じられます。

1953年2月17日
田島長官◆明仁皇太子の歌舞伎は聞写真の騒ぎが大変で、小泉参与など尻もちをついたと申しておりました。
松竹社長大谷竹次郎はなにぶん広告的でありますから。
〈狂い〉が一人ネクタイを差し上げると申し騒ぎましたそうでございます。
御人気は無くても困りますが、難しゅうございます。
歌舞伎はあまり面白いともお感じでなかったように伝え承りました。

田島長官◆明仁皇太子御洋行の件、スウェーデンの御都合でドイツの方が先になりましたために、KLMはないことになり大陸はすべてSASのみとなりました。
SASはスカンジナビア三国経営で大丈夫でございます。
デンマークのアクセル殿下が重役と承っております。
大西洋はBOAC・太平洋はパンアメリカがよろしいとのことで、連絡しますれば特別機が出るかもしれぬとのことでありました。

1953年2月23日
田島長官◆吉田首相は小泉参与外遊の必要が変わりませんためか、全然別の観点から小泉洋行の説がでまして、明仁皇太子の先生として15~16年前に洋行したのみでは不十分で、戦後激変の欧米を見学することは御教育上必要という立場で、この際あっさりこれをお許し願いたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい。しかし全然別であるということをはっきりさせてくれ。
田島長官◆どうせ同行いたしますならば、往来ででも戴冠式を見学した方がよろしく、駐英大使松本俊一はそのためには座席の予約を早くする必要もあると申しましたゆえ、その方面だけに話せば出発は明仁皇太子お出かけ後でそれまで秘密にすれば。
昭和天皇◆いや、いろいろな事はじき漏れるから、時を延ばすよりも東宮ちゃんとは全然別だということをはっきりしてもらわねば困る。
田島長官◆先日昭和天皇からモーニングの範囲が広すぎる御話がありましたが、今回の明仁皇太子御出発は御旅装ゆえ背広と存じますが、お見送りの服装はどうかという問題であります。
吉田首相は昭和天皇の那須へ行幸の時すらモーニングでありますゆえ。
昭和天皇◆それは背広と決めて、首相がそれ以上のものを着て来ても黙認するさ。
去年の国体にどこかの市長が燕尾服を着てたようなものだ。

1953年3月5日
田島長官◆先にお許しを得ました小泉洋行の件は明仁皇太子とは全く別個という話を早く発表することにつきまして、明仁皇太子御出発前に発表いたしますれば別個の事由をつけましても世間で何らかの関係ありと取りますることは必定ゆえ、明仁皇太子御出発後に文化施設とかロックフェラー財団仕事の打ち合せのためとか称して発表しました方がかえって人の疑を起こさせぬようでありまするゆえ、その方向で取り計らいをお許し願いたいと存じます。

1953年3月27日
昭和天皇◆沼津を全廃するという話だが、葉山も全廃して別にどこか考えてもいいと思う。
油壺の近くの初声というのをちょっと考えたが、結局海軍にやってしまった。
東宮ちゃんはあんなに軽井沢が好きだから、軽井沢にもう一つということも考えられる。

1953年3月31日
田島長官◆昨日明仁皇太子御機嫌良く御出発遊ばされましておめでとう存じます。
昭和天皇◆テレビで見た。
とても明瞭で私はあれほどまでに進歩しているとは思っていなかった。
しかし東宮ちゃんばかりでなく、大使連中や吉田の顔なども見えてる方がもっと興味があるのだが。

昭和天皇◆葉山と沼津をやめて東宮ちゃんも希望してるから軽井沢とどこか南伊豆の温泉と採集のできる所と言ったが、軽井沢はやめて葉山の本邸は残し、沼津の代わりに南伊豆の温泉のある所と代える案がいい。
田島長官◆案と言うよりも構想と申すべきもので、数年または十数年を要するものもあると存じます。
(すぐにも御用邸の改善ができるとの御予想でありしか、案外の御心持ちらしく)
昭和天皇◆十数年もかかることなら飛行機で行くということも考えねばならぬ。
田島長官◆那須のごときも近所の共産党が何か言ってるという事でありますが。
昭和天皇◆どういう事を言うのか。広すぎると言うのか。
田島長官◆どういう事を主張しているか判然といたしませぬが、広すぎるという事かも知れませぬ。

昭和天皇◆田島は東宮御所を子供さんと一緒と言っておったが、果たしてその同居説は行われるか。
東宮ちゃんの時 西園寺公望なども強硬に言ってああなったことで、ヴァイニング夫人から聞かれた時には家が狭いからと言ったほどで、私の本心はもちろん同居を希望するのだが、元侍従次長鈴木一でも元侍従次長木下道雄でも元帝室林野局長官岡本愛祐でも強い西園寺主義の信奉者で、ヴァイニング夫人の時でも今更従来の主義を変更遊ばしては困りますと言うのだから、容易にできるとは思えない。
三笠宮のお子さんが果たしてどういう風におなりかは、注目すべきことだと思う。
私たちのように別居で養育教育されたものに比して、旧皇族では御同居でお育てになった方々の方に問題が多いということも考えてみなければならぬ。
これはやはりお甘やかしになるためではないかと思う。

1953年4月2日
田島長官◆吉田首相から電話がありまして、小泉洋行はどうなっているのかとのことでありまして、おかげさまで明仁皇太子の御出発までは秘密が保たれましたゆえ、別のことだという御思召に添いますことは容易になりましたが、吉田首相は大使にするなど電話がありまして、それはダメでしょうと申しておきましたが、外務省の参与とか何とかになるのではないかと存じます。

1953年4月10日
田島長官◆明仁皇太子ハワイで具合良く御旅行のようで誠に結構と存じます。
昭和天皇◆吉田の言ったような飛行機でなくて良かったよ。
田島長官◆しかし御署名ぜめになっておいでの御写真が出ておりましたが、お帰りになってああは参りませぬ。
昭和天皇◆郷に入っては郷に従えということもある。
もっともサインは日本にいた時も学習院でやってたようだ。

昭和天皇◆同居問題だがねー。
あれはみな一致して反対で、侍従長鈴木貫太郎も元侍従次長広幡忠隆も女官がいるからダメだと言うので。
田島長官◆西園寺公望も反対と承りましたが、直接昭和天皇に申し上げましたでしょうか。
昭和天皇◆いや、宮内大臣湯浅倉や広幡を経ての話で間接だ。
間接だが西園寺もその説で決まった。
女官はそんなことはない、御同居で結構だという考えのようだった。
私はむろん賛成で、成年に達するくらいまでは同居で教育する、結婚すればもちろん別居するという考えであったが、みな反対でそうなった。
日本では奉仕の観念とか教育の関連とがどうしても矛盾する面があるためダメということだった。
(これは初めて伺う言葉だが、心中簡明で要を得た反対論の真髄と思った。
どうも昭和天皇は同居希望は仰せになりつつも、一面別居の方教育上よろしくにあらずやとの強い疑問を心中に潜在的に御抱持になるものか、この際表れ来るものかと拝察せらる)
昭和天皇◆もし手元で教育ということになると、学校へ対しての父兄は皇太子妃または皇太子が直接学校に当るのか。
将来は天皇・皇后が当たるのか。
田島長官◆それは同居別居とは関係ありませぬので、関係の者が学校へ出ますれば結構と存じます。
昭和天皇◆直接手元で養育すれば父母として子供のことを最もよく知ってるゆえ、学校に対して行くというこが起きてくるのではないか。
田島長官◆そういうことはないと存じますが。
昭和天皇◆家庭教師は置くのだろうなー。
三笠宮がいいモデルだ。
御自分の御意見でああやって教育をしておられるが、三笠宮妃の健康が悪い。
あれは皇族の立場としての仕事の他に、普通の家の母としての仕事を多くやりすぎられるためではないかしら。
三笠宮は私達より長くを節子皇太后〔貞明皇后〕のそばにおられたゆえ、高松宮なんかよりワガママなところがあるように思う。
私は節子皇太后とは時々意見が違い、親孝行せぬというようはことにもあるかと思うが、同居が長ければもっと意見が一致するのかもしれぬが、時代の空気にもよるし、内閣官房長官緒方竹虎のような人でも天皇に父母ナシ的な考えといつか聞いていたようなわけで、元来私も希望したことゆえ、子供も同居すれば増築可能という建築方針はいいと思うが、物には一利一害でこの問題も難しい。

1953年4月14日
田島長官◆小泉は来月顧問という形で出発するそうでございます。
明仁皇太子御出発後 日も経ちまして別途である意味は十分と存じまするが、学習院長安部能成や作家長与善郎らの参りましたロックフェラー財団の人選委員でありますゆえ、その面の方とも連絡するという建前でありますので結構かと存じます。

1953年4月16日
田島長官◆小泉洋行の件、外務次官にロックフェラーの文化交流要件のためということを持ち出しましたところ、困る顔つきであれは政府は関係せぬ建前ゆえ外務省顧問の資格では困るとの話のため、やはり有余年欧米を知らぬため現地につき見学視察のことは明仁皇太子御教育上必要にて洋行という事の方ありのままで良いとの旨ゆえ、それで結構と存じまする。

1953年4月21日
田島長官◆明仁皇太子のニュース、実にお楽しそうでございます。
昭和天皇◆吉田が飛行機なんとか言ってたが、船の方が良かったよ。
楽しそうなのは麻雀など好きだからねー。

1953年5月5日
田島長官◆三谷侍従長〔皇太子外遊の随員〕の手紙によりましても明仁皇太子御元気の御様子でありまするが、カナダは相当日程が混んでおりましてお疲れになったのではないかと存じます。
夜分お遅いようでありますが、朝は寝坊遊ばすようでおよろしいかと存じますが、とにかく大西洋の船では御休養ができたかと存じます。
(と申し上しところ、夜の遅いことはあまりお好みならぬ御様子を拝す)

田島長官◆チャーチル首相の午餐会の様子は、集めた人や演説等なかなか考えたやり方のようで良かったと存じます。
〔1953年04月30日チャーチル首相が午餐会を主催し皇太子を招く〕
ニューカッスルは御歓迎申し上げぬということでなかなか難しいようでございますが、
〔地元イギリス人捕虜団体の抗議により皇太子のニューカッスル訪問が中止になる〕
カナダやアメリカのように御歓迎ばかりでなくニューカッスル見たようなこともチャーチル首相の配意の午餐会などあってみますれば、かえって御修行になっておよろしいことと存じております。
昭和天皇◆私が行った時には大きなコールストライキにぶつかった。
そのためちょっと不便をしたこともあったが、その際のイギリス国民の落ち着きと同時に当局が着々対策を立ててやっていくところを見て大いに良かったと思う。
何と言っても立憲君主制としてはイギリスはいいからねー。

1953年5月11日
昭和天皇◆小泉との話に明仁皇太子妃〔お妃候補〕の歳のことも言ってたが、「これは結婚の時期にもよる」ということを言っておいた。
それから「宮内庁長官も婚約御結婚までの間は短いがいいと言っていて、私も短いが良いと思う」と言っておいたが、同時に矛盾であるが皇太子妃となってから皇太子妃のことを修行すればいいという理屈かもしれぬが、それはちょっといかぬゆえ、その準備のためには少し期間が必要だ。
それから婚約中交際するか否かの問題だが、「私の時代はなかった」と言った。
しかしこれはあった方が良いと思う。
田島長官◆それは無論のことでありまして、内親王様でも明治時代と違い、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王は御交際になりました。
昭和天皇◆いや、照宮成子内親王の時と順宮厚子内親王の時と違うのだもの。

1953年5月12日
昭和天皇◆ニューカッスルの問題はなきも、朝鮮人が危ないというので上陸に困ったこともある。期間は6ヶ月でだいたい同じだが、船も軍艦で往復の期間の方が滞在期間より長いので、今度のように往復期間が短縮されれば、同じ期間でも東宮ちゃんはずいぶんいろいろのところへ行ける。

昭和天皇◆東宮ちゃんの結婚話だがねー、婚約と結婚と期間が離れるのはいかんと思うが、同時に皇太子妃となり将来の皇后となればそのための用意というものはどうしても特別にしなければならないが、これも試験勉強みたようなものだが必要だ。
その他にやはり普通の家庭の妻のようなことも必要だから、その点なかなか難しい。
田島長官◆平民の我々でもちょっとした結婚ならば調度品の調整等に半年かそこらはかかりまするゆえ、皇太子妃ということになればそういう物的準備が6ヶ月以内というようなことは考えられませぬ。
1年くらいはかかるかと存じまする。
そのうえ範囲は場合により従来のような皇族とか公卿・大大名の公爵・侯爵とかいう者に限りませねば、新たに皇太子妃に上るということになりますれば、余計特別の御教育が要りまするし、なかなか皇太子妃の問題は容易ではありませぬ。
それよりも私どもで候補者数名または十数名を選定いたしまするのが大変でございまして、門地・人物その他の要件がいろいろありまして、どうか良い方をと念じておりまする。
御結婚は内廷のことかもしれませぬが、皇太子の御身分上内廷だけとも申されませぬかもしれませぬゆえ、賢所大前の儀とは参りませぬが、それらの点も研究せねばなりませぬゆえ、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の御結婚も大切ではありますが、皇室に血統の入りますることゆえ一層重要でありますので大変のことと存じております。
また御母にならせられまする良子皇后の思召はいかがかと存じ、女官長保科武子を経て伺いましたが、特別の御話はなく「優しい人がいい」というような御話がありましたが、昭和天皇の思召はいかがでございましょうか。
昭和天皇◆皇后となる資格を備えなければならず、外国との交際もあり東宮ちゃんは外国語ができるから外国語もできなければいけないし、また普通の家庭の妻としても要素がいるからなかなか難しい。
あまりおとなしくても困る。
物も言わぬような人は気持ちがわからぬし。

1953年5月18日
田島長官◆吉田の逆コースと言われますのは、昨日なども交通規制に違反で平気で飛ばしまするし、つまらぬことには気を用いませぬから。
昭和天皇◆だからワンマンだと言われるのだよ。
田島長官◆ワンマンも結構ですが、つまらぬことでワンマンはつまらぬと思います。
宮内庁の責任者としましては、内廷費および皇族費の増額の問題・三笠宮の御洋行の問題・常陸宮御成年の問題等、政府と篤と協議すべき問題を持っておりますので、皇族費の問題は現に秩父宮妃で迫られておりまするし、三笠宮はどうもいろいろな面から考えましてできるだけ早く御洋行を願った方がよろしいと存じます。
御兄弟中お一人だけ御洋行のないこと、今回は明仁皇太子がお出かけになりましたことなどで、御心持ちの上からもおよろしくない点がありましょうし、また思想その他御行動の上にも多少改めていただきたいためにも、この際どうしても御洋行が一番よろしいとの結論は動きませんので、昨年メーデーの容疑者の貰い下げを遊ばすなどは御軽挙と存じまするし、今年のメーデーに秘書高尾良一がちょっと伺いましても、「外出はするが行き先は言えぬ」とのことであったとかで。
昭和天皇◆三笠宮は万一の時には皇位継承の権件がある方だという御自覚が足らんと思う。
洋行は良いと思う。
田島長官◆ただそれにはお付きの人が良い人が見出されねば案が良くても実行できませんので、明仁皇太子の随員首席も苦労いたしましたが、三笠宮の随員も非常に人選が難しいと存じます。
昭和天皇◆東宮ちゃんの場合は何も輔導は要らんが、三笠宮の場合はそうでないから人選は難しい。
(少し明仁皇太子偏愛と言うか公平なる御意見とは拝承せざるも要点は三笠宮につき)
田島長官◆明仁皇太子は御教導するだけでありますが、三笠宮には御言動についてお止めしたりお諫めしたりする必要がありますので非常に難しいと存じて、今申した人と今一人従僕でもありませんがそういう風の人と二人は入用かと存じます。
侍従長と式部官長とに相談致しまして、両者のとの意見まず一致したのは元上海総領事日高信六郎でございます。
田島は一度も会ったことのない人でわかりませんでしたので、先日小泉の送別会の節一所に食事をいたしましたが誠によろしい人のように存じました。
昭和天皇も御通訳もいたしましたことゆえ御承知かと存じますがいかがでございましょうか。
昭和天皇◆いい人だよ。
通訳もしたが、大使の時に私もよく話を聞いたが、いいと思う。
田島長官◆小泉参与もいい人だと思うとの話でありましたが、果たして三笠宮に強く御意見を申し上げるというような強さがありまするか如何と存じております。
昭和天皇◆いや、それは南支の大使をしてて、あの軍の力の強いところであれだけやってたから相当やれると思う。
あるいは東宮大夫に適任かもしれぬね。
田島長官◆常陸宮の御成年も2年半の後で一家御創立の問題もありまするが、高松宮・三笠宮とも御直宮は軍人としてお立ちになる制度下で今のようにおなりになりましたのですが、常陸宮の場合は果たしてどういう御職務をなさいますかも問題であり、大学御進級の科もお決め願いませんければならず、ほぼこの方がよろしいかと一応結論を得て、学校での教育責任者であります学習院長安倍能成の意見を聞く必要もありますので、それらを総合いたしまして昭和天皇のお許しを得たいと存じておりまするわけではありますが、この問題とても政府の了承に関係を持ちませんするし、いずれに致しましても安定政権が望ましく、目下新聞は孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の御結婚をスクープできなかったので残念がり、皇太子妃は何とかしてスクープすると申しておりますそうでありますが、これは内親王様と違い皇室会議の議を経なければなりませず、どうしても政局の判定は望ましいのであります。

1953年5月20日
昭和天皇◆明仁皇太子妃の問題が『婦人クラブ』という雑誌に写真入りで出てるよ。
田島長官◆何人ぐらい出ておりますか。
昭和天皇◆さー、はっきりは知らんが10人ぐらいは出てる。
久邇宮〔久邇宮通子女王と久邇宮英子女王姉妹〕なんかも出てるが、あれは大谷のこの前の関係もあり到底ダメな話だ。
〔良子皇后の妹東本願寺大谷智子が孝宮和子内親王を子大谷光紹の妻に望んだが、遺伝学の見地からイトコ結婚を避けたい皇室側から断った〕
こちらの調査の参考になるぐらいではあるが、ああいうものは困る。
田島長官◆各新聞スクープに大熱心で困りますが、さりとてどうすることもできませぬ。
むしろ今度他の婦人雑誌も出ましてかえって興味が薄くなりますかもしれませぬが、宮内庁次長の話では新聞の連中は大変な意気込みとのことであります。

1953年5月27日
田島長官◆田島拝命直後、上野の美術展覧会への行幸啓の時、宮内庁のしきたりもわかりませず、美術関係の人々と御接触結構と存じ、相当引下がって美術関係の人が昭和天皇のおそばへ参りますよう致しておりましたが、共同通信記者田中徳に注意されまして、長官・侍従長は昭和天皇の少なくとも1メートルぐらいのところに侍しておらねばいかんと注意を受けたことを今でも記憶いたしております。
明仁皇太子・常陸宮ら修学旅行においでの際などは他の同級生との御行動上伝育官が多少離れますることはありましょうし結構とも存じますが、昭和天皇の場合果たしてどの程度がよろしゅうございましょうか。
昭和天皇のように今とは全く違った空気の下にお慣れになっておいでの方と、明仁皇太子ら時勢の推移に関連して御成人の方との間にも自然差異あるべきは当然でありまして、どういう風にするが一番よろしいか研究いたしたいものと存じております。
昭和天皇◆イギリスの風を見て我国の制度も新しく見直し、改めるべきは改めるということは望ましい。

1953年6月7日
田島長官◆小泉参与〔皇太子外遊随員〕が着英後の手紙が着きまして、一部読ませていただきます。
(とて大部分読み上ぐ。
あまり御興味深く御聴取のように拝せざりしも、後刻良子皇后の御思召にて女官長より大要聞きたしとのことで、ついに書面を御手元に差し出せしところを見れば、多少御興味ありしか)

1953年6月17日
田島長官◆戴冠式の天然色の活動写真はいかがでございましたか。
(と申し上しところ、さほどの御感興でもなき御様子)
田島長官◆明瞭でございましたか。
昭和天皇◆明瞭は明瞭だが、果たしてあの色が実物通りかどうかは、実物を見ぬから分からぬ。
田島長官◆秩父宮妃はテレビを3回もご覧になりましたそうで、儀式的な一部の他は全部見えて1時間40分とかかかりますと承りましたが。
昭和天皇◆それはテレビと言っても写したのだから結局映画だろう。
(さほど御覧になりたき御様子にも拝せず)
田島長官◆明仁皇太子のイギリスの御行事が無事お済みになりまして誠に100点と存じまする。
オックスフォードの風邪も戴冠式の前にお軽く済みましたうえ御警戒のお役に立ち、また御歓迎ばかりでなくニューカッスルのような程度のものもありましたことは、かえっておよろしかったと存じております。
〔地元イギリス人捕虜団体の抗議により皇太子のニューカッスル訪問が中止になる〕
昭和天皇◆よかった。
しかし読売か何かに書いてあったが、皇太子は順番が下で秩父宮の時は一番だったということを単に言っているが、皇太子でも秩父宮でも個人としてでなく国の反映であるのだから、日本の国力がそれだけ下がったということに感慨無量でなければならぬのに、読売はそこへ来ていないがどういうものか。

1953年7月1日
田島長官◆皇室経済法および同施行法改正法律案が両院を通過いたしまして、今日官報号外で公布されました。
昭和天皇◆昨日署名したよ。
田島長官◆昭和天皇も内廷費を3,800万円に増加する時 せんでもよろしいとの仰せで、右の次第で今後はちょっと増額は差し控える方が賢明ではないかと考えております。
したがって三笠宮の御洋行も内閣では昭和29年度の費用に計上しますことは結構と申しましても、考える必要があるのではないかと思っております。
政府は明仁皇太子の御洋行1億1千万円も秩父宮御喪儀費もみな予備費支出でありましたが、予算に入るとなれば議会で議論の対象となりますゆえ、よほど慎重に致さねばと存じております。
昭和天皇◆私は三笠宮はイギリスよりアメリカの方がいいと思う。
イギリスはああいう空気もあるし。
田島長官◆アトリー前首相の方でも保健大臣ベヴァンのような左がかりの人もおりますゆえ、イギリスでない方がよろしいかもしれませぬ。
昭和天皇◆三笠宮は東宮ちゃんと違い、洋行に大きな意味はないから。
田島長官◆それはやはり見聞を広められ、また国外から日本ご覧になるということはございましょうが。

田島長官◆共同通信記者田中徳が帰りまして早速宮内庁長官室に参りまして話をしましたが、侍従が言葉の関係で御供に不適な場合があり、首相秘書官松井明のみの時があり、松井は紳士的でありますが侍従がおらぬのはどうかと思うとの旨でありますが、大使館の書記官が何かが参ることもありちょっとそこに面白くない面もあるように感じたらしいことを申しておりました。
田中は「三谷侍従長に言ったって、どうするという人でもなし」というような調子でありました。
昭和天皇◆そうか。
だから戸田東宮侍従〔皇太子外遊の随員〕や黒木東宮侍従〔皇太子外遊の随員〕には英語をやっていくようにしたのだが。
田島長官◆にわか仕込みではどうにもなりまぬが、これはまあいろいろの関係もありますので、御腹へお入れ願います。
昭和天皇◆私も一度田中の話を聞こうか。
田島長官◆記者クラブの連中の評判では少し感覚がずれておるようなこともありますが、一面クラブの者一同一度拝謁したいという希望もありますので、那須で御散策の折〈嚶鳴堂〉あたりで田中その他2~3人の帰朝者を含み、新聞社のクラブ員とちょっと御話願う機会を作りたいと考えておりますから。
昭和天皇◆それはいい。お茶でも出して。

1953年7月10日
田島長官◆内廷の基本金1,500万円は幸いに株式となっておりました分が騰貴いたしましたため、明仁皇太子に1千万円をお持ち願いましても1,500万円以上はありまする勘定で結構な結果ではありますが、株式への投資は慎重に致しませねばこれと反対の場合も生じ得まする理屈でありますゆえ、先日昭和天皇に内廷費の増額のことを申し上げました節、それは要らぬとの仰せで、皇族費は確かに赤字が出ますゆえ、増額案を出します際同時に内廷費も増しませねば、てにをはが合いませぬと申し上げました通りゆえ、ミンクの外套の問題も良子皇后の御料として恥かしからぬ物でなければ、安くてもかえって無駄に帰しまするゆえ、今日国産の最上30何万円とかでお決めになりました由。

1953年7月14日
田島長官◆昨日小泉参与〔皇太子外遊の随員〕から来信がありまして、エリザベス女王の御評判のとてもおよろしいことと共に、夫のエディンバラ公が男の男というので男の好く男と言うので大変評判のよろしいことが書いてありました。
小泉の手紙によりますと、明仁皇太子の御意思は比較的早く御結婚になりたいらしいのでありますが。
昭和天皇◆寂しいのだろう。
田島長官◆それで早ければ先だって昭和天皇が年齢は5つ6つの差がいいとの仰せが、短縮しませんと皇太子妃になる方の年齢が足らぬことになり、お歳が近き候補者が狭められることになりますが、先ほどのように女王陛下の御徳も配偶者の御人柄で良くなりますゆえ、皇太子妃の御選択はよほど慎重でなければなりません。
明仁皇太子の学習院における単位の記事は御覧になりましたでしょうか。
昭和天皇◆見たよ。
実は今日聞いてみようと思っていたところだ。
田島長官◆田島は明仁皇太子は必ずしも学習院御卒業の必要もなく、また御卒業になりたければ5年おやりになりましても結構であり、いずれにしましても特に学習院に頼みまして個人御教授の単位を勘定に入れる無理をすることはまずいと存じております。
昭和天皇◆私は5年に伸ばすことはいかんと思う。

(その理由は御学友が変わるからいかんとの仰せゆえ)
田島長官◆田島が学習院御卒業になりませんのでもよろしいと申し上げましたのは、単位の御勉強のためではなく同年輩の者との切磋琢磨が主眼でありまして、1年多くおいでになってもよろしいかと存じます。
(御学友が変わるのは悪いからそれは反対だと非常に強く御主張になる)
田島長官◆しかし寮は上級も下級もあり、明仁皇太子は高等科時代の優秀学生とは東大に入りましても御文通うもありますようでありますし、さほど違いはありませぬと思います。
(何としても御聞きなく、数回強く繰り返し)
昭和天皇◆場合によったらこの際を機として学習院はきれいさっぱり辞めて単独で勉強することにするのがいい。
(と大声にて繰り返し仰せ)
田島長官◆とにかく小泉帰朝後よく相談の上のことにいたしたい。
(なおも「この際を機会に学習院ときれいさっぱりした方が良い」との仰せ)

1953年7月20日
田島長官◆朝日新聞でなかなかやかましく明仁皇太子御進学問題を扱っておりまするが、きれいさっぱりとの思召も承りましたが、きれいさっぱりとなりますれば、何か東宮職側が要求でもして、それが不可能となってきれいさっぱりとなったという風な誤解があるかもしれませぬ点も考えられ、またいろいろ世間の議論になっておりますゆえ、とにかく明仁皇太子御帰朝まで、御教育上の責任者小泉の帰朝まで、この問題はそっといたす方がよろしいかと存じます。
昭和天皇◆この前学友との関係からもきれいさっぱりと言ったが、よく考えると今後東宮ちゃんは公務に出る場合も多くなり、普通の学生のようにはいかなくなるから、何年いてもダメということになるゆえ、あれはどうもきれいさっぱりがよろしい。
(この前の思召を一層理論詰めの御話にて、根本には明仁皇太子に対する例の身びいきにて、完全にお出来上がりのごとき御前提にて、その御前提の上に学習より公務に御多忙との御考をお立てのように恐れながら拝察せらる節あり。
これはかねて小泉と申し合せての大方針とも反することゆえ、小泉帰朝後よく熟議し、一同さよう考えますとて昭和天皇の御再考を厳粛にお願いする他なく、そのためには昭和天皇の思召に添わぬ言葉を時々申し上ぐる他なしと思う。
これは難問題となる可能性あり、昭和天皇の御聡明をもってしても、この肉親の方々に対する無批判的には恐れながらご感心申し上げ得ず、心中永嘆す)

1953年8月1日
田島長官◆小泉参与〔皇太子外遊の随員〕は今少し内面の問題についてあるよう願わしく、6ヶ月間のこういう御旅行は最大限度であって、早くお帰りになってまた内面的な御修行遊ばすことが必要だとの旨を書面で申して参りました。

1953年8月11日
田島長官◆昨日国際電電社長渋谷敬三の代理としまして重役福田耕が参りまして、明仁皇太子と国際電話で御話を一度遊ばしてはとのことでありました。指図は禁止しましても事実上は聴き得るのでありますから、傍聴は防げませぬ。時差の関係もありますと申しましたところ表を送ってくれまして、両方とも御睡眠でない時に可能であります。
昭和天皇◆それはもうやめよう。
もしそういう通話をすれば、今後大統領などから電話があっても出なければならぬ。
(国際電話は良子皇后もお進みなし、ヤメとのこと)

昭和天皇◆ニクソン副大統領の来ることは宮内省としてもよく考えておいてくれ。
この前バークレー副大統領も来たが。
田島長官◆あの時は平和克復以前でありましたので君主国の皇太子同様の扱いということで、御陪食もあり二重橋から入れましたが、今回は平和後でありますゆえ、前例もよく調べまして。
昭和天皇◆皇太子とすれば東宮ちゃんが答礼に行くということも考えられる。
(またしても明仁皇太子を完成とお考えの前提で、御帰朝後国事に引っ張り出しになりたき御様子見ゆ。
これは今後の明仁皇太子根本方針に関するゆえ、仰せに異論あるも小出しに反対申し上げず、小泉とも相談・方針確立の上はっきり申し上ぐる心組にて、「まだ時間もありまするゆえ」と申し上ぐ)

1953年9月14日
田島長官◆明仁皇太子のスイスの御疲労はやはりお疲れかと存じまするが、東宮侍従黒木従達〔皇太子外遊の随意〕の手紙にて(御洗面の際 青くなり倒れられたことは申し上げを控え)お元気でアメリカお出かけになりましたようで、秩父宮のお話では主役ではないとの仰せでありましたが、その通り戴冠式は何でもありませんでしたが、その後各国では全て主役でありまするからお疲れかと存じます。

1953年10月7日
田島長官◆明仁皇太子羽田までお迎えのことに関しまして私どもの申し上げ方が不備でございましたために、昭和天皇に御心配をおかけ申し上げました結果となり誠に恐れ入りますが、全員おいで願うことは都合が悪いので、御希望の方々を少数と存じておりましたのでございますが。
昭和天皇◆私は皇族代表は常陸宮だと聞いていたので、高松宮妃などが行くということを聞いて驚いたのだよ。
田島から常陸宮が代表と聞いていたから。
田島長官◆田島も手続がございまするのでそれも調べましたが、飛行機が遅れた場合にどうするかとの御下問に対して菊会親睦会をお延し願う他ないと申し上げましたのみで。
昭和天皇◆田島から聞いた。
常陸宮とは言わなかったかしらぬが、常陸宮になるだろうと言った。
(記録を見た上でのことなれど、田島から聞いたと強く仰せゆえ)
田島長官◆それでは田島の思い違いでございましたかもしれませぬ。
そのために御心を煩わしまして申し訳ございませんでした。
昭和天皇◆私は自分で行きたいのだがいろいろの都合で行けぬのだが、一親等が行かず二親等が行くなどということはおかしい。
皇族代表が常陸宮だからそうかと思ってたのに、高松宮妃や秩父宮妃が行くと聞いて驚いたのだよ。
(羽田までお出かけがさほど重大な親等問題ではなしと思うも)
田島長官◆それでは昭和天皇の御思召を伺いまして考えたいと存じまするが。
昭和天皇◆常陸宮は行く。
それから照宮成子内親王なんか6人は菊栄親睦会の枠外でみな行く。
それから皇族さんも行かれるということだ。
田島長官◆それでは清宮貴子内親王は学校の御都合でなくてもこれはよろしゅうございますか。
昭和天皇◆それは都合で行けぬのだからよろしい。
田島長官◆大勢さんですと明仁皇太子の御行列前に皇居へ御出発願う手順がうまくいくかどうかを心配することから起っておりますが、照宮ら御六人おいでならば菊栄親睦会の御方でありまするから他にはなくともよろしゅうございますか。
昭和天皇◆いや、竹田宮恒徳王は最近西洋で東宮ちゃんと会っているのだから、私は竹田宮夫婦が行かれるがいいと思う。
6人は菊栄親睦会の枠の外だ。
田島長官◆竹田宮も御希望がないとのことでありますが、昭和天皇は御六人の他に誰方があったほうがよろしいとの御思召でございましょうか。
昭和天皇◆私は竹田宮がいいと思うが、あるいは長老で賀陽宮恒憲王ということかもしれぬ。
どちらにしても誰かが行かれた方がいいと思う。
田島長官◆それではこれは昭和天皇の御思召と先方様へ申し上げましてもよろしゅうございますか。
昭和天皇◆よろしい。

1953年10月14日
田島長官◆明仁皇太子御帰朝後あまり御疲労もなく結構なことと存じます。
昭和天皇◆どうも疲れてないようだ。
自動車の運転とかいう話だから、疲れた者がそんなことできるはずないから疲れてないよ。

1953年11月4日
田島長官◆明仁皇太子の御外遊の費用はまだ未済でありますが、概算1/3は余りましたと存じます。
内廷費で1千万円をお持ち願いましたのは万一国費で不足の場合を考えましたが、その方は4千万円近く余りましたゆえその必要なく、国費で支弁されぬ性質の明仁皇太子のお買物およびお土産品等は500万円でありますから、内廷費も500万円は返るわけでございます。
国費の4千万円は余りとして大蔵省にきれいに返すつもりであります。
昭和天皇◆余りはきれいさっぱり返すがよろしい。
そうしておけば常陸宮の洋行の時にもまたいいわねー。

1953年12月7日
昭和天皇◆東宮ちゃんの進学のことなんかどうなる?
田島長官◆先日宇佐美次長・三谷侍従長・野村東宮大夫・小泉参与とも相談いたしまして、いずれも大体の方向は一致いたしておりますが、今年いっぱいには何とかせねばならぬと申しておりましたような次第で、今年いっぱいにお決めを願うことになりますと存じます」
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
小泉信三から宮内庁長官田島道治への手紙

1953年7月30日
学習院問題について考えたことを申し上げます。

■学習院に無理を頼み込んで強いて四年御卒業工作をすることは禁物と思います。
■しからば5~6年かかっても構わぬと申し得るか。
これは世間で受ける説でしょうが、事実上は価値少なしと思います。
●皇太子が正規学生として課程履修を遊ばす最も強き理由はクラスメイトをお持ちになることですが、ここで一年あるいは二年お遅れになるということは、すなわちこの高等科以来あるいは初等科中等科以来の御級友と離れて別のクラスにお入りになるということで、それは小生らが従来接した学生の最も苦痛とするところです。
それをお舐めさせ申すだけの価値ありや否や。
●仮に5年6年かかっても構わぬ、ぜひ正規の課程を御履修さるべきだという世間受け説に従うとしても、果たしてそれが実行できるものか否か。
すでに教授会に感情的虚栄的な正義論が行われるとすれば、皇太子のお為めにする特別的なお取り扱いは大小を問わず一々頼み込まねばなりますまい。
現に野村東宮大夫の手紙によれば、皇太子が体操をなさらぬことを問題とする教授ある由。
おそらくそれは体操などの不得手の中にも不得手なる型の人の言うことでしょうが、それを反省する人々ではありますまい。
それは皇太子の御品位のため、決して取るべきではないと思います。
●然らばすなわち皇太子としては今後引き続き学習院に御通学になり、御級友と共に聴くに値する講義をお聴きになり試験もお受けになり寮生活もお続けになり、しかし正規学生の義務と権利からはお離れになること。
名は聴講生でも何でもよし。
かくして四年の後に正規学生と同等以上の学力をおつけになって大学課程を御修了になり、もし必要とあらば御履修になった課目につき世間の信用する委員会のようなもので学力の証明をして発表すればよろしいと思います。

高見のごとくこの際 御退学は穏やかではないと思います。
同時に何年かかっても構わぬという説は事実実行困難で、これからますます御多忙の皇太子が一般学生とすべて同様のお取り扱いをお受けになるということは、名はすなわち美なるもたちまち障害に障害にぶつかる結果となりましょう。
学習院の教授諸君がみな大人なら話のしようもありましょうが、それは無理でしょう。

1953年9月2日
皇太子はサンモリッツにお着きになった後も、二日ばかり御食欲なく部屋に引きこもりがちなので佐藤侍医にしつこく所見を質しましたが、侍医はすぐよくおなりになりますと言い続けていましたが、一昨日からテニスをお始めになり、昨日は四セットばかりなされました。
ただし皇太子が頑健でおありにならぬことは常に忘るべきでなく、この点御側近の者は口癖のように申しますから、十分御気付申し上ることと思います。
一つ御報告すべきは、皇太子がアルコールに対する御嗜好をほとんど失われたのではないかと思われるほど、酒類に対し無趣味におなり遊ばされたことです。
従来お好きであったのは赤ワインでしたが、このごろはろくに口をおつけにならず、ストックホルムのパーティーで日本酒を1~2杯お飲みになったのを拝見した以外、いずれの機会でもお断りになり、佐藤侍医の所見も同じでした。
もしこれ自制によるものなら大したものであり、まことに結構な次第だと存じます。
野村東宮大夫はいつも気にしていますから、もしおついでがありましたらこのことを翁にお伝えください。
自制と言えば夜ふかしの方はなかなかいけません。
昨夕の御話の間に真顔になってそのことを申し上げました。
御側近の人々は点が辛く、皇太子は彼らに対し駄々をおこねになることも時々あるようです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::