◆125代 平成天皇(継宮明仁親王)124代昭和天皇の長男


■妻  正田美智子 日清製粉社長正田英三郎の娘


●浩宮 徳仁親王  125代天皇
●礼宮 文仁親王  秋篠宮
●紀宮 清子内親王 黒田慶樹と結婚


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『入江相政日記』侍従長

1951年7月18日
東宮御所で東宮参与小泉信三・東宮大夫野村行一・東宮侍従黒木従達・東宮侍従清水二郎と懇談。
明仁皇太子の御結婚の問題である。

1951年7月29日
〔田島長官が「皇太子妃の範囲は、当然元皇族が第一候補に挙げられる」と語る〕
朝日と読売とに明仁皇太子の御縁談について記事が出ていて、田島長官談というのがあるが、これはいったいどうしたものだろうか。
読売が北白川肇子さんの写真について聞きに来る。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1955年3月25日
宮内庁長官宇佐美毅より明仁皇太子御婚儀につき昭和両陛下の御許を受けしにつき、〔田島の立場は〕お墨付きなく宇佐美長官の相談相手とのこと。
消極的・部分的に在民の方よきことには従うむね返事。

1955年4月15日
小泉東宮参与に、宇佐美長官より明仁皇太子御結婚のことにつき話ありしこと言う。

1955年5月8日
秩父宮妃・高松宮妃・東宮参与松平信子夫人。
水戸徳川伯爵徳川文子・久邇宮家令嬢の話あり。

1955年5月10日
小泉東宮参与に電話。
一昨日の松本信子夫人の話を参考のため連絡す。

1955年5月17日
宇佐美長官を訪問。
徳川文子〔田安徳川伯爵家徳川達成の娘〕の件、小泉東宮参与に話せしと同じこと言う。
山梨勝之進〔久邇宮家相談役〕はスムース進行とのこと。
いずれにしても後から割り込みはダメと言う。
〔先方がすでに他の縁談を進めている場合はダメという意味〕

1955年9月17日
小泉東宮参与来訪、明仁皇太子との雑談中の話を聞く。
「平民でもよし、ただし学習院・聖心は固いか」とのこと。

1955年10月9日
小泉東宮参与来訪。
政党・労組等にて、やはり政治家・実業家の娘はダメとの御話。
「徳川文子をそれとなく言い出された」とのこと。
事務的に絞れば徳川文子残るとのこと。
徳川文子そこまで来れば調査の上、良き時を逸せば宮内庁長官の責任とまで言う。
元皇族K〔北白川宮ではないとの原注あり・久邇宮英子女王か〕のことは山梨勝之進〔久邇宮家相談役〕と話すこと。

1955年10月16日
宇佐美長官来訪。
徳川文子調査進めることを始む。
〔しかし徳川文子は他の男性との婚約を発表して候補から外れる〕

1955年12月23日
毎日新聞記者来訪、明仁皇太子のこと聞く。
「現役でなく知らず」と言う。
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『入江相政日記』侍従長

1955年5月1日
明仁皇太子・常陸宮・清宮貴子内親王おなり、御会食。
御食堂へ出たら麻雀のあとがあった。
やはりしみじみとして御話ということはなかなか難しいと見える。
早くそういう風になってくださるといいが。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1956年3月12日
松平信子夫人来訪。
北白川宮肇子女王のこと、毛利のこと。

1956年3月17日
宮内庁長官宇佐美毅を訪問。
大久保栄子〔大久保一翁子爵家大久保安威の娘・平成天皇の同級生大久保忠恒の妹〕のこと。

1956年3月20日
2月24日明仁皇太子の御話、宇佐美長官難局、宮内庁参与勝沼精蔵医師の意見のこと。

1956年5月3日
小泉東宮参与来訪。
林富美子〔林友幸伯爵家林友春の娘〕のこと。

1956年5月22日
宇佐美長官・小泉東宮参与招待。
林富美子進みしやに思う。

1956年8月21日
宇佐美長官・小泉東宮参与に誘われ沓掛の千ヶ滝プリンスホテルに行き、テニスを見る。
この日の沓掛行きは大久保栄子を見るため。

1956年8月23日
明仁皇太子テニス、敗けを見る。
なかなか凄まじ。
目的の人〔大久保栄子〕現れず。
野村東宮大夫に会う。
またテニス場へ行き、目的を見る。
コートにて一時間余り目的の人を視察す。
Gesicht〔顔〕その他も失望す。

1956年8月25日
小泉東宮参与来訪。
大久保栄子の印象、小生と違う。
小生の方 悪し。

1956年9月16日
黒木東宮侍従来訪。
軽井沢および東京にて黒木東宮侍従に初めて大久保栄子の話ありしとて、今日小泉参与を訪問せりとのこと。
「思召あれば、小生印象悪しきなど問題でなし」と言う。

1956年10月1日
黒木東宮侍従来訪。
宇佐美長官と明仁皇太子との経緯聞く。

1956年10月16日
宇佐美長官を訪問。
「明仁皇太子の意見は尊重ながら責任は当局、したがって慎重を要す」と言う。
世の各方面の批判に対する万全の確信持てる順序・準備必要。

1956年11月25日
徳川義宣〔平成天皇の同級生〕雑談。
「明仁皇太子気力なく、fight なく、自信なし。謙虚の気持ちかもしれぬもどうか」と言う。
大久保栄子のこと言う。
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『入江相政日記』侍従長

1957年2月8日
島津忠承君来訪。
お嬢さんが〔平成天皇の〕お妃候補になっているのでうるさくて困ると言い、それに関する妃殿下方のことや何かいろいろ言う。

1957年2月12日〔葉山御用邸〕
宇佐美長官、東京より昭和両陛下に拝謁。
明仁皇太子妃のこと申し上げた。

1957年4月12日
黒木東宮侍従と明仁皇太子の御結婚のことについていろいろ話す。
なかなか大変なことらしい。

1957年8月7日
宇佐美長官の所へ行き、
「明仁皇太子にはやはりしみじみと申し上げる人がどうしても必要であること、今のままでは非常に御不幸であり国民も不幸になること」など話す。
よく分ってくれる。

1957年11月29日
読売新聞小野君は「もう北白川さんに決まった」という原稿の依頼。
桐山君・清水君も来たが、これはまだ知らないらしい。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1957年2月6日
宇佐美長官を訪問。
明細な系図表作成、見せらる。
「これ以上の調査無理か」と言う。

1957年4月1日
小泉東宮参与「明仁皇太子はダメ。spotlight あたる」と言う。

1957年4月4日
宇佐美長官を訪問。
大久保栄子訪問のこと、昭和天皇も御了承のこと。
お引き受けす。
長官室に入る前、共同通信記者に会う。
「久邇宮さんのことで」ということにす。

1957年4月8日
大久保家を訪問。
最初は主人、後は夫人も同席。
下を向いて何も言わず、一人しゃべり。
第一に洗礼未済を確め、四人だけの秘密頼む数回。
母方実家桂井家・父方大久保本家、祖母あげて断る。
「内意承りたし」と言う。
「経済上のこと心配無用」と言う。
「皇室会議手続あるゆえ、なるべく早く」とも言う。
約40分。
大久保夫人「明仁皇太子の御生活おさびしそう。息子忠恒〔平成天皇の同級生〕に電話30分」とか言う。

1957年4月9日
大久保夫人を訪問す。
門前にてお嬢さん会う、言わず。

1957年4月10日
兄大久保忠恒と会見。
「皇室のためになぜ大久保家が進まぬことをやる要ありや」と言う。

1957年4月14日
大久保家に電話、夫人に会見申し込む。

1957年4月17日
父大久保安威来訪。
「光栄なれど拝辞。離れるのはイヤ。全員反対。あまり平民的でもダメ、象徴は難しい。本人の意思はわからぬが、平民がいいようだ」
宇佐美長官・小泉東宮参与に電話。

1957年4月27日
宇佐美長官・黒木東宮侍従・小泉参与と四人。
昨日大久保夫妻来り、拝辞の話聞く。
「他に選択考えること必要」と言う。

1957年5月13日
小泉東宮参与訪問。
宇佐美長官・小泉東宮参与、三笠宮と懇談のこと。

1957年7月17日
宇佐美長官・小泉東宮参与と三人。
明仁皇太子御洋行のこと、御相手のこと。

1957年7月19日
宇佐美長官を訪問。
K〔北白川宮ではないとの原注あり・久邇宮英子女王か〕のこと。
葉山御用邸にて「何かを知っている」と言われたとの嫌味。
長官が話すのか。

1957年10月21日
小泉東宮参与を訪問。
Kに決定。
小泉東宮参与・黒木東宮侍従は明仁皇太子御希望に副わんとK即決の様子。
小生は元来Kよろしと思い、大久保栄子などはあまり賛成せざりしゆえ、Kに大いに賛す。

1957年11月7日
小泉東宮参与訪問。
Kの父の伝を話す。
大賛成す。

1957年11月19日
宇佐美長官来訪。
Empress dissatisfactory 云々のこと。

1957年11月20日
宇佐美長官・宮内庁次官瓜生順良・侍従長三谷隆信・東宮大夫鈴木菊男・小泉参与・僕。
宇佐美長官、Kに当るとのこと。

1957年11月29日
宇佐美長官来訪。
昨夜のKとの話聞く。
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『入江相政日記』侍従長

1958年3月4日
良子皇后この4~5日、なんだか御機嫌が悪い。
何が原因かわからないが困ったことである。

1958年4月2日
侍従次長稲田周一と、皇太子妃の問題、清宮貴子内親王の御縁談のことなどゆっくり語り合う。

1958年6月19日
夕方保科女官長来られ、良子皇后のこと長くいろいろ話し合う。
いずれもみな困ったことばかりである。

1958年6月30日
稲田侍従次長から良子皇后への御答のことで相談があり大変いいと思ったが、その結果を聞くと意外に根強いので一同驚く。
稲田侍従次長・保科女官長・侍従小畑忠と相談したが、どんなにしても体裁を取り繕うことはできない。
困ったことである。

1958年8月1日〔那須御用邸〕
侍従山田康彦と明仁皇太子の御縁談の推移について話す。

1958年10月3日
稲田侍従次長が昭和天皇に申し上げたらえらく反対遊ばした由。
そのことをまた良子皇后に申し上げるように勧めた。

1958年10月8日
侍医西野重孝の所へ行き、稲田侍従次長から言い渡される前によく言っておいた方がよくはないかというようなことについて話し合う。
その後、もう言い渡したとのこと。
大したことなく終わったが、やはり事の真相は蔽うべくもないようである。

1958年10月11日
良子皇后が秩父宮妃と高松宮妃を呼んで、明仁皇太子の御縁談について「平民からとはけしからん」というようなことをお訴えになった由。
この夏 御殿場でも秩父宮妃・高松宮妃・松平信子夫人という顔ぶれで前宮内庁長官田島道治さんに同じ趣旨のことを言われた由。
しかしそれにしてもそんなことをただじっと見つめているだけとは、情けない知恵のない話である。

1958年10月16日
新聞記者桐山君来訪。
明仁皇太子妃のことについていろいろ話がある。

1958年11月14日
会議。
と言っても、稲田侍従次長より明仁皇太子妃についての報告。

1958年11月15日
昨日宇佐美長官が昭和両陛下に申し上げたら、良子皇后が非常に御機嫌が悪かったという。

1958年11月20日
黒木東宮侍従から電話。
正田富美子夫人が服装のことにつき心配しているとのこと。
保科女官長から電話なさるように整えて出勤。

1958年11月24日
高松宮妃の所へ行く。
いろいろのことを聞かされる。
帰って良子皇后にいろいろ申し上げようというのだが、〈おぐしすまし〉(洗髪)とかで申し上げられない。
後でホールで申し上げる。
よくお聞き下さる。

1958年11月25日
稲田侍従次長に昨日のこと報告する。
黒木東宮侍従と宮内職員田端恒信と五反田の正田家へ行く。
質素な家だし、みんな立派な良い方である。
美智子さん綺麗で、そして立派である。
帰りに東宮職へ行き、鈴木東宮大夫・黒木東宮侍従と打ち合せ。

1958年11月26日
明日の御言葉ぶりについて申し上げる。
それで通ったから、明日は良子皇后も一応やってくださることは間違いない。

1958年11月27日〔明仁皇太子&正田美智子の婚約発表〕
テレビカーが4台、自動車は無数、空にはヘリコプター。
10時からの皇室会議は全員一致可決。
そのことを宇佐美長官から昭和天皇に奏上。
良子皇后には申し上げないと言うので、驚いて稲田侍従次長に御文庫へ行ってもらう。
1時20分正田さんの三人来。
明仁皇太子・昭和両陛下に御辞儀の後、正田さんの三人参進、御礼のあと椅子。
茶菓御話、そのあと明仁皇太子と御茶、記者会見。
この時の美智子さんの立派さは忘れられない。
送り出してから、予の記者会見。
6時に帰宅。
テレビで何度となくその模様を観る。

1958年11月29日
週刊朝日の原稿を書き出す。
良子皇后に美智子さんの御印象を何と書いたらよいか伺う。
まとまった仰せもないので、昭和天皇が宇佐美長官に仰せになったのと同じでよろしいか伺い、お許しを得る。

1958年12月8日
御婚儀の委員になる。
小泉東宮参与の招宴。
小泉夫妻・正田富美子夫人・保科女官長・女官河合ヤヨイ・女性御用掛高木多都雄・戸田東宮侍従長・黒木東宮侍従・松平信子夫人。
酒をおいしく飲み、御馳走もたくさん食べる。
保科女官長と同車して帰って来て、まもなく寝る。

1958年12月9日
美智子さんの教育に呉竹寮を使うことを、昨日昭和天皇はいいとおっしゃったのに、良子皇后はいけないとおっしゃった由。
まだモヤモヤがあるらしい。

1958年12月11日
人権擁護の関係、12月16日に美智子さんも交えて御文庫でお催しになったらと保科女官長を通じて申し出たが、「早すぎる」とのことで駄目。
何が早すぎるのか全然わからない。
無意味な不愉快な底流を感じる。

1958年12月22日
三浦義一氏〔室町将軍〕に会う。
今度の御婚儀反対を叫び、柳原白蓮・松平信子夫人が中心となって愛国団体を動かしたりした由。
しかしだいたい取り静めたとのこと。
美智子さんが来られ、旧奉仕者に引き合わせる役を予が務める。

1958年12月25日
読売新聞記者小野昇君、正田富美子夫人の手記をもらって諒解を求めに宇佐美長官の所へ行ってさんざん怒られたと言って、憂さ晴らしにウチへ来る。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1958年1月15日
宇佐美長官・松平信子夫人・小泉東宮参与・宮内庁参与石坂泰三。
後に残れと言われて残る。
宇佐美長官、K〔北白川宮ではないとの原注あり・久邇宮英子女王か〕のこと1~2まずいことを言われ、「色盲のことはやめだなー」と言う。

1958年1月18日
小泉東宮参与を訪問。
宇佐美長官との問答、色盲ダメ、先方辞退にて解決のこと言う。
小泉東宮参与は反対にて、押し切る意見。
私「やはり定石、北白川か」と言うに対し、彼は絶対皇太子〔皇太子の希望通りK〕
両者一致せず。
宇佐美長官の調査不備の責任等、意見一致。

1958年2月25日
Kはイトコ二人ともクロ〔色盲〕
村松博士の意見。
林富美子〔林友幸伯爵家林友春の娘〕は父死因不明、後妻身元不明。

1958年3月1日
宇佐美長官苦慮。
K・林富美子ともに難点あり。
松平信子夫人に候補者なきやを聞く説、必ずしも賛成せず。

1958年3月3日
宇佐美長官・瓜生次長・黒木東宮侍従・東宮大夫鈴木菊男・小泉東宮参与と6人、K思い切る。
林富美子に進む方針。
木下に確めること。
念のため万一のことを思い、平行的に他にも物色のこと。

1958年4月1日
宇佐美長官来訪。
林富美子のこと、新規まきなおしのこと聞く。
〔林富美子が他の男性との婚約を発表して候補から外れる〕

1958年4月12日
小泉参与参与。
血統重んずべきこと、畑のこと、前田のこと、正田~副島〔美智子妃の母方〕調べ良くば賛成言う。

1958年5月20日
鈴木東宮大夫に副島〔美智子妃の母方〕の調べ手交。

1958年5月21日
小泉東宮参与来訪。
明日正田英三郎と会見にて、その読み如何とのこと。

1958年5月22日
小泉東宮参与電話。
正田英三郎会見の結果のため会いたしとのこと。
新聞社来訪で、すぐ小泉参与へはちと vanity 家の気がす。

1958年6月9日
小泉東宮参与来訪、首相吉田茂訪問の報告。

1958年6月21日
例のメンバー。
小生、母親のこと〔正田富美子〕イヤなこと言う。
「しかし衆議賛成なら固執せず」と言う。
小生、母方系統興信所のみにて止まるのは心中どうかと思う。

1958年8月2日
宇佐美長官来訪。
曙光見ゆとのこと。
ただし前途まだ難からん。

1958年8月11日
宇佐美長官訪問。
松平信子夫人に伝うこと。

1958年8月22日
宇佐美長官・三谷侍従長・鈴木東宮大夫・黒木東宮侍従・小泉東宮参与と会談。
だいたい決定。
問題は宮内庁参与勝沼精蔵医師の意見。

1958年8月24日
小泉東宮参与来訪。
Go Abroad ちょっと at a loss
〔正田美智子がヨーロッパ旅行に発ったこと〕

1958年8月25日
秩父宮御殿場別邸。
秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮。
〔田島が各宮に正田美智子が最有力候補者になったことを報告する〕

1958年8月26日
宇佐美長官を訪問。
昨日の御殿場の話言う。
秩父宮妃・高松宮妃・松平信子夫人のつるし上げの件。
然るに昨日の小泉東宮参与と正田夫妻会見記に憤慨、休戦いう。

1958年8月30日
徳川義宣〔平成天皇の同級生〕来訪。
明仁皇太子のこといろいろ言う。
「自信あることなし、聞く雅量なし、硬骨遠かる、外遊すること良からん、結婚後にても。あまりに大人、あまりに失敗せぬよう考う。若さなし」

1958年10月2日
小泉東宮参与訪問。
正田美智子のこと聞く。
東宮職関係者は唯一の望みゆえ、如何なることをしても成立せしめたき意思のよう。
小生はやや違う。

1958年10月10日
宇佐美長官来訪。
高松宮妃らお招き、意思発表撃沈云々。

1958年10月17日
宇佐美長官・三谷侍従長・小泉東宮参与と。
北白川宮房子妃には事前必要とのこと。
〔もし北白川肇子に縁談を申し込むならまず祖母に連絡するべきとの意味〕

1958年10月19日
小泉東宮参与電話あり。
正田富美子夫人来訪とか。

1958年11月06日
秩父宮妃。
高松宮妃の話によれば「良子皇后と懇談の時なきも、御不満解けず」とのこと。

1958年11月15日
宇佐美長官訪問。
経緯詳細聞く。
通告の時期および方法の話。

1958年11月27日
皇室会議。
御発表テレビを見る。
宇佐美長官の御苦労に感謝の念。
万歳。

1958年11月28日
東宮御所に参内。
正田夫妻にも会う。
美智子さんにも挨拶。

1958年12月2日
中川三木会、美智子妃に反対多し。

1958年12月6日
松平信子夫人訪問。
正式につんぼさじきの話。

1958年12月16日
宇佐美長官より電話あり。
清宮貴子内親王の御結婚のこと、田島に相談せよと仰せのこと。

1958年12月20日
葉山御用邸に天機御機嫌伺。
清宮貴子内親王、華族結婚望ましと申し上ぐ。
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侍従入江相政より元宮内庁長官田島道治への手紙

1958年12月6日
来る12月8日の夜は小泉氏の主催にて築地の錦水にて、保科・高木・河合と正田富美子夫人・松平信子夫人らの会食あり、黒木君と共に小生もとのことに御座候。
昨夜は常盤松にて秩父宮妃・高松宮妃・三笠宮妃の三宮妃に美智子さんをお引き合せになりたる由に候。
このようにして回を重ね行くについれなんとかあいなるべきも、また同時に逆になんとかあいなりにくとも発生すべく、八方に気を配らねばならず骨の折れることに御座候。
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『入江相政日記』侍従長

1959年1月14日〔納采の儀〕
11時に正田さんの三人。
昭和両陛下に三人が拝賀の後、良子皇后御一方の所へ美智子さん一人出て御伝来の指輪をいただかれる。
結構なことだった。

1959年1月16日
美智子さんへの初講義。
今日はお母さんも一緒。
昭和天皇の思召などもいろいろ話す。
主として正月の行事について話す。
御歌会始のことがかなり大きな分量を占める。

1959年1月19日
会議、東宮職の人員のことについてやる。
宇佐美長官が「女官と女嬬と一人ずつはこちらのを」と言うのを、「断然不可、新規のを」と言う。
「近衛さんはいかん」などと言うのを、大いに「いい」と言ってやる。
みんな予の説に賛同の者が多くて愉快だった。

1959年1月21日
御婚儀委員会。
今日は道筋・饗宴などのことについてであるが、ちょっとしたようなことでもなんだかんだとかなり時間がかかった。

1959年1月31日
美智子さんに講義。
今日は「御子と共に」の御歌を例にひいて「御子」という思想を説き、続いて昭和天皇の生物学御研究について御話する。

御婚儀委員会。
今日は御列のこと、召される範囲のこと、写真撮影のことなど。

1959年2月17日
御婚儀委員会。
相変わらずつまらないことについての論議が続く。

1959年3月6日〔良子皇后誕生日〕
2時前正田さんの三人参内、御世話する。

1959年3月7日
今朝もまた妻が、正田さんが威張っているということから、予が正田さんを贔屓にしすぎると言って怒り出す。
つまらないことである。

1959年3月11日
週刊朝日に執筆するについて、昭和天皇に今度の御縁談をどうお考えになるかを伺う。
いろいろ聞かせていただく。
そのまま書けないようなこともあるので、これから整えなければならない。

1959年3月12日
良子皇后が今度の御慶事の馬車六頭、御大礼の時の御自身のも四頭だった、憤慨だとかおっしゃったとのこと。
何事だと言って憤慨する。

侍従山田康彦と二人で御文庫へ行き相撲中継を楽しむ。
相撲が済んでから、昭和天皇が美智子さんのことについて非常に御期待になっていることをいろいろ仰せになる。

1959年3月13日
美智子さんに講義。
今日から新東宮女官長牧野純子さんも加わって聞いておられる。
開戦のこと、終戦のこと、御退位論のことなど。

1959年3月14日
御婚儀の時の馬の数は六頭でいいと仰せになった由。
よかった。

1959年3月20日
美智子さんに講義。
近き将来に起ること・予想されることについて御注意になるべきことをいろいろ申し上げる。
イヤなことも多い。
退出しようとしたら、美智子さんが脳貧血。
しかし大したこともなく、まもなくお帰りになる。

1959年4月8日
東宮職から「4月27日に明仁皇太子夫妻が正田家へいらっしゃることについて良子皇后にお許しを得てくれ」とのこと。
良子皇后に申し上げてみたら全然お聞きになっていないらしい。
しかし昭和両陛下とも御機嫌は悪くなく、当然のことだと言ってらっしゃった。
後で黒木東宮侍従が「御機嫌は悪くなかったか?」と何べんも聞くところによると、宇佐美長官が非常にそのようなことを言ったらしい。
これから先これでは困ると言っていた。

1959年4月10日〔結婚の儀〕
美智子さんが正田邸をお出になる頃からずっとテレビを観る。
午前8時に出勤。
結婚の儀は次長室のテレビで観る。
なかなか御立派である。
美智子さんも御長袴、御無事で結構だった。

1959年4月26日
御散策。
観瀑亭のあたりから元覆馬場のあたりまで、良子皇后と美智子妃が御手をお繋ぎになっていらっしゃるのを見上げた。

1959年5月13日
昼はデンマーク・コロンビア・インド各大使の御陪食。
美智子妃初めてお出になり、コロンビア大使とよく御話になっていらっしゃった由。

1959年7月8日
美智子妃のことにつきいろいろ論議する。
一日も早く産科医小林隆を御召になることが先決と主張する。
〔令和の天皇を妊娠〕

1959年9月10日
東宮職から電話で「宇佐美長官が明日拝謁する時、美智子妃の今後の御行動につき、リクリエーションのためのお出ましはなるべく遊ばすようにおっしゃっていただきたい」との鈴木東宮大夫の要請により、御文庫で良子皇后に拝謁申し上げる。
たぶんそうやって下さると思う。

1959年10月17日
正田さんへ行く。
久々のことで夫妻大変喜んで迎えて下さる。

1959年12月8日
東宮職から頼まれた明仁皇太子や美智子妃の御行動と正田さんについてのこと、いろいろ整える。

1959年12月17日
美智子妃御参内のことにつき良子皇后に申し上げる。
どういうわけか御機嫌が悪い。
意味はよくわかってるが。

1959年12月31日
明仁皇太子の御結婚はすべて素晴らしかった。
一つのブームになったと言っていい。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1959年1月17日
秩父宮妃・高松宮妃つんぼさじきの御不満のこと、正田美智子礼を知らぬこと、正田富美子夫人生意気のこと、良子皇后まだ解けぬこと、良子皇后お妃教育に御不満のこと、明仁皇太子御苦労のこと、外交団その他不評のことなどなど。
小泉東宮参与に風当り強し。
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『入江相政日記』侍従長

1960年3月12日
病院へ行き、美智子妃の御退院をお送りする。
新宮〔令和の天皇〕にも初めてお目にかかる。
大変な【横目】をしていらっしゃった。

1960年4月1日
東宮御所へ行く。
話していると美智子妃がいらっしゃって、浩宮〔令和の天皇〕を見るかとおっしゃる。
大きくおなりになった。

1960年9月7日
清宮貴子内親王の「ある日幸せに」というのが元になって、美智子妃と不和であるというような記事がUPにでたことについて相談する。

1960年9月22日〔皇太子夫妻渡米〕
御出発のとき浩宮は御両親の方なんか御覧にならず、詰めかけている記者連をびっくりして御覧になっている。

1960年12月9日
明仁皇太子夫妻御参内。
長い御旅行お疲れで明仁皇太子は少しお風邪気味、美智子妃がわりに御元気なのは不思議なくらいだった。
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『入江相政日記』侍従長

1961年3月23日
美智子妃、御製。
一時は悲観したが、明仁皇太子のことをずいぶんお詠みになっていらっしゃるので安心する。

1961年8月11日
宇佐美長官に呼ばれる。
最近の奥のおかしな空気、明仁皇太子と美智子妃に対すること、秩父宮妃・高松宮妃のこと、常陸宮のこと、まったく弱ることばかり。
くだらなさに腹が立つが、そんなことを話し合う。

1961年8月16日
稲田侍従次長と話す。
那須で美智子妃が昭和両陛下にこの間からのことをいろいろ率直にお申し上げになったとのこと。
昭和天皇は「よくわかった」と仰せになったが、良子皇后は終始一言もお発しにならなかったとのこと。
帰りに理髪。

1961年10月4日
高松宮妃から電話。
美智子妃のことなどあらゆること、いつもの通り。
「このままでは皇室は亡びるだけだ」と言ってあげる。
夜、高松宮から電話。
「今朝は長時間失礼した」と。

1961年10月21日
宇佐美長官に呼ばれる。
昨日秩父宮妃から、予が高松宮妃にやったことについて御話があったということで、その時の事情を話しておく。
喜んでもらう。
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『入江相政日記』侍従長

1962年10月20日
美智子妃御誕辰。
美智子妃に「国民の九割九分までは絶対の支持をしていること」を申し上げる。

1962年12月9日
新年用の御写真。
浩宮のお可愛いことといったらない。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1962年10月31日
秩父宮妃。
昭和天皇のこと、良子皇后のこと、美智子妃のこと、女官長のこと。

1962年11月7日
鈴木東宮大夫と話す。
ノイローゼ気味、東宮侍従長山田康彦のこと、東宮女官長牧野純子のこと、正田のこと。

1962年12月1日
小泉東宮参与にトラブルメーカー イヤと言う。

1962年12月2日
秩父宮妃。
トラブルメーカーだめ。

1962年12月3日
秩父宮妃・高松宮妃、吐き出して御満足。
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『入江相政日記』侍従長

1963年3月22日
稲田侍従次長から、宇佐美長官が美智子妃が予の書くものについて恨んでいらっしゃるから、当分内廷のことについては書かない方が無難と言った由。
あきれたことである。
美智子妃は宮内庁病院に入院、すぐ手術とのこと。
〔流産〕

1963年3月23日
美智子妃が言われたことを繰り返し考えるが、真に不愉快である。
仮にそう言われたとしても、そのことが当の本人の耳に届くというようなことは昔の側近にはあり得ないことである。

1963年3月24日
明け方から雨の音。
また美智子妃のことが不愉快に思い出される。
ゆうべも侍従徳川義寛が東宮職のガタガタぶりについて大いに語っていたとのこと。

1963年3月28日
山田東宮侍従長が来ていろいろ話してくれる。
この間からの話がだいぶ違ったのは情勢が違ったのか。

1963年3月29日
宇佐美次長と鈴木東宮大夫といろいろ聞くとこの間からのともまた違い、
「昭和両陛下には入江さんのような人があるからいい。昭和天皇も『それは入江に書かせればよい』とおっしゃったとのこと。皇室がこんなに冷たいものとは思わなかった」とのこと。
鈴木東宮大夫と一緒に東宮御所へ行き、明仁皇太子夫妻の御前に出る。
よく御話くださる。
御気持もよくわかった。
少しの錯乱もなく驚くばかりだが、その緻密なところが禍をなしていると思われる。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1963年3月29日
松平信子夫人。
美智子妃病状聞く。

1963年6月16日
秩父宮妃。
美智子妃御病状のこと。

1963年8月27日
鈴木東宮大夫・黒木東宮侍従と話す。
20分ほど明仁皇太子に拝謁。
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『入江相政日記』侍従長

1964年3月9日
東宮御所へ。
明仁皇太子・清宮貴子内親王・鈴木東宮大夫も陪席。
いろいろ御話があったが一番の御注文は、今度の葉山御用邸に明仁皇太子夫妻・孝宮和子内親王夫妻・清宮貴子内親王夫妻がいらっしゃりたいとのこと。
帰って報告。
そのうち奥からも御話があって本決まりになる。

1964年3月14日〔葉山御用邸〕
明仁皇太子夫妻・常陸宮・清宮貴子内親王夫妻も来られる。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1964年2月21日
秩父宮妃。
今度のことで明仁皇太子夫妻にショックなきよう。
〔常陸宮&津軽華子の婚約発表〕

1964年3月3日
宇佐美長官。
常陸宮苦心談、昭和両陛下 明仁皇太子夫妻に直言。

1964年6月9日
冲中重雄博士〔田島と美智子妃の主治医〕
美智子妃健康および自分の診察打ち合せ。
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『入江相政日記』

1965年3月19日
山田東宮侍従長と面談。
明仁皇太子の所も困ったものである。

1965年3月24日
山田東宮侍従長が来て、辞任に当って明仁皇太子にいろいろ申し上げたことについての話。
人使いが荒いこと、臣下のつまらないアラを取り上げないこと、孝養をお励みになるべきこと、常陸宮とお仲良く遊ばすべきこと。

1965年4月21日
明仁皇太子夫妻御参内。
美智子妃よりお直に御懐妊〔秋篠宮〕のことをお申し入れ。

1965年4月23日〔園遊会〕
昨夜美智子妃御出血。
昭和天皇は「各皇族にはありのままを申し入れるように」と仰せになった由。

1965年10月11日
美智子妃、本日御着帯につき御参内。

1965年11月27日
昨日昭和天皇から宇佐美長官に美智子妃の御退院の頃のことについてすべてお許しがあったということだったが、話がうますぎると思ったが、やはり昭和天皇は永積侍従次長から良子皇后に申し上げるようにと仰せられた由。

1965年12月2日
〔秋篠宮誕生〕
病院に御見舞においでになったらどうかということでいろいろやる。
結局昭和天皇はおいでにならないことになり、良子皇后御一方ということになる。
でも良子皇后だけでもおいでになることになって良かった。
良子皇后が御見舞になった時、美智子妃が起きてお迎えになったということにつき、無理してやしないかというのでお怒りの由。

1965年12月11日
美智子妃御退院をめぐって、東宮侍従重田保夫さんがカチンとやられた由。
こっちにも同じようなことがあったと言うし、ますます困ったことである。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1965年2月20日
冲中重雄博士〔田島と美智子妃の主治医〕訪問。
美智子妃のこと聞く。

1965年3月2日
秩父宮妃・高松宮妃。
女官名和栄子のこと。
東宮御所の方 病気と考える他なし。
その病的焦燥を高めないよう注意すれば真剣のことは手が出ず、医者が正田富美子夫人に説くこと。

1965年5月24日
吉田茂訪問。
東宮御所のこと、美智子妃のこと、良子皇后のこと。

1965年7月27日
『女性自身』橋本明〔皇太子の同級生で記者〕の記事〔「兄弟/両殿下への提言」〕
明仁皇太子のこと、常陸宮のこと。
小泉東宮参与とと両宮のこと話す。

1965年8月14日
高松宮妃。
『女性自身』の記事の出所。

1965年8月24日
『女性自身』ちょっと驚く。
宇佐美長官訪問、『女性自身』問題。
〔橋本明が皇太子のインタビュー記事
「談 皇太子明仁親王殿下 はじめて語られた自らのお心のうち」を掲載する〕

1965年8月27日
鈴木東宮大夫訪問。
軽井沢にて御忠言の話。

1965年8月31日
高松宮妃。
良子皇后が夜分秩父宮妃と高松宮妃をお呼びのこと。

1965年9月6日
小泉東宮参与と対談。
鈴木東宮大夫相当申し上げしこと、小泉が御所にて不評のこと、小泉承知、ただし小泉は吉田茂に話すこと不賛成らしい。

1965年9月13日
宇佐美長官訪問。
このごろ短気困るむね強調。
東宮大夫対明仁皇太子は、宮内庁長官対昭和天皇のごとく関門的希望。

1965年10月7日
田辺定義氏〔田島の友人〕
『女性自身』読みおるにつき、適当に心得までに話す。
田辺氏、無視。

1965年10月18日
高松宮妃。
東宮女官長牧野純子辞職のこと。

1965年10月21日
宇佐美長官訪問。
牧野女官長辞職風説なし。
正田夫妻、宇佐美長官に駆け込みの話。

1965年11月1日
鈴木東宮大夫、東宮御所に訪問、一時間半余り懇談。
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精神科医神谷美恵子から元宮内庁長官田島道治への手紙

※神谷美恵子は田島道治の親友前田多門の娘、田島が美智子妃にお話相手として紹介する

1965年7月15日
7月8日には東宮御所に参上。
初めてのこととてまったく虚心にただ雑談をさせていただきましたが、お話はたいそう弾んで、癩病の話・文学の話・教育の話などさまざまな話題に及び、帰宅後いくつか本をお送り申し上げる御約束をしてまいりました。
その日のうちに兄〔前田陽一〕の方へ御電話がございまして、また会いましょうとの御言葉でございました由。
まずまず無事に済んだかと存じております。
心が通い合わなければ何事も始まりませんので、これをもとに今後何かお役に立ちうることがございますれば、させていただきたいと存じおる次第でございます。

1965年7月21日
東宮御所へは参上の折り、『医学的心理学史』を名刺代わりに持参致しました。
『自省録』のことは妃殿の方から話を出され、中の文句まで暗唱しておられるのには恐縮致しました。
お好きなサン=テグジュペリの話などよもやまの話が弾み、癩病とサン=テグジュペリに関する本をお送り申し上げる御約束をしてまいりました。
ごく自然に皇室での御立場の難しさ、その他についても御話がございましたが、私はただ伺うのみにて一切教訓がましい態度を取らないことに致してまいりました。
それが果たしてよろしかったかどうかわかりませんが、会談は終始楽しい感じで笑いも入り混じり、昔の観念で申しましたらずいぶん不謹慎のことでございました。
その日のうちに御所から兄に御電話があり、また会いましょうとの御伝言でございましたゆえ、今後もこうしたことが度重ねられるならば次第に御心を開いて下さるかとも存じます。
もとより庶民の者に何もできようはずもございませんけれど、せめて少しでも御心を軽くするお役にでも立ちるればと念願致す次第でございます。

1965年11月6日
来る12月講演を頼まれておりますので、上京する予定でおります。
その頃は美智子妃の御出産の頃ではないかと存じますが、先だってお目にかかりました時、たとえ御入院中でも私に会いたい、「もしかしたら赤ん坊を見ていただけるかもしれない」など仰せられましたので、いかが致したものかと考えております。
心ばかりの御祝を用意して上京致すつもりでございますが、ただそれを御所にお届するだけにとどめた方がよろしゅうございますでしょうか。
恐れ入りますが、もしお分かりでございましたら御教示くださいませ。

1965年12月4日
美智子妃も今度の御出産ですっかり自信と落ち着きを取り戻され、もう私など御心配申し上げる必要もなくなるのではないかと存じます。
むしろ私などに御用のなくなることを望んでおります。

1966年1月20日
昨年暮れに御所から御直筆のお便りをいただきました。
「また会うのを楽しみにしている」むね記されておりましたが、御正月に鈴木東宮大夫様に宛てて「御元気に忙しくなられることと存じますゆえ、これ以上は御遠慮申し上げた方がよろしいのではないかと存じます」という意味のことを書き送りました。
本日鈴木様からの御手紙で「3月上京の節にはぜひ会いたい」との趣ゆえ、日程を知らせるようにと申し寄こされました。
以上、一応御報告まで申し述べます。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1966年3月4日
秩父宮妃、このごろ明仁皇太子夫妻を食事にお招きの御様子。
高松妃とお打ち合せの御様子。

1966年3月5日
精神科医神谷美恵子博士を誘い、秩父宮邸訪問。

1966年3月25日
美智子妃に神谷美恵子博士のことお話す。
明仁皇太子にもちょっと。

1966年4月7日
神谷美恵子博士、東宮職侍医と話したしとのことにて、沖中重雄博士と打ち合せ。

1966年4月15日
沖中博士訪問。
神谷美恵子博士の問題、薬品などは侍医も承知、今後医薬に関してもし美智子妃希望されし時は沖中博士に連絡のこと希望。

1966年5月2日
宇佐美長官訪問。
東宮女官長牧野純子、私あること1~2の例を聞く。
最近の良子皇后のこと。
明仁皇太子が木戸幸一を呼ばれること東宮大夫鈴木菊男より伝わり、賛意あり。

1966年5月17日
貞明皇后例年祭。
明仁皇太子夫妻は御同列にて御拝。
珍しき新例のように思う。
如何にや。

1966年6月13日
木戸幸一との対話。
明仁皇太子御発意ならば喜んで参上、田島進言の結果なれば拝辞。
当時御養育に東郷・酒巻などおかしいとも思ったが、やはり何かあったように思う。
象徴といえども政治上の見識は必要。
その御修養大切、今は無きようなり。
昭和天皇は18歳より日本の大政治家輩と接触して経験豊かなり。
小生が松方三郎・松本重治・佐藤達夫など一つ下のジェネレーションの人名を申し、稲田の代りに国連大使松井明の名を挙げしも、全部大賛成のようにて、そういうところを近づける方策を考えることは大賛成。
「お召しあれば東宮御所に上って下さるか」と言った時、
「明仁皇太子御自身の御希望ならば喜んで伺うが、東宮御所は旧華族をお嫌いだろう」との返事。
美智子妃に対して不賛成らし。
「恋愛でもなく見合いでもなく、知り合い結婚とでも言うか、結構」といったもの。
やはり内大臣を多年経験せしだけになかなかなり。
木戸という人間知的その猿利口が主と思ったのは少々的外れらしく、大事を語るに足る相当人物と見直す。
久邇宮朝融王行儀問題、朝香宮妃薨去後の問題老女の話、秩父宮の御元気な時の話、高松宮現状評判(素人の噂、お金のこと)などたっぷり話す。

1966年6月17日
鈴木東宮大夫訪問。
神谷美恵子博士従来通りにてよしとのこと。
女官長更迭のこと、候補者に困るのこと。

1966年7月8日
経済企画庁長官宮沢喜一訪問。
美智子妃冊立の大体話す。
皇室は国民の税で食っていること、音楽会などは遊んでる印象、なにか演出必要とのこと。

1966年11月12日
鈴木東宮大夫来訪。
最近の明仁皇太子夫妻の動静話さる。
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精神科医神谷美恵子から元宮内庁長官田島道治への手紙

1966年4月12日
先日の冲中先生〔田島と美智子妃の主治医〕との会見、十分意思疎通のつもりで帰ってはまいりましたが、思い返してみますとあまりに突然に私というヤブ医者が出現したので、多分に戸惑われ御迷惑に感じられたのではないかと恐れます。
もとより私は医師として行動するつもりでは毛頭ございませんし、それゆえにこそ冲中先生との面会をお願い申し上げたのでございました。
つまり純粋に医学的なことは冲中先生や他の侍医の方々にお任せ致したく存じたわけでございます。
その辺のところを一応申し上げは致したのでございますが、まだ多少疑念をお残しではないかと少々心配でございます。
美智子妃があまりに私を御信任くださいますことも少々荷が重く感ぜられておりましたところへ、もしまた私が侍医の方々に御迷惑と感ぜらるる存在となりましたら大変という気が致します。
恐れ入りますが、なぜ私ごとき者が美智子妃の御側へ参上するようになったのか、一度冲中先生の御話いただければ幸いでございます。
またもし私がこれ以上御側へ伺わない方がよいというような御判断がおつきの場合には、なにとぞ仰って下さいませ。
私は決してこの重任に執着してはおりません。
むしろ美智子妃の御心の重みというより重さをどうして差し上げたらよいのか考えあぐねているばかりでございます。
ただいまのところ美智子妃は宗教的なものよりむしろ文学によって御心を慰めておられるようで、先日はいろいろ詩の御話が出ました。
英詩集などお送り申し上げることになっております。
重い御心のはけ口となること、自然の御性向の添って御話相手を務めつつ次第に広やかな心の世界へとお誘いすることを念願としておりますが、時間のかかることと存じます。

1966年4月18日
さっそく冲中先生にお会い下さいまして由、御手数をおかけ申し上げ恐縮に存じます。
やはり私の懸念はまったく根拠のないことではなかったようで、冲中先生に御話いただいてようございました。
先日美智子妃から私へ医学的な事柄について御依頼がございましたのでございますが、冲中先生にお目にかかった結果私は一切医師としての行動せぬ方がよいことがわかりましたので、美智子妃にその意味のことを手紙でお書き申し上げました。
美智子妃にお目にかかるたびごとにお悩みのお打ち明け話が多くなり、どうして差し上げたらよろしいのか思いあぐねますが、私の立場と致しましてはただはけ口となること、そしてできれば相対的な現実を超えた世界に安らぎを発見されるようにお誘い申し上げることのみかと存じております。

1966年4月21日
以前から見れば美智子妃の精神状態は大変よくおなりになったとのことを冲中先生から伺い、そうでございましょうと信じますが、ただいまの状態も決して理想的とは申されません。
お目にかかりますたびごとに堰を切ったように縷々としてお悩みを御話になり、それが次第に多くの時間を占めるようになりました。
朝起き出せないほどの憂鬱にもしばしば襲われになることを伺いまして、なんとかして差し上げたいと考える次第でございます。
普通の方の場合でございますと、適当に少量の薬などを用いながら週に一回面接して精神療法をするということになるのでございますが、医学的なことにはタッチしない建前でございますし、またごくたまにしかお目にかからないので、いわゆる精神療法も難しゅうございます。
精神療法と申しましてもただお悩みはけ口となって差し上げること、そして仰せのように人生観・宗教観の広い立場から御話相手になることでよいとは存じますが、何としてもせめて一カ月に一回ぐらいは定期的にお目にかかるのでなければ大した効果もないように存じます。
私が東京在住ならもっとしばしばお会いしたいのにとか、手紙をくれとか仰せられます。
それどとりあえず御手紙は時々お出ししておりますが、在京の方で適当な方があれば代っていただきたいという気が拭いきれません。
美智子妃の最大の悲劇は孤独でいらっしゃることのように思われます。
お悩みはもちろんのこと、詩とか文学とか御関心の深い題目についても気軽に話し合える相手がいないと先日仰せでございました。

1966年8月16日
この前美智子妃から三時間近くにわたって伺いましたお悩み、それは神経症の名のつくほどのものでございますが、皇室制度というものについての御不安感が大きな原因になっておりますことがわかり、どうしても私自身の頭の中をその点について整理しておかねばという必要を感じました。
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『入江相政日記』侍従長

1967年8月19日
稲田侍従長から、東宮職のことがすべて高松宮妃に筒抜けとのことを聞いた。

1967年11月13日
東宮御所。
美智子妃に拝謁、二時間以上。
「良子皇后はいったいどうお考えか。平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるか」などお尋ね。
それぞれお答えして辞去。

1967年11月14日
宇佐美長官と稲田侍従長と永積侍従次長に昨日のことを報告する。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1967年1月13日
昨日の御歌会に美智子妃お出でなかりしこと。

1967年1月21日
宮内庁長官宇佐美毅来訪。
美智子妃、小袿取り戻しのこと。

1967年3月4日
神谷美恵子博士来訪。
美智子妃スキー後にてお目にかかる。
御元気のよう。
「昭和両陛下・入江その他皇族各自 新聞雑誌との連絡あるようだが、私にはないので煩わしい」との御話あったとのこと。
私はそれは反対、持たぬ方がよし、他の宮様がそんなもの持ってることは無視する御用定必要。
多少あるかもしれぬが、それをやめていただくことに我々も陰ながら努力すべきと思っています、とて良子皇后拝謁、小泉参与免職のことなど話す。

1967年3月20日
鈴木東宮大夫来訪。
神谷美恵子博士が受けし美智子妃の希望話し、それはあまり配慮なき望むむね神谷美恵子博士に答えし話。
「fight に変化」のむね言いしところ、
「それはノイローゼに混入して考えあるところ、放置より仕方なし」との意見。

1967年6月18日
高松宮妃。
高松宮5月31日にカナダノイローゼ発病の御話。
その後まず御快癒の由。
それにつき宮内庁随員なきこと、式部官長のスローモーなこと、宮内庁長官更迭の話を聞いたこと、鈴木東宮大夫のこと、芦田場合によりては御退位云々のこと初めて口外す、御代代り国家のため心配と言う。
だから宮内省に腹のあるしっかりした人 入用とのこと、松村金五100点の話あり。
北海道知事となりし人、ちょっと難しと言う。
松方三郎、ちょっと困る点あり、細君死んだがとのこと。
松井は100点らし。
小泉は少し点落ちる。
美智子妃に感心せぬ話。
常陸宮妃が立てられることなど。

1967年6月22日
宇佐美長官・元宮内庁次長林敬三と三人、宮内庁人事の話。
式部官長原田健ダメの話、鈴木東宮大夫のこと、東宮大夫の地位低きこと、東宮侍従浜尾実 鈴木東宮大夫の頭は古きこと改めて自覚す。
侍従長・次長更迭同時はできず、どちらを先にするかとのこと。
東宮職ちょっとだらしなく、報告少なきこと。
侍従穂積重道をを自治省再押しつけのこと、東宮侍従重田保夫さほどでないこと。
小泉信三参与の時 東宮職にてブーブー化しこと、元東宮大夫野村行一も不平ありしこと。
知らぬが仏か。
しかし小泉の人物学識はみな尊敬す。

1967年7月5日
東宮御所。
鈴木東宮大夫同席、明仁皇太子夫妻と二時間お話す。
皇孫殿下〔令和の天皇〕も御同席、御挨拶じき退去遊ばさる。
行儀およろし。
小泉・安倍死に、吉田・山梨健康衰え、田島もいつ死ぬか知れず。
皇孫殿下御教育の御参考かと考える旨にて、穂積大夫交代の経緯詳細言上す。
浩宮、論語素読結構のこと、政府人でなく民間人広く御接触希望すること等々。

1967年8月2日
高松宮妃。
明治天皇祭 袿の問題、良子皇后と美智子妃との対話のこと。
東宮女官名和栄子〔名和長憲男爵の娘・高松宮喜久子の親類〕よりの話。
保科女官長ウソの話、皇太子妃袿拝借身分の差にあらず、節子皇太后〔貞明皇后〕より拝領大事の品、大事とあっけにとられた話。
帽子靴30贅沢、欲しい物は買うとのこと。

調書持参、鈴木東宮大夫と話す。
明仁皇太子夫妻の公事のみ。
だいたいにて良きも、美智子妃については多少不賛成の点あるらし。

1967年8月18日
高松宮妃。
徳川誠〔高松宮喜久子妃の叔父〕病室見舞に、病室で誠夫人の妹東宮女官名和栄子が語りしこと。
東宮侍医由本正秋「こんな嫁さん、民間にもなし。美智子妃衆人満座で人を叱り、良子皇后のこともあまり良く言わず。大膳が夜食的なものを買いにやらされ、タクシー代に困るとか。欲しいと思う物は必ず買い、東宮侍従重田保夫が予算のカラクリをやる」
看護婦長も悪く言う。
美智子妃は首相佐藤栄作および夫人をよく言わる。
そして美智子妃はよく来ることは明かさず、長官更迭説を言う。
いつか佐藤夫人に言いしごとく、大夫・式部など人事を良くするは長官の責任。
長官更迭など思いもよらずと言う。
遡りて秩父宮妃・高松宮妃に正田美智子のことを言わざりしとこと、御殿場にて田島を吊るし上げし話を持ち出さる。
しかし同時に明仁皇太子が良子皇后に美智子をもらってくれとせがまれし話もなさるゆえ、実情は多少御存知と思わるるが、小泉東宮参与が軽井沢でテニスで機会を作り、そして持ち出したとまで思っておられるらし。
探しもしないで云々。
古いと言ったではないかとなかなかこの話に熱心なり。
過去のことだが、小泉東宮参与が美智子さんの妹の仲人をしたのは unwise と直言した話もする。
結局宇佐美長官に直接話されたしと言う。
午後にでも呼ぶ勢い。

1967年9月2日
高松宮妃。
宇佐美長官は信頼できなくなったという話。
8月18日直接宇佐美長官に話される方よろしと申せしより、さっそく御話になった様子。
その結果本人たちに事情も聞かず、黒木東宮侍従が■■をしたとのこと。
噂のある人に会わぬのもおかしい。
鈴木東宮大夫も黒木侍従も美智子妃の機嫌取りばかりという話。
宇佐美長官もダメとのこと。
田島は明仁皇太子夫妻に御信任ない以上、辞めるが当然ゆえ探盗人くらいの考えかも知れぬと申し上ぐ。
7日の会合にて融和図らんとせしこと水泡のようなり。

1967年9月13日
高松宮妃。
あらためて黒木東宮侍従より女官名和栄子に緘口令下るとか。
鈴木東宮大夫・女官長牧野純子なかよしとか、高松宮ルートが明となり名和女官大変らしく、宇佐美長官の命令か、鈴木東宮大夫・黒木東宮侍従懸命、みな免職は恐れる。
名和女官も食えぬとのこと。
緘口令出たについて部外の人に言わぬよう東宮女官宮崎恒子によく言っていただくこと頼む。
外務大臣夫人、数千円の本を差し上げるに、御接待はあるも何の御礼もなしとの意見。
美智子妃につき、またその母につき、私の考えを述ぶ。

1967年9月22日
皇室ことに東宮御所のことで眠れず。

1967年10月30日
宇佐美長官訪問。
東宮女官今村淑子はダメとのこと。
牧野女官長もおかしいこと。
宇佐美長官も鈴木東宮大夫も明仁皇太子夫妻には忠言しおること。
明仁皇太子夫妻、自説固持の性質のこと。
美智子妃が明仁皇太子よりうわ手とのこと。
神谷美恵子博士に新聞記者紹介を頼みしこと恐れ入るむね話をし、いつも週刊誌にも会いたい旨あり。

1967年11月15日
鈴木東宮大夫訪問。
昨年来美智子妃、牧野女官長に直言。
鈴木東宮大夫ら陪席、このとき牧野女官長は弁解的、一生懸命やってると言う。
その後、行為改まる。
黒木東宮侍従、名和女官に緘口令言う。
名和女官無能、今村女官の方はよし。
美智子妃は名和女官が高松宮ルートたることいまだ知らず。
知らさぬ方よしとのこと。
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『入江相政日記』侍従長

1968年2月12日〔葉山御用邸〕
2月25日の映画には浩宮御一方とのこと。
どうして美智子妃がおいでにならないかよくわからない。
東宮侍従浜尾実さんに聞いてみてもわからない。
昭和天皇も御不審だった。

1968年9月26日
良子皇后「東宮女官長後任に松村淑子の件、考えたがどうも都合が悪いと思う」との仰せ。
やはりキリスト教だからだろう。

1968年9月27日
宇佐美長官・稲田侍従長に松村淑子は駄目ということを伝える。
東久邇家を常盤松の官舎に引き取ることについて打ち合せ。

1968年10月16日
良子皇后に拝謁、東宮女官長松村淑子につきお許しを得る。
また揺り返しがあるかもしれないけれど、一応これで済んだ。
宇佐美長官も稲田侍従長も喜んでくれた。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1968年3月5日
国民として昭和天皇の御代はよいとして、明仁皇太子には昭和天皇のような御徳望ましいと思う。

1968年7月1日
神谷美恵子博士。
東宮大夫鈴木菊男は美智子妃ファン。
他は女官長牧野純子・東宮侍従長戸田康英・女官みなダメ。
グラフに出るのも研究。
厚化粧の割に皮膚若い所なし。
女官、代払のことあり。
神経病の一種。
全然恰当。

1968年7月3日
秩父宮妃。
高松宮妃直言のことは、なかなか大したこととお御話。
あの方ならねばできぬこと。

1968年11月23日
神谷美恵子博士、美智子妃の驚の話。

1968年11月26日
鈴木東宮大夫。
ほとんど個人的明仁皇太子夫妻御伝言。
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『入江相政日記』侍従長

1969年8月6日〔那須御用邸〕
明仁皇太子の浜名湖の御土産のカニ、いつもならどこかへプイということだったろうに、良子皇后さっそくお描きになった。
いい具合に前田青邨〔良子皇后の絵の師〕も激賞。

1969年9月1日
宇佐美長官から美智子妃の整形のことなど聞く。
〔美智子妃は肋骨の変形のため宮内庁病院で手術する〕
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『入江相政日記』侍従長

1970年9月1日
三笠宮百合子妃から、三笠宮寛仁親王が明仁皇太子夫妻と明方4時まで議論、続いて明仁皇太子夫妻は軽井沢で夜8時から12時半まで同じことについて談じ込まれた由。
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『入江相政日記』侍従長

1971年12月1日
新年用御写真の時の録音、NHKがやるとは知らなかったが、とにかく明仁皇太子がお進みにならず、宇佐美長官も大反対とのことでやめになる。
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『入江相政日記』侍従長

1972年6月19日
侍医長西野重孝来訪。
美智子妃のこといろいろ心配しての話。
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『入江相政日記』侍従長

1973年2月23日
東宮侍従井関英男が話していく。
相変わらずで、進歩もしなければ変化もしない。
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『入江相政日記』侍従長

1974年3月8日
久宮祐子内親王〔早逝した昭和天皇の娘〕祥忌につき御機嫌を伺う。
昭和天皇は今晩ギリシャ劇においでになる明仁皇太子のことについていろいろ仰せになる。

1974年4月11日
宇佐美長官といろいろ話す。
今日の美智子妃のは、どうやら見当がついたとのこと。
宇佐美長官と東宮御所。
宇佐美長官・鈴木東宮大夫・東宮侍従重田保夫と美智子妃の御前。
藤島泰輔〔平成天皇の御学友〕がしゃべったことがお気に障った件、はじめはすごかったが、終りは大いにお笑いになった。

1974年4月12日
東宮侍従重田保夫来訪。
藤島泰輔に言う方法のこと。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1974年9月25日
夜、東宮四殿下御参内。
美智子妃は御発熱で御不参。
秋篠宮ヤンチャで広間のドラを一発鳴らす。
紀宮清子内親王可愛い。

1974年10月5日
東宮職からの連絡ということで、
「明日美智子妃と秋篠宮が、紀宮の運動会にお出まし」のむね申し上げたところ、
このところお風邪のため2~3回御参内がお休みであった「美智子妃は大丈夫か侍医に聞くように」とのことであった。
冨家崇雄侍医を通じて聞いてもらい、冨家侍医から
「お熱は下がらないが、御気分が爽快であるからお出まし」とのことを申し上げた。
昭和天皇は「ぶり返さないか?」とのことで、
冨家侍医は「拝診しておりませんから、何とも申し上げられない」旨お答えしたとのこと。
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『入江相政日記』侍従長

1975年3月3日
昭和天皇に、この間からの高松宮妃・美智子妃などのことについて申し上げる。
御納得いただいた。

1975年3月25日
昭和天皇から御召。
昭和天皇が美智子妃にゴルフとダンスはしないようにとおっしゃったことについての、昨日の宇佐美長官への仰せ、それの布衍だった。
すぐ宇佐美長官に伝える。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1976年8月31日
東宮侍従八木貞二は、先頃の毎日新聞の明仁皇太子批判記事について気にしていた。
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『入江相政日記』侍従長

1976年5月10日
日清製粉〔美智子妃の実家〕と山崎製パンとのこと、笹川良一も心配してるとか。
馬鹿な話。

1976年8月23日〔那須御用邸〕
宿舎で会食。
西野侍医長も出席、誠に楽しかった。
「どうしてこうも東宮職と違うのか」など言っていた。

1976年12月31日
赤坂方面〔平成天皇家〕の人気は依然冴えず困ったもの。
しかしこれはまったく手がつけられない。
その意味も含めて昭和天皇がますます御機嫌でいらっしゃるよう祈るほかない。
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『入江相政日記』侍従長

1977年4月1日
歌会始のことにつき協議。
御用掛木俣修は東宮職のことをしきりに憂い嘆いていた。

1977年6月10日
衆議議長保利茂が昭和天皇の御風格を讃え、「それに反して赤坂の方〔平成天皇家〕は」と言う。
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『入江相政日記』侍従長

1978年1月14日
宇佐美長官と、もう少しハッキリ明仁皇太子に御話して混乱のないようにしなくてはと話し合う。

1978年3月11日
安嶋東宮大夫と面談。
美智子妃の例のクリスチャン問題についてよく話す。

1978年3月25日
明仁皇太子のことについて黒木東宮侍従長来室。
安嶋東宮大夫は美智子妃のことで大苦慮とのこと。

1978年4月12日
式部官長湯川盛夫来室。
明仁皇太子がドイツの勲章をお受けにならないとかなんとかいうくだらぬことを聞く。

1978年6月15日
黒木東宮侍従長に、元東宮侍従浜尾実などがよくしゃべるお膝元での御教育は明仁皇太子がお初めてとのテレビの言説に対する昭和天皇の御不満を伝えておく。

1978年8月20日〔那須御用邸〕
昭和天皇から明仁皇太子記者会見のこと。
「那須は嫌いなどとなぜ言うのか」の件。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1978年7月12日
東宮御所〔平成天皇〕増築部分の参観。
1階の三殿下の個所・進講室・私室など。
2階の美智子妃の御服室・御化粧室など。
2階部分は宮内庁長官・宮内庁次長のみに披露し、他の部局長には見せないと。
なかなか良くできているが、三殿下個室にそれぞれ防犯シャッターがガラス戸の内側に下がるようになっているのは不可解。
カーテンはシャッターの外側に硝子戸の中につけるのだろうから、夜間シャッターを間近にしての居住ということになり、倉庫にいるようなことになるのではないか。
毎日シャッター降ろすのでないならば非常用なのか。
紀宮の室の窓際に少し室内に寄ったところに大きな柱があったが、外側に出すと別の柱と2本並び外観を損ねるというが、内側が狭くなるだろうものだから使う者本位に考えない建築家の犠牲になったわけか。

1978年10月3日
今月から明仁皇太子〔平成天皇〕の定例御参内が火曜日になった。
浩宮〔令和の天皇〕が大学の都合で水曜日はよくないということから。
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『入江相政日記』侍従長

1980年3月31日
東宮御所。
明仁皇太子もなかなか努力して立派になっていらっしゃる。
あと大事なボルト一本打ち込めばという感じ。

1980年6月13日
〔元常陸宮伝育官〕掌典長東園基文に会い、明仁皇太子と常陸宮のこと聞く。
この頃はおよろしいとのこと。
皇后宮大夫安楽定信に話しておく。
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『入江相政日記』侍従長

1981年10月30日
東宮御所〔平成天皇〕いくらかよくなってきた。
ただし侍従がまだいけない。
上と下はよくなったとのこと。
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『入江相政日記』侍従長

1982年3月23日
昭和天皇より、「富田長官は皇室評論家4人について悪く言っていたが、それより元東宮侍従浜尾実の方がずっといけない」との仰せ。

1982年4月8日
昭和天皇から、御外遊のことにつき明仁皇太子との割り振りのことなどいろいろ仰せ。
大いに意欲がおありになる。

1982年8月13日〔那須御用邸〕
昭和天皇、御熱7度6分、御脈100以上。
戦没者追悼式はおやめになる他なかった。
昭和天皇から「8月15日はどうなったか」との仰せ。
「明仁皇太子御名代、美智子妃はただ御供、したがってごゆっくり御養生を」と申し上げる。

1982年8月14日〔那須御用邸〕
昭和天皇ちょっと御機嫌悪く、
「私が外遊の時に東宮ちゃんがやった時のように、何も言葉は言わないんだろうな」との仰せ。
すぐ東京に連絡。
侍従卜部亮吾が富田長官そのことを言ったら、ギョッとした由。
卜部侍従曰く「そういうことがわかっているから侍従職ははじめから消極的だった」と言っていた。
そして御言葉も用意していたのに、願わないことにした由。
つまらないことである。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1983年1月20日
黒木東宮侍従の急逝の由 知り驚く。
死に場所がトルコ風呂ということで週刊誌など取材の動き。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1983年4月11日
明仁皇太子の御会釈御言葉。
明仁皇太子の事務担当者からこちらの庶務係長に
「宮内庁新採用職員に御会釈の際の明仁皇太子の御言葉の参考に、昭和天皇の同職員拝謁の際のものを教えて欲しい」と言ってきた。
それで「昨年までの明仁皇太子御自身のものを参考にすればよいので、昭和天皇が何とおっしゃろうと関係ないと思う」と断わらせた。
ところが早速八木事務主管から電話が来たので、同じ趣旨のことを伝えたところ、
「下の者が上の者の御言葉を参考にするのは当然ではないか。明仁皇太子が聞いてくれるようおっしゃっているのだから知らせてほしい」という。
「昭和天皇の代わりにお会いになるのではないのだから、独自にお考えになったらよいではないか」と言ったが、
「秘密扱いになっているか」とのことで、
「そんなことはない」と知らせてやった。
見識のないこと甚だしい。
また明仁皇太子の希望なら、事務を通じないで、直接東宮侍従からこちらの侍従に言ってくればよいのだ。
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『入江相政日記』侍従長

1983年1月19日
夜12時40分、東宮侍従曽我剛から電話。
東宮侍従長黒木従達が死んだと。

1983年1月20日
黒木東宮侍従長、新宿二丁目の外出先って何だろうと思っていたが、彼にとって都合の悪いところ。
惜しいことをしたもの。
高松宮へ。
高松宮御機嫌。
すっかり申し上げ、全部済む。
「黒木のあと機械的に重田保夫でもあるまい」とのこと。

1983年1月24日
新潮・文春・週刊朝日にも黒木東宮侍従長のこと大きく出ているらしい。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1984年12月14日
東宮侍従曽我剛より、紀宮清子内親王が映画『風の谷のナウシカ』御所望とか。
東映の浜田氏に相談。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1986年3月17日
東宮侍従八木貞二より美智子妃御入院、子宮筋腫手術のこと。

1986年4月15日
共同通信に終戦時昭和両陛下から明仁皇太子あての御手紙が公表される。
〔元東宮侍従村井長正が書き写していた4通の手紙〕

1986年4月16日
村井元東宮侍従あて警告文案を練る。

1986年4月17日
村井問題につき、徳川侍従長に富田長官の意向を伝えるも、態度不変。

1986年4月18日
階段にて村井元東宮侍従とバッタリ、汗顔の至りと。

1986年6月11日
徳川侍従長・安楽侍従次長と叙勲候補の件について、元女官今城誼子と元東宮侍従村井長正は除外のこと。

1986年12月17日
山本次長より、また新潮に橋本明のレポートあり、元東宮侍従村井長正が情報提供していると。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1986年4月15日
戦争末期終戦直後の明仁皇太子宛の昭和両陛下の御手紙各新聞に。
特に読売はトップに内容要旨を掲げた。
東宮侍従村井長正が伝育官当時写していたものを、昭和天皇の御立派なことを私するに忍びずと、共同通信の橋本明記者〔平成天皇の御学友〕を通じて発表したものという。
山本宮内庁次長は私信を公開するとはけしからんといい、徳川侍従長は昭和天皇に御許を得てからすべきなのに、昨日村井氏から電話があったが、すでに記者に発表してからでは遅いと呆れていた。
我々にしても側近としてあるまじきことと憤慨に堪えないところ。

1986年12月18日
『新潮45』によれば、昭和天皇が終戦直後戦争の責任を痛感なさって御退位をお考えになったものの、司令部の容れるところとならなかったことはよく知られているところ。
しかしそれまでに時の田島宮内庁長官に命じ、戦争責任を内外に明らかにする詔書を起草せしめられたこと、その草案のことは田島長官の御遺族が保管していることなど元侍従村井長正が語り、共同通信の橋本明記者〔平成天皇の御学友〕により『新潮45』に掲載された。
先に昭和天皇の明仁皇太子への御手紙公開で物議を醸した村井氏の再度の暴露記事で、宮内庁も困惑。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1988年1月29日
東宮侍従八木貞二から文春の記事について、
〔天皇侍従職と東宮職の確執について〕
「歌会始の美智子妃の御所作については問題あり」と。
〔今年の歌会始で美智子妃が参列者に会釈した。天皇主催の儀式で美智子妃が会釈をすることは不適切であった〕

1988年5月11日
正田家に不幸があった場合の対応策について協議。
山本侍従長と正田家の問題など話し合い。

1988年5月28日
11時過ぎ電話で正田富美子夫人の死去の報入る。

1988年5月29日
昭和天皇に正田富美子夫人の死去について申し上げ、明仁皇太子の方に見舞をするように仰せ。
「親類だから」と思ったより反応大。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1988年2月26日
二二六事件につき毎年お慎みであるが、明仁皇太子〔平成天皇〕と浩宮〔令和の天皇〕が今日から28日まで岩手県八幡平にスキーにお出かけになるので、
昭和天皇は「このような日に出発するとは慎みが足りない。しかも暗殺された内大臣斉藤実は岩手県出身でもある」というお気持ちが強い。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1989年2月28日
今後の平成両陛下の拝謁の進め方、特に美智子皇后ができるだけ多くお出になりたいとのことで、これまで昭和天皇両陛下がなさってきたものを大幅に変更する必要が出てきた。
結局国事行為に関連する叙勲は平成天皇のみ、公的な性質の強いものも同様とする。
それ以外の大臣等の表彰にかかるものは、夫妻で出席か否かにかかわらず、平成両陛下とする。
このような案になった。

1989年4月18日
紀宮清子内親王成人。
侍従長の御祝詞言上は極めて簡潔。
これに対し平成天皇から「ありがとう」と御礼。
肝心の紀宮からは一言も無い。
はなはだ心外。
平成両陛下はいったい何をお考えか。
御自分も結構だが、成人になられた御本人から祝賀の職員に何の御挨拶もないとは。

1989年5月12日
宮殿侍従候所に先帝陛下の侍従が詰めることについて異議あり。
新帝陛下が宮殿においでの時、我々も宮殿に行く。
従って御供してきた侍従と2人が候所にいることになるが、我々は何のために行くのか。
先帝時代は候所には侍従1人で用を足していた。
我々も御遺物の整理にかかっているので、宮殿に行く暇はない。
以上のことを全員で侍従長に話して、そのように進めてもらうよう頼んだ。

1989年6月28日
この数日昭和天皇の遺産相続につき、新聞・テレビの報道が続く。
宮尾宮内庁次長は事実が記者に漏れているのではと神経過敏になっているらしく、卜部亮吾主管が昨日も今日も呼ばれ注意を促された。
宮廷筋からも何かと注意あるらしい。
もっと積極的にといかぬまでも、あまり隠し立てしてはかえって反発を買う。
報道されて当然の国民的関心事なのだから。

1989年7月8日
昭和天皇の遺産相続につき、新聞各紙一斉に報道。
1カ月ぐらいまでは宮内庁次長宮尾盤は記者会見の内容発表はしないと言っていたが、結局記者からの要望もありかなり詳しく発表した。
ただ相続税額の4億余は発表された数字ではなく、記者会で課税対象額をもとに計算したものだという。
どうして数字まで発表してやらないのだろう。
こんなところが宮内庁流というのだそうだ。

1989年8月4日
平成両陛下、即位後最初の内外記者会見。
丁寧に御発言になっておられ、なかなか良い。
美智子皇后も同様で良いが、「東宮様」はいただけない。
皇太子であっても皇后は上位にあることだし息子なのだから、このような公的な場では耳障りだった。
「東宮」または「浩宮」で良いのでは。
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