じゃあ、おうちで学べる

本能を呼び覚ますこのコードに、君は抗えるか

おい、休め

はじめに

金曜日の夜、ベッドの上でこの文章を書き始めている。

先週の土日は何をしていたかと聞かれたら、たぶん「寝てた」と答える。嘘ではない。ベッドにいた時間は長かった。ただ、眠っていたかというと怪しい。スマホを持ったまま横になって、気づいたら夕方だった。そういう二日間だった。

休んだのか、と聞かれると困る。

体は動かしていない。仕事もしていない。だから休んだと言えば休んだのだろう。でも、回復したかというと、していない。月曜の朝を迎える自分は、金曜の夜の自分より確実に疲れている。 何もしていないのに。何もしていないから、かもしれない。

30歳になった。エンジニアとして働いている。在宅勤務というやつだ。2025年、AIエージェントが当たり前になった時代を生きている。

AIは文句を言わない。疲れたとも言わない。24時間動ける。私にはそれができない。コーヒーがないと朝は動けないし、金曜の午後は集中力が死んでいる。土日は「充電」と称してベッドに沈んでいる。それでも充電されない。

この一年、ずっとそうだった。

ある日、気づいたことがある。私は「休んでいる」んじゃなくて、「動けなくなっている」だけだった。充電じゃなくて、バッテリー切れの放置だった。

「休んでいるのに休めていない」とは、

「休んでいるのに休めていない」。変な問答である。矛盾しているように聞こえるが、多くの人がこの感覚を知っていると思う。週末を過ごしたはずなのに、月曜日の朝に疲れが残っている。

肉体的には、労働的には、確かに「活動していない」。仕事をしていない。オフィスにいない。だから「休んでいる」となんとなく認識する。

しかし脳は、休んでいない。

ベッドに横になりながらスマホを見ている時、目は画面を追い、脳は情報を処理し、感情は刺激に反応し続けている。通知が来るたびに注意が引かれる。SNSのタイムラインをスクロールするたびに、微小な判断が積み重なる。「これは読む価値があるか」「これにいいねするか」「これに反応すべきか」。

身体は止まっているが、脳は回り続けている。

これが「休んでいるのに休めていない」の正体だ。情報を入れ続けると、脳は整理する暇がない。食べ続けて消化できない胃のように、頭がパンク状態になる。入力過多で、整理が追いついていない。

なぜ本人は「休んでいるつもり」になってしまうのか

厄介なのは、本人が気づいていないことだ。私もそうだった。「横になっている=休んでいる」。この等式が、骨の髄まで染み込んでいる。

かつて「休む」とは、物理的に動かないことを意味した。畑仕事を終えて家に帰り、座って何もしない。工場での労働を終えて、ソファに横になる。肉体労働の時代には、「動かない = 休息」という等式が成り立っていた。

しかし現代のデスクワーク的な仕事は、主に脳を使う。特にエンジニアは、一日中座っている。肉体は動いていない。だから「仕事 = 動くこと」という図式が崩れている。

そして「休息 = 動かないこと」という古い図式をそのまま適用すると、「横になってスマホを見ること」も休息にカウントされてしまう。肉体的には動いていないのだから。

でも実際には、脳は仕事中と同じかそれ以上に動いている。

休息の定義を更新する必要がある。現代において「休む」とは、脳への入力を減らすことだ。物理的な動きの有無ではなく、認知的な負荷の有無で判断すべきなのだ。

この状態を言語化できないと、何がさらに悪化するのか

「休んでいるのに休めていない」という感覚を言葉にできないと、さらに深刻な問題が起きる。

まず、自己診断を誤る。「十分休んでいるはずなのに疲れている。だから自分は病気かもしれない」「自分は人より弱いのかもしれない」。実際には休息の質の問題なのに、自分の身体や精神に問題があると思い込んでしまう。

次に、対処法を間違える。「もっと休めばいい」と考えて、さらに長時間ベッドでスマホを見る時間を増やす。これは逆効果だ。質の悪い休息を量で補おうとしても、回復はしない。

そして最も深刻なのは、周囲に理解されないことだ。「週末何してたの?」「ずっと寝てた」「じゃあ休めたね」。この会話で、問題は見えなくなる。本人も「確かに休んだはずだ」と思い込み、周囲も「休んだのだから元気なはずだ」と期待する。「休んだ」という事実と、「休めた」という実感の乖離。これが現代の休息における新しい病だ。

言語化できない問題は、解決できない。 だからまず、この状態に名前をつけることが重要だ。「偽りの休息」「見せかけの休息」「脳が休まらない休息」。何でもいい。言葉にすることで、初めて問題として認識できる。

AIエージェント時代の疲労

2025年、AIエージェントが本格的に動き始めた。

Claude Code、Devin、Cursor Agent。これらは単なるツールではない。私たちと同じように考え、判断し、実行する存在になった。コードを書くだけでなく、何を書くべきかを考える。指示を待つだけでなく、自ら次のステップを提案する。

この変化は、エンジニアの疲労の質を根本から変えた。

AIは無限に働ける。私たちは有限だ。

AIエージェントは疲れない。

朝も夜も関係ない。週末も祝日も関係ない。感情の浮き沈みもない。モチベーションの低下もない。常に一定のパフォーマンスで、無限に働き続ける。

私たちは、そうではない。

8時間働けば疲れる。集中力は25分で途切れる。昼食を食べすぎると眠くなる。金曜日の午後は効率が落ちる。睡眠不足の翌日は判断を誤る。感情に左右される。体調に左右される。天気にすら左右される。

この対比が、2025年の疲労を特殊なものにしている。

かつて、比較対象は同僚だった。隣の席のエンジニアより速くコードを書けるか。チームの中で自分はどの位置にいるか。人間同士の比較だった。

今、比較対象にAIが加わった。

AIエージェントが一晩で書いたコードを見て、「自分が一週間かかることを、一晩でやった」と思う。AIが瞬時に出した答えを見て、「自分が一時間悩んだことを、数秒で解決した」と思う。

無限と有限を比較している。

もちろん、話はそう単純じゃない。AIにも限界がある。文脈を読み違える。ハルシネーションを起こす。「それっぽい嘘」を自信満々に言う。コードレビューなしでマージしたら、後で痛い目に遭う。AIが「無限に働ける」のは事実だが、「無限に正しい」わけではない。

でも、そんなことは分かっている。分かっていても、比較してしまう。

「比較しなければいい」と思ったこともある。でも、環境がそれを許さなかった。同じSlackチャンネルに、自分が1日かけて作ったPRと、AIが1時間で作ったPRが並んでいる。見た瞬間に、脳が勝手に比較する。「あっちの方が速い」と。そう思った時点で、もう比較している。

これは意志の問題じゃない。環境の問題だ。同じ画面に並んで表示されている限り、見比べてしまう。見比べれば、負ける。負ければ、「自分は遅い」「自分は非効率だ」「自分は価値がない」と感じる。

この感覚が、静かに、確実に、私たちを消耗させている。

AIによって増えたのは「作業量」だけではなく、

AIエージェントを使うと、作業は速くなる。コードの生成、ドキュメントの作成、調査の実行。これらは確かに効率化される。

しかし、楽にはならない。

夕方になると、頭が重い。コードを書く時間は減った。でも疲労感は増えている。増えたのは作業量じゃない。判断の回数だ。

AIエージェントは大量の選択肢を提示する。コードの候補を10個出す。アプローチを5つ提案する。修正案を複数示す。

これらを評価し、選択し、修正し、採用するかどうかを決めるのは人間だ。

従来の仕事では、一つのタスクに対して一つの判断があった。自分で作るから、作成と判断が一体化していた。

AIを使うと、この構造が変わる。

AIが10個の選択肢を提示する。人間は10個を評価し、1つを選ぶ。あるいは「どれも違う」と判断して再生成を指示する。今度は別の10個が出てくる。また評価する。選ぶ。修正を指示する。

一つのタスクに対して、判断の回数が爆発的に増える。

思い当たることがある。午前中は「これがいい」「あれはダメ」とサクサク判断できる。でも夕方になると、どれを選んでいいか分からなくなる。「どれでもいいから決めてくれ」と思う。頭が重くなって、判断を先延ばしにしたくなる。

これは、判断そのものに消耗があるということだ。人間が一日に下せる質の高い判断の数には限りがある。 判断を重ねるほど、後の判断の質は落ちる。

AIは判断を代行してくれない。むしろ、判断すべき選択肢を増やす。だから、作業時間が減っても、認知的な消耗は増える。

「便利になった」という感覚と、「楽になった」という現実は、必ずしも一致しない。

「速くなった」と感じるのに、疲れは減らない。この乖離は危険だ。「速くなっている」と思い込んでいる限り、「なぜ疲れるのか」という問いにたどり着けない。

AI疲れはスキル不足の問題ではない

AI疲れを感じたとき、多くの人はこう考える。「自分のスキルが足りないからだ」「もっとAIを使いこなせるようになれば楽になる」。

正直に言うと、私もそう思っていた。だから毎晩、新しいツールを試し、プロンプトを改善し、ワークフローを最適化した。でも楽にはならなかった。むしろ疲れた。

ただ、ここで立ち止まって考えたい。私はこう思うようになった。それは違うんじゃないか、と。

確かに、AIツールの使い方には習熟曲線がある。最初は戸惑う。慣れれば効率が上がる。しかし、ある程度習熟した後も、判断疲れは消えない。むしろ、AIを使いこなせるようになるほど、使う頻度が上がり、判断の回数も増える。AI疲れ ≠ スキル不足。AI疲れ = 判断疲れだ。 あなたが下手なんじゃない。ゲームのルールが変わったのだ。AIは人間の判断を代行しない。判断の対象を増やす。この構造的な問題は、スキルアップでは解決しない。

解決策は、使い方を変えることだ。AIに全てを任せるのではなく、判断の負荷が高い場面では意識的に使わない。あるいは、AIの出力をそのまま採用する覚悟で使う(評価・修正のループを断ち切る)。

しかしこれは、「AIを使いこなす」という文脈では語られない。だから多くのエンジニアは、スキル不足を疑い、さらに学習し、さらに使い、さらに疲れる。

AI疲れの原因を正しく特定して認識することが、回復への第一歩だ。

「恥」という名の監視システム

エンジニアには、独特の恥の文化がある。

Xを開く。誰かが「今週読んだ技術書3冊」と投稿している。誰かが「個人開発で新しいフレームワークを試した」と書いている。GitHubの草が青々と茂っている。日曜日の夜に。

その瞬間、土日に何もしなかった自分が恥ずかしくなる。

「エンジニアは勉強し続けなければならない」。これは真実だ。技術は進化する。学ばなければ置いていかれる。それは分かっている。

でも、いつからか「土日に勉強するのが当たり前」になった。休日に技術書を読まないと不安になる。個人開発をしていないと焦る。Qiitaに何も投稿していない月があると、自分の価値が下がった気がする。

私たちは「恥」に操られている。

恥は、外部から強制されるものではない。誰かに「勉強しろ」と言われているわけではない。上司が土日の学習を義務付けているわけでもない。自分で自分を監視している。 SNSで他人の「充実した週末」を見て、勝手に比較して、勝手に恥じて、勝手に休めなくなっている。

これが最も効率的な搾取システムだ。命令する必要がない。監視する必要がない。本人が勝手に自分を追い詰めてくれる。

見せかけの「学習」が休息を奪う

問題は、この「恥を避けるための学習」が、本当の意味での学習になっていないことだ。

土曜日の朝、罪悪感から技術書を開く。でも頭に入ってこない。疲れているから。ページをめくるけど、内容が定着しない。それでも「読んだ」という事実が欲しくて、最後までめくる。

これは学習ではない。休息でもない。どちらでもない時間だ。

本当に学びたいときの読書と、恥を避けるための読書は、まったく別物だ。前者は楽しい。後者は苦痛だ。前者は定着する。後者は忘れる。

恥を避けるために費やした土日は、学習にも休息にもならない。最悪の投資だ。 時間を使って、何も得られず、回復もしない。

SNSで他人の土日を見るな。あれは広告だ。

冷静に考えてほしい。

Xに投稿される「充実した週末」は、全員の週末の平均ではない。投稿したくなるような週末だけが投稿される。何もしなかった週末は投稿されない。

つまり、タイムラインに流れてくるのは、全エンジニアの「最も充実した瞬間」の集合体だ。それを自分の「普通の週末」と比較している。勝てるわけがない。

他人の土日は広告だ。 広告と自分を比較して落ち込むのは、モデルの写真を見て自分の顔を恥じるのと同じだ。フィルターがかかっている。編集されている。現実ではない。

恥を手放すことは、怠惰ではない

「じゃあ勉強しなくていいのか」と思うかもしれない。そうではない。

学びたいときに学べばいい。休みたいときに休めばいい。恥に駆動されるのをやめろ、と言っている。

恥から学習すると、燃え尽きる。好奇心から学習すると、続く。この違いは大きい。

土日に何もしなかった自分を、責めなくていい。月曜日に元気に働けるなら、それが正解だ。GitHubの草が生えていなくても、あなたの価値は変わらない。

恥は、休息の最大の敵だ。 そして恥は、自分で自分にかけている呪いだ。縛りである。しかし、呪いは、気づいた瞬間に弱くなる。

注意力が商品化されるとは、人生に何が起きることなのか

ふと考えた。なぜ、こんなに疲れているのか。

答えの一つは、私たちの注意力が「商品」として売買されているということだ。

スマホを開く。通知が来る。タップする。広告が表示される。スクロールする。また通知が来る。この一連の行動の中で、私たちの「注意力」は企業に売り渡されている。そして企業はその注意力を広告主に売る。

注意力が奪われることは、なぜ「時間」以上の損失なのか

「時間が奪われている」という表現は、まだ甘い。

時間は、失っても取り戻せる可能性がある。今日の2時間を失っても、明日の2時間で何かができる。少なくとも、時間は均質に見える。

しかし注意力は違う。

注意力とは、「今この瞬間に何を経験するか」を決める力だ。

何に注意を向けるかが、何を経験するかを決める。何を経験するかが、何を記憶するかを決める。何を記憶するかが、自分が誰であるかを決める。

つまり、注意力を奪われることは、経験を奪われることであり、記憶を奪われることであり、最終的にはアイデンティティを奪われることだ。

2時間スマホをスクロールして過ごした後、何が残っているか。私の場合、ほとんど何も覚えていない。「何を見てたっけ」と思い返しても、断片的な画像がぼんやり浮かぶだけ。時間は確かに過ぎた。でも経験は残っていない。

一方で、友人と2時間話した後は違う。「あの話、面白かったな」「あのとき笑ったな」と、具体的な場面が残っている。同じ2時間でも、記憶への定着度がまるで違う。

スマホを見ることも、一応は「経験」だ。でも、受け身で流れてくる情報を処理するだけの経験と、自分で選んだ活動に没頭する経験では、残り方が違う。受け身の時間は、砂に書いた文字のように消えていく。

時間泥棒ではなく、人生泥棒だ。

なぜ人は自分の注意力の価値に無自覚なのか

注意力は、意識しないと見えない。

お金は数字として見える。時間は時計として見える。しかし注意力は、どこにも可視化されていない。

そして注意力は、「使っている」という感覚がない。

お金を使うとき、財布が軽くなる感覚がある。時間を使うとき、時計が進む感覚がある。しかし注意力を使うとき、何かが減っていく感覚は薄い。ただ、気づいたら疲れている。

さらに問題なのは、注意力を奪う側が、その事実を隠すインセンティブを持っていることだ。

SNSは「つながり」を売り物にする。「あなたの大切な人とつながるためのツール」。しかし実際には、あなたの注意力を広告主に売るためのツールだ。この真実は、マーケティングでは語られない。

だから私たちは、自分の注意力が商品になっていることに気づかない。気づかないまま、どんどん売り渡していく。

この構造に気づいても、人はなぜ抗えないのか

気づいても、抗えない。これが最も絶望的な部分だ。

理由の一つは、脳の報酬系がハックされているからだ。

通知が来る。ドーパミンが出る。確認する。また通知が来る。この「不定期な報酬」は、脳にとって最も中毒性が高い。スロットマシンと同じ原理だ。いつ当たるか分からないから、ずっと引き続けてしまう。

理由のもう一つは、社会的なプレッシャーだ。

みんなが使っている。使わないと取り残される。返信しないと失礼。既読をつけないと心配される。SNSから離れることは、社会から離れることのように感じられる。

そして最後の理由は、代替手段がないことだ。

仕事の連絡もスマホで来る。友人との約束もスマホで確認する。情報収集もスマホでする。スマホを捨てることは、現代社会で生きることを諦めることに近い。

構造的な問題には、個人の意志力だけでは対抗できない。

だからこそ、意識的な「デジタルデトックス」が必要になる。完全に離れることはできなくても、時間を区切って距離を取る。それが、今できる最大の抵抗だ。

オンライン会議は、なぜ「効率的なのに疲れる」のか

スマホから注意を奪われるだけではない。在宅勤務の日常には、もう一つの消耗源がある。オンライン会議だ。

最初はただ素晴らしいと思った。移動時間がない。どこからでも参加できる。効率的だ、と。

でも二年、三年と続けるうちに、何かがおかしいと気づいた。ある日、オンライン会議が5本続いた後、私は何も考えられなくなっていた。画面を閉じても、頭の中がぼんやりしている。簡単なメールすら書けない。対面で5本会議しても、こんなに消耗しなかった。何かが違う。

対面では無意識に処理していた情報とは何か

対面のコミュニケーションでは、膨大な情報が交換されている。

言葉だけではない。表情、視線、姿勢、身振り、声のトーン、間の取り方、呼吸のリズム、空間的な距離感。これらの非言語情報が、コミュニケーションの大部分を占めている。

そして重要なのは、これらの情報を無意識に処理しているということだ。

対面で話しているとき、相手の表情を「分析」しているわけではない。自然と読み取っている。相手が不快そうなら、無意識に話し方を変える。相手が興味を持っていそうなら、無意識に詳しく説明する。この調整は、意識的な努力なしに行われている。

オンライン会議では、この無意識の処理が機能しなくなる。

画面越しでは、表情が見えにくい。解像度が低い。タイムラグがある。視線が合わない(カメラを見ると相手の目を見られない)。空間的な距離感がない。全員が同じサイズで画面に並んでいる。

無意識に処理できていた情報を、意識的に処理しなければならなくなる。

「この人は今、何を考えているのだろう」「この沈黙は同意なのか、困惑なのか」「自分の話は伝わっているのか」。対面なら自動的に分かることが、オンラインでは分からない。だから脳がフル回転して、推測し、分析し、判断する。

これが、オンライン会議の疲労の正体だ。

さらに、自分の顔が常に画面に映っている。鏡を見ながら会話しているようなもの。音声も微妙に不完全で、脳は余計な労力を使う。同じ1時間でも、処理している情報の密度が違う。だから疲れる。

私はこの疲労を個人の問題だと思っていた。でも違った。組織の設計そのものが、この疲労を生み出している。振り返ると、非同期のコミュニケーションで済むことを、わざわざ会議で行っていた。私自身、「対話が必要な場面」に限定することで、オンライン会議の負荷を減らせた。

ある日、仕事を一つ担当から外してもらった。「これ、ちょっと抱えすぎてます」と正直に言った。その週、少しだけ頭がクリアだった。「手放してもいい」と思えた瞬間だった。

境界線が消えたとき、人間の回復機構はどう壊れるのか

在宅勤務で最も失われたもの。それは「境界線」だ。帰りたいのに家に居る。

オフィスに通っていた頃は、自然と境界線があった。家を出る。通勤する。オフィスに着く。仕事モードになる。仕事が終わる。オフィスを出る。通勤する。家に着く。オフモードになる。

この物理的な移動が、心理的な切り替えを助けていた。

在宅勤務では、その境界線が消えた。起きたらすぐに仕事。寝る直前まで仕事。仕事部屋と寝室が同じ。リビングがオフィス。どこでも働ける = どこにも逃げ場がない。

物理的な移動は、なぜ心理的切り替えに効いていたのか

通勤を嫌う人は多い。満員電車。渋滞。時間の無駄。その通りだ。

しかし通勤には、見えない機能があった。

通勤は「儀式」だった。

人間の脳は、儀式を通じて状態を切り替える。朝のルーティン、食事の作法、寝る前の習慣。これらの儀式が、脳に「次のモードに入る」というシグナルを送る。

通勤は、最も強力な儀式の一つだった。家という空間を離れ、別の空間に移動する。その過程で、脳は自然と「仕事モード」に切り替わっていた。帰宅時には逆のプロセスが起きていた。

この儀式が消えると、脳は切り替えのタイミングを失う。「いつ仕事を始めるべきか」「いつ仕事を終えるべきか」が曖昧になる。そして気づけば、常に「なんとなく仕事モード」で過ごすことになる。

常に仕事モードということは、常に回復モードに入れないということだ。

境界線がない働き方は、どんな人に特に危険か

特に危険なのは、責任感が強い人仕事が好きな人だ。「まだできることがある」と思うと止められない。楽しいから止められない。境界線がないと、いつまでも「まだやれる」と思ってしまう。

個人の工夫と、その限界

着替える。仕事着から部屋着に。あいさつを声に出す。「お疲れ様でした」。これらの小さな儀式が、切り替えを助ける。

しかし、限界がある。本来、境界線は環境によって与えられていた。それを個人の意志で維持し続けることは、それ自体が消耗を伴う

だから、環境そのものを変える必要がある。 仕事専用の部屋を作る。コワーキングスペースを使う。PCを別の部屋に置く。物理的に「できない」状態を作る。意志力に頼らない仕組みを作ること。それが、境界線を維持する現実的な方法だ。

「疲れた」と感じるとき、本当に疲れているのはどこか

「疲れた」と口にする。でも、どこが疲れているのか、自分でも分かっていない。

疲れには三つの種類がある。

「自律神経の疲れ」。自律神経とは、意識しなくても働く神経システムだ。活動モードを司る交感神経(心拍を上げ、筋肉を緊張させる)と、休息モードを司る副交感神経(心拍を下げ、消化を促す)がある。この二つのバランスが崩れている状態。常に緊張している。リラックスできない。眠れない。朝起きても疲れが取れない。

「心の疲れ」。精神的な消耗。ストレス。不安。焦り。人間関係の疲れ。感情労働による消耗。

「体の疲れ」。筋肉の疲労。運動不足による倦怠感。同じ姿勢での身体の凝り。

自律神経・心・身体のどれが最初に壊れやすいのか

これは個人差があるが、現代のエンジニアにとって、最初に壊れやすいのは自律神経だ。

理由は、自律神経の疲労が最も気づきにくいからだ。

身体の疲れは分かりやすい。筋肉痛がある。だるさがある。明確な感覚として認識できる。

心の疲れも、ある程度は分かる。「イライラする」「落ち込む」「やる気が出ない」。感情として表れる。

しかし自律神経の疲れは、症状が曖昧だ。「なんとなく調子が悪い」「眠れない」「食欲がない」「息苦しい」。これらの症状は、他の原因でも起きる。だから「自律神経が疲れている」とは認識されにくい。

そして気づかないまま酷使し続けると、ある日突然、限界を超える。動悸がする。めまいがする。パニック発作が起きる。ここまで来て初めて「何かがおかしい」と気づく。

自律神経は悲鳴を上げない。気づいたときには、もう限界を超えている。

なぜ現代のエンジニアは三重苦に陥りやすいのか

問題は、これらが複雑に絡み合っていることだ。

長時間のデスクワークで体が疲れる。動かないから血流が滞り、肩が凝り、腰が痛くなる。

AIへのキャッチアップ、締め切りのプレッシャー、評価への不安で心が疲れる

オンライン会議の連続、境界線のない働き方、常時接続のプレッシャーで自律神経が疲れる

これらは独立していない。相互に影響し合う。

身体が疲れると、心も疲れやすくなる。運動不足はうつ病のリスクを高める。心が疲れると、自律神経が乱れる。ストレスは交感神経を活性化させる。自律神経が乱れると、身体の回復力が落ちる。

悪循環のスパイラル。

一つの疲れが、他の二つを引き起こし、それがまた最初の疲れを悪化させる。このスパイラルに入ると、自力で抜け出すのは難しい。

疲れを誤診すると、どんな「間違った休み」を選ぶのか

疲れの種類を見極めずに休もうとすると、的外れな対処をしてしまう。

身体が疲れているのに、心の休息を取ろうとする。例えば、運動不足で身体が固まっているのに、マッサージに行ったり、リラクゼーション音楽を聴いたりする。これは悪くないが、根本解決にならない。必要なのは軽い運動だ。

心が疲れているのに、身体の休息を取ろうとする。例えば、人間関係のストレスで消耗しているのに、ひたすら寝ようとする。眠れない。眠れても回復しない。必要なのは、安全な場所で感情を吐き出すことだ。

自律神経が疲れているのに、刺激で気分転換しようとする。例えば、交感神経が過剰に活性化しているのに、アクション映画を観たり、激しいゲームをしたりする。一時的に気が紛れても、神経はさらに疲弊する。必要なのは、静かな環境でぼんやりすることだ。

自分の疲れの種類を見極めること。それが、正しく休むための第一歩だ。

身体がシャットダウンする「動けなさ」は、怠惰と何が違うのか

ベッドから起き上がれない朝がある。やるべきことは分かっている。でも体が動かない。

これは怠けているのか。それとも、何か別のことが起きているのか。

自分の「動けなさ」について考えていくうちに、気づいたことがある。怠惰と「動けなさ」は、外から見ると同じに見える。でも中身はまったく違う。

怠惰は「やる気がない」状態だ。やろうと思えばできる。でもやりたくない。

シャットダウンは「動けない」状態だ。やろうと思っても、身体が言うことを聞かない。脳が「これ以上は危険だ」と判断して、強制的にブレーキをかけている。

これは生理的な反応だ。動物が捕食者に捕まったとき、最後の防衛反応として「死んだふり」をすることがある。身体を動かなくすることで、エネルギーを温存する。人間も同じメカニズムを持っている。ストレスが大きすぎて、闘うことも逃げることもできないとき、身体がシャットダウンする。

社会はなぜこの状態を「甘え」と誤認するのか

問題は、シャットダウン状態が外から見ると「怠けている」ように見えることだ。

ベッドから起き上がれない。仕事に行けない。何もする気力がない。

社会は、これを「意志の問題」として捉えがちだ。「頑張れば動ける」「やる気がないだけ」「甘えている」。

しかし、これは生理的な反応だ。

動物が捕食者に捕まったとき、最後の防衛反応として「死んだふり」をすることがある。これがシャットダウン反応だ。身体を動かなくすることで、エネルギーを温存し、捕食者の関心を逸らす。

人間も同じメカニズムを持っている。ストレスが大きすぎて、闘うことも逃げることもできないとき、身体がシャットダウンする。これは意志の問題ではない。脳が「これ以上は危険だ」と判断して、強制的に止めているのだ。

怠惰との違いは明確だ。怠惰は「やる気がない」状態。やろうと思えばできる。シャットダウン状態は「動けない」状態。やろうと思っても、身体が言うことを聞かない。

この区別ができないと、本人も周囲も対応を間違える。

本人が自分を責めることで、状態はどう固定化されるのか

最も危険なのは、本人が自分を責めることだ。

「動けないのは自分が怠けているからだ」「意志が弱いからだ」「努力が足りないからだ」。

この自己批判が、状態をさらに悪化させる。

自己批判はストレスを生む。ストレスは交感神経を活性化させる。しかし、すでに疲弊した身体は交感神経の活性化に耐えられない。だから、また身体がシャットダウンする。

「動けない → 自分を責める → ストレス増加 → さらに動けなくなる → さらに自分を責める」

この悪循環が、状態を固定化する。

回復するためには、この循環を断ち切る必要がある。そのためにはまず、「動けないのは意志の問題ではない」と理解することが重要だ。 自分を責めることをやめる。これが、回復への第一歩だ。

この凍結状態から抜けるには、何が最初の一歩になるのか

シャットダウン状態から抜け出すのは、簡単ではない。「頑張って動く」というアプローチは逆効果になりうる。

有効なのは、身体への穏やかなアプローチだ。

まず、安全を感じること。物理的に安全な場所にいる。誰にも批判されない。時間的なプレッシャーがない。この「安全の感覚」が、安心・つながりモードを呼び起こす。

次に、身体を少しだけ動かすこと。激しい運動ではない。深呼吸。ゆっくりとしたストレッチ。5分の散歩。これらの穏やかな動きが、身体に「動いても大丈夫だ」というシグナルを送る。

そして、人とのつながり。信頼できる人との会話。これらの社会的なつながりが、安心・つながりモードを呼び起こす。

重要なのは、「頑張る」のではなく「許す」ことだ。

動けない自分を責めない。ゆっくり回復することを許す。無理に何かを達成しようとしない。このスタンスが、凍結状態から抜け出すための土台になる。私自身、過去の失敗をいつまでも反芻して、自分を追い詰めていた時期がある。でも気づいた。忘れることは、逃げではない。 嫌な記憶を手放すことで、初めて前に進める。回復とは、忘れるべきものを忘れられるようになることでもある。

なぜ「何もしない休み」が回復にならない場合があるのか

休息も、量を追い求めるだけでは意味がない。「長時間休んだ」という事実よりも、「どう休んだか」という質の方がずっと重要だ。休息には二つのタイプがある。

「パッシブレスト(消極的休養)」。何もしない。寝る。横になる。身体を動かさない。これは従来の「休息」のイメージだ。

「アクティブレスト(積極的休養)」。軽く身体を動かす。散歩する。ストレッチする。ヨガをする。能動的に身体を使うことで回復する。

どちらが正解か、ではない。どちらが自分に足りていないかが問題だ。ただ、直感に反するが、現代のエンジニアにはアクティブレストの方が足りていない場合が多い。

パッシブレストが逆効果になる条件は何か

パッシブレストが逆効果になるのは、以下のような場合だ。

身体が動かなすぎているとき。一日中座っていて、血流が滞っている。筋肉が固まっている。この状態でさらに横になっても、血流は改善しない。疲労物質は排出されない。むしろ、さらに滞留する。

脳だけが疲れているとき。身体は使っていない。脳だけが酷使されている。この状態で「何もしない」と、身体と脳のアンバランスが解消されない。脳を休めるには、逆に身体を動かす方が効果的な場合がある。

横になりながら刺激を受けているとき。ベッドでスマホを見ている状態。身体は休んでいるが、脳は休んでいない。これは休息ではない。むしろ、最悪の組み合わせだ。

社会的な孤立状態のとき。一人で何もしない時間が長すぎると、孤独感が増す。孤独は心身に悪影響を与える。パッシブレストが孤独を深めるなら、逆効果だ。

アクティブレストは、なぜ自律神経に効くのか

アクティブレストが効果的な理由は、生理学的に説明できる。

血流が改善する。軽い運動は心拍数を適度に上げ、血液循環を促進する。これにより、筋肉に蓄積した疲労物質が排出される。新鮮な酸素と栄養が全身に行き渡る。

自律神経のバランスが整う。適度な運動は、交感神経と副交感神経の切り替えをスムーズにする。運動中は交感神経が優位になり、運動後は副交感神経が優位になる。このリズムが、自律神経の柔軟性を高める。

脳の状態が変わる。運動は脳内のセロトニンやエンドルフィンの分泌を促す。これらの神経伝達物質は、気分を改善し、ストレスを軽減する。「運動後に気分がスッキリする」のは、この効果だ。

睡眠の質が向上する。日中に適度に身体を動かすと、夜の睡眠が深くなる。これにより、睡眠中の回復効率が上がる。

アクティブレストは、受動的な休息では得られない回復効果をもたらす。

「休んでいるのに疲れる」行動には共通点があるか

「休んでいるつもりなのに疲れる」行動を分析すると、共通点が見えてくる。

脳への入力が続いているスマホ、テレビ、SNS。これらは「受動的」に見えるが、脳は常に情報を処理している。休息ではなく、低負荷の作業だ。

身体が動いていない。座っている。横になっている。血流が滞る。筋肉が固まる。代謝が落ちる。

社会的なつながりがない。一人で画面に向かっている。人との会話がない。孤独が深まる。

達成感がない。ただ時間が過ぎるだけ。何も生み出していない。何も経験していない。虚しさが残る。能動的に選ばなかった時間は、記憶に残らない。後から振り返っても、「何をしていたんだっけ」と思い出せない。

これらを逆転させれば、「本当に休まる休息」が見えてくる。

脳への入力を減らす。画面から離れる。静かな環境に身を置く。

身体を動かす。散歩する。ストレッチする。軽い運動をする。

人とつながる。会話をする。一緒に過ごす。

達成感を得る。小さなことでいい。料理を作る。掃除をする。何かを「やった」という感覚を持つ。

選択的休養という考え方

「休む」というと、どうしても「消極的」なイメージがある。何もしない。停止する。エネルギーを使わない。

でも、より効果的な休養の形がある。自分で選ぶ休養だ。休息は空いた時間を埋めるものではない。休息は設計対象だ。どう休むかを、自分で決める。

「そんな時間ないよ」と思うかもしれない。でも、選択的休養は時間の量ではなく質の問題だ。30分でもいい。自分で選んだ30分は、誰かに決められた2時間より回復効果がある。

選択的休養とは、自分の意志で、自分のために選んだ活動のことだ。

ポイントは「自分で選ぶ」ことにある。

誰かに言われてやるのではない。義務感でやるのではない。「やるべき」だからやるのではない。自分が「やりたい」と思って選ぶ

この「選ぶ」という行為自体が、回復をもたらす。

なぜ「自分で選ぶ」ことに意味があるのか

現代の疲労の多くは、選択権を奪われていることから来ている。

仕事では、やるべきことが決まっている。締め切りがある。上司の指示がある。クライアントの要望がある。自分で選ぶ余地が少ない。

プライベートでも、「やるべきこと」に追われている。家事、育児、介護、人付き合い。「自分のため」ではなく「誰かのため」に時間を使う。

そして「空いた時間」にスマホを見る。これも、実は選択ではない。アルゴリズムが見せたいものを見せられている。自分で選んでいるようで、選ばされている。

常に誰かに決められた行動をしている。

だからこそ、「自分で選ぶ」ことに価値がある。

自分で選んだ活動をしているとき、脳は「自分の人生をコントロールしている」と感じる。この感覚が、ストレスを軽減し、回復を促進する。

逆に、誰かに決められた行動をしているとき、脳は「コントロールを失っている」と感じる。これがストレスの原因になる。

選択的休養とは、人生の主導権を握り直すことだ。 そしてこれは、何を覚えておくかだけでなく、何を忘れるかを選ぶことでもある。AIは全てを記憶できる。でも人間は違う。だからこそ、意識的に手放す。追いかけなくていい情報を捨てる。キャッチアップしなくていい技術を諦める。その余白に、自分だけの発想が生まれる。

選択的休養の条件

選択的休養が効果的であるためには、いくつかの条件がある。

自分で決めた。誰かに言われてではなく、自分の意志で選ぶ。「やらなければ」ではなく「やりたい」という動機。

仕事とは関係ないスキルアップのための勉強は選択的休養ではない。仕事に役立つ読書も違う。仕事と完全に切り離された活動。なぜなら、仕事に関連している限り、「成果を出さなければ」というプレッシャーがつきまとうからだ。

没頭できる。時間を忘れて集中できる。義務感ではなく、純粋な興味や楽しさで取り組める。

成長の実感がある(任意)。必須ではないが、少しずつ上達していく実感があると、より効果的だ。仕事以外の領域で「できるようになった」という経験は、自己効力感を高める。

私の場合、それは楽器を弾くことと、格闘技のジムに通うことだった。ギターを弾く時間は、仕事とは無関係で、自分で決めた活動で、時間を忘れて没頭でき、少しずつ上達していく実感がある。

格闘技のジムには、別の効果がある。自分一人では無限に追い込めない。だから、真剣にやる以外に選択肢がない環境に身を置く。スパーリング中は、仕事のことなど考えていられない。相手のパンチを避けることに全神経を集中させている。休む時は、可能な限り忘れる。 この忘却を強制してくれる環境が、私には必要だった。

なぜ「楽ではないこと」が回復になるのか

ここで一つの逆説に気づく。格闘技は楽ではない。むしろ苦しい。汗をかく。息が切れる。翌日は筋肉痛だ。苦しいのに、なぜかジムの帰り道は頭が軽い。通い続けるうちに、分かってきた。私が選んだ苦しみは、喜びになる。

考えてみれば不思議だ。ホラー映画、激辛料理、過酷な登山。人は日常では避けるはずの「痛み」や「恐怖」に、わざわざ金と時間を払って近づく。私も格闘技に月謝を払っている。殴られに行っている。なぜか。

「選んだ苦痛」と「押しつけられた苦痛」は、まったく別物だからだ。

仕事のストレス、人間関係の摩擦、将来への不安。これらは望んでいない。避けたいのに避けられない。コントロールできない。だから消耗する。

格闘技の苦しさは違う。私が選んだ。いつでもやめられる。コントロールできる。だから同じ「苦しい」でも、片方は消耗で、片方は回復になる。

そしてもう一つ気づいたことがある。楽なだけの人生は、たぶんつまらない。

苦しみを避け続けた先に、充実はない。ベッドでスマホを見続ける週末は、苦しみをゼロにしようとする試みだ。でもそれは、意味もゼロにしてしまう。何も残らない。月曜日に「週末何してた?」と聞かれて、答えられない。

格闘技は苦しい。でも意味がある。だから回復する。

「楽であること」と「良いこと」は違う。 私はこれを、身体で学んだ。

「ギターや格闘技なんて、自分には無理だ」と思うかもしれない。でも、選択的休養の本質は特定の活動ではない。「仕事の自分」とは別の自分に会いに行くことだ。ランニングでも料理でも将棋でも絵でも釣りでもいい。重要なのは、「仕事に役立つかもしれない」という思考を捨てること。 役に立たなくていい。役に立たないからこそ、純粋に楽しめる。その純粋さが、回復をもたらす。

もう一つ、見つけ方のコツがある。周りに勧められたものを、何も考えずに始めてみる。自分で選ぼうとすると、「合うかな」「続くかな」と考えすぎて動けなくなる。友人が「一緒にやろう」と誘ってくれたら、とりあえず乗ってみる。合わなければやめればいい。始める前に悩むより、始めてから判断する方がずっと早い。

「役に立たない」と思って捨てたものの中に、自分を救うものがある。

デジタルデトックスという実践

ある日、スマホを置いて散歩に出た。1時間後、頭が軽かった。そこで気づいた。私の疲労の大きな部分は、デジタル機器から来ていた。 正確には、デジタル機器が境界線を消し、常時接続状態を作り、注意力を奪い続けていた。全ての疲労がデジタル由来ではないが、デジタルが他の疲労を増幅させている。

だからこそ、「デジタルデトックス」が必要だ。

大げさなことではない。スマホを別の部屋に置く。一日一時間、画面を見ない時間を作る。寝る前の一時間はスマホを触らない。これだけでも効果がある。

最初は落ち着かない。通知が気になる。何かを見逃しているような気がする。FOMO(見逃すことへの恐怖)が襲ってくる。この不快感こそが「摩擦」だ。 そして摩擦があるからこそ、その先にある回復は本物になる。

でも、数日続けると気づく。別に何も見逃していない。大抵のことは、後から確認しても問題ない。「今すぐ」反応しなければならないことなど、実際にはほとんどない。

そして画面から離れた時間に、不思議なことが起きる。頭がクリアになる。創造性が戻ってくる。ぼんやりと考えごとをする余裕が生まれる。

有限であることを受け入れ、有限であるからこそできることを大切にする。デジタルから離れた時間は、人間としての有限性を肯定する時間だ。

スマホを置いた瞬間、世界は何も変わらない。でも、自分だけが少し回復する。

みんな、もっと真剣に休む方法を考えた方がいい。

働き方は語られる。生産性は語られる。キャリアは語られる。でも休み方は、ほとんど語られない。「休めばいい」で片付けられる。それは違う。どう働くかと同じくらい、どう休むかは設計が必要なのだ。

孤独という敵

在宅勤務を続けていると、ある問題に直面する。

孤独だ。

孤独は好きだと思っていた。一人で考える時間、一人でコードを書く時間、誰にも邪魔されない自由。それを選んで在宅勤務を続けてきた。

思えば、昔からそうだった。初対面だけは愛想がいい。すぐに打ち解ける。でも、それ以上は仲良くならない。小学生の頃から「一番仲の良い友達」というものがいなかった。人のことを、どこかで信用しきれない。だから深い関係を避けてきた。孤独は、選んだというより、そうなっていた。

でも気づいた。私が「孤独を好んでいる」と思っていたのは、実は「人間関係の疲れから逃げていた」だけかもしれない、と。オンライン会議で消耗する。Slackで気を遣う。だから一人でいたくなる。これは「孤独を選んでいる」のではなく、「疲弊して引きこもっている」だけだ。

健全な孤独と、不健全な孤独は違う。

健全な孤独は、充電された状態から自分を選ぶこと。不健全な孤独は、消耗した状態から逃避すること。

安心している状態から選ぶ孤独は健全だ。身体がシャットダウンした凍結状態としての孤独は、危険信号だ。

休むためには、時に人とつながる必要がある。 矛盾しているようだが、社会的なつながりが足りていない状態では、一人でいても回復しない。

孤独を選んでいるのか、孤独に追い込まれているのか。この違いを見極めることが、回復の分岐点になる。

有給休暇を取るということ

去年、有給休暇を40日以上残したまま年度が終わった。

「有給どれくらい残ってる?」「40日以上」「俺も」。この会話を何度もした。笑い話みたいに。でも笑えない。40日間、自分のための時間を放棄したということだ。

プロジェクトが忙しい。休むと仕事が溜まる。チームに迷惑がかかる。そう言い聞かせてきた。でも本当の理由は違う気がする。「休む理由がない」と思っていた。

体調が悪いわけでもない。旅行の予定があるわけでもない。だから働く。この発想自体がおかしかったのだ。

ある日、何の予定もなく有給を取ってみた。朝起きて、コーヒーを淹れて、本を読んで、散歩して、昼寝して、夕方になった。何も生産しなかった。何も達成しなかった。でも、妙に満たされていた。

気づいたのは、「理由がないから休まない」は、「理由がないと自分を大切にしない」と同じだということ。病気になるまで働いて、やっと休む権利を得る。それは順序が逆だ。

リモートワークでは、この問題がさらに深刻になる。どこでも働けるから、どこにいても「働いていない自分」に罪悪感を覚える。有給を取っても、Slackが気になる。結局PCを開いてしまう。

有給休暇の本質は、「働かない時間を作る」ことではない。「働かない自分を許す練習」だ。

睡眠という基盤

深夜2時。また技術記事を読んでいる。

「これだけ読んだら寝よう」と思って開いたブラウザのタブが、気づけば15個になっている。一つ読むと、関連記事が気になる。そっちを開く。また関連記事が出てくる。無限ループだ。

睡眠が大事なことくらい、知っている。知っていて、毎晩削っている。「知っている」と「できる」の間には、深い溝がある。

ある時期、睡眠時間が4時間を切る日が続いた。最初は平気だった。むしろ「自分は少ない睡眠でも動ける」と思っていた。でも二週間くらいで、明らかにおかしくなった。簡単なコードでミスを連発する。同じ箇所を何度も読み返す。会議で人の話が頭に入ってこない。睡眠不足は、自分では気づけない。認知機能が落ちているから、「認知機能が落ちている」ことを認知できない。

これが一番怖いところだ。酔っ払いが「俺は酔ってない」と言うのと同じ構造。睡眠不足の人間は、自分が睡眠不足だと正しく判断できない。

睡眠中、脳は単に休んでいるのではない。日中に入ってきた情報を整理し、不要なものを捨て、必要なものを定着させている。この作業が追いつかないと、頭の中がゴミ屋敷になる。思考がまとまらない。創造性が消える。読んだ本の内容が腑に落ちるのは、読んだ直後ではない。数日後、ふと「あれはこういうことだったのか」と分かる瞬間がある。その熟成には、睡眠が必要だ。

睡眠を削ることは、未来の自分から時間を前借りしている。 利息は高い。そして返済は、体調不良という形でやってくる。

今夜削る2時間は、来週のどこかで4時間になって返ってくる。しかも最悪のタイミングで。

「効率を手放す」とは、エンジニアにとってどんな覚悟か

私たちエンジニアは、効率を追求することに慣れている。コードを最適化する。プロセスを改善する。無駄を省く。それが仕事だ。

でも、休息に効率を求めてはいけない。

「最も効率的な休息法は何か」「最短時間で最大の回復効果を得るには」「休息の ROI を最大化するには」

こういう発想自体が、休息を台無しにする。

余暇にまでROIを求める病

一日中「効率」を考えている。その思考パターンが、仕事以外の時間にも染み出してくる。無意識のうちに「この行動の費用対効果は」と考えてしまう。

時間の希少性。仕事が忙しい。自由な時間が少ない。だから、その貴重な時間を「最大限に活用したい」と思う。無駄にしたくない。効率的に楽しみたい。

成果主義の内面化。成果で評価される環境に長くいると、「成果がなければ価値がない」という信念が内面化される。休息も「何かを得るため」に行うべきだと思ってしまう。

不安の回避。何もしないことが怖い。生産性がない自分に価値がないと感じる。だから、休息さえも「生産的」にしようとする。

非効率な時間は、どんな価値を回復させるのか

しかし、非効率な時間には、効率では得られない価値がある。

余白から、ふとしたひらめきが生まれる。このブログの構成も、散歩中にふと浮かんだ。何かを「考えよう」としているときではなく、何も考えていないときに、頭が勝手に整理を始める。そして不思議なことに、この整理の過程で、脳は細部を手放している。細部を忘れているからこそ、異なる記憶同士が自由につながる。全部を完璧に覚えていたら、新しい組み合わせは生まれない。ぼんやりしている時間は、無駄ではなかった。

自分を取り戻す時間になる。何かを達成するためではなく、ただ存在する時間。その時間の中で、「自分は何が好きなのか」「自分は何を大切にしたいのか」という問いに向き合える。

人間らしさを回復する。効率を追求するのは機械の得意分野だ。非効率を楽しめるのは、人間だけの特権だ。 AIは目標を与えられると、最短経路で達成しようとする。しかし人間は、わざと遠回りすることができる。意味のないおしゃべり、下手な楽器演奏、勝てないゲーム。この「わざと非効率を選ぶ」能力は、目標最適化しかできないAIには原理的に不可能だ。非効率の中にこそ、最適化では見つからない価値がある。

関係性を深める。人間関係は効率化できない。信頼を築くには時間がかかる。無駄話をする。一緒に何もしない時間を過ごす。これらの「非効率」が、関係性を深める。

だから、休息に効率を求めることをやめよう。

先週、何の目的もなく街を散策した。1時間、何も生産しなかった。スマホも持たずに、ただ歩いた。帰ってきたとき、妙に頭がすっきりしていた。

非効率な時間を、堂々と楽しもう。それが、AI時代を生き抜くための、逆説的な戦略だ。

AIは「無駄」を理解できない。だから、無駄を楽しめる人間は、永遠に代替されない。

おわりに

この文章を書き終えて、日曜日の夜が終わろうとしている。

正直に言うと、書いている間もスマホを何度か見た。通知を確認した。Xを開いた。自分で書いた「デジタルデトックス」の章を読み返しながら、その直後にスマホに手を伸ばしている自分がいた。笑えない。笑えないけど、それが現実だ。

私はこの文章を書いたからといって、来週から完璧に休めるようになるわけではない。たぶん来週も、ベッドでスマホを見ながら「休んだつもり」になる日がある。境界線を引けない日がある。格闘技のジムをサボる日がある。

でも、少しだけ違うことがある。

「休めていない」と気づけるようになった。「これは回復じゃなくて消耗だ」と言語化できるようになった。 それだけでも、前よりマシなのだと思う。たぶん。

AIは無限に働ける。私は有限だ。

この事実は変わらない。でも、有限であることを恨まなくなった。有限だから、選ばなければならない。選ぶから、何が大事か分かる。全部はできない。全部は追いつけない。それでいい。

それに、正直なところ、こうも思っている。どうせAIはこれからもっと賢くなる。 私たちの無能さを、いずれAIが補ってくれる。足りない部分を埋めてくれる。追いつけなかった技術も、AIが代わりにやってくれるようになる。だったら、その日まで健康で元気でいることの方が大事じゃないか。 壊れた身体では、優秀なAIを使いこなすこともできない。

だから、選択的に休んでほしい。

休むことは、負けを認めることじゃない。降参でもない。 有限な人間として、まともに機能し続けるための、当たり前の行為だ。当たり前のことを、当たり前にやる。それがこんなに難しいとは思わなかった。

明日の朝、目覚ましが鳴る。月曜日が始まる。

たぶん私は、また疲れている。でも、今日よりは少しだけマシかもしれない。少しだけ、回復の仕方を知っているから。少しだけ、自分を責めずに済むから。

おい、休め。

これは誰かへの命令じゃない。自分への、しつこい呼びかけだ。何度も忘れて、何度も思い出す。それでいい。完璧に続けることより、何度でも思い出せることの方が大事だから。

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参考書籍