80年前の引き揚げ「なぜあんな言葉を幼い弟に…」 自らを責め続け

編集委員・清川卓史

 80年前の敗戦後、鈴木政子さん(91)=神奈川県藤沢市=は、旧満州(中国東北部)からの引き揚げを体験した。栄養失調や病で次々と命を落とす幼い弟や妹。9人の家族のうち、日本の敗戦から数カ月で4人が亡くなった。鋭い胸の痛みとなって鈴木さんを生涯苦しめたのは、重い病で寝込んでいた弟にぶつけた自らの言葉だった。

 第2次世界大戦で日本が降伏した1945年8月、鈴木さんは教師だった父母とともに旧満州の黒山という地域で暮らしていた。

 当時10歳、7人きょうだいの長女だった。8歳の大(まさる)さん、6歳の満(みつる)さん、3歳の朝子さん、2歳の仲子さん、そして生後まもない双子のクニ子さん、公男(いさお)さんがいた。

敗戦後の襲撃、略奪

 日本が敗れると日本人の住む街は容赦ない襲撃、略奪の対象となった。

 「小さい子がどんな目にあうか」と我が子を手にかけようとする父親と、子どもを守ろうとする母親が言い争う声を聞いた。

 いつも遊んでいた友達とその家族の目隠しをされた遺体も目にした。父親が憲兵だったため、家族も一緒に銃殺された。

 鈴木さん一家はすべての財産を奪われ、いつ終わるかわからない収容所での生活が始まった。

 消えることがないのは「ひもじさ」の記憶だ。

 「お母ちゃん、ごはん」「おなかすいたよー」と泣く子どもたちの声。返事ができずに一緒に泣くしかない母親たち。

 野草はもちろん、捨てられているジャガイモの皮も食べた。弟たちと空き家に忍び込んで落ちている米粒を拾い集め、空き缶で煮た。下痢や伝染病になると言われても汚い水を飲むしかなかった。

 子どもたちは栄養失調で骨と皮だけのようにやせた。体力のない学齢期前の幼い子どもたちの多くが亡くなった。

 妹の仲子さんも口もきけないほど衰弱し、知人が差し入れてくれた卵をかたく握りしめたまま、亡くなった。その日の夜、生後間もない弟・公男さんも息を引き取った。

 収容所には親を亡くした幼い孤児も数多くいた。「お母ちゃん、お水」「お父ちゃん」。病に倒れると、いるはずのない親を呼び、そばにいる人の手を握って、亡くなった。

 飢えに苦しみながら目の当たりにした数え切れない死。

 「死んだら、もう寒くも、ひもじくも、悲しくもないんだな。私もはやくこうなりたいな、と思っていました」

      ◇

たばこ売りで家族を支える

 厳寒の冬を迎え、鈴木さんは錦州の街でたばこ売りをするようになった。「いいたばこ」と中国語で呼びかけながら、防寒着もないまま、朝から暗くなるまで公園に立った。

 父は収容所の責任者で身動きがとれなかった。弟の満さんは深刻な病状で伝染病の病室におり、母は看病で泊まり込んでいた。

 たばこ売りは家族が食べていくための命綱だった。収容所に戻ると幼い弟や妹の世話もした。毎日が苦しかった。

 ある日、思いが爆発した。病室で寝込む弟・満さんと母の前で、鈴木さんは泣きじゃくり、叫んだ。

 「もう姉ちゃんは働けない。寒くて体中が痛くて。みっちゃんが病気になったからみんなが苦しむのよ。みっちゃんなんか早く死んじゃえばいいんだ。そうすればみんなが助かるんだから」

 弟は驚いたような顔をしたが、何も言わなかった。

 母は「政子、ごめんね、つらいだろう。もう少し我慢して」と言い、しっかりと抱きしめてくれた。

「あったかい空気吸わして」

 それから間もなく、満さんは生涯を閉じた。臨終に立ち会ったのは母だけだった。

 「抱っこして」

 「母ちゃん、あったかい空気吸わして」

 それが最期の言葉だった。

 なぜ余命いくばくもない病床の弟にあんなおそろしいことを言ってしまったのか。自分のつらさを母に訴えたいという気持ちだったとしても、その言葉が弟の死の原因になったのではないか――。その思いは今も鉛のように重くのしかかっている。

 「誰も私を責めなかったけれど、自分で自分を責め続けています」

     ◇

 子どもの餓死が相次ぐ収容所生活のなか、父母は一度、まだ1歳の誕生日も迎えていない四女・クニ子さんを中国人にもらってもらおうとしたことがあった。母乳が出なくなり、クニ子さんは衰弱していた。

 その日を鮮明に覚えている。赤い花模様のチャンチャンコを着せたクニ子さんを腕に抱き、両親は収容所を出た。しかし日が落ちた後にクニ子さんを抱いたまま戻ってきた。我が子を人に渡すことができなかったのだ。憔悴(しょうすい)しきった様子で母は「すまない」と泣いていた。

きょうだい4人が命落とす

 1945年12月、クニ子さんは栄養失調で泣きも笑いもできないほどに衰弱し、息をひきとった。

 すでに次男・満さん、三女・仲子さん、三男・公男さんが亡くなっていた。敗戦から数カ月で、7人きょうだいのうち4人が命を落とした。

 鈴木さん一家が日本に帰国したのは46年5月だった。博多港に上陸し、ふるさとの福島県に戻った。

 「引揚げと援護三十年の歩み」(厚生省、1977年)によれば、敗戦時に海外にいた日本人は約660万人、そのうち旧満州から引き揚げた人の数は100万人を超えた。

 母・ツ子(つね)さんは2014年、104歳で亡くなった。

 スプーンですくい上げた食べ物を口にせず、「これを食べさせたら生きられたのに……」と見つめていることが何度もあった。

 晩年を過ごした高齢者施設でも、陶器のお地蔵様に亡くなった4人の子どもの名前を書き、手元に置いていた。

 父・利政さんは1988年に世を去った。引き揚げ体験は何も語らなかった。

 体調を崩し入院していたが、もう長くないと悟った後は治療を拒んで帰宅し、水も食べ物も一切、口にしなくなった。そのまま意識を失い、帰らぬ人となった。

 そんな最期の姿は父なりの償いだったろうと鈴木さんは想像している。

 「何も食べさせられずに亡くした子どもたちを思い、飲まず、食べずに息を引き取るという決心が父にあったのではないでしょうか」

      ◇

目の当たりにした性暴力

 少女時代の鈴木さんが最も怖かったのは飢えに苦しんで死ぬこと、だった。その次に怖かったのがソ連兵らによる「性暴力」だった。

 収容所では毎晩のようにソ連兵が銃をつきつけて女性を連れ出した。夫や子の前で女性が被害にあう姿も目撃した。当時は行為の意味はよくわかっていなかったが、「動物のようだ」という黒々とした記憶が残っている。

 ソ連兵も乳幼児がいる母親にはいくらかの遠慮があるようだった。そのため母親たちはソ連兵が来るとわざと子どもをつねって泣かせた。鈴木さんの幼い弟や妹たちは、「子ども役」になるため、子どものいない若い女性に預けられることもあった。

 1980年、鈴木さんは我が子に引き揚げ体験を伝えるため「あの日夕焼け」(立風書房)を書いた。そのとき関係者から「書いちゃいけない」と言われたのが性暴力被害のことだった。

 「政子さんは、あのとき子どもだったから書ける」。うめくように言った引き揚げ関係者もいた。

 想像を絶する苦境のなかでソ連兵の性暴力を受けた人、子どもを自ら絶命させた人には書けないことがある。引き揚げ関係の資料や証言を集めるなかで、そのことを胸に刻んできた。

 一方で直面したのが日本の加害責任だ。

 性暴力の被害があまりにひどいため、収容所の日本人が意を決して「あんまりだ」とソ連側に抗議したことがあった。

 そのとき、中国人の通訳者はソ連兵には伝えぬまま、「日本兵はもっとひどいことをしてきた」と言った。

 戦後、「あの日夕焼け」を読んだ中国の大学教授から日本語で長文の手紙が届いた。その教授と妻の家族は、旧日本軍による迫害、集団殺害の被害者だった。「一切を忘れましょう」「私たち皆お互い様です」とつづられていた。

ガザの子どもたち

 敵も味方も、人間が人間でなくなる戦争の姿。それを次代に伝える責任があると考えてきた。

 一方で、窮乏する鈴木さんの家族に食料やお金をくれた中国人もいた。たばこ売りをしていたときに知り合った「おじさん」は、鈴木さんに弁当をわけてくれ、手作りの靴もプレゼントしてくれた。それもまた、体験した真実だ。

     ◇

 胸を痛めるのが、イスラエル軍の攻撃で命を落としていくパレスチナ自治区ガザの子どもたちのニュースだ。飢餓や死の恐怖に直面する姿が、80年前の自分と重なる。

 「ひもじさに加えて爆撃の恐怖があるガザの子どもたちは、当時の私たちよりもひどい状況かもしれない。『ガザの子どもたちを何とか救ってください』と、何度も手帳に書いています」

 過酷な引き揚げを生き抜いた一人の女性の祈りだ。

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この記事を書いた人
清川卓史
編集委員|社会保障担当
専門・関心分野
認知症・介護、貧困、社会的孤立
戦後80年

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