カズオ・イシグロと真鍋淑郎、なぜ表記違う 「日本人」の境界どこに
取材考記 オピニオン編集部・石川智也
年の瀬に思う。見たくない自画像を突き付けられた1年だったな、と。自分たち、すなわち「日本人」とは何か、アイデンティティー意識を省みざるを得ない機会が多々あったからかもしれない。
なぜ「シュクロー・マナベ」ではないの?
参院選を席巻したあのスローガンのことだけではない。例えば、10日に授賞式があったノーベル賞をめぐる報道。「日本人の受賞者は30人に」。あれ? この30人のうち真鍋淑郎さんら3人は米国籍を持つ米国人のはず。国籍法によれば、自らの意思で外国籍を取得した者は日本国籍を失う。だが、文部科学省も3人を「我が国の受賞者」にカウントしている。では、ここでいう「日本人」とは?
「外国籍取得者を含めて」と補ったり、「日本人」を避けて「日本の受賞者」「日本からの受賞者」などと表現したりするメディアもあったが、いかにも苦しい。日本にルーツを持つ他国籍保有者は「日系○○人」と呼ぶのが普通だろう。
2017年に日本生まれの英国人カズオ・イシグロさんが文学賞を受賞した際、国内メディアは日本と結びつけて大きく報じたが、どの新聞・テレビも文科省も、彼を「日本人」あるいは「日本の」受賞者には数えていない。5歳で渡英し29歳で英国籍を取得したイシグロさんと、真鍋さんらとの扱いの違いはどんな基準に基づくのか。なぜ真鍋さんら3人は漢字で表記し、イシグロさんはカタカナ表記なのか。イシグロさんを「日本とのゆかり」で扱うのに、戦前の台湾で日本国民として生まれ渡米後に化学賞を受賞した李遠哲さんには、なぜ触れないのか。なんとも不可解な二重基準だ。ノーベル財団も今や、受賞者の生誕地や所属先は記しているものの、国籍別の紹介はしていない。重国籍を認める国が増え、現実的でないという判断もあるのだろう。
「純粋な日本人」の自画像
オピニオン面の企画で取材した社会学者の福岡安則さんは、国籍法による「日本国民」は規定できても「日本人」は定義不能だと説く。その上で暗黙裏に抱かれる日本人の観念を、血統・文化・国籍の3要素を元に類型化した。すべてそろった「純粋な日本人」のほか、いずれかの要素を欠く日系移民1世、帰国子女、国籍取得者、中国残留孤児、民族教育と無縁の在日コリアン、アイヌなどが抽出できる。多くの人の日本人の概念、つまり自画像は、血統・文化・国籍の全要素を備えた「純粋な日本人」にとどまり、最重視しているのが血統、次に文化だと分析する。
それなら日本の政府やメディアは、イシグロさんは「文化」の面で日本人性を欠いていると見なしているのだろうか。
参政党の憲法案を読んでみる。「5条 国民の要件は、父または母が日本人であり、日本語を母国語とし、日本を大切にする心を有することを基準として、法律で定める」「19条4項 (略)帰化した者は、3世代を経ない限り、公務に就くことができない。帰化の条件は、国柄の理解及び公共の安全を基準に、法律で定める」。日本に住み日本国籍を得ても、それだけでは日本人ではないということだろうか。
この国では、血統的に日本人から離れた人、特に外見が非東アジア系の人はたとえ日本で生まれ日本語を母語とし日本国籍を持っていても、いつまでも「ガイジン」扱いされる。一方で、功成り名を遂げた者は国籍を失っても同胞と見なされる。そこにはおそらく、均質な社会像を保持したい願望と、単一民族神話という厄介なる代物が横たわっているのだろう。
日本人とは国籍や来歴と無関係な天賦のもので、その性質や資格を後天的に獲得するのは困難であるかのように観念されているとしたら、この「自画像」は相当に罪深い。
単一民族という幻想
福岡さんによれば、戦後日本の定住外国人政策は完全な「排除」でも、権利の平等化を伴う「同化」でもなく、従属的位置に固定する「抑圧」だった。元日本国民だった在日コリアンら特別永住者への扱いが典型だ。さらに現在、外国ルーツの日本国民に対してマジョリティーの日本人が示す姿勢やまなざしにも通じているという。いわば「純粋な日本人」以外を「2級の日本人」であるかのように見なしてしまう回路だ。今年にわかに跋扈(ばっこ)した排外的言説も、この心性やメカニズムと無縁ではないだろう。
純血主義や排他主義は得てして、他者に出会いアイデンティティーの危機に直面した際、逃避の心理として起きる。しかし、日本は今後、いやが応でもルーツの多様化と多文化への道を進む。経済大国から滑り落ちようとも、いちど通ってしまった植民地支配の過去と、外国人労働力を都合よく利用してきた事実は消せない。単一民族と同質社会の幻想に、閉じこもることは許されない。
何とも心もとないが、この先、私たちは「日本人」の概念をアップデートし、新しい自画像を描くしかないようだ。
石川智也
いしかわ・ともや 1998年入社。社会部や特別報道部などを経る。なぜ「日本」でも「日本国民」でもなく「日本人」ファーストが有権者に響いたのか。この国ではナショナリズムと民族主義と国家主義が混同されるが、そこに問題の核心があると考え勉強中。パスポートを見ると、「日本国民」とあっても「日本人」の文字はなかった。
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- 【視点】
意義ある問題提起である。 記事の指摘にある通り、「日本人」の法的定義は明快であるものの、社会的な認識は多様である。 例えば、(元)外国人力士の活躍が目覚ましい大相撲では、「純粋な日本人」を「日本出身力士」と表現している。福岡氏の分類に従えば、「血統」による差別化といえよう。 ちなみに、筆者は、毎年、学生に対して「日本人」の条件として最も重要なものは何かをたずねているが、意外にも「血統」を選択する学生は少なく、「日本語や日本文化を習得していること」「日本国籍」が多い(今年度は、それぞれ37.9%と27.1%)。幼少期から身近に外国ルーツの日本人がいる世代ゆえかもしれない。 ところで、明確に規定されている法的定義であっても、国籍法が改定されれば、「日本人」の境界は変化する。例えば、出生による国籍取得(国籍法第2条)に関しては、父系主義から父母両系主義に変更されたし、認知された子の国籍取得(同3条)についても、胎児認知でなくとも、出生後認知で日本国籍が認められるようになった。 つまり、社会的な認識だけでなく、法的定義も、社会や時代によって変わるものなのだ。現政権下で、にわかに「帰化」(後天的国籍取得)の厳格化が検討され始めているが、果たしてそれは、社会や時代の変化に即したものであろうか。
…続きを読む - 【視点】
二重国籍は認めず、帰化には強い同化を求める。その一方で、都合のよい時だけ国籍を曖昧にして「日本人化」する――これは本当に奇妙だ。ノーベル賞級の研究は国家の手柄ではなく、受賞者本人と、その研究を可能にした環境の成果である。成果だけを回収する振る舞いは、正直言って滑稽に映る。
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